プロローグ~3章
プロローグ
ディシベリア帝国の大理石で築き上げられた王宮の一角の樫の書棚や大きな机が収まる飾り気のない小部屋。そこに華やかな色彩を添えているは少女というには大人びていて、女というには幾分幼いひとりの女性だった。
肩口で真っ直ぐ切りそろえられた白金の髪は硝子をふんだんにつかった大きな窓辺から差し込む夏の名残の少し強い陽光にきらめき、机の上にある書類に向けられる真摯な瞳は冬空のように澄んだ水色で知性を湛えている。
三日月のような冴え冴えした印象の顔の彼女の名はフィグネリア。華やぎの欠片もない黒い軍服姿ではあるがディシベリア帝国の第一皇女だ。
フィグネリアはカラスの羽ペンで書類に署名を書き付け、次の書類へと手を伸べる。外の方で大きな足音が聞こえるがいっこうに気に止めない。
それより気になるのは今月の予算書にある雑費の文字である。
「……額が大きすぎるな」
つぶやくフィグネリアの表情は険しい。
「フィグネリア!」
そこへ樫の扉をぶち破らんばかりの勢いで大岩のような男が入ってきて声をとどろかす。短く刈り込んだ髪はフィグネリアより少し濃く、瞳の色は同じで群青の軍服を纏った彼は彼女の十年上の兄で現皇帝のイーゴルだ。
「……兄上、経費に関しては出来るだけ明確に示すように命じて欲しいとお願いしたのですが」
兄の頭の中に加減という言葉がないことを知っているフィグネリアは書面から顔を上げようともせずに淡々と問う。
「うむ。それは来週十八になるお前への誕生祝いだ! 今年は今までで一番すごいぞ!」
庶民が三年は暖炉に火を絶やさず真新しいパンを食べられそうな誕生祝いとはなんだと柳眉を顰めてフィグネリアはようやく顔を上げて兄を見る。
イーゴルの目は無垢な少年の様に輝いていた。
去年自分で捕った大熊を担いで持って来た時以上の表情に嫌な予感がした。
「本当は当日まで秘密にしておきたかったのだが準備もあるからな」
たっぷりと間を持たせてイーゴルが分厚い胸を張る。
「今年のお前への誕生祝いは婿だ! 来週の誕生日には挙式だぞ」
式の費用にしてもいささか多いのではないのだろうか。
実に満足げな兄を見上げながらフィグネリアはぼんやりとそんなことを思い、しばらく呆けてから椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「私は嫁がないと言ったでしょう!」
「だから婿だぞ。俺もお前に嫁がれると困るしな。嫁に行かせられないというのなら婿を取ればいいとはいい考えだと思わないか。相手はハンライダ公国の第六公子でクロードというお前より一つ年下の者だ」
ハンライダ、と聞いてフィグネリアは素早く頭の中の大陸図から国名を書き込むのが精一杯な小さな国を見つけ出す。
「……パン屑? またなぜそんなところから」
かつて北のディシベリア帝国と南のロートム王国は大陸の領土を皿の上の一個のパンを引きちぎるようにして奪い合った。百年たって開戦時より大陸の国の数を半数以下に減らして戦争はようやく終結した。そんな中、益も薄く後回しにされて戦火の及ばなかった大陸南西部の小国達はパン《ミエッ》屑、と呼ばれている。
さらに五十年経ってその小国達も合併したり併呑されたりして数を減らし、今は八カ国が残っている。
ハンライダ公国といえば戦乱の前より残り続け、小鳥すらつつかない黴びたパン屑とまで言われる弱小国である。
どう考えても婚姻を結ぶ有益性はこちらにはまるでない。
「益がないからお前も気兼ねしないだろうと皆が言っていたぞ。会ってみたがなかなかいい奴だった。しかしあちらの人間はやはり小さいな。お前より少しだけしか大きくなかった」
イーゴルにとって他人の九割は小さくていい奴だ。どうせまた重臣達の口車に乗せられたに違いないとフィグネリアは重いため息をつく。
そもそもハンライダはロートムに日和って改宗までしている国である。こちらに媚びを売るにしても妙だ。
「……なんだ、気が進まないか」
兄が目の前でおやつを取り上げられた子供のような顔をしているのでいいえ、とフィグネリアは笑顔を取り繕う。
「謹んでお受けいたします。ただし、式の費用の詳細は提出してください」
ぱっとイーゴルの表情が明るくなりフィグネリアは仕方ないなと思う。
この純朴で人のいい兄をだまくらかしてよからぬ企みをしている者の尻尾を掴むためにはひとまず敵の策にかかってみるのも手だろう。
そう決意を固めてフィグネリアは顔すら知らない男との結婚を決めたのだった。
1
一週間後、王宮の南側にある鋭い穂先のような尖塔がいくつも連なる大神殿で式は挙げられることになった。式の刻限も近づく中、控え室にいるフィグネリアの元に客人が訪れていた。
「まあ、お姉様綺麗……」
レースや白鳥の羽で飾られた絹の純白のドレスを纏うフィグネリアをうっとりと見つめる愛らしい少女は一つ年下の妹で末子のリリアだ。この日のために嫁ぎ先から帝都へ夫と共に帰ってきた彼女はフィグネリアと髪と目の色だけは全く同じである。
「うん、まあ高価いから見栄えがよくないと困る」
式の費用は切り詰められるところは切り詰めた。せめて春先であればもっと予算を削減できた上に地方から観光客も呼びこめ、祝賀ムードにおされ人々の財布も緩み経済効果も期待できたろうに。
まだ見ぬ夫のことより財政のことで頭のいっぱいのフィグネリアは今日何度目かのため息をつく。
「大丈夫ですわよ。なにがあっても静かに、旦那様に身を任せていればいいんですわ。でもお姉様のことだから心得ても無理ね。だからこれを調合してきましたの」
桃色の液体が詰まった愛らしい硝子の小瓶をリリアが取り出す。
「……なんだこれは」
「旦那様に身を任せたくて仕方なくなるお薬、ですわ」
赤く染まった自分の頬に両手を当てリリアがきゃっと恥じらってみせる。
「これを他に試した者は?」
「お姉様が使うのが初めてですわよ。だってわたしはそんなもの使わなくたっても旦那様に全て任せていますもの」
「…………もう少し実益のあるものを作れ。これは返すぞ」
妙な薬を作るこの悪癖だけは治まらないようで迷惑きわまりないと思いつつも妹の変わらない様子は嬉しかった。二月前に双子を産んだが難産で大変だったと聞いていたので心配していたのだが顔を合わせてみれば元気そうで何よりだ。
「義姉上、このたびはおめでとうございます」
続いて両腕にリリアによく似た二つぐらいの幼い女の子三人を抱えた屈強な壮年の男が入ってくる。彼がリリアの夫のデニス・バラノフ伯爵である。
二十近く年上の男に義姉と呼ばれるのはいまだに慣れない。
「本日は遠方よりおこしいただきありがとうございます。三つ子は連れてこられたのですね」
「赤子は無理ですがこの子らだけなら自分ひとりでも面倒を見られますので」
三つ子に髭を引っ張られながら生真面目に答えるこの年上の義弟をどうして妹が十四で口説き落とせたのかいまだに謎だ。
「あら、お父様のおひげが本当に好きね。お母様と一緒」
リリアがデニスの側に寄り娘達と一緒になってその髭を撫でる。デニスはなされるがままだがその瞳は優しく妻と娘を見つめている。
ともあれ結婚して三年ですでに五人の子を持ち妹夫婦は幸せそうだ。
「準備が出来たかっ! おお!」
そして次にあいもかわらず全力で扉を開けて突進してきた兄のイーゴルが満面の笑みを浮かべる。
「ようやく、結婚するのだな…………お前もちゃんと女らしくなって」
イーゴルが言葉を詰まらせて目尻に涙を浮かべフィグネリアは返す言葉もなく黙りこくる。 不審な点が多すぎる結婚に大切な兄がこんなにも喜んでいるのを見るといたたまれない気持ちになる。
「遅れてごめん! ちょっと熊が見つからなくてね。きゃー、フィグ綺麗ねー! リリアもデニスも久しぶり。三つ子ちゃん達も今日も可愛いわね」
兄と妹の微妙な空気をぶちこわして最後にやってきたのは皇后、つまりイーゴルの妻のサンドラだ。そばかすの散る顔はイーゴルと同い年にしては幼く、纏っているのも狩りのための装束でとても大帝国の皇后に見えないが彼女の飾らないところがフィグネリアはとても好きだった。
「……いえ、猪でも十分です。ありがとうございます。しかしいつもながらお見事です、義姉上」
フィグネリアはいいながら黒髪が美しい長身のサンドラが背中に担いでいる猪に視線をやる。
なかなかの大物だ。さすが兄が惚れ込んだ狩りの腕前の持ち主である。
「喜んでもらって嬉しいわ。じゃあこれ城の厨房に持って行くよう頼んであたしも着替えるから。また後でね!」
さっとイーゴルの頬に口づけて、来た時の勢いのままでサンドラが出て行く。
「俺は本当にいい妻を貰ったな」
すっかりしまりのない顔でイーゴルがつぶやく。
兄も妹も、その家族もみんな今日も元気で幸せそうなのが嬉しい。
この笑顔はなんとしてでも護り抜かねばならない。それが、自分ができるただひとつのことだ。
そして、今ある幸せを脅かすのは今から夫となる者かもしれない。
数十分後、全ての支度が調いフィグネリアは硬い表情で部屋を出て赤い絨毯をたどり礼拝堂へと向かう。
扉が開かれ、部屋の最奥に置かれた大地に宿る全ての神霊を産み落としたとされる地母神ギリルア像の前に夫となる男、クロードがいた。
まず目についたのは真新しい銅のように艶と輝きがある赤い髪だった。顔は優美ではあるが女々しさはない。じっと見ていると琥珀色の瞳と視線がぶつかった。
クロードはフィグネリアの鋭い視線に眉を上げて驚きを見せるものの、すぐに優しい笑みを浮かべる。それはまるで長年寄り添ってきた恋人を迎えるような表情だった。
隣に並び立ってみると遠目で見たより背丈はあるが、自分の周りの男達のよう隆々とした筋肉はなく細い。全体的に柔らかい印象を受ける男は顔だけの軟弱者に見えた。
(というか、十七なのか?)
ひとつ年下と聞いていたが目の前の男の面立ちに少年らしさは微々たるもので、その上纏う雰囲気は落ち着きすぎていて二十半ばぐらいに見える。
「汝らこれより共に大地に根をおろしやがて同じ土へと還る日まで、黄金の果実を育み神霊らへ捧げ続けることを誓いなさい。同時に夫は妻へ妻は夫へとたゆまぬ愛と幸福を捧げると誓いなさい」
神官長の言葉に誓います、とふたりが声を重ねる。
「では、神霊らへの誓いの証をここに」
差し出されふたりの親指に神官長が短刀で傷を付ける。そして地母神像の前に置かれた杯へ血が落とされる。
「……最後に、夫婦の誓いの証を」
クロードが差し出されたフィグネリアの手をとり、傷に口づけて血を舐めとる。
フィグネリアも同じように彼の血を舐めた。
「これをもってふたりを夫婦となす」
全てが終わり、静かだった周囲から歓声があがる。
そして皇帝であるイーゴルがむせび泣き始めると周りのやはり厳つい軍人達ももらい泣きし始める。
「……よろしくお願いします」
無駄に暑苦しい後ろの声を聞かないふりをして微笑みかけてくる夫にフィグネリアはああ、と小さくうなずいた。
挙式が終わると道の舗装から建物まで赤煉瓦で築き上げられた市街を馬で周り白亜の王宮まで戻ることになった。民衆が花びらを蒔いて祝う中、フィグネリアはクロードの様子が気になった。
笑顔は絶やさないもののどこか引きつっている。手綱さばきもどうも怪しく、ときどき遅れたかと思うと追い越してしまったりでフィグネリアがどうにか馬の速さをそれに合わせなければならなかった。
まさかまともに馬に乗ったことがないのではないだろうか。
ふとそう思ったが、さすがにそれはないだろう。どこの国でも王侯貴族は目的は様々ではあるが乗馬をよくするはずだ。
しかしいくらなんでも下手すぎる。
よろよろとこちらにぶつかってきそうなクロードから距離を取りながらフィグネリアは民衆の喜びに水を差すわけにもいかないと顔をしかめるのをこらえる。
どうにか王宮にたどり着いて馬を止めたときクロードの体が揺らいでぎょっとしたが落馬することなく彼はよろよろと地面に降りた。そして安堵したようにため息をついていた。
「……馬は苦手なのか?」
近寄ってこっそり聞いてみると彼は三月前に初めて乗りました、などと苦笑して見せた。
普通の少女達ならばほのかに覗く年相応の幼さに母性をくすぐられるような表情だったが、フィグネリアは怪訝な顔をするだけだった。
間者かはたまた刺客かと身構えていたのにこれでは気が抜ける。
しかしそれが狙いなのかもしれないとフィグネリアは気を引き締め直した。
さて場所を王宮に移してからは盛大な晩餐会で賑わうが、慣例通りふたりは一言も喋らずなにも食さず、日が落ちるとようやく同じ杯の火酒を飲んで義姉の捕ってきた猪の肉を口にする。その後、侍女に導かれふたりは別々に湯殿に浸かった。
「姫様、けして手を出されてはいけませんよ。今夜だけはお人形のように大人しくしていてくださいね」
古参の侍女がフィグネリアの濡れた髪から水気を取ってすきながらリリアと似たようなことを言う。
さすがに初夜で夫を殴るほど何も知らないわけでもないのになぜこんなことを言われるのだろう。
若い侍女達もなにやら人差し指と中指を唇に当ててお祈りをしている。
しかし彼女らには悪いと思うが今宵は大人しくするつもりはなかった。
全ての支度を調えたフィグネリアは体の線に沿った薄手の夜着の袖口に針を一本、巧妙に忍ばせ寝所へと向かった
***
足に絡んでまとわりつく夜着の裾を颯爽と裁きながら寝室に乗り込んだフィグネリアはクロードの姿が見えずに眉根を寄せる。
扉を閉めると部屋の中で風が踊る。そしてベッドにかかる天蓋の紗が揺れてめくれ上がり横になっているクロードの姿が見えた。待ちくたびれたのか、寝ていたようだ。
本当になんの目的もないのだろうか。それにしても花嫁より先に寝ているなど失礼な奴だ。
フィグネリアは起こそうとベッドに近づくが、クロードが体を揺らしたのでそのまま足を止めて身構える。
「うん。ありがとう。起きるよ」
ぶつくさとそう言いながら半身を起こしてあぐらをかき、クロードが小さくあくびをする。
「すいません。勝手に仮眠取らせて貰っちゃいました。……ええっと、改めましてふつつか者ですがよろしくお願いします」
フィグネリアはそのままの格好で頭を下げる夫を見ながら慎重に近づき、ベッドに腰を下ろした。
「単刀直入に聞くが、ハンライダの目的はなんだ」
「いや、俺に聞かれても困るんですけど、三ヶ月前急に婿に行けって父上に言われて来ただけですから。なんか裏はあると思うんですけど俺、この通りですしってうわあっ!」
フィグネリアは小首をかしげて笑うクロードの腕を掴み組み伏せる。
反射神経は鈍い。とっさの受け身も出来ていないようだし、腕も贅肉はないが筋肉もさしてないようだ。
「……刺客、と言うわけではないな」
フィグネリアは戸惑うクロードの琥珀色の瞳を覗き込みながらつぶやく。
「だから何も知りませんって。せっかくの初夜なのにこういう話やめません? このまま俺、下でもいいんで」
残る可能性は間者か、とクロードの言葉を聞き流しながらフィグネリアは袖口に仕込んであった針を出した。
「…………すいません、俺ちょっとそういう趣味はないんで」
「拷問の趣味は私にもない。ひとまずお前はただの腑抜けのようだな」
本気で怯えているクロードの様子に呆れながら針を袖口に戻す。
顔以外になにもとりえのなさそうな男だ。だが目的が分からない以上は用心に越したことはないだろう。
そんなことをクロードの上に乗ったままつらつらと考えていたフィグネリアは腰に腕を回されてびくりとする。
殺気はないが、煩悩ははっきりとわかる手つきだ。
「首だけで実家に送り返されたくなかったら手をどけろ」
低い声ですごむとクロードはきょとんとした顔をした。
「初夜は?」
「隣の部屋で寝ろ。私はまだ床入りする気はない」
フィグネリアにきっぱりと宣言され、クロードが悲しげに彼女の薄布に包まれた豊かな胸元から細い腰のくびれに視線を滑らす。
「あんまりだ」
そしてこの世の終わりかのような悲壮な声でつぶやいた。
「ちょっと寒いんで上掛け貰っていっていいですか? あとそろそろどいていただくと嬉しいです。感触が魅力的すぎて辛いです」
このまま腹に膝を沈めてやろうかという思いをこらえつつフィグネリアはクロードの上から降りる。
「侍女が外に控えているから頼めば上掛けは持ってきてもらえる。明日は私の公務につきあえ」
必要最低限のことだけ告げるとクロードは大人しくうなずいてとぼとぼと部屋から出て行った。
その銅色の髪が風に揺らされていてフィグネリアはベッドを降りて窓辺に行く。そしてカーテンを開けて目を瞬かせる。
「開いて、ない?」
たしか風で天蓋がめくれたのは扉を閉めてからだった。それにクロードの髪も扉を開ける前から揺れていた気がする。
すきま風だろうかとも考えたが納得がいかずフィグネリアはクロードが去った扉を見つめたまましばらくそこに立っていた。
***
翌朝、寝室に入って間もなく夫を追い出したことについて侍女ががっかりしながら朝食を運んでくる。フィグネリアはその視線に気づかないふりをしてタマネギのスープを固い黒パンで掬うようにしながら素早く胃に収める。そして着替えをすませ髪を手櫛で整えてからフィグネリアは隣室のクロードを訪ねた。
「あ、おはようございます。おそろいなんですね」
フィグネリアと同じ黒の軍服を纏ったクロードが相好を崩す。ディシベリアの男達に比べれば枝のような細さだが一応は様になっている。ひとまずは物珍しいお飾りになりそうだ。
「……皇族は全員黒だ。お前は婿入りした立場だからな」
「ああ、そういえば見かけた兵士はみんな白い服でしたね。しかしこの国の兵士は軽装ですよね。胸当てぐらいしかない……」
裏に鎖帷子が縫い付けられてある胸ポケットのあたりを心許なさそうにクロードが触れる。
「実戦の時はこれに少し手甲や膝当てが増える。まあ、うちの兵どもは自分の肉体に自信があるなら防具などいらんという奴が多いが。それを鑑みても他国の兵に比べれば軽装だな。同じぐらいの重量の甲冑を着た相手ならば自在に動かせる自分の筋肉を纏った方が上だから不足はないが」
いいながらフィグネリアは不思議に思う。
ディシベリアの男の身長の平均は二メートル。その長身に加え隆々とした筋肉を全身に纏い斧や大剣、棍棒などを振り上げて敵に迫っていく。その見た目だけでも圧倒される巨体と腕力を備えた軍団で版図を広げてきたことは他国でも有名だ。一国の公子ともなれば当然それぐらいは知っているはずである。
「……このご時世俺が出てかなきゃならない戦争なんて起こりそうにないのが幸いです。あ、だからやたら天井が高くて部屋とか廊下も広いんですね。ソファーもひとりで寝るには十分すぎてベッドみたいでおかげでよく眠れました。そういえば皇女殿下も背が高いですね」
なるほど、と一七六センチのクロードが視線を下ろして一六七センチのフィグネリアと視線を合わす。
「この国では私は低い方だ。まさか、お前なんの教育も受けてないのか」
その視線を真っ直ぐに受け止めてフィグネリアは問うた。
「……受けたけど、寝てるかどこかに隠れてたかですね」
わずかに視線をそらしたのは恥じているのか、何か隠しているのか。
判別はつかないもののフィグネリアは仕方ないと進路を執務室から書庫へと変更することにした。
「まずは基本からだな。九候は分かるか?」
「…………九人の侯爵。侯爵、だから偉い人ですよね」
三つの子供でもまだましな返答をしたのではないのだろうかとフィグネリアは呆れる。
「ディシベリアは十の部族が集まって出来た国だ。我がディシベリア家が武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げた。九候とはその部族長の子孫になる。今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。今、口で全部言っても覚えられないだろうが、まずはアドロフ家の名前だけ覚えておけ。先帝の皇后の父君がアドロフ家の当主パーヴェル・アドロフ侯爵だ。アドロフ家は九候の中核的存在でもある」
「ええっと、要するに皇女殿下のお爺さまってことですよね。あれ、式に来てましたっけ? 俺挨拶してないと思いますけど。他の家の人たちも来てたんです?」
フィグネリアは口を引き結んで来ていない、と声を固くして言う。
何とも言いがたい沈黙がふたりの間に降りた。
顔を覗き込もうとしてきたクロードから逃げるようにしてフィグネリアは歩調を早める。
「祝いの品は届いた。今日の公務はまずその礼状書きだ。文面は私が書くから署名だけでいい。その間に九候とその所領の位置ぐらいは覚えておけ」
早口にまくしたててフィグネリアは書庫の両開きのドアを開ける。そしてそのまま地図と歴史書を引っ張り出して部屋の中央の広いテーブルに広げる。
「これを読むんですか」
ぱらぱらとページをめくってクロードがげんなりした顔をした。
「……俺のことは信用してないんですよね。こういうのは知らない方がいいんじゃないですかね」
そうして一ページ目に目をやり広大な地図を見た後に彼は愛想のいい笑顔で目の前の課題から逃げようとする。
「まだ信用はしていないが、三食昼寝付きで遊ばさせる気もない。雑用ぐらいはして貰う。タダで食事にありつけると思うな、馬鹿者」
ぴしゃりといいのけてフィグネリアは礼状のための紙とペンが届けられるのを待つ間、クロードの学習につきあうことにした。
そして何度目かの驚きと呆れを覚えるのだった。
クロードはこの国の事はおろか祖国の政情すらよく知らないというのだ。
「いったい何をして暮らしてきたのだ」
「笛を吹いて古い物語を読んだり、ですかね。宮殿から出たこともなかったんでここに来るまでにもいろいろ驚きがありましたよ」
こともなさげに言うクロードの不自然な笑顔にフィグネリアはそれをどう受け取っていいのか困惑する。
箱入りの令嬢のような育て方をされていたようだが、彼は男だ。意図的に国務から遠ざけられていたのかもしれない。身辺調査の報告がまだ上がっていないのでどう捉えていいのか分からなかった。
「だから、あまり期待しないでくださいね。なんにも出来ませんから俺」
どこか投げやりな言い方にフィグネリアは苛立った。
「期待はしてない。ただお前に出来ることを探しているだけだ。それとやる前から音を上げるな。不快だ」
それきりふたりの間に言葉は絶えた。
その静寂をかすかに動かしたのは紙とペンの他に紅茶を持ってきた侍女だった。その顔に見覚えがなく、かつその指先が普段見慣れている侍女の手より荒れているのに気づいてフィグネリアは彼女を呼び止めた。
「いつから働いている」
「え、昨日からです。申し訳ありません。洗濯場で働いていて急にこんなお役目をいただいたものでまだ不慣れで。なにか不躾な真似を……」
おどおどとしたまだ若い侍女の顔色をうかがいながらフィグネリアは紅茶に目をやる。
「……いや、なんでもない。一つ頼みたいことがある。厨房からネズミを貰ってきてくれ。私がネズミを欲しがっていると言えば分かる」
フィグネリアの研ぎ冷まされた切っ先のような声が穏やかになり緊張がとれた侍女は目を瞬かせながらうなずいて早足で出て行った。
「ネズミって、なんです?」
不思議そうに問うてくるクロードが紅茶のカップを手に持っていて、フィグネリアは目を見張る。
「待て! 出されたものを不用意に口にするな」
間一髪クロードの唇がカップにふれる前に止まる。そのままの姿勢で彼はカップの中の自分と目を合わせた後にフィグネリアを見る。
「……もしかして毒が入ってるかも、とか?」
冗談めかして笑うクロードはフィグネリアの硬い表情を見て静かにカップを下ろした。
「素性を把握している者以外からの給仕は受けないようにしている」
「そうなんですか。でも、皇女殿下を暗殺して得する人間はいるんですか?」
フィグネリアはすぐに十数人の顔が思いつく自分が嫌になりながら頬杖をつく。
「皇位の継承権は男女関係なく年齢順で他家に嫁いでいない私にも継承権はある。兄上は結婚して五年になるがまだ子供がいないのでこのままであれば私が次の皇帝だ。それがおもしろくない連中はごまんといる。それに私が国務に口出ししているのも気にくわない奴もな」
「へえ。え、じゃあもしかして……皇帝陛下とかも」
声を潜めて言うクロードにフィグネリアは鼻を鳴らす。
「兄上は私がいるから無理に側室を持つ必要がないと喜んでいる。兄上ほど優しく権力に執着しない者はいない」
兄のクロードは心の底から妻のサンドラを愛している。だからいくら世継ぎをと重臣から側室を持つようせっつかれても妹がいるからいいじゃないかとあっけらかんと答える。
あの何も考えない楽観主義は尊敬に値する。
「そうなんですか。兄妹仲、いいんですね」
ぽつりとつぶやくクロードの声は少し重たげだった。
「そちらは悪いのか」
「まあ、あんまりですね」
歯切れの悪い返事が引っかかったが、フィグネリアは詮索する気は起きなかった。
統治者の家族など、問題のひとつやふたつはあるものだ。
それからときどきすいませんと断って分からないところをクロードが聞き、礼状をしたためるフィグネリアが短く答える。それ以外に会話はない。
ふとカップの中の紅茶が揺れた。
「じ、地震?」
椅子から伝わる振動にクロードがおろおろとするのにフィグネリアは兄上だと短く答える。
「おお、やっとみつけたぞ!!」
扉が開いた音と同時にイーゴルが声をはりあげる。
「なんでしょうか、兄上」
「クロードを軍の訓練につきあわせてやろうと思ってな!」
「……皇帝陛下直々のお誘いを断るのは大変恐縮ですが、皇女殿下のおそばにいたいので今日は遠慮させていただきます」
慇懃にクロードが断るとイーゴルがわかりやすくがっかりした顔を見せた。
「そうか。そうだな。お互いのことをこれからよく知っていけないといけないからな。しかしそれではいかんな。遠慮なく義兄上とよんでいいんだぞ」
身長二メートル三〇センチの大男に期待に満ちた少年のまなざしを向けられたクロードがフィグネリアに視線でどうしましょうと問う。
「遠慮はいらんぞ」
フィグネリアにそう言われおずおずとクロードは義兄上、と呼んだ。
「うん、まだ固いがその調子だぞ! 鍛えたくなったらいつでもつきあってやるからな!」
「……兄上、その手に持っているものは私が厨房に頼んだものでは?」
イーゴルに右肩を掴まれたクロード笑顔が引きつっているのを見てフィグネリアはさすがに骨が折れたら面倒だと助け船を出す。
「ん、そこで侍女に会ってお前のところに持って行くと聞いたから代わりにな。しかしネズミなどどうするんだ?」
「こちらのネズミは彼の国のものと違うらしいと話すと見たいと言うので……」
クロードの肩から手を離したイーゴルはそうか、とあっさり納得した。
兄のこの単純さは愛すべき点ではあるが悩みどころでもある。
フィグネリアはやれやれと適当に言いつくろいイーゴルを書庫から追い出してネズミの入った鉄の籠を机に置く。
「……うわあ、ネズミまで大きいんですね」
掴まれた肩を撫でさすっていたクロードがでっぷりとしたネズミに身を退く。
「そうなのか。まあいい。ちょうど二匹だな」
フィグネリアはおもむろに自分とクロードのカップの中身をそれぞれのネズミに分け与える。するとほどなくしてネズミたちは体を痙攣させたかと思うと泡を吹いて死んだ。
「俺も殺されるところだったみたいですね……」
籠の中の動かなくなったネズミを見るクロードの顔は青ざめていた。
芝居でもなさそうなその顔にフィグネリアは顎に手を当て考える。
見慣れない侍女をよこせば疑われるのは向こうも分かっているだろうが、ただの脅しかもしれない。暗殺の罪を着せられる者ができたので心置きなく刺客を差し向けられるという。
そうなると後ろにいるのはロートムか、あるいは九候のいずれかとハンライダが取引したのか。
どちらにせよ、今後はことさら身辺に注意した方がいいだろう。
「このことは義兄上には報告しなくていいんですか? さっきの侍女も調べないと」
「……兄上には言うな。事態が余計にややこしくなる。それにあの侍女を追ったところで行き着く先は死体だ。放っておけばいい。お前は余計なことは考えずに目の前の課題に集中していろ」
ネズミの入った籠を机の下に置いてフィグネリアは礼状書きに戻る。だがその紙がふわりと浮いた。
窓が開いているのかと立ち上がろうとするとクロードが先に大きな音を立てて立ち上がった。
「お、俺が窓閉めてきます。あとちょっと笛吹いていいですか!?」
あまりにも切羽詰まった顔に気圧されてフィグネリアはああ、とうなずいてしまった。
そうするとすぐにクロードは書架の奥に走っていってしまった。
「……何故、笛を」
不思議に思っている内に小鳥の囀りが聞こえてくる。よく聴けばそれは軽やかな旋律を持っていた。
花が弾けるようにしてつぼみを開き鮮やかな色彩を零していく。そんな風景を想起させる美しい音色だ。
思わず耳を傾けて聞き入っている内に演奏は終わった。
「すいません、おまたせしました」
安堵した顔で戻って来たクロードの片手には細い銀製の横笛があった。彼は胸ポケットから袋を取り出し三つに分解した笛を入れてまた胸ポケットに戻した。
「変わった笛だな」
「母の形見なんです。代々母の家に伝わってるものだそうです」
そう聞いて初めてフィグネリアはクロードが母を亡くしていること知った。
特に自分に関わりのない事だからまるでそういうことは気にしなかった。ただ彼に関して興味があるのは自分や家族の敵か否かだけだ。
夫となったとはいえと思ってフィグネリアはああ、そうだと今更ながらに思う。
「皇女殿下?」
これも一応家族かとぼんやりとクロードの整った顔を見ていると彼が首をかしげた。
「……なんでもない」
自分にとって結婚とは公務の一環で、費用やら相手側の政治的意図やらにばかりに考えがいって新たな家族が増えるということにまるで繋がっていなかった。
結婚が決まって一週間。式が終わって丸一日。
フィグネリアは今になってようやく目の前のよく分からないたいして取り柄のなさそうなこの男が家族でもあることを理解したのだった。
***
その日の夜、フィグネリアはベッドの上でつい先ほど届いたクロードの身辺調査の報告書を読みながらため息をつく。
とりたてて警戒を抱くような要素はない。兄弟仲は確かに悪いらしく病死とされている第一公子と第二公子は相続権を巡り対立して相撃ちだったらしい。残る公子も可もなく不可もなくだ。
ただクロードの母親に関しては知らなければよかったと思った。
十年前、クロードが七つの時に彼の母は階段から転落して死んだとなっている。近くで遊んでいた当時八つの双子の第四公子と第五公子が誤って身重だった彼女にぶつかったらしい。
事故、というのは疑わしい。双子の母は第三公妃でクロードの母は元は第三公妃付きの侍女。クロードと双子の年の差は半年足らず。下種な勘ぐりはおおよそ真実だろう。
とにかく今手元にあるものから分かるのはクロードが後見もなく捨て駒にしやすいということだけだ。
「しまったな……」
波立つ感情にじっとしていられずフィグネリアはベッドから降りて窓辺に腰掛けてつぶやく。
クロードが間者でも刺客でもなければどうするかなど全く考えていなかった。自分で冷静のつもりでも全くそうでなかったようだ。
かたかたと揺れる窓の向こう、城の裏手の黒い森がさざめいて甲高い風の音が聞こえてくる。
「……笛の音か」
よく聞けばそれは隣の部屋からのもので、フィグネリアはそっと窓を開ける。
隣も窓を開けているらしく笛の音が風に乗って流れ込んでくる。一定の高い音を保ちながら時折旋回するように旋律を踊らせる。さながら花びらが舞い踊るように。
今のところ見つけたクロードの取り柄といえばこの笛か。
しばらく夜風に当たりながら聞いていると笛の音が止んでフィグネリアは窓を閉じた。少し気持ちが落ち着いて眠れそうだとベッドに戻ろうとすると扉が遠慮がちに叩かれた。
「あの、すいません。いいですか?」
そう言いながら入ってきたのは枕と上掛けを携えているクロードだった。
「どうした」
「ひとりで寝るのが恐いんで一緒に寝てもいいですか?」
「…………駄目だ。ひとりで寝ろ」
子供じゃあるまいしとこめかみを抑えながらフィグネリアはクロードをねめつける。
「無理です。恐いです。だって今日は二回も殺されかけたんですよ」
首を横に振るクロードは頑として譲らなさそうだった。
今日は朝の毒の他に午後の乗馬訓練中に矢が飛んできた。突然の強風で矢はかすりもしなかったが一日に二度とはまたせわしないことだ。
「狙われているのは私だ。一緒にいるとなおさら危険だぞ」
「いや、だってもし皇女殿下が殺されたら俺は全部罪きせられて殺されるんですよね。それならひとりでいるよりふたりでいる方がいいです」
たしかに結果は一緒だろう。
そう考えてフィグネリアが好きにしろと言葉を投げるとクロードが安心した様子でベッドに近づいて来た。
「ありがとうございます。ところで今日は昨日と違う格好ですね……おそろいでも悪くないんですけどあっちの方が好みなんですけど」
そう言うクロードの顔は実に残念そうだった。
「あれは花嫁衣装だ。あんなもの毎日来て寝られるか。だいたい夜着は通常これだ。おそろいというなら兄上ともおそろいだぞ」
体の線の出ない大きめの膝丈の上衣に同じくゆったりしたズボンという格好のフィグネリアはベッドの上に投げ出していた資料を取る。
「まだ仕事してたんですか?」
サイドテーブルに資料を置こうとしたフィグネリアは少し考えてからクロードにそれを渡す。
少し不思議そうにその資料に目を落としたクロードの顔が一瞬強張るのが見えた。
「いまのところお前の身辺に問題はなしだ。なにか間違っている記述はあるか?」
クロードが首を横に振るのを確認してフィグネリアはクロードがいる反対側のベッドの端に寄って寝転がる。
「ならいい。お前はそっち側で寝ろ」
「…………お互い端っこにいたら手も繋げないじゃないですか」
「繋ぐ気もない。真ん中よりこっちへ寄ってきたら床に蹴り落とすからな」
そう言ってクロードに背を向けて上掛けにくるまると背後で彼が小さく笑い声を上げるのが聞こえた。
「てっきり床で寝ろって言われるかと思いましたよ。ちょっとは俺の境遇に同情してくれてます?」
「違う。ただお前が敵である可能性が低くなった以上、一生のつきあいをしなければならなくなるのかもしれないからだ」
そう、同情はしないとフィグネリアは背を丸めサイドテーブルの燭台の揺れる灯火を見つめる。
ただ少し共感は覚えて、嫌なことを思い出した。それだけだ。
「そうなんですか。俺てっきり役立たずとか言われてそのうち放り出されるかと思ってました」
心底驚いたような声だった。
「神霊への誓約を自ら破る気はない。お前が破ったら別だがな」
「あれって具体的になにしたら離婚なんです? 浮気とかはまず駄目ですよね」
フィグネリアは背を丸めて例外もあるとぼそりという。
「……配偶者の許可さえあれば愛人を持つことは許される。基本的には許可なく相手が不利益を被るようなことをしたとき神官の裁量により離縁となる。だから、それぞれの夫婦次第だ」
「へえ。わりとおおざっぱな感じですね。じゃあ、上手くやってけるように努力します」
軽い調子で言ってクロードがようやく横になってかすかにベッドが揺れる。
燭台の火は消そうかとフィグネリアは思うがあと少しで蝋燭は尽きそうなので置いておくことにした。
「婿入りする前に私についてのことは何か聞かされたか?」
おそらく何も知らないだろうとは分かっていながらも、念のために確認する。
「いいえ? 義兄上にちょっと気が強いけど優しくていい子だからよろしく頼むって言われたぐらいですね。……まさか再婚とか、子供がいるとかそういうのですか?」
案の定の答えにフィグネリアは逡巡するものの結局はいずれとしか言えなかった。
人づてに聞くことになるかもしれないが、その事実を今ここで口にするのは馴れ合いを求めているかのようで嫌だった。
やはり、知らなければよかった。
フィグネリアはクロードの呼吸が規則的な寝息に変わるのを聞いても眠れず、蝋燭の明かりが消えても炎が揺らいでいたはずの場所を見つめ続けていた。
***
翌日、王宮の東隣に面した軍の兵舎にフィグネリアは乗馬の訓練もかねてクロードを連れてやってきていた。王宮も兵舎も隣あっているとはいえ敷地が広大なので馬を使って移動するのが常なのだ。
どうにかクロードが落馬することなく兵舎までたどり着き、挨拶をしようと思ったイーゴルの姿が兵舎に見えずにふたりは歩いてすぐ側の練兵場まで行くことにした。
「すごいですね」
物珍しげに周囲を見ながらクロードがつぶやく。周囲の自分よりも上にも横にも二回りは大きい屈強な男達が雄叫びを上げ斧や槍を振り回しているのが恐いのか、彼は必要以上にフィグネリアの側に寄っている。
「急に襲ってくるわけはないからそうくっつくな」
「いや、新婚だから仲良くしてるように見せたほうがいいかと」
さりげなく手を繋ごうとしてくるのでフィグネリアはそれをよける。するとクロードがしょげた犬のように琥珀の瞳で見つめてきて言葉に詰まる。
こういう期待を裏切られて落ち込んだ目というのは苦手だ。全面的に自分が悪いような気がして何も言えなくなる。
「……いいから普通にしていろ」
そう言ってクロードから視線をそらした先にフィグネリアは漆黒の髪と灰色の瞳の鉛を思わせる精悍な面立ちの青年を見つける。彼もすぐにこちらに気づいたようで会釈をして近づいてくる。
「フィグネリア様、このたびはご結婚おめでとうございます。クロード様、お初にお目にかかります。自分は皇帝陛下の近衛を勤めさせていただいているラピナのタラスと申します」
「ええっと、ラピナっていうと九候の方」
ですよね、とクロードがフィグネリアを見ながら確認する。
「そうだ。ラピナ家の次期当主になられる方だ」
今日はクロードを彼に会わせるのも目的のひとつだった。
どの貴族も十歳頃から嫡男を王都の軍に預け五年ほど従事させるが、タラスは自分の意思で十年軍務についている。年も近いこともあり子供の頃から話をする機会も多く、他の者たちより先進的な思考を持つ彼に何度か相談を持ちかけたり持ちかけられたりすることがあった。
「いわゆる幼馴染みなんですね」
そんなタラスとの長いつきあいの話を聞いたクロードが興味深そうにつぶやく。
「そのようになります。フィグネリア様、後でお見せしたい物があるのですがお時間は取れるでしょうか」
「例の物ですか?」
タラスがクロードを一瞥しながら慎重にうなずく。
「……兄上に挨拶をすませたらクロードも連れて参ります」
しばし考えてフィグネリアがそう答えるとタラスが驚いたように少しだけ眉を動かした。
「神殿の託宣があって今し方皇帝陛下は熊狩りに出ました。自分は今日はこちらに残らせていただいています」
イーゴルが近衛を常時全員つけておかないのはいつものことだ。タラスのことは気に入っているので毎回つれて出たがるが、ラピナ家の嫡男である以上いらぬ詮索を受けないためにもタラス自身が待機を申し出ることも多い。
こういうことにイーゴルは疎いのでタラスには面倒をかけて申し訳ないと思うが聡明な彼がついていることはありがたい。
「そうですか。ならば見せていただきます」
フィグネリアは予定を変更してタラスについて兵舎へと引き返す。そしてタラスの私室へと向かうことになった。
「これからのことは他言無用だぞ」
タラスが寝室へ行っている間にフィグネリアは不思議そうな顔でいるクロードにそう告げる。
「いいんですか、この場に俺がいて」
「問題ない。お前にも見て欲しいからな」
いったい何をとクロードが言いかけたとき、タラスが細長い箱を持って寝室から戻ってきてテーブルの上に置く。
「これってもしかして銃とかいうやつですか?」
厳重に鍵のかけられた箱が開けられクロードが目を瞬かせた。
「そうだ。見たことはないか?」
「絵で見たことはあるんですけど本物は初めてです」
予想していた答えではあった。銃はロートムが開発し始めたものの実用にはあまり適さなかったこととディシベリアとの間の戦争も終息したこともありそう普及はしていない。ハンライダの様な小国には実物などありはしないだろう。
「ずいぶん軽くなりましたね。命中率と暴発の危険性は?」
銃をおもむろに持ち上げてフィグネリアは問う。
「それは改善されています。技術的な訓練を受ければ、十発中七発は当てることが可能だそうです。撃ち手への負担は軽減されてさほど力がなくとも撃てます」
「……量産の体制は?」」
「これはまだ整ってはおりません。命中率を上げるための加工が手間がかかるようで。それと鉄や鉛、硝石の安定的な供給もできていないようです。しかし硝石の生産方法も確立しかけているようですし、南方の方にたびたび使節団を送り鉄や鉛の供給にも余念がありません」
フィグネリアは銃を置いて腕組みをする。その眉間には深い皺が刻まれている。
「あの、すいません全然話の意味が分からないんですけど」
難しい顔で黙りこくるフィグネリアとタラスの側でおずおずとクロードが手を挙げる。
「今、ロートムに有能な学者がいるらしくここ十年あまりで急速に銃の性能を高めている。だが鉄や火薬を作るのに必要な硝石がまだ安定的に入手できる術がなく高価なものだ。だいたい分かるな」
「……つまり、新しい銃をロートム王国はたくさん作ろうとしていて要するに戦争を起こす気かもって事ですか」
そういうことだとフィグネリアはうなずく。
昨日半日クロードの学習につきあってみて彼は飲み込みが早く察しがいいことは分かった。まだ信頼は出来ないが、とにかく武術はまるで向いていなさそうな分こちらを伸ばした方がいいだろう。
その方が自分も助かる。本当に彼に裏がなければの話だが。
「さらに改良されて量産できるようになればいくらディシベリアの兵達が屈強でも敵わんだろうな。こちらも遅れを取っている場合ではないのだが、な」
フィグネリアは嘆息してタラスを見上げる。
「兄上に上手く進言いただくようお願いします」
あまり自分がとやかく口を出すと重臣がうるさい。ただでさえ煙たがられているので軍に関してまで口出しは出来ない。
だからこういうときはタラスが頼みの綱だ。
「自分にできうる限りのことはさせていただきます。ただ陛下も少し旧弊的なので……」
「いつまでも精神論だけではまかり通らないと理解していただけたらいいのですが」
フィグネリアとタラスは顔を見合わせて困り顔をする。
確かにこの国の男達でしか引けない長弓の威力は大きい。しかしこのまま改良されていく銃に比べると心許ない。
だが恐ろしいことに鍛え上げられた肉体と気合いがあればどうにかなるとディシベリアの男の大半が思い込んでいるのが現状である。
それから少しフィグネリアと銃の普及について語ったタラスが話について行けず置物のように椅子に座っているクロードを見る。
再びフィグネリアに向けられたタラスの目は本当にこの男は大丈夫かと問うていた。
「いまのところ害はなさそうです。では、本日はこれで失礼いたします。ありがとうございました。行くぞ」
フィグネリアが呼ぶとクロードは見るからに安心した顔で立ち上がった。そして部屋を出て扉が閉まったとたんに彼はぐっと背を伸ばす。
「疲れたー。タラス殿って真面目で優秀な人ですね。皇女殿下もいろいろ信頼してるみたいですし……もしかして初恋の人とかですか?」
好奇心に満ちた視線を向けられてフィグネリアはがっくりと肩を落とす。
「……お前は侍女達のようだな。そんなことより銃には興味はわかなかったのか?」
「あれなら力のない俺でも弓よりは簡単に使えるかな、と思いますけど争いごとは嫌いです。でもあれがたくさん作れたら非力な人間でも戦えるってことですかね。女性や子供でも訓練したら使えそうですね」
そう言って少し黙った後に深刻な顔でクロードがそれはちょっと恐いですね、とフィグネリアを見下ろす。
「危機感をもつのはいいことだ。何も出来ないと思わずまずはそうやって自分で考えてみればいい。少なくともこの国ではお前は十分に先進的な考え方が出来ている……なんだ?」
クロードが目を丸くして見つめてくるのでフィグネリアは首をかしげた。
「いや、なんかそう言われたの初めてで驚いたっていうか。恥ずかしいっていうか……ああ、嬉しいっていう感覚か」
子供っぽい無邪気な笑顔に虚をつかれたフィグネリアだったが、気がつけば口元を緩めていた。
「笑うと可愛いんですね……」
今度はまた別の驚きの声と視線を向けられてフィグネリアはすぐに表情を引き締める。
まだ気を許したつもりはない。ついつられてしまっただけだと心の中で自分に弁解するものの決まりが悪い。
「褒め言葉はありがたく受け取っておく」
下手な返しだと我ながら恥ずかしくなりながらフィグネリアは歩調を早める。
後ろでクロードが小さく笑う気配がして耳が熱くなった。
***
フィグネリアは自分の執務室に戻って気を取り直して机に向かう。座る場所のないクロードは立ったまま部屋を見渡して不思議そうにしている。
「皇女殿下の執務室っていうからもっと立派なものだと思ったんですけど、意外と狭いんですね。それにここ、ずいぶん中央から離れてましたよね」
存外いろいろよく見ているものだとフィグネリアは無花果の果実のような形をした水晶のインク壺の蓋を開ける。
「私が政務をするのが嫌な重臣達の目につかない所だからな。こちら側は日当たりもいいし悪い部屋ではない」
ここはも三代前の時に側室のために増築された離れの子供部屋だ。王宮は最初に建てられた中央宮の裏側から放射線状に柱廊が延び各所に大小八つの小宮が建てられている。その中でも特に小さく立地の関係で他の小宮より中央から離れていて半分森に埋もれているのがこの宮である。
「しかしなんでそんなにみなさん皇女殿下が仕事するのが嫌なんですか? 俺の国じゃ女性は政治にも軍にも関わらないけどこの国は違うみたいですし」
「みんな、私が嫌いなんだ。それだけだ」
それは答えになっているようでまったくなっていない返答だったが、フィグネリアの表情に落ちる影にきづいたクロードが質問を重ねることはなかった。
それからしばらくすると狩りから戻ったイーゴルが訪ねて来た。
「兄上、ミスイカの橋の再建工事についてですが、工費の試算がまだ不明瞭です。建材の輸送費に明確な根拠を示すように指示してください。それと財務官吏二名の減給については不当です。言われているように紙を無駄に使いすぎているという事実はなく、それが例え事実だとしても四割もの減給はありえません」
フィグネリアはイーゴルに書類を示し、重点に下線を引きながら説明する。
「橋の件は分かった。減給に関してはちゃんと叱っておかねばな。卑怯きわまりない」
「減給に値する理由はない、その一言だけでかまいません。兄上の持たれる威厳があればそれで片付きます。不当である事は減給に処すと決めた本人がよく分かっているはずですから。私からは以上です。兄上の方は何か問題は?」
「いや、今日は特にない。ではさっそくお前の言ったことを実行してくる。いつも助かる。では、またな」
イーゴルが書類を受け取り、ディシベリアの地図と睨み合っているクロードにも声をかけて出て行った。
「……皇女殿下っていろんなことやってるんですね。人事とかも全部やってるんですか?」
クロードが地図から目を離して背を伸ばしながら問う。
「一通り目を通しているが、全部というわけではないな。問題点が見つかったら知らせにくる官もいる。それを聞いて裏付を取ったら兄上に報告したりだな」
「はあ、なんか大変なんですね」
そうぼやいてクロードが視線を周囲に巡らせて胸ポケットから笛を取り出す。そして吹いていいかと問われてフィグネリアは持っていた羽ペンを置く。
「……いつも持ち歩くのはかまわないが職務中は控えろ」
別に笛の音が嫌いなわけではないがそう頻繁に吹かれると何かの連絡手段かと疑ってしまう。
命じるとあからさまに動揺した顔をみせるのでなおさら疑わしい。しかしわかりやすすぎて間者にはとうてい見えない。
「今すぐ吹かないとちょっと困るというかなんというか……ちょ、ちょっと待った!」
クロードが声をひっくり返すと同時に机の上の書類が舞った。風が吹いたのかと思ったが、窓は開いてはいない。
そしてフィグネリアは自分の目を疑った。
インクが螺旋を描きながらつぼから飛び出している。黒い竜巻のように渦を巻くインクを囲んで書類がくるくると廻っていた。
「わかった、わかったからそれだけはやめてくれよ。皇女殿下、失礼します」
クロードは何かに語りかけたかと思うと笛を組み立てて音階を駆け上がり急降下するのを繰り返す。タイミングや間をわずかに変えながら上り下りする音は軽快な旋律となる。
それと同時に書類は元の位置に戻り、インクは壺の中に戻った。そのかわり風はクロードの髪を揺らしながら部屋を周り、窓を押しあけて外へと飛び出していく。
半ば伏せられたクロードの琥珀色の瞳は光を帯びて黄金の様に輝いている。
フィグネリアは声も出せずにそれを見ていた。
演奏が終わるとその名残の風がフィグネリアの白金の髪を撫ぜて消える。
笛から口を離したクロードが口を半開きにしているフィグネリアを見ながら引きつった笑顔を浮かべた。
「…………なにがどうなっているか説明してもらおうか」
すうっと息を一つ吸って自分を落ち着かせてフィグネリアはクロードをねめつける。
「なんていうか妖精に気に入られてるんです。母の血筋がそうみたいなんですけどいろいろ教えて貰う前に母が亡くなって俺もよく分からないんですよね」
「つまり、妖精を使役する神の楽士というわけか」
万物に妖精は宿り、それを統べるのは地母神の産み落とした神霊達だ。だがその昔、人間でも歌なり笛なりで妖精を従える神の楽士と呼ばれる一族がいたそうだ。しかしいつの間にかその一族は姿を消してしまいおとぎ話の住人になってしまっている。
まさかこんな威厳もなにもない男がと信じられないが目の前であんなものを見せられてしまったら現実と認めるしかない。
「……ああ、こっちではそう言うんですよね。よかった」
ほっとクロードが胸をなで下ろすのにそうか、とフィグネリアは思い出す。
ロートムの国教であるナルフィス教に宗旨替えしたハンライダでは世界はひとりの神の掌の上に乗せられているものとなっている。こちらで神霊と呼ぶものはナルフィス教で言う悪さをする妖精達を諫め払う使徒と呼ばれている。そして一部の神霊は妖精達を操り人に害をなす悪魔とされている。
後ろ盾も何もない公子がこんな力を持っているとなれば悪魔の使いと呼ばれて生涯幽閉されかねない。
「そうなると王宮から出たことがないというのはそのせいか」
「いいえ。母にこのことは誰にも言ってはいけないときつく言われていたんで父にも隠してました。兄弟仲いいわけでもないしひとりでほっとかれてたんで遊び相手っていえば妖精達ぐらいで。俺は特に力が強いからあまり構い過ぎてはいけないともいわれたんですけど、ね」
唯一の味方であった母を亡くし幼くしてひとりきりになった彼が妖精達と戯れることで寂しさを埋めとしていたことは容易に想像できた。
フィグネリアはどう言葉を返したらいいものかわからず口を噤む。
「ご覧の通り使役は出来てないんです。ちょっとした頼み事を聞いて貰ってお礼に笛を吹くんです。でもさっきみたいに笛が聴きたくて俺が困ることをやったりで大変なんですよ」
苦笑しながらクロードが重たい空気をはらうようにわざとらしく肩をすくめてみせる。
「隠していることはそれだけか」
静かな問いかけに他にはないですよ、とクロードが軽い口調で答える。それは嘘に見えず、迷いながらフィグネリアは口を開く。
「……私が重臣達に嫌われている理由は私が側室の子という立場で政務に口出しするからだからだ」
え、とクロードが目を見張った。
「兄上のことはどう思う」
そして間髪入れずに問われて彼は目を瞬かせる。
「いい人、ですね。おおらかなかんじで優しそうだなと思いました」
「そう、人として兄上はこの上なく優良だ。だが君主としてはどうだ」
クロードは少し考えてそれは、とさきほどのフィグネリアとイーゴルのやりとりを思い出しながら口ごもる。
「……お前の思っているとおりの事を父上も思った」
当時十歳になろうとするイーゴルを見て先帝は国の行く末に不安を抱いた。イーゴルは疑うことよりも信じ愛することを尊ぶ子だった。それだけならばまだよかったのだが、武芸には秀でているものの勉学はからきし、だった。
つまるところお人好しで頭が悪いと君主としては最悪の取り合わせなわけだ。
先帝はもうひとり子を求めたが、当時皇后はイーゴルの出産以降は孕んでもすぐに流れてしまい子を産むのは難しいと言われていた。そこで側室を持ち、すぐにフィグネリアが産まれたが側室は難産で娘の産声を聞いてすぐに亡くなった。
「じゃあ、本当は皇女殿下が皇帝になるはずだったんですか?」
いや、とフィグネリアは首を横に振る。
「前皇后殿下は九候家の中心であるアドロフ家の息女だ。兄上が帝位に就かねば九候家との関係が悪化する。私は周囲を牽制し帝位に就いた兄上を支えるように教育された。だから余計な相続争いが起こらぬように私の母は身寄りがなかった衛兵のひとりから選ばれたんだ。だが、父上が逝くのが早すぎた」
五年前、心の蔵の病で前皇帝は急死した。そのときイーゴルが二十三、フィグネリアは十三だった。
「身分が低く後ろ盾のない側室のたった十三の小娘がやれ帳簿の計算が合わない、予算に無駄があるなど口を挟んだらどうなる」
クロードがああ、と顔をしかめる。
「それにしたって暗殺っていうのは大人げないですね」
「そうだな。まともな者もいるが重臣達のほとんどが九候家の縁者でしめられていて楯突けない。父上はこの現状も変えていこうとしていたんだがな……」
祖父である先々帝は九候家を抑えきれなかった。贈賄、横領、暗殺と貴族達は腐敗し民は蔑ろにされてもはや内から崩れかけていたところで父が祖父を玉座から引きずり下ろし帝位についた。
そしてたまった膿は時間をかけて絞り出され今の安定した国がある。だが九候家の権威は依然強く、一時たりとも気を緩められない状況だ。
父は少しずつ九候の息のかからない者たちにも重職を任せられるように九候中心の内政を変えようとしていたが、突然没してしまった。
後は任せた、とまだ幼い娘に全て託して。
先帝の元で力を削がれていた九候達にとって父の政策を引き継いで兄に進言している自分は邪魔で仕方ないのだろう。
あげくに九候家の中心であるアドロフ候が自分が父の子でないのではと疑っているのでなおさらだ。
「そして、私が死んだら都合よく罪を被せられるのはお前だろう。遺書の一枚や二枚できあがっているだろうな」
顔を引きつらせるクロードに正直な男だとフィグネリアは思う。
「はあ、なんかすごく大変なところにお婿に来たわけなんですね俺。それにしたって同じ側室の子供っていっても全然違うもんですね」
しみじみとつぶやきながらクロードは壁によりかかった。フィグネリアは机に頬杖をついてその憂える端正な横顔を眺める。
「どちらにしろ面倒だ」
「でも、あなたはまだいいですよ。必要とされて産まれてきたんですから」
孤独が滲む声にフィグネリアは立ち上がりクロードの正面に立った。
「……いらないと言われないように努力はした。お前は、ただふてくされてじっとしていただけか?」
我ながらきつい言い方だと思いながら少し不快そうなクロードの瞳を正面から見据える。
「ふてくされたっていうより諦めた、が正しいですね。母の死について父は何も動かなかった。四番目と五番目の兄上に講義がうけられないように部屋から閉め出されても教師も何も言わなかった」
「なるほど。それなら私にとって必要と思われるように今から努力しろ。いいか、同情で馴れ合うつもりはないからな。この国では夫婦というのは互いに利益をもたらしあうものだ」
ふっとクロードが視線をあげて小さく苦笑する。
「……一応は努力しますけど、俺、何すればいいんです?」
「まずは知識を詰め込め。あとはその妖精に関しても勝手に暴れないようにどうにかして他の者にばれないようにしろ」
こくこくと従順にうなずくクロードにフィグネリアはそれと、と付け加える。
「意見や文句、要求は言え。出来うることはきく。出来ないことの理由はちゃんと説明するからな」
ただ一方的に命じるつもりはない。神殿で誓った以上今は自分は彼の主君ではなく妻なのだから。
「あ、じゃあ早速今夜は夫婦の勤めに励みませんか」
一瞬クロードが言っている意味が分からなかったフィグネリアは理解したと同時に眦をつり上げた。
「駄目、だ。小指の爪先ぐらいでもまだ疑いが残っている以上は床入りはなしだ。今夜は床で寝ろ」
「いや、そんな本気で怒らないでくださいって。ちょっとした冗談ですって。ちゃんと隅っこにいますからベッドで寝かせて下さい」
「…………隅だぞ」
念押しするとクロードがほっとした顔をしたあと、今度は真剣な顔をしてあの、と言う。
「今度は本気のお願いなんですけど、皇女殿下のこと名前で呼んでもいいですか?」
その問いかけにフィグネリアは結婚して三日目になるのにまだ一度も名前で呼ばれていないことに気がついた。別に異論はなかったので許可するとクロードが緊張を緩めてはにかむ。
「じゃあ、これからいろいろ教えてくださいね、フィグ」
それは名前じゃなくて愛称だろうが。
そう思ったフィグネリアだったが、クロードの笑顔に毒気を抜かれてしまい反論することは出来なかった。
2
結婚式からひとつきであっという間に短い夏の名残は消え冬の影がさしていた。
「なんだか急に寒くなりましたね」
執務室に新たに据えられた机に向かうクロードが各大臣や官吏の続柄などを示したものを読みながら身体を縮こませる。
「まだこれからだぞ。後もうひとつきもしたら雪が降り始める。それからリクル運河が凍って半年は冬だ」
「北のほうはもう降り始めてるんでしたっけ? 寒いのは苦手なんですけど雪は見たことがないから楽しみです」
そう言うクロードは十七という年相応の顔をしていた。
婚礼の時よりわずかな時間の間に彼はずいぶん変わった。今まで押さえ込まれていた反動か乾いた土が水を吸うより早く知識を吸収している。史学が気に入ったらしく書庫より持ち出した本をベッドに持ち込んで読んでいるほどだ。
フィグネリアはその変化に驚きつつも羨ましくもあった。
物心ついたときから史学、政治、軍事と詰め込まれていた自分にとって学ぶことは生きるのに必要なことだった。食事中も延々と講義が続けられる日も珍しくなく食事と一緒に知識も呑み込まされることに苦痛を覚えても耐えるしかなかった。
彼のように学ぶことに喜びを覚えられるのは羨ましい。
「物珍しいのは最初だけだぞ。前に南から来た商人も三日でげんなりしていた。兵士達は活気づくがな」
「そうなんですか。あ、もしかして雪かきですか」
「当たりだ。戦のないこの時勢、雪かきと冬眠しそびれた熊や餓えた狼が出てきたときが最大の活躍の場だな」
「熊とか狼、出るんですか?」
恐ろしげにつぶやくクロードのわかりやすさにフィグネリアは小さく吹き出しながら頻繁なことじゃないと返す。
「……遭遇しないことを祈ります。ああ、もう、駄目だって言ってるだろうが」
傍らに積んである書物のページがばらばらとめくれあがってクロードが苛立たしげな声をあげる。
妖精に関してはまだちまちまと小さないたずらをしかけているようだ。
こればかりは門外漢なのでクロードになんとかしてもらうしかないが、彼自身もよく分かっていないので改善には時間がかかりそうだ。
「しかし風の妖精とは騒がしいものだな」
彼曰くいたずらをしかけてきているのはすべての妖精ではなく好奇心が旺盛で騒ぐのが好きな風の妖精達がほとんどだそうだ。他の妖精達は自分の産まれた場所から離れられないので近づかなければどうということはないらしい。
だが面倒なことに妖精側は人間の言葉は分かるが人間側は声を聞くどころか姿を見ることも出来ずにそこにいるという存在感しかないそうだ。
「たまに助けてくれたりするのはいいんですけど……」
しかたなしといった様子でクロードが笛を吹き始める。
その曲はまた新しいものでまだ一度も違う曲を聴いたことがない。尋ねればいつも即興なので楽譜は読めないということで驚かされた。
「…………やはり、引っかかるな」
クロードの奏でるそよ風のような穏やかな調べに耳を傾けながらフィグネリアは眉宇を曇らせる。
見比べる書面は今年に入ってからのと去年の塩の収穫量である。領土の三分の一で作物がまともに育たないこの国では北東に広がる塩湖からとれる塩が食料を買い付けるための貴重な財源だ。
その塩の収穫量が今年の方がわずかに少ない。
微量とはいえ半年以上となればそこそこの量だ。ふたつき減少が続いた時点で訝しんだが、ただ単に今年は採れが悪いと思っていた。しかし各月それぞれ去年の同じ月よりほぼ一定の量減っているのは妙だ。
「……つまりこっそり誰かが拝借してるってことですか」
笛を吹き終わったクロードがフィグネリアの渋面の理由を聞きそう尋ねる。
「そうなると厄介だ。塩の管理には三十の部署を設けているがそれを全てかいくぐるということは塩業所全体が腐敗し始めていることになる」
利潤の一部は塩業所に携わる貴族や実際に売買をやりとりする商人に支払われる。売り上げを誤魔化し懐にしまいこまれないように目を光らせているが数年に一度は問題が起きて組織の体制を見直さなければならなくなる。
それでも管理するのは人だ。良心が絶対ではないことが網の目になってしまう。
「ルドクシア候、か。まただな」
塩業所の所長は最近になってこれまで税のことなどで揉めた九候家のひとつと縁続きになったことを思いだしフィグネリアは黒に近いと考える。
「また、なんですか」
「あそこは父上が崩御してからしばしば問題を起こしている。そのたびに神殿に多量の奉納で領民の不満を誤魔化している姑息な奴だ。まずは兄上に…………来たか」
いつもの地響きと共にイーゴルが現れた。この頃は初めて出来た年下の弟が嬉しいのか決まった時間に尋ねて来てクロードに困っていることはないかと聞いたり遠駆けや狩りの誘いをしたりしている。
「クロード、今日も見事な笛だな。これから冬籠もりの祭事についての朝議があるのだがお前に楽士を頼もうと提案する気があるのだがどうだ!」
挨拶もそこそこに是非をきくというより、いい考えだろうと同意を求めるように言ってイーゴルがふんぞり返る。
「……兄上、その前に塩のことで聞いていただきたいことが」
クロードが返答に窮している間にフィグネリアがそう言うと、イーゴルが真面目な顔つきになる。そして仔細を聞いてますます表情を険しくした。
「なんという不届き者だ! さっそくあとで朝議で話合わねばな」
「いえ、それはお待ちください。今の塩業所の所長は九候家縁の御方です。まだ確証のない内に広めて先に事を大きくしてしまうのは得策ではありません。査察官へ内密に調査をご命じください」
「…………あまりこそこそするのは好きではないが、お前そういうならそうした方がいいだろうな。よし、では今日の朝議は祭事だけだな」
表情を一転させ明るい顔でイーゴルがクロードを見る。
「人前で笛を吹くのが嫌でなければ引き受けてくれたらいい」
クロードの視線にフィグネリアがそう答えると彼はイーゴルに謹んで承らせていただきますと笑顔で答えた。
「そうか! では頼んだぞ!」
早く朝議でこのことを言いたいらしく満面の笑みでイーゴルが部屋を出て行った。
「……で、冬籠もりの祭事ってなんですか?」
「雪が降る前に今年最後の狩りをした翌日に恵みを与えてくださった地母神様達に感謝を捧げる祭りだ。そのときの供物のひとつが音楽だ。なぜ音楽を捧げるかはお前がよく分かっているだろう。……大神子様にお前のことを聞いてみるのもいい」
神霊の言葉を降ろす大神子が神殿から出てくるのはこの日だけだ。願いが届けば話を聞いてもらえるだろう。
「ちょっとでも解決するといいですね」
他人事のように言ってクロードが学習に戻った。
フィグネリアもこれ以面倒ごとの種が見つからないように祈りながらペンを取った。
***
「お待たせしました」
翌日、フィグネリアは執務室にクロードを残しタラスを別室に招いていた。使われてはいないが手入れの行き届いた広間のソファーへ座るようフィグネリアが促すと律儀にタラスが腰を折って座った。
「いえ、お話とはなんでしょうか」
招いた、とは言っても先に話があるとイーゴルを介して伝えられたのでタラスを招き入れたのだ。
「こちらをご覧ください。クロード様宛のもののようです」
タラスが持っていた書状をテーブルの上を滑らせてフィグネリアの目の前に置く。
「……影を消せ、か。暗殺の指令のようですね。出所は?」
「ボーリン伯からです」
簡潔な答えにフィグネリアは顎に手を当てて書面を眺める。
最初に今回の縁談を持ち出したのは彼だったということは掴んでいる。だが情報の秘匿はされておらず、蜥蜴の尻尾にすぎないことは明白だ。
「恨みはいくらでも買われているのでやはりまだ絞るのは難しいですね。タラス殿、わざわざお知らせいただき感謝します。しばらくは自衛に徹します」
「ならば、クロード様は遠ざけるようした方がよろしいのでは」
「近くに置いていた方が安心です。それに、おそらくこの手紙はクロード宛ではないでしょう」
自分だったらまず、彼に暗殺は命じない。今日まで観察しても腕力のなさも、反射神経の鈍さも演じている様には見えなかった。
「……ならば、よいのですが。やはり一度皇帝陛下に暗殺の件は申し立てた方がよろしいのでは」
「そうしたらどうなるか、タラス殿には十分おわかりでしょう」
苦笑してみせるとタラスがひどく深刻な顔をして腕を組んだ。
イーゴルにこの件を告げても事が収束するどころかあちこちに飛び火して大火事となるだろう。それに、兄が悲しむようなことはあまり知らせたくはない。
「タラス殿がこうして尽力していただけるだけでもありがたく思っています。しかしあなたはいずれ必ず九候や軍のあり方を変える方です。私の暗殺に関しては関わらないほうが御身のためです。お願いします」
なにかと頼りにはしているが、暗殺の件に関してはタラスには相談はしていない。彼がラピナの嫡男である以上は手の内全てを見せられないのだ。先帝である父が没してから何かと助けをしてくれるが、全幅の信頼というのは難しい。
「……あなたも、そうです。今実際に国を支えているのはあなたです。影の皇帝、と呼ばれているのはご存じでしょう」
暗殺指令書の影の部分を指さすタラスにフィグネリアは声を出して笑う。
「嫌味ですよ。だれも私を認めてはいない。それに」
真実父の子であるかどうかさえ疑われている。
そう続ける前にタラスが口を開く。
「少なくとも、自分はあなたを認めています。あなたはご自分の価値を正確には把握されていない」
「ありがとうございます。ただそれは外では口にされないようにお願いします。蔑まれるのも命を狙われるのも私ひとりで十分です」
そう、自分さえ的になっていれば誰も傷つきはしない。
栄光の後ろには必ず影が引きずられるというのならそれをすべて引き受けるのが自分の役割だ。
フィグネリアが穏やかな笑みを浮かべるとタラスが勢いよく立ち上がった。
「自分はこの国のためにこれからも皇女殿下を害する者の排除をしていくつもりです。では、失礼します」
そう言い捨てるタラスにお前はこの国のために生きるのだと何度も言っていた父の面影を思い起こして気が重くなる。
「……残念ながら、私は国のためにしているのではありません。大切な家族である兄や妹のためにしているのです」
タラスの返答はなかった。
扉が閉まった後にフィグネリアはソファーにだらしなくもたれてクロード宛とされている手紙を指で爪弾く。
くだらない小細工だ。タラスがはたしてこんなものを真剣に受け取るだろうか。
「ああ、そうか、知らないのか」
ふと思いいたってフィグネリアはつぶやく。
タラスはクロードの事をよく知らない。だからこその警戒なのだと考える前にタラスのことを疑う自分が嫌になる。
人を信じるのは難しい。だが、もう自分の中でクロードは白だ。
「……あれに害意がなさすぎるからだ」
矛盾する自分の思考に適当な理由を押しつけてフィグネリアは手紙を胸ポケットにしまった。
***
落ち着かない、とクロードはまるで頭に入ってこない文字を眺めることを諦めて本を閉じる。
新妻が昔の想い人、かもしれない男と別室でふたりきりというのはよくない。ついでにまた自分にあらぬ疑いでもかけられて相談されてるのかも知れないかもと考えるとなおさら落ち着かない。
「いや、いや、いくらなんでも駄目だろ、俺」
妖精に頼んで会話をこちらに流してもらおうかと考えてしまう自分をクロードはいさめる。
が、聞きたいと思う反面聞きたくないという思いもあった。
嫌なことには耳を塞いでいたい。
せっかくおいしい三食付きにとびきり美人の妻、おまけに新しい楽しみも見つけて充実した毎日を過ごしているのだ。それに水を差すことはない。
「でもなあ、気になるよなあ」
机の上に寝そべりクロードはつぶやく。傍らでは妖精達が興味を示して騒ぐ気配がしている。
「うるさい。後で聴かせてやるから静かにしてろよ」
不満を示すように風の精達がクロードの赤銅色の髪をかきまぜた。
「…………勝てるとこ、ないよなあ」
最初に会ったタラスの姿を思い起こしながらクロードは体を起こす。
もし彼とフィグネリアが恋仲と仮定するとそう遠からず自分はここから追い出される。せっかく手に入れたささやかな幸せはここで終わり。
いや、しかし口はきついが存外優しいフィグネリアなら狭い領地ひとつとかわいい侍女ひとりぐらいつけてくれて幸せになれよと送り出してくれるかもしれない。
「それはそれできっついなー。って、ん?」
前向きな考えのはずなのにかえって落ち込んでいる自分にクロードは眉をひそめる。
自分が惜しいのはこの生活をなくすことなのか、フィグネリアをなくすことなのか。
「あのな、うん、いろいろいい方向に予想外だったわけだよ」
側にに感じる気配にクロードは語りかける。端から見ればその様子はひとりで見えない誰かと喋っている頭が気の毒な人間である。
「本当に、義兄上に最初会ったときには正直期待してなかったんだけど、いざとなったらすっごい美人だったわけだ。胸大きいし」
笛の音ほどでもないが声も好きな風の精たちがクロードを取り囲み、それでとせっつくように彼の周りで旋回する。
「だから書類は飛ばすなって。……朝は早いしやらなきゃならいことはいっぱいあるしで全然自由じゃないのになんだろうな。あそこにいたときより自由な気がする。見てて飽きない美人付きだしな」
思い返すのはいくつかの煉瓦を積み上げた四角い箱のような建物が並ぶ王宮の一番北の端に佇む一番小さな棟。その中央は四角くくり抜かれて中庭になっていた。
空ばかりが高く周囲の蔦の這う灰色の煉瓦の壁に囲まれたそこで朧気な母との思い出と共に閉じこもっていることしか出来なかった。一歩出れば異母兄の双子がにやけた顔で待ち構えているし、外に出たところで何があるわけでもないのでただ怠惰な毎日を過ごしていた。
「ここ来てまだひとつきぐらいだけど毎日楽しいんだよなあ。なあ、フィグって可愛いって言うと困るんだ。なんでかな。でも可愛いよな。最初はおっかない美人だったけど最近ちょっとは目の前で笑ってくれるようになったし、それも可愛いと思う。そうだ、夕べちょっとくしゃみしたらすぐに侍女呼んで上掛けくれたんだよ。相変わらず端っこでしか寝かせてくれないけど。うーん、これって好きになったって事だよなあ」
憂い顔で高い天井を見上げながらクロードは椅子にもたれかかる。
「でも、向こうに好きになってもらうって難しいよなあ。結婚してるのに片想いって変だよな……っと」
うっかり体を傾けすぎて椅子と一緒に倒れかけたクロードを風の精達が支える。
「ありがと。しっかしひとりって寂しいなあ。フィグ早く戻って来てくれないかな。…………帰ってきたとたん出て行け言われても困るけどな。なあ、愛してます! って言ったら怒ると思うか?」
尋ねても返事があるわけでもなくクロードはまた机に突っ伏す。
なんとなくむなしい。そこに妖精達の気配はあるから話を一応聞いてはいることは分かっているが相づちでいいから欲しい。
フィグネリアは基本的に聞いたことには真面目に答えてくれる。ちょっと冗談を言って怒られることもあるが。
「フィグがいないと寂しくて死にそう……は怒られるな」
クロードが研ぎ澄まされた瞳を思い出して苦い笑みを零したとき扉が静かに開かれる。そこには待ち望んだ新妻が部屋には入らずに両腕を組んで立っていた。
「声が大きい。この大馬鹿者が」
そう淡々と告げるフィグネリアの白磁のような頬はよくよく見れば朱色に染まっている。
「いつから、いたんですか」
「ひとりしかいないはずの部屋から話し声が聞こえたら怪しまれることぐらい考えろ。だいたいそういうことを大声で話すな」
たぶんこれはわりと最初のほうから聞かれてたらしい。
いつまで経っても戸口から移動してこないフィグネリアの様子が妙に初々しい。
「……まったく、こんな奴に暗殺など出来るか。阿呆か」
そしてようやく歩み寄ってきたフィグネリアが何か紙を押しつけてくる。
クロードはくしゃくしゃになったそれを開いてなんですかこれとむくれた顔のフィグネリアを見る。
「お前宛の暗殺指令書だ。私を殺せ、ということだ」
フィグネリアが自分の椅子に座ってクロードから顔をそらすように横を向いて頬杖をつく。
「まあ、無理ですね」
剣術も体術もからきしだ。それに腕力でも馬上で中ぐらいの大きさの弓を引けるというフィグネリアに敵うはずがない。
「それに俺はフィグなしじゃ生きられませんしね。いろんな意味で」
白銀の髪に隠れてフィグネリアの表情は見えないが、その耳が赤くなっているのは分かった。
クロードは席をたって執務机に暗殺指令書を置く。そのときこっそりとフィグネリアの顔を覗き込んで怒っているわけではないと確信する。
「……フィグ」
名前を呼ぶとフィグネリアが深く息を吸って挑むような視線を投げつけてくる。
その美貌と相まって凄みがある照れ隠しは可愛いものではないがクロードはなぜだか楽しくなってきてしまっていた。
「俺の気持ち、どこまで聞いてました。俺がフィグのこと好……」
クロードの言葉を遮るようにしてフィグネリアが立ち上がる。
「ひとつきだ。まだひとつきだぞ」
「でも好きなものは好きですし」
確かに共に過ごした時間はそれだけだが、自分の心はすっかり彼女に捕らわれてしまっているのは事実だ。今だって近くにいるだけで嬉しいし、その姿から目を外せない自分がいる。
じっとふたりは見つめ合う。
互いの心の奥、光も届かないような深い深い底まで探るように。ただ、ふたりの間に甘やかなものはなく乾燥して張り詰めた空気が漂っていた。
「……私は隣で仕事をする。さぼるなよ」
先に視線をそらしたのはフィグネリアだった。彼女はさっさと机の上の書類と筆記具をまとめて出て行ってしまった。
扉が静かに閉まってクロードは前髪をかき上げる。
「手強いなー。でも全然駄目ってことはないよな」
頑張ればどうにかいけるかもしれないと考えてクロードは小さく笑う。
こんな風に何かしてみようと思うのは初めてだ。
「こういうのが恋なんだと思うんだけど、なあ?」
同意を求めると風の精達がざわめいて笛の入っている胸ポケットに入り込んできて、クロードは窓を開けた。
***
少しだけ開けた窓の隙間から入り込んできて優雅に跳ねていた音が転調し哀切なものへと変わった。フィグネリアは嫌がらせだろうかとさして動いていなかった手を完全に止めてしまう。
そしてペンを置いて顔を両手で覆う。まだ頬が熱い気がする。
「まったく、ひとりで妖精と話すのは禁じておくべきだったな」
話し声が聞こえるのですわ密談かと思えばあれだ。どうしていいかわからずひとまずクロードが喋り終えるの待っているうちにどんどん入りづらくなったのだがそれ以上聞いてもいられずに部屋に入ってしまった。
「というか、私は好かれるようなことをした覚えはないぞ」
普通に話をしていただけだ。そんなに笑った覚えはない、はずだ。上掛けをクロードによこしてやったのだって祭事が近いのに体調を崩されたら困るからだ。
それだけだ、とフィグネリアはつぶやいてソファーに横になる。
クロードの奏でる笛の音が低い場所からふっと高みへと上昇しどこまでも昇っていくような余韻を残して終わる。
仰向けになり高い天井を見上げてフィグネリアは薄青の瞳を細める。
なぜクロードはあんなにも簡単に好きだと言ってしまえるのだろう。自分が彼の力を利用しようだとか考えているということは微塵も疑わないのだろうか。
自分ならまず疑うことから始める。
相手のことをしらみつぶしに調べ上げて、敵対する者と繋がりがないか分かったところでまだ新たな敵対者となる可能性も考慮してどこまでも疑い続ける。兄と妹が結婚するときもひそやかに調べをいれたぐらいだ。
それなのにクロードときたらひとつきくらいで、自分の事もよく知らないくせに。
ふっと盗み聞いた彼の言葉を思い出して耳が熱くなった。
愛していると言ってくれたのは兄と妹、それに父と。
母上、とつぶやいてフィグネリアは瞳を伏せて下唇を噛んだ。
側室の子である自分の事を前皇后は実の子として確かに大事にしてくれた。愛していると言葉にして伝えてくれた。
――フィグネリアは可愛いわ。娘も同然だもの。でも、でも時々思うの。わたくしはあの方が望むような子の母親になりたかっただけで、自分のためにあの子を愛してるのかもしれない。それに今でも思うのよ。リリアを授かるがもう一年早かったらって。
あれは、十一の時だっただろうか。なんのために皇后の部屋を尋ねたのかは覚えていないが、彼女が嫁ぐときに生家から連れてきた初老の侍女にそう話しているのを聞いてしまった。
いつも穏やかで柔らかな笑みを湛えているはずの彼女の声は震えていた。
母が泣いているのを聞いたのはその時と父が死んだときだけだ。一昨年前になくなったときは笑っていた。
兄や妹に向けているのと同じ笑みを自分にも向けてくれていた。
「いかん、こんな事をしている場合ではない」
視界が滲んでてフィグネリアは起き上がり書類と再び向き合う。
やらねばならないことは山ほどあるのだ。過ぎたことをいつまでも考えていても仕方ない。
だが、先のことは。
「本当に、余計なことを」
これといった正答のない問題は嫌なんだとフィグネリアは口元に手を当てて顔をしかめた。
***
それから数日後の夜、夫婦の寝室では敷布や上掛けが天井高くまで持ちあげられてひらひらと揺れていた。たとえるなら子供がマントのように肩にかけて走っている様子に似ている。
妖精とは子供の様な姿をしているのだろうかと部屋の隅でフィグネリアはクロードと並んで見ながら思う。
「なんにもいませんね」
「そのようだな」
一昨日のように書類に挟まれていた毒針が仕込まれているわけでもなく、昨日の晩のように毒蛇がいるわけでもなさそうだとフィグネリアがうなずく。
「じゃあ、これでゆっくり眠れますねって、こっちじゃないって!」
突然上掛けと巨大な敷布が頭上に振ってきて目の前が真っ暗になる。
「何をやっているんだ。待て、動くな!」
抜け出そうともがいているうちにクロードとぶつかってフィグネリアがしりもちをつく。そのときクロードの足を引っかけてしまい転んだ彼が体の上に落ちてくる。
「ああ、すいません。これどうにかしないと笛、吹けないぞ」
クロードがそう言うとふわりとふたりを覆う布の塊が浮くが下に敷き込んでしまっていて完全には浮き上がらない。
「…………今日はこのまま寝ましょうか」
ごく近い距離で囁きかけてくるせいか吐息が耳の下辺りにかかってきてフィグネリアはうろたえた。
「ふざけるな。まずそこをどけ」
しかし声だけは平静を保ってクロードの体を押すが、不自然な体勢のせいでうまく力が入らない。
「やっぱりだめですよね」
湿っぽい声でつぶやいてクロードがごそごそと動く。布をかき分けているようだがなかなか上手くいかないようだ。
ふたりで動くと余計に絡まりそうなのでじっとしているフィグネリアは寝転がったまま小さくあくびをする。ふたり分の体温で暖まった布の中は心地よく眠気がした。
気を抜いている場合ではないと自身を叱咤していると、あ、というクロードの声が聞こえて夜気が吹き込んできてぬくもりが消えてしまう。
「うわあ、火、消えちゃってますよ」
クロードの声を頼りにフィグネリアは布の塊から顔を出す。そうしたところで燭台の火が消えてしまっていて真っ暗で何も見えなかった。昨日冬に向けて掛け替えたカーテンは分厚く月明かりも届かない。
蛇の一件から侍女達も近くの部屋に置かないようにしてしまったのでここから呼びかけるのも無理だろうし、下手にこの暗がりの中で動くのも躊躇われる。
「火の妖精は使えないのか」
「いや、消えちゃってるんで無理ですよ。俺に出来るのはそこにいる妖精に何かして貰うことなんでいない妖精を呼ぶことはできないんです。ていうか寒いですね」
クロードが自分の近くの布をかき寄せるので仕方なくフィグネリアは彼に寄り添うような形でふたり一緒に寝具にくるまる。
「目が慣れるまでだぞ」
触れ合った肩から伝わってくる温度に自然と体が強張る。
クロードの告白から数日。よくよく考えればもうおそらく一生夫婦としてやっていくのだからお互い嫌いでいるよりはいいと受け入れればいいことだ。
そうは思えど愛情だけ素直に受け取ることは出来ない自分がいる。
「俺が最初に好きになったのはフィグの見た目だけど、それよりこういう優しいところが好きなんですよ」
ふと小さく笑ってクロードがそんなことを言いながら手を重ねてくる。
フィグネリアは逃げようとした手を留めてうつむく。
「お前は本当に簡単に好きだと言うんだな」
彼の言葉に重みがないわけではない。ただ本当に出会って間もない人間に自然と愛情を込めた言葉を紡げるのが不思議だった。
「嫌ですか?」
問い返されてフィグネリアは返答に困った。
「じゃあ、これが答えでいいですか?」
手を握られているのに振り解こうとしないフィグネリアの耳元でそっとクロードが問いかけを重ねる。
緊張はするし、気分は落ち着かないけれど嫌ではなかった。
「分からない。……お前のことは嫌いじゃないが、好きかもよく分からない」
だから手を握り返すことは出来ない。
ひゅるりと高い音をたてて風が舞う。凍みるような冷たい風で、ふたり同時に身をすくめると体がぶつかった。
「すいません……」
そのはずみでクロードが手を離して、手の甲がやけに冷たかった。
「いや。妖精達は笛を聞きたいのではないのか?」
「笛はサイドテーブルですしこの暗さじゃ無理ですよ。寒いから大人しくしてろよ、朝には聞かせてやるから。よけいなことするお前らが悪いんだからな……しかし本当に何にも見えませんね」
フィグネリアと違ってまだ何も見えていないらしいクロードが隣であくびをする。
そういえば今日の午後は遠駆けに出てその場で軽く護身術を教えたのだが、城に戻って来た時にはクロードはずいぶん疲れている様子だった。
少しは体力がついてきたように感じていたが、無茶をさせたのかも知れない。
「このまま寝るか」
投げやりな口調で言ってフィグネリアは横になる。え、とクロードが驚きの声を上げるがそれを無視する。
床は絨毯敷きなのでそう寒くはないから大丈夫だろう。
「すきま風が入ると寒いから隣で寝ていいですか?」
クロードが問うのにフィグネリアは今日だけだぞとつけ加えて目を閉じる。背中のすぐ側に彼がいて、ひとりで眠るよりずいぶん暖かい。
人間でなく温石だと思えば気楽だ。
クロードが眠った後、程なくしてフィグネリアも意識を眠りの淵にすとんと落とした。
そして気がつけば朝だった。
いつ眠ったのかも覚えていない自分にフィグネリアは驚いて、目を開いて今度は飛び起きそうになった。
背中合わせでいたはずなのになぜかクロードの腕を枕にして彼の胸に頭を埋めるような体勢になっていた。
頭上では穏やかな寝息が聞こえている。
フィグネリアが怒鳴り声を上げそうになるのを抑えてそろりと起き上がるとクロードが小さく呻いた。
そして緩やかに彼の瞼が持ち上げられて目が合う。
「……おはようございます」
舌の回りきっていないぼやけた口調で挨拶をしながらクロードが琥珀色の瞳を蜜のように蕩けさす。
「いい朝ですね。今日もフィグは綺麗だ」
そうして腕を伸べてきて分厚いカーテンごしの淡い光の粉がまぶされたフィグネリアの髪を撫でる。
彼の指先が頬に触れその瞬間、心臓が飛び上がった。
「寝ぼけてないで早く起きろ!! この大馬鹿者が!」
訳の分からない動悸と火を噴きそうな頬の熱さに混乱しながらフィグネリアは大声を上げる。それでもまだクロードは寝ぼけた様子で半身を起こして子供の様な仕草で目をこすっている。
いつも彼より先に起きて自分の支度をすませてしまうからこんなにも寝起きが悪いとはしらなかった。
ひとまずフィグネリアは上掛けと敷布の塊から抜け出して分厚いカーテンを一気に開ける。
(しまった。妖精にカーテンを開けてもらえばよかったのだ)
そして眩い光と一緒にそんなことが閃いてなぜこんな単純な事に気づかなかったのかと額に手をやった。
どうしてこう人の正常な思考をことごとく奪ってくれるのだ。
フィグネリアはそう思いながら布にくるまってもそもそしてまた横になってしまいそうなクロードをちらりと見る。
「…………眠い。わかってる、わかってるからこれ元に戻しとくんだぞ」
ようやく起き上がったクロードは妖精にまとわりつかれていた。彼の言葉に従って布の塊がまた浮きあがってベッドへと移動していく。その間に彼はサイドテーブルに置かれた笛を取ってフィグネリアの隣に立った。
真横にあるクロードの顔にまた鼓動が高鳴る。
「おはようございます。フィグは朝早いですよね。俺どうも苦手で……なんか顔赤いですよ」
どうやら起き抜けのことはまるで覚えてないらしいクロードにじっと顔を覗き込まれてフィグネリアは視線をそらす。
「気のせいだ。私は身支度をすませるからその間にお前もすませておけ」
まだ半分ぐらい眠っているらしいクロードが間延びした返事をした後に笛に口をつける。
そこから流れ出る音は夏の朝の様に涼やかで川のせせらぎにも似たものだった。
(寝ていても笛は吹けるのか)
呆れ半分で感心しながらフィグネリアは無意識のうちにクロードが触れた自分の髪を撫でてふるりと頭を振る。
そして深呼吸をひとつして気を静めたつもりだったが部屋を出るその動きはどこかぎこちないものだった。
3
結婚式からふたつき。空に雲がかかる日が増える中で二日ぶりに薄水色の空が広がる日に冬の祭事は行われた。
日が昇ってすぐに神殿から大神子を乗せた五色の紗がかけられた輿が担ぎ出され、この日のために織られた幾何学模様の織物を背にかけた馬に乗る皇帝と皇后がそれを先導する。輿の後ろには大神子に仕える九才から十四才までの少女達が後ろを付き添い歩く。
フィグネリアとクロードはその列の最後尾に騎乗してゆっくりと進んでいた。
「はあ、すごいですね」
ふたつき前と違って馬に慣れたクロードが首を伸ばして周囲を見る。列の周囲は騎乗した屈強な兵士達が壁を築くようにしているのでそうでもしないと見えないのだ。
「あまりきょろきょろするな。ぶつかるぞ」
前を歩く最年少の少女を見ながらフィグネリアはクロードに注意する。
十分な距離があるしクロードの馬はとても大人しいしなにより彼自身の手綱さばきも上達していて心配はしてはいないが念のためである。
「……そうですね。脇見は事故の元ですからね。それにしても鈴の音、綺麗ですね」
輿が通るたびに通りに並ぶ民達が手に持った鈴を鳴らしていく。それはいくら混ざっても音が濁ったり割れたりする事なく調和し美しい音を奏でている。
「ああ。こういう音は妖精が好むのだろう?」
「そういえばなんかすごく楽しそうですね」
クロードが目を細めてうなずいた。彼の表情が妖精の感情そのものであるようにすら思える。
本当に不思議な男だ。
結婚してから今日までは雑事に追われている間にあっという間に過ぎた。その中で自分でも信じられないほどクロードに気を許してしまってる。
冷え込んできたこの頃は手を伸ばしたら互いに触れられる距離で眠っている。昨日はもう少し小ぶりのベッドに変えてそのかわり大きめのテーブルを用意しようかなどと考えている自分がいて唖然としてしまった。
なぜだろうか。頑なに他人を信じるということが出来ないと思っていたのに。
今では隣で危なげなく馬に乗れているクロードの成長を素直に喜んでいる自分がいる。
「フィグ、あれ」
クロードがふと指さす薄青の空に灰色の鳥が並んでいるのが見えた。
「雪雲鳥だ。数日中に雪が降るな……」
「へえ。いよいよ人生初の雪か。なんだかわくわくしますね」
境遇は自分よりいろいろとあったようなのになぜこうも生きていて楽しそうなのだろう。
クロードの横顔をちらりと見てからフィグネリアはもう一度空を見上げ眉をひそめる。
雪雲鳥は雪から逃げるようにして南へと渡っていく鳥だが、それが大神子の渡りと重なるとその冬は荒れるという凶兆となる。
なにも起こらなければいいがと思うが火種はあちこちにあるので無理な話だ。
せめて塩の件だけでも片付けられればとつらつら考えつつ、浮き足立ったクロードの相手もしているうちに城の裏手に広がる森にある祭壇へとたどり着いた。
森の中の広場に石を積んで出来た高い台があり、その周辺に控える数十人の神官が輿を迎える。
フィグネリア達従者達は側に跪いて輿から降りる大神子を待つ。
少女達が輿の紗をめくり上げ、真白いガウンに身を包んだ女がゆったりとした動作でその場に降り立つ。その腰まである髪も雪のように白い。
「あれ、意外と若いし綺麗ですね」
大神子の白いベールの隙間から覗いた三十前後の透き通るような雰囲気の美しい顔にクロードがなにげなくつぶやく。
「クロード」
あまりに不躾な態度にフィグネリアは小声ながらもきつい口調でクロードの名を呼んだ。彼はすぐにすいませんと謝って固く口を閉ざした。
フィグネリアはまったくとこぼれそうになったため息をのみこんで視線を祭壇へ昇る大神子に戻す。
ちょうど太陽を真後ろにして立つ大神子の姿にその場にいる者たちが畏敬のまなざしを向けてから頭を垂れる。
すっと大神子が両手を広げると神官達がひとりずつ木箱を持って祭壇へ上がっていく。
これからが長い。
冬籠もりの祭事は北から順に国の各地で行われ、大神殿から神官がひとりずつ派遣され現地の神子と共に祭事を執り行う。そして帰還した神官が一斉にここに集い大神子に各地で捧げられた供物を持ち寄るわけだが、その数五十七人である。
地理が苦手なクロードにはあげられる地名がどこにあるか聞きながら思い出してみろとは言っているが。
(……諦めたな、これは)
半分ほど終わった頃に覗き見たクロードは退屈そうにあくびをこらえていた。
そうして太陽が中天にさしかかるころにようやく終わり、フィグネリアの隣でため息が聞こえた。
いつクロードが船を漕ぎ始めるかとはらはらしたがとにかく無事終わってフィグネリアもつかの間安堵する。
しかし、これからだ。
「さあ、音を捧げよ。神霊に、妖精に、その心を潤す甘美なる音を」
大神官長の言葉にクロードが息を詰める。眠気も吹き飛んだようでその顔は緊張に強張っていた。
「大丈夫だ。いつも通り吹けばいい」
ゆっくりと立ち上がったクロードにそう告げると彼はこくりとうなずいて祭壇の前に立ち、大神子に向けて一礼する。
そうして笛に口をあてた瞬間、彼の纏う空気が変わるのがわかった。
緩やかに、音がこぼれ出す。
最初は風が木々を揺らすかすかな音に紛れ込んでいた音が音階を上げながら次第に存在感を増していく。
軽やかにかけていく美しい乙女に似た音色。
それを追いかけていくうちにふと沈黙が訪れる。美しい乙女のその手を取りたいと恋焦がれさせるような余韻を残して。
そうして高い音が音階と緩急を巧みに変えながら転がりでてきた。
聴衆の期待と同じように音は膨れあがって弾け、激しい旋律が踊り狂う。
乙女が嵐の女神に姿を変えて全てを呑み込んでいくようだ。
息継ぎをしていないのではと思ってしまうほどの勢いで音がその場を駆け巡った。
ゆっくりと嵐が静まる。
そうすると嵐の女神はまた乙女に戻り、静かに去って行った。
クロードが笛から口を離し、最初と同じように一礼して人々はようやく我に返り歓声を上げるのをこらえる。
最初に言葉を発するのは大神子、いや神霊でなくてはならない。
「ここへおあがり」
玲瓏な声が響いて、クロードが大神子を見上げた後に後ろを向いてフィグネリアに視線を送ってくる。
そのまま従えとフィグネリアが首を縦に振ると彼はゆっくりと祭壇を昇っていく。
クロードと大神子は何か話しているようだが、フィグネリア達には聞こえない。
「影の娘、そう、名はフィグネリアか。この黄金、気に入った。このアトゥスに献上せよ」
気まぐれな西風の女神に呼ばれてフィグネリアはきょとんとする。
「はよ返事をせよ。この妾を捕らえられる人の子など久しぶりじゃ。姉様方にも見せびらかしてやるのだ。ほれ是と答えよ」
そこにいるのは紛れもなく風の四女神のうちのひとり、アトゥスだ。
彼女がこうして真っ先に降りてくるのは珍しいことだと半ば現実逃避のように考えていたフィグネリアは急かされて現実に引き戻される。
「失礼ながら、私とその者は大いなる地母神ギリルア様や他の神霊方に宣誓し婚姻しています。私ひとりの一存では決めかねます」
「つまらん娘よのう。そういうことを訊いておるのではない。この黄金はお前にとってこの妾に譲れぬほど大事かどうかと訊いておるのじゃ。いらぬと言うならすぐさま神界にとって引き返して母様や兄弟らに許可をもらってくるわ。ほれ、ほれ。はよせぬとこの者を連れて帰るぞ」
実に、楽しげにアトゥスはフィグネリアをせき立てる。
周囲は息を呑んでふたりの様相を見守っている。
どうやらおちょくられているらしいと分かってはいるもののどう返答していいかは分からない。
どうぞと言って本当に持って行かれても困る。何故と言われれば使い物になりそうだとせっかく手をかけているのに取り上げられるのは腑に落ちない。たとえ女神様であろうとも。
それに煽るようになにやらクロードの腰に手を回したり、わざわざ耳元に口を寄せて話していたりするのを見ていると胸がむかついてくる。後頭部しか見えない夫は鼻の下を伸ばしているんだろうかと思うとなおさらだ。
「その者は私が磨き上げる黄金です。お譲りするわけにはいきません」
つい目つきを鋭くして切っ先を向けるように言葉を発する。
我に返ったフィグネリアが自分の言動に青ざめると同時に高らかな笑い声が響いた。
「安心せい、このクロードには先に自分の女神はそなたひとりと先に断られたわ。しかしそなたからはまるで相手にされないと嘆くのでそれが真実ならば無理にでも攫ってしまおうと思うたが……のう」
フィグネリアはもはや耳まで赤くするより他なかった。
「よい、よい。なかなかに可愛らしい顔も出来るではないか。よし、アンハルム姉様にもそなたらが永久に睦まじくあるよう祝福を贈ること頼んでやろう。実に楽しいものを見せてもらった。春には妾からも恵みの風を送ろうぞ!」
アトゥスが高らかに宣言するとそれまで押さえていたものを一気に放出するかのような歓声が巻き起こる。
その熱気の中で別の意味の熱さで汗をかくフィグネリアはいますぐここを離れたくて仕方なかった。
しかしながら次に現れた愛の女神アンハルムに呼ばれことさら目立つ羽目になってしまう。
祭壇に昇ってようやく顔が見れたクロードの緩んだ顔と熱の籠もった視線に言葉は一切奪われてしまっていた。
「あなたがたの愛が永遠に続くように」
アンハルムがフィグネリアとクロードの手を取って重ね合わせた。
「さあ、愛の印を唇に」
さらりと続けられたアンハルムの言葉にうつむき加減でいたフィグネリアは思わず顔を上げる。
そうするとクロードの琥珀色の瞳が真正面にあって凍り付いてしまった。
逃げ場などあるはずもなく覚悟を決めてぎゅっと目を閉じる。
そうすると頬にクロードのかすかな吐息がかかって、次に額に口づけられた。
「唇は、いずれ」
そして赤く色づいた耳朶にそっとそんな言葉を残して彼が離れる。
アンハルムが両手を合わせて、あらあらかわいらしいわと少女のようにはしゃぐ横でフィグネリアは小しむくれていた。
せっかく人が覚悟を決めてやったのに。
そんな自分自身の思考にフィグネリアは大いに動揺し、心の内であれこれと自己弁護しているうちに次々と神霊達が降りてきてふたりとディシベリアに祝福を約束していった。
「……そなたの笛はこの上ない美酒だ。だが過ぎたる酒は妖精達を狂わせ人も狂わせる。風の妹達には妖精達をおさえるよう進言しておくが、そなた自身も気をつけるがよい。その妻であるお前はこの者が心愚かな者に利用されぬよう気をつけておけ」
最後に降りてきた地母神ギリルアの二番目の子である闘争の男神、キサガダがふたりに密やかにそう告げた。
闘争の神が降り立ったこととその言葉に速やかに思考を転換させたフィグネリアの脳裏に雪雲鳥が空を渡る姿が閃く。
キサガダが降りてくる時にはふたつの意味がある。
戦の最中であれば勝利をもたらす吉兆。それ以外の時は争乱の幕開け、だ。
「そう恐い顔をするな影の娘。火種はまだ小さい。己をよく知ればそれは治められるであろう。……困難は多くあろう。だが、春には恵みを我が妹が約束した。人の世とは常に戦の場。お前達ならば必ずや打ち勝てるだろう」
フィグネリアに語りかけた後、キサガダが祭壇の下へと声を張り上げるとイーゴルが前に進み出る。
「お言葉。感謝いたします!! 我ら大陸随一の闘争心で必ずや勝利しましょう!」
腰の太刀を抜いて高く掲げた皇帝の宣言に兵士らが雄叫びをあげた。
地が割れんばかりの咆哮にキサガダはよき闘争心だと満足げに言って神界へと戻っていった。
それと同時に大神子がその場に崩れ落ちる。
「だ、大丈夫ですか!?」
屈んで抱き起こそうとするクロードをフィグネリアは制する。
「毎年こうだから心配はいらない。後は神子達がやる」
ほら、とフィグネリアは顎で静々と昇ってく少女達を示し入れ違いに降りていく。
その間もキサガダの言葉が気にかかって頭を離れなかったが、不意にクロードに手をとられて思考が止まった。
顔を上げるとクロードは調子に乗りすぎてしまったかと思っているのがありありと分かる気まずそうな顔をしていた。
フィグネリアは無言でその手を握り返す。
その時はもう正面を向いていたが温度の上がる掌から伝わってくるものから夫が喜んでいるのを感じた。
こうして触れるだけで分かるものもあるというのはなんだかとてもよいものだとフィグネリアは思ったのだった。
***
早朝から続く祭事は神霊達が降り立ち帰った後、祭壇から軍の広大な練兵場に移りクロードは興奮冷めやらぬままに周囲を見渡す。
敷地の半分には屋台が建ち並び、売り子のかけ声や民衆の楽しげなさざめきでごったがえしていて見ているだけで心が浮き立つ。
だがクロード達の向かうのはて柵で区切られたもう半分の三つの櫓が建てられている場所である。中央の櫓に大神子と神子達、右側に皇帝夫妻、左側にフィグネリアとクロードが登ると神が何を語ったか聞こうと民衆が柵まで集まってくる。
そしてイーゴルが祭壇での出来事をよく響く声で語り始めた。
今年は皇女が迎えたばかりの夫を巡り神霊に対峙し見事に死守したというところで民衆は口々に祝福をのべた。キサガダが降りてきたことに少し動揺が見られたが、気にするほどのことでもないとわかるとすぐに賑やかさを取り戻す。
やがて屋台の方へと戻っていく民衆を見渡すクロードは顔を綻ばせた。
「いっぱいお祝いしてもらってなんかいいですね。しかし使徒様……あ、こっちでは神霊か。本当に話できるなんて思いませんでしたよ」
「妖精と共に過ごしているなら疑う余地もないだろう。ナルフィス教徒からしてみればまやかしだのなんだのにみえるかもしれんがな」
「信じてないわけじゃないんですよ。ただ身近な妖精達とすら話せないのにさらに遠い存在と会話できるなんていまいちぴんときてなくて」
実際に声を聞いたときにも疑いの心などなかった。声が、なによりも確かな力を宿して耳から魂まで響いてきたのだ。神霊が降りてくると妖精達が行儀よくしているような感覚もあった。
「そういうものか。……しかし、お前の力については詳しく聞きそびれたが、キサガダ様の言葉がやはり気にかかるな」
食事が運ばれてきてフィグネリアがまず火酒の入った杯に口をつける。その瞳は冴え冴えとしていて祭壇の上での愛らしさの面影はなかった。
こういう顔をしているときは近くにいても彼女の心は遙か遠く、クロードは浮ついていた気持ちを沈ませる。
「よくわかんないですけど、俺の力のことは秘密にしておけば大丈夫じゃないですか。あとはフィグにかまってもらえたらいいな、と」
フィグネリアの正面に座ってみると彼女はほんのりと頬を染めてふいっと顔をそらす。
視線はこちらに向いていなくても心は引き戻せたようだ。
「……一週間経たずに国中に伝わるんだな。まったく、アトゥス様もお戯れが過ぎる」
そのまま少し疲れた顔をしてフィグネリアがつぶやく。
地方から戻ってきた神官はもう一度同じ場所へ戻り今日のことを報告するそうだ。
「いいじゃないですか。夫婦円満が国中に伝わっておめでたいですよ」
「……めでたい話題はなければならないが。……なにかあったか?」
櫓へ登るための階段を踏む音にフィグネリアが持っていた酒杯を置き近くにある乾し肉を切るためのナイフを手に持つ。
クロードもその様子を見て近くに妖精の気配があるのを確認する。
ゆっくりと姿を現わしたのは白い軍服の大柄な中年の男だった。片手には巨大な斧と異様にぎらついている目にクロードは顔を引きつらせる。
これはどう考えてもまずい。
とりあえずフィグネリアはどうあっても護らねばとは思うものの突然のことに上手く頭が回らない。
「……近衛ではないな。なぜここにいる」
一方、フィグネリアは冷静にそう問いただしていた。
返事はなかった。その代わりに男が突進してくる。
それと同時にクロードはフィグネリアに思い切り蹴飛ばされた。
「フィグ!」
ちょうど腰を上げてようとした瞬間だったものだから階段側へと軽々と転がってしまったクロードはフィグネリアが襲撃者の影になって見えず心臓が握りつぶされる気がした。
「逃げろ!」
その鋭い声に一瞬の安心を得たものの、襲撃者は攻撃の手を緩めることはなく、バキバキと床板が割れる音と同時に櫓も揺れてすぐに動揺が戻ってくる。
このままでは足場がなくなり櫓が崩壊するのも時間の問題だ。
逃げろと言われてもフィグネリアは置いていけない。だがどうすればいいだろう。
すぐに動かせそうなのは風の妖精で、少し遠くに樹の妖精。地面に土の妖精に石の妖精。しかし風でどうにか出来そうもないし、他は遠すぎるし使い道も思いつかないとクロードは近くの割れた酒瓶を見ながら側に酒の水たまりに視線を移す。
「人間の目ってわかるか?」
声をかけると酒だまりがアーモンドのような形をとる。
「それだ、それ。お前話分かるな。よしあの大きい方の目の中に入ってくれないか」
そう言うとすぐに酒だまりは空中に浮き上がりクロードの意思どおりに動いて、斧を振り下ろそうとしていた男が叫び声をあげて地団駄を踏む。
「今のうちにこっちへ!」
声をかけるとフィグネリアが自分の元へと駆けてくる。後は階段さえ降りれば衛兵が多くいるはずだ。
クロードはフィグネリアが来るのを待つ。だがその間に櫓が大きく揺らいだ。
男が巨体を揺らして斧を振り回し始めた。そこへ何かが飛んでくる。
矢だ。
飛んできた方向は皇帝と皇后のいる櫓。放ったのは皇后のサンドラのようだった。
「すごい、あの距離からでも当たるのか」
的が大きいとはいえ百メートル以上は離れているのに命中させるのもそうだが、これだけの距離を飛ばせる弓を放てるサンドラの腕力も相当なものだ。
半ば呆けるように感心していると、また大きく櫓が揺れてクロードは我に返る。男が痛みに暴れていい加減もろくなった床が抜けたのだ。
「フィグ!」
フィグネリアが背中を掴まれて一緒に引きずり落とされようとしていてクロードは駆け寄ったが遅かった。
彼女の体を抱き寄せたと同時にがくりと自分の体が傾ぐ。
落ちる。
そう思った瞬間、目を見張っているフィグネリアと視線が交わった。
ここで終わりたくない。まだ彼女と生きていきたい。
落下しながらクロードはフィグネリアを強く抱きしめる。
その瞳は光を帯び、黄金に輝いていた。
***
なぜ、先に逃げないのだろうかこの馬鹿亭主は。あげくに助けに来るとはもうどうしようもない。
フィグネリアは落ちる瞬間、そんなことを思った。
そうして落ちながら抱きすくめられて逆の立場だったらたぶん自分も馬鹿になっていたのだろうと思った。
しかしこれは助からないなと他人事のように考えていると背中を風が吹き抜けて妙な浮遊感があった。
「クロード、これは……」
見えない何かの上に乗っている感覚があった。
フィグネリアは下を見ながら自分を抱きすくめているクロードに問いかける。
「妖精、みたいですけど……降ろしてくれるか?」
おそるおそるといった体でクロードがそう告げるとゆっくりと体が降ろされていき、土の上に足がつくとあたりで風が踊った。
ひとまず助かったようだとほっとしながら地面に座り込む体勢でいたふたりは身を離して立ち上がる。
「何が起こった?」
「いや、俺にも何が何だか……でも無事でよかった」
改めてクロードが抱きしめてきて頭上で安堵のため息が聞こえた。
全身に染み渡る温度にさっきより生きているという実感がしてフィグネリアは夫の肩口に額を当てて瞳を閉じる。
クロードを巻き込まずにすんだと思うと眼裏が少し熱くなった。
「フィグネリア! クロード!」
狼狽した兄の声が聞こえてフィグネリアははっと目を開く。クロードも腕を解いて声の方へと向き直る。
「無事か!? ふたりとも怪我はないな。神霊様の奇蹟に感謝せねばならんな」
目を潤ませてイーゴルがフィグネリアとクロードをふたりまとめて抱きしめる。
「兄上、私たちは無事ですので」
力が強すぎて息が詰まりそうで身を捩ると緩やかに解放されたが、その代わりにぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
「フィグネリア様、ご無事でなりよりです。皇帝陛下、ここは私がいますので大神子様にこの騒ぎについてのご報告を」
後にタラスが他の兵とやってきて、イーゴルがもう一度だけ妹夫婦の頭を撫でて大股で大神子の櫓へと向かった。サンドラは祭事の場を血で穢したことを詫びるため先にそちらに行っているらしい。
あの場でイーゴルに弓を引かせなかったのは穢れを自ら引き受けるためだろう。
フィグネリアはそれを見送ってようやく襲撃者の男を視界に入れる。うつぶせに倒れた男に刺さった矢は急所を外れているが、首の曲がり方からして生きてはいないだろう。
「すぐに救援に向かおうと思ったのですが、登るわけにもいかず皇后陛下のお手を穢すことになり申し訳ありません」
それはもう仕方ないことだ。自分とクロード以外が登ることは考えずに建てられた櫓に巨体を備えている男がもうひとり登っていたら確実に崩れていただろう。それにあの距離で確実に矢を当てるにはイーゴルかサンドラのどちらかが弓を引くより他なかった。
「いえ、選択肢が他になかったことは承知しています。それよりこの男は?」
「素性は分かりません。すぐに調べさせます。……フィグネリア様、衛兵を常時おつけください。向こうはなりふりかまわなくなっています」
真摯に訴えかけてくるタラスの瞳から目をそらしてフィグネリアは白い軍服を着て死んでいる襲撃者を見る。
「信頼できる者がいれば、そうはしますが……」
誰ひとりとしているはずがない。身の周りの人間は家族以外全員信じていない。目の前にいるタラスにでさえかすかな疑心を抱いているのだ。
「あの、俺が頑張ります。フィグは俺がちゃんと護ります」
静かにフィグネリアとタラスの会話を見ていたクロードが一歩前に出てよく通る声でそう告げた。
「失礼ながらクロード様にそのようなお力があるとは見えません。ただ、あなた様が神霊様の加護を受けておられているのならお任せしたい」
自分たちが浮いているのをタラスがいた位置からでも見えたということは他の大勢の民衆にも見られたかもしれない。そう思い柵の向こうを見ると人集りが出来ていて食い入るように自分たちを見ていた。
まずいことになったと思いながらもフィグネリアは表面上だけ冷静な顔を取り繕いクロードに視線で何も答えるなと制止する。
「あれに関しては私もクロードもよく分かっておりません。今日は祭事です。いずれかの神霊様の御慈悲かもしれません。護衛に関してはまたいずれ。それまでは自衛に努めます」
「……そうですか。クロード様、フィグネリア様はディシベリアの礎となるお方です。それをしかと覚えておいてください」
納得いかないと顔に書いていながらもタラスはそれ以上何も訊いてこなかった。
それからふたりはタラスに付き添われて祭事の席で騒ぎを起こしたことを大神子に詫びに行った。
「よい、とおっしゃっております。神霊様より加護をいただいたことが罪なき証だそうです」
櫓の上で大神子に耳打ちされた神子の少女がそう告げるのを聞きながら、フィグネリアは大神子がベール越しにクロードをじっと見ているような気がした。
さすがに何か勘づいているのだろうか。
「フィグ! 怪我ないわね、本当にないわね。ああ、よかった。クロードもありがとう」
櫓から離れてサンドラにも迷惑をかけたと言おうとするより先に彼女の方から駆けてきて抱きしめられた。
「申し訳ありません。お手を穢させて。助かりました」
「ごめんない、は大神子様にだけでいいの。あたしにはありがとうだけで十分」
こんな風に優しくされると余計に申し訳なく思えてフィグネリアはわずかに表情を陰らせた。
「兵舎の方でちょっと休みません? 静かなところに行きたいんですけど」
クロードが胸ポケットを軽く叩きながら言って妖精への礼をするのだと気づいたフィグネリアは兄夫婦に断って兵舎へと引っ込んだ。タラスが念のためとついてきたが、突き当たりにある部屋を選んで扉の前ではなく少し離れた廊下に立ってもらうようにした。
「すまない、助かった」
椅子に座ってまずフィグネリアはそう告げた。
「謝るのは駄目です。さっきも義姉上に言われましたよね。愛してるなら当たり前のことなんです。俺も義姉上も一緒」
窓辺に立つクロードが素っ気なく言ってフィグネリアの返事を待たずに音を奏で始める。
流れてくるのは優しい旋律だった。小春日和の木漏れ日のようにどこまでも柔らかく包み込むように音が耳朶から全身に満ちていく。
愛しているなら、当然のこと。
それは頭では理解できるし、心でも分かる。
だがどうしたって自分に限ってはそれを受け止められない。
「恐いんだ」
演奏が終わってフィグネリアは零す。
「ひとりでなにもかも護りきれないと、いらないと言われそうで。私は兄上の影となるために産まれたのに、それだけが私の産まれた意味なのに……受け入れてくださった母上も報われない。全てを私に託して志半ばに亡くなられた父上にも申し訳が立たない」
どうしてクロードにこんな事を話しているのだろうと思えど言葉は止まらなかった。
吐き出しきれなかった感情は涙になって零れる。
「フィグ……」
そっとクロードに背を撫でられてフィグネリア小さく頭を振る。
「すまない。今の私はどうかしている」
ひりつく喉で言葉を押し出すとクロードがため息をついて視線を合わせるために跪いた。
「謝る意味が分かりません。言いたいことは言っちゃ方がいいですよ。俺なんて子供の頃は兄上達の悪口とか妖精相手に言いまくってましたから。ちょっとした手違いで聞こえちゃって酷い目にあったこともありますけど」
その様子はなんとなく想像がついてフィグネリアは涙をぬぐいかすかに笑う。
「お前らしいな。……私は出来ない。言葉は常に揉め事を起こさないように選ばなければならないものだ」
「それで周りが傷つかなくても、フィグ自身は苦しいでしょ」
「私だけが苦しいならそれでいい」
「それが義兄上のためだから?」
「……何が言いたいんだ、お前は」
上から琥珀色の瞳を覗き込んでフィグネリアは眉根を寄せる。
「理屈とかいったん忘れましょう。愛に打算はないんです。別に義兄上はフィグが難しい事ぜんぶやってくれるから愛してるわけじゃないでしょう」
一度言葉を切ってクロードが寂しげに微笑む。
「血が繋がってたって愛し合えない兄弟だっているんです。お互い想い合えるって事はフィグにとっては当たり前のことかもしれないけど、たぶんフィグが思ってる以上にすごいことだと思いますよ」
「だが兄上や母上達に貰った愛に報いるためにはやはり私は全て背負わねばならない」
「だーかーらー、報いるとかそういうのなしです。愛してるって言われたら愛してるって返せばいいんです。自分から愛してるって言ったっていい。それが心からの言葉なら他には何にもいらないものなんです」
自信たっぷりに断言されてフィグネリアは目を瞬かせる。
「勢いだけしかないのに説得力があるなど意味が分からん」
「説得力があるって感じるならそれはフィグが愛を知ってるって事ですよ」
にこりと笑ってクロードが表情を真剣なものに変える。
「愛しています。だからフィグを失いたくなくて俺は必死になってたんです。妖精達もそれに応えてくれたんだと思います」
期待するような目にフィグネリアは言葉に詰まる。
どう、なのだろう。
自分はこの男を愛しているんだろうか。
いつもの癖で使えるところ使えないところと理詰めで考えて、神霊にたてついて自分と、クロードを死なせずにすんだと思ったときの事を思い出す。
失いたくない。
理屈なんてものはなくてただ漠然とそう思った。
「……私もお前のこと愛している」
口に出してみると感情はより明瞭になって胸の奥が熱くなる。
「びっくりするぐらい幸せですね」
そんなこと言われなくても分かる満面の笑顔でクロードは言って立ち上がってフィグネリアを抱きしめた。
「すいません、愛してるだけでいいって言ったけどもうちょっと欲張りになっていいですか?」
そしていったん体を離して彼は至極真面目にそう言った。
「なんだ?」
「唇、今ここでいただいていいですか?」
フィグネリアは答える代わりにほんのり頬を色づかせて瞼を閉じる。
そっと触れ合う感触と同じ柔らかさの幸福を感じた。
***
そしてその夜。
「すいません、なんで距離は変わらないんでしょうか」
フィグネリアがいつも通りの間隔で寝台に潜り込むとまだ半身を起こしているクロードが遠慮がちにそう聞いてきた。
「神聖な祭事の場であの揉め事を起こしてくるような奴らだ。ここに踏み込まれる可能性もある。警戒は怠るな」
「ですね。いろいろ我慢します」
クロードが意気消沈した声で言って背から倒れ込んで寝台が軋む。
「…………別に嫌なわけではないからな」
なんとなく悪いことをした気がしてフィグネリアぼそりとつけたした。
「ああ、そういうのが一番辛いです。可愛すぎる」
「話を変えるぞ。この馬鹿が」
サイドテーブルの燭台の灯は寝台の上まで鮮明に照らしておらず、赤くなった顔を見られないことに安堵しながらフィグネリアは語調をきつくする。
「話変えるって言っても妖精のことはもうあれ仕方ないですよね」
それについてはあの後何度も話し合った。祭事中で神霊より祝福を受けた後なのでクロードが神の楽士である事は気づかれてはいないだろう。
だが不安は濃い。雪雲鳥の渡りにキサガダが降り立ったことにと不吉すぎる。
祭事が終わると妹夫婦の心配でそれどころでなかった兄が遅れてやってきた怒りを爆発させていたのも気にかかる。今まで暗殺のことを隠してきたというのに面倒なことになりそうだ。
「そうだな。だが兄上はどうしたものか……」
「ああ。怒ってましたね。あれは恐かったです」
怒りの矛先が向いているわけではないのに部屋から逃げ出したそうにしていたクロードが重苦しく言う。
「厄介なことが起きないように祈るしかないな」
下手をすれば内乱まで起こしかねないイーゴルのことを考えながらフィグネリアはため息をつく。
「そうですね…………」
クロードがあくびをして、フィグネリアは自分も眠たいことに気づく。
「今日は疲れたな。……お互い助かってよかったな」
時間が経てば経つほど死が指先をかすめた瞬間の恐怖は深まり思い出すと背筋が冷えた。
どちらともなく手を伸べて指先を絡め合い無言でお互いの温度を確かめる。
フィグネリアは引き寄せられるままにクロードの元に身を寄せる。
「今日ぐらいは近くで寝かせてもらっていいですか?」
囁かれる言葉にフィグネリアは首を縦に振っておやすみと言い目を閉じる。
そしてふたりは手を繋いだまま慌ただしい一日を終えた。