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影の王の婚姻  作者: 天海りく
影の王の婚姻(初出2013.2.15/ビーズログ文庫)
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プロローグ~3章

プロローグ

 ディシベリア帝国の大理石で築き上げられた王宮。その敷地の一画にある小宮の小部屋は書棚と机だけで飾り気はない。そこに唯一華やかさを添えているのは、ひとりの女性だった。

 肩口までの髪は白金、机上の書類に向けられる瞳は澄んだ水色。その整った面差しは冴え冴えとしている。

 彼女の名はフィグネリア。華やぎの欠片もない黒い軍服姿ではあるがディシベリア帝国の第一皇女だ。

 フィグネリアはカラスの羽ペンで書類に署名を書き付け、次の書類へと手を伸べる。外の方で大きな足音が聞こえるがいっこうに気に止めない。

 それより気になるのは今月の予算書にある雑費の文字である。

「……額が大きすぎるな」

 つぶやくフィグネリアの表情は険しい。

「フィグネリア!」

 そこへ樫の扉をぶち破らんばかりの勢いで大岩のような男が入ってきて声をとどろかす。短く刈り込んだ髪はフィグネリアより少し濃く、瞳の色は同じで群青の軍服を纏った彼は彼女の十年上の兄で現皇帝のイーゴルだ。

「……兄上、経費に関しては出来るだけ明確に示すように命じて欲しいとお願いしたのですが」

 兄の頭の中に加減という言葉がないことを知っているフィグネリアは書面から顔を上げようともせずに淡々と問う。

「うむ。それは十八になるお前への誕生祝いだ! 今年は今までで一番すごいぞ!」

 庶民が三年は暖炉に火を絶やさず真新しいパンを食べられそうな誕生祝いとはなんだと柳眉を顰めてフィグネリアはようやく顔を上げて兄を見る。

 イーゴルの目は無垢な少年の様に輝いていた。

 去年自分で捕った大熊を担いで持って来た時以上の表情に嫌な予感がした。

「本当は当日まで秘密にしておきたかったのだが準備もあるからな」

 たっぷりと間を持たせてイーゴルが分厚い胸を張る。

「今年のお前への誕生祝いは婿だ! 七日後のの誕生日には挙式だぞ」

 式の費用にしてもいささか多いのではないのだろうか。

 実に満足げな兄を見上げながらフィグネリアはぼんやりとそんなことを思い、しばらく呆けてから椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「私は嫁がないと言ったでしょう!」

「だから婿だぞ。俺もお前に嫁がれると困るしな。嫁に行かせられないというのなら婿を取ればいいとはいい考えだと思わないか。相手はハンライダ公国の第六公子でクロードというお前より一つ年下の者だ」

 ハンライダ、と聞いてフィグネリアは素早く頭の中の大陸図から国名を書き込むのが精一杯な小さな国を見つけ出す。

「……パン《ミエッ》? またなぜそんなところから」

 かつて北のディシベリア帝国と南のロートム王国,は大陸の領土を皿の上の一個のパンを引きちぎるようにして奪い合った。それから百年たって開戦時より大陸の国の数を半数以下に減らして戦争はようやく終結した。そんな中、益も薄く後回しにされて戦火の及ばなかった大陸南西部の小国達はパン《ミエッ》、と呼ばれている。

 さらに五十年経ってその小国達も合併したり併呑されたりして数を減らし、今は八カ国が残っている。

 ハンライダ公国といえば戦乱の前より残り続け、小鳥すらつつかない黴びたパン屑とまで言われる弱小国である。

 どう考えても婚姻を結ぶ有益性はこちらにはまるでない。

「益がないからお前も気兼ねしないだろうと皆が言っていたぞ。会ってみたがなかなかいい奴だった。しかしあちらの人間はやはり小さいな。お前より少しだけしか大きくなかった」

 イーゴルにとって他人の九割は小さくていい奴だ。どうせまた重臣達の口車に乗せられたに違いないとフィグネリアは重いため息をつく。

 そもそもハンライダはロートムに日和って改宗までしている国である。こちらに媚びを売るにしても妙だ。

「……なんだ、気が進まないか」

 兄が目の前でおやつを取り上げられた子供のような顔をしているのでいいえ、とフィグネリアは笑顔を取り繕う。

「謹んでお受けいたします。ただし、式の費用の詳細は提出してください」

 ぱっとイーゴルの表情が明るくなりフィグネリアは仕方ないなと思う。

 これまで自分で潰してきた縁談とは今回のものとはまるで違う。出所を探る前にすでにこの純朴で人のいい兄に話を持ち込んで、相手に引き合わせることまで出来ている。

 ここまで迫ってこられたらひとまず策にかかってみるしかないだろう。

 そう決意を固めてフィグネリアは顔すら知らない男との結婚を決めたのだった。



 大陸北部に位置する大国、ディシベリア帝国。広大な領土に多くの民を抱えるが、それと同時に多くの神も息づく国でもある。

 地母神ギリルアを始め、彼女が産み落としたという多くの神霊や、彼らが従える大地に妖精達の存在を人々はいつも身近に感じている。

 短い夏を終えた今、赤煉瓦で築き上げられた帝都に暮らす人々は、もうすぐ北風を司る神霊クルドと冬を司る神霊スノウェンがやってくると忙しない。

 クルドは風の妖精達を駆けさせて国中を冷やし、そのあとやってくるスノウェンは雪の妖精達を揺り起こして、家も石畳も真っ白に染め上げてしまう。

 そしてふたりの神霊は妖精達を従えて半年は居座り、人々は長く厳しい冬を耐えなければならないからだ。

 ただ今日は皆、冬支度の手を止めて北側の王宮と南側の大神殿の真白いふたつの建物を繋ぐ大通りの沿道に集まっていた。

 そろそろ嫁き遅れに片足を突っ込みかけていた第一皇女がようやく結婚し、その相手は名前も聞いたことのないような国の公子。

 めでたさと物珍しさで帝都に限らず買い出しついでの近隣の村や町の住人までもが集まって、皆、大神殿の方を向いて新婚夫婦が来るのを待っていた。

「結局、報告書は間に合わなかったか」

 式の刻限が近づく中、大神殿の控え室でレースや白鳥の羽で飾られた絹の純白の花嫁衣装を纏うフィグネリアは苦々しくつぶやく。

「フィグお姉様、旦那様のことが知りたくて仕方ないのは分かるけれどそんな顔ではいけませんわ。笑顔でいないと」

 フィグネリアの髪を整えるのは、この日のために嫁ぎ先から帝都へ夫と共に帰ってきた妹のリリアだ。髪と目の色はフィグネリアと同じで、ふんわりと愛らしい面立ちの彼女は十七。すでに三つ子と双子の合わせて五児の母でもある。

「では楽しみに出来るようひとつだけ教えて差し上げますわ。ロジオン大神官長様とは少し趣が違うけれど見劣りがしないぐらい綺麗な方。ねえ、髪の色か、瞳の色、どちらを知りたい?」

「必要ない」

 欲しい情報はそんなことではなく、どんな出自でどんな立ち位置でどこと繋がりがあるかだ。とにかくこの式のための費用が無駄にならない程度の何かが掴めればいいが。

「義姉上、このたびはおめでとうございます」

 フィグネリアがまた自分の思考に没頭する前に部屋に入ってきたのは、どう見ても彼女の弟に見えない屈強な壮年の男だった。両腕にリリアによく似た二つぐらいの幼い女の子三人を抱えた彼はリリアの夫のデニス・バラノフ伯爵だ。

 フィグネリアは彼に挨拶を返し、三つ子の姪達のふにふにとした頬を撫でながら会えるとは思わなかったとつぶやく。

「赤子は無理ですがこの子らだけなら私ひとりでも面倒を見られますので」

 三つ子に髭を引っ張られながら生真面目に答えるこの十六年上の義弟を、どうやって妹が十四で口説き落とせたのかいまだに謎だ。

「あら、お父様のおひげが本当に好きね。お母様と一緒」

 娘と妻に好きなように髭をいじられているデニスの瞳は優しいものに満ちている。なにはともあれ結婚して三年ですでに五人の子を持ち妹夫婦は幸せそうだ。

「準備が出来たかっ! おお!」

 そして次にあいもかわらず全力で扉を開けて突進してきた兄のイーゴルが、満面の笑みを浮かべる。

「あんなに小さかったお前が、こんなになって……」

 言葉を詰まらせるイーゴルが目尻に涙を浮かべていて、まったくこの式を楽しんでいないフィグネリアはそっと視線を遠くに向ける。

「遅れてごめん! ちょっと熊が見つからなくてね。きゃー、フィグ綺麗ねー! リリアもデニスも久しぶり。三つ子ちゃん達も今日も可愛いわね」

 兄妹の微妙な空気を打ち破って最後にやってきたのは皇后、つまりイーゴルの妻のサンドラだ。そばかすの散る顔はイーゴルと同い年にしては幼く、纏っているのも使い込まれた狩り装束でとても大帝国の皇后に見えない。しかしそんな彼女の飾らないところがフィグネリアはとても好きだった。

「……いえ、猪でも十分です。ありがとうございます。しかしいつもながらお見事です、義姉上」

 黒髪が美しい長身のサンドラが背中に担いでいる猪は大物で、さすが兄が惚れ込んだ狩りの腕前の持ち主だけある。

「喜んでもらって嬉しいわ。じゃあこれ城の厨房に持って行くよう頼んであたしも着替えるから。また後でね!」

 さっとイーゴルの頬に口づけて、来た時の勢いのままでサンドラが出て行く。

「俺は本当にいい妻を貰ったな」

 いつまでも新婚のような兄夫婦、一家で幸せな空気を振りまいている妹家族。

 それに触れているときがなによりも幸せを感じる瞬間だった。自分の幸福は家族の幸福と同義だ。それを護るためならば、なんでも出来る。

 例え意に沿わない婚儀だろうと。

 全ての支度が調うとフィグネリアは硬い表情で部屋を出て、波紋の文様の絨毯をたどり礼拝堂へと向かう。扉が開かれ、最奥の地母神ギリルア像が置かれているその前には夫となる男、クロードがいた。

 まず目についたのは真新しい銅のように艶と輝きがある赤い髪だった。顔はリリアの言った通り優美ではあるが女々しさはない。じっと見ていると琥珀色の瞳と視線がぶつかった。

 クロードはフィグネリアの鋭い視線に眉を上げて驚きを見せるものの、すぐに優しい笑みを浮かべる。それはまるで長年寄り添ってきた恋人を迎えるような表情だった。

 隣に並び立ってみると遠目で見たより背丈はあるが、式を見守っている男達より縦にも横にも二回りほど小さい。

 これが向こうの国の平均的な背丈と体格だと分かっていても、全体的な柔らかい印象も相まって顔だけの軟弱者に見えた。

(というか、十七なのか?)

 ひとつ年下と聞いていたが目の前の男の面立ちに少年らしさは微々たるもので、その上纏う雰囲気は落ち着きすぎていて二十半ばぐらいに見える。

「汝らこれより共に大地に根をおろしやがて同じ土へと還る日まで、黄金の果実を育み神霊方へ捧げ続けることを誓いなさい。同時に夫は妻へ妻は夫へとたゆまぬ愛と幸福を捧げると誓いなさい」

 三十前後とみられる硬質な美貌の大神官長、ロジオンがそう厳かに告げる言葉に誓います、とふたりが声を重ねる。

「では、神霊方への誓いの証をここに」

 差し出されふたりの親指にロジオンが短刀で傷を付ける。そして地母神像の前に置かれた杯へ血が落とされた。

「……最後に、夫婦の誓いの証を」

 クロードが差し出されたフィグネリアの手をとり、傷に口づける。

 フィグネリアも同じように彼の傷口に唇を当てた。

「これをもってふたりを夫婦となす」

 全てが終わり、静かだった周囲から歓声があがる。

 そして皇帝であるイーゴルがむせび泣き始めると、周りのやはり厳つい近衛達ももらい泣きし始めた。

「……よろしくお願いします」

 暑苦しい後ろの声に目を丸くした後に微笑みかけてくる夫に、フィグネリアはああ、と小さくうなずいた。

 挙式が終わると市街を馬で周り王宮まで戻ることになった。待ちわびていた民衆が花びらを撒いて祝う中、フィグネリアはクロードの様子が気になった。

 笑顔は絶やさないもののどこか無理をしているように見える。手綱さばきもどうも怪しく、ときどき遅れたかと思うと追い越してしまったりでフィグネリアがどうにか馬の速さをそれに合わせなければならなかった。

 まさかまともに馬に乗ったことがないのではないだろうか。

 ふとそう思ったが、さすがにそれはないだろう。どこの国でも王侯貴族の男ならば目的は様々ではあるが馬には乗れるよう訓練をするはずだ。

 しかしいくらなんでも下手すぎる。

 よろよろとこちらにぶつかってきそうなクロードから距離を取りながら、フィグネリアは民衆の喜びに水を差すわけにもいかないと、顔をしかめるのをこらえる。

 どうにか王宮にたどり着いて馬を止めたときクロードの体が揺らいでぎょっとしたが、なんとか落馬せずに彼はよろよろと地面に降りた。

「……馬は苦手なのか?」

 小声で聞いてみると肩の荷が下りた顔をしているクロードは三月前に初めて乗りました、などと苦笑する。

 普通の少女達ならば、ほのかに覗く年相応の幼さに母性をくすぐられるような表情だったが、フィグネリアは怪訝な顔をするだけだった。

 密偵かはたまた刺客かと警戒していたのにこれでは気が抜ける。

 しかしそれが狙いなのかもしれないとフィグネリアは気持ちを引き締め直した。

 さて場所を王宮に移してからは盛大な晩餐会で賑わうが、慣例通りふたりは一言も喋らずなにも食さず、日が落ちるとようやく同じ杯の火酒を飲んで義姉の捕ってきた猪の肉を口にする。その後、侍女に導かれふたりは別々に湯殿に浸かった。

「姫様、けして手を出されてはいけませんよ。今夜だけはお人形のように大人しくしていてくださいね」

 古参の侍女がフィグネリアの濡れた髪から水気を取ってすきながら真摯に言う。

 さすがに初夜で夫を殴るほど何も知らないわけでもないのに、なぜこんなことを言われるのだろう。

 若い侍女達もなにやら人差し指と中指を唇に当ててお祈りをしている。

 しかし彼女らには悪いと思うが今宵は大人しくするつもりはなかった。

 全ての支度を調えたフィグネリアは体の線にそった薄手の夜着の袖口に針を一本、巧妙に忍ばせた。


***


 足に絡んでまとわりつく夜着の裾を颯爽と裁きながら寝室に乗り込んだフィグネリアはクロードの姿が見えずに眉根を寄せた。

 扉を閉めると部屋の中で風が踊る。そしてベッドにかかる天蓋の紗が揺れてめくれ上がり横になっているクロードの姿が見えた。待ちくたびれたのか、寝ていたようだ。

 本当になんの目的もないのだろうか。それにしても花嫁より先に寝ているなど失礼な奴だ。

 フィグネリアは起こそうとベッドに近づくが、クロードが体を揺らしたのでそのまま足を止めて身構える。

「うん。ありがとう。起きるよ」

 ぶつくさとそう言いながら半身を起こしてあぐらをかき、クロードが小さくあくびをする。

「すいません。勝手に仮眠取らせて貰っちゃいました。……ええっと、改めましてふつつか者ですがよろしくお願いします」

 フィグネリアはそのままの格好で頭を下げる夫を見ながら慎重に近づき、ベッドに腰を下ろした。

「単刀直入に聞くが、ハンライダの目的はなんだ」

「三ヶ月前急に婿に行けって父上に言われて来ただけです。なんか裏はあると思うんですけど俺、この通りです何もわからないって、うわあっ!」

 フィグネリアは小首をかしげて笑うクロードの腕を掴み組み伏せる。

 反射神経は鈍い。とっさの受け身も出来ていないようだし、腕も贅肉はないが筋肉もさしてないようだ。

「……刺客、と言うわけではないな」

 フィグネリアは戸惑うクロードの琥珀色の瞳を覗き込みながらつぶやく。

「だから何も知りませんって。せっかくの初夜なのにこういう話やめません? このまま俺、下でもいいんで」

 残る可能性は密偵か、とクロードの言葉を聞き流しながらフィグネリアは袖口に仕込んであった針を出した。

「…………すいません、俺ちょっとそういう趣味はないんで」

「拷問の趣味は私にもない。ひとまずお前はただの腑抜けのようだな」

 本気で怯えているクロードの様子に呆れながら針を袖口に戻す。

 顔以外になにもとりえのなさそうな男だ。だが、目的が分からない以上は用心に越したことはないだろう。

 そんなことをクロードの上に乗ったままつらつらと考えていたフィグネリアは腰に腕を回されてびくりとする。

 殺気はないが、煩悩ははっきりとわかる手つきだ。

 フィグネリアは無言のままその手を取って手首をねじり上げる。

「いいか、私は口で言ってすむならそれにこしたことはないと思っている。だが、それですまなければこうする」

「分かりました! そ、そろそろ折れますから!…………う、痕、ついてる」

 フィグネリアが手を離すと、クロードが赤くなった自分の手首を見ておののいた。

 貧弱にもほどがあるが、扱いは楽そうだ。

「分かったなら、隣の部屋で寝ろ」

「え、初夜は?」

 この状況でなぜまだ普通に事が進むと思えるのか。

 フィグネリアはこいつの頭の中身はどうなっているのだろうと思いつつ、床入りする気はないと告げる。

 そうするとクロードが目を瞬かせ、おもむろに彼女の薄布に包まれた豊かな胸元から細い腰のくびれに視線を滑らす。

「あんまりだ」

 そしてもう一度胸元に視線を戻してこの世の終わりかのような悲壮な声でつぶやいた。

「ちょっと寒いんで上掛け貰っていっていいですか? あとそろそろどいていただくと嬉しいです。感触とが魅力的すぎて辛いです」

 このまま腹に膝を沈めてやろうかという思いをこらえつつ、フィグネリアはクロードの上から降りる。

「侍女が外に控えているから頼めば上掛けは持ってきてもらえる。明日は私の公務につきあえ」

 必要最低限のことだけ告げると、クロードは大人しくうなずいてとぼとぼと部屋から出て行こうとする。だが、彼はなぜか扉に向かってぼそぼそと話し始めてしまっていた。

「何をしている?」

 明らかにおかしい様子に声をかけると、クロードが振り返り扉が開かないと笑顔を引きつらせる。

 そんな馬鹿なことがあるものかと警戒しながら立ち上がると、背中から強い風が吹きつけてくる。ばさばさと天蓋の帳が揺れ動き、ベッドの上掛けも半ば浮き上がっている。

 燭台の火が大きく膨らんで騒然とする部屋を明るくする。

 振り返った先の窓は開いていなかった。

「何が……」

「お前ら勘弁してくれよ……」

 フィグネリアが呆気にとられていると、戸口で困り果てたクロードの声が聞こえた。視線を向けると、彼はいつの間にか銀の横笛に口をつけていた。

 細く、高い音は狭い場所を彷徨い、音階も大きく変わらずに一定の旋律を作る。

 閉塞感と退屈さを聴き手が覚える頃に急に音が低く落下する。そうかと思うと一気に跳ね上がる。上下に広がった音はさらに世界を広げていく。

 歩いたり、走ったり、飛び跳ねたりしながら、音はやがて果ての見えない場所へと消えていった。

 それと同時に嵐は収まり部屋は薄暗さを取り戻す。

(上手い、どころではないな)

 聴き手の意識を一瞬で引きずり込む演奏に、フィグネリアはすっかり呑まれていた。

「待て!」

 風の名残が肌を撫でて、我に返ったフィグネリアはこの場を逃げだそうとしているクロードに気づく。彼は足もそう速くなく、その首根っこを捕まえるのは簡単だった。

「ここから逃げてどこへ行く気だ」

 部屋に引き戻すとクロードはびくびくとした様子でフィグネリアを見る。

「どこでしょう……」

「いいからそこに座れ」

 手を離して顎でベッドを示すとクロードはちょこんと座った。

「お前、楽士だな。それで、これは妖精か。どうなっている?」

 問うとクロードが灯が映り込んで黄金にも見える目を丸くする。明確な恐怖と、驚愕とで彼は完全に硬直してしまっている。

「だからどうなっている?」

「……どうなってるって、そこまで分かってるなら、俺のこと知ってるんじゃ」

 先ほどまでの軽い口調は真逆な警戒心の強い声で言うクロードに、いまいち話が噛み合っていないとフィグネリアは首を傾げる。

「……私はナルフィス教徒ではないぞ。妖精達は悪しきものではなく、万物に宿る命そのものだ」

 クロードが異教徒であった事を思い出してフィグネリアはそう告げた。

 ロートムの国教であるナルフィス教に宗旨替えしたハンライダでは、世界はひとりの神の掌の上に乗せられているものとなっている。そして妖精達は災厄をもたらすものとされ、こちらで神霊と呼ぶものは妖精達を諫め払う使徒と、妖精達を操り人に害をなす悪魔のふたつに分けられる。

「悪魔の使いとか言われない?」

「そもそもこの国に悪魔はいない。それは全ての神霊方に対する侮辱だ。それで、これはどういうことだ?」

 改めて問いかけると、クロードはそろりと口を開いた。

「なんていうか妖精に気に入られてるんです。母の血筋がそうみたいなんですけどいろいろ教えて貰う前に母が亡くなって俺もよく分からないんですよね」

 クロードはこれが形見です、と首から提げている袋に三つにばらした笛を入れる。

「皇女殿下は何か知ってるんですか? あんまり驚かなかったですけど……」

 むしろ驚きすぎて冷静になれたわけだが、とフィグネリアはクロードの目の前に立つ。

「こちらでは妖精をナルフィス教のように忌み嫌わない。そこに存在するのが当たり前のものだ。ここまではっきり存在感を示すのを見るのは初めてだが……」

 さっきの風は、風を司る四女神のいずれかが気まぐれに駆けさせたり、踊らせているだろう時に吹く風とはまるで違った。どこか子供が駄々をこねているような印象だった。

 こういうこともあるのかと、フィグネリアが今さらにながらに感銘を受けていると、クロードが目を瞬かせる。

「だから、悪魔もいないんですね」

「そもそも向こうは神霊や妖精の存在は信じず、ただ責任をなすりつける先のない都合の悪いものを押しつけたいだけだろう」

「この国では、みんな俺みたいにいつも妖精の気配を感じてるって事ですか?」

「いや、それは神子様だけだ。しかし、我々は確かに神霊方や妖精達の力を借りて多くのものを得ている」

 地母神ギリルアが産み落とした数多の神霊らは大神殿に座する大神子を通じて言葉を発し、時折万物に宿る妖精らを従えて人々に様々なものをもたらす。

 大神子以外は神霊を降ろすことはないが、地方の各神殿の神子達は妖精の動きをある程度は感じ、日々の天気の予測などはできる。他にも神霊が大神子を通じて宝探しでもさせるようにある一帯を示し、神子が妖精の動きを頼りに鉱脈や水脈を見つけることもある。

「すごい、ですね」

 それを訊いてぽかんとしているクロードをフィグネリアは腰に手を当てて見下ろす。

「神霊方や妖精達は音楽を好むから楽士が妖精に気にいられているのは当然だが、さっきも言ったようにこういう事例は見たことがない。もう少し詳しい事は分からないのか?」

「本当に何も分からないです。ずっと昔は妖精を好きなように使えることもできたって母が言ってたんですけど……なんか気まぐれにしか話聞いてくれないし、笛吹かないとさっきみたいに暴れるしでむしろ俺の方が妖精の奴隷みたいです」

 うつむいて落ち込むクロードを見ながらフィグネリアはひとつの伝承に行き当たる。

「神の楽士、か」

 万物に宿る妖精を統べるのは神霊達だ。だがその昔、人間でも妖精を従える神の楽士と呼ばれる一族がいたそうだ。しかしいつの間にかその一族は姿を消してしまいおとぎ話の住人になってしまっている。

「何ですか、それ?」

「万物に宿る妖精を統べるのは神霊達だ。だがその昔、人間でも妖精を従える神の楽士と呼ばれる一族がいたそうだ。あくまで伝承だがな……」

 フィグネリアはクロードのとぼけた顔を見ながらこれが、と思う。

 普通の神官ですら高潔な印象があるのにこの男にはまるでない。だが、さっきの様子を見ると信じるしかない。

「だから、ここに送られたのか?」

 問うとクロードは首を横に振った。

「だって、俺の国だとこんなこと知られたら聖堂の地下牢で幽閉か火炙りですよ。母にも絶対にばらしちゃいけないって言われてました」

「こんなこと起こしたらすぐにばれるだろう」

「俺、六番目だし、こんなだから放っておかれたんでよくひとりで笛を吹いていたんです。だからそこまで派手に暴れられることもなかったんですけど……この国に来てからあんまり笛は吹いてなかったし、それになんかこの国って妖精が多いっていうか、元気っていうかちょっと自分でもびっくりしてます」

 ここまで聞いてフィグネリアはため息をつく。

 ただの密偵でも刺客でもなくこれでは取り扱いに困る。

「今晩はここで寝ろ。しばらくはその力含めて私が監視する。その力のことも口にはするな。忌むべきものではないが、騒ぎになる」

「俺も騒がれるのは嫌なので皇女殿下にくっついてます」

 ベッドに上がって真ん中あたりでクロードがどうぞ、とフィグネリアを促す。

「……そこじゃない。端に行け」

「え、でも遠いですよ。離ればなれじゃないですか」

 ディシベリアの平均的な体格の夫婦のためのベッドは、フィグネリアとクロードのふたりにとっては広い。お互いが端と端で手を伸ばし合っても届かないほどだ。

 クロードが不審な動きをするのを察知しやすく、それに対応する時間も容易にとれてほどよい距離だ。

「私の目の届くところにいれば問題ない。中央からこちらへ来れば容赦はしない」

 両腕を組んでねめつけるとクロードは大人しく端まで行った。それを確認してからフィグネリアはベッドの下から着慣れた夜着を取り出す。

「え、上にそれ、着ちゃうんですか?」

 体の線の出ない大きめの膝丈の上衣を着て、同じくゆったりしたズボンをはいたフィグネリアにクロードががっかりした顔をした。

「普段はこれだ。婚礼用の夜着は寒い」

「そうですよね。見る分にはすごく楽しいですけど……すいません、もう寝ます」

 フィグネリアが冷ややかな眼差しを向けると、クロードは小さくなって上掛けの中に潜り込む。

 ベッドに上がったフィグネリアは自分もようやく横になる。まだ目は閉じずにクロードが眠るのをじっと待つつもりが、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。

 本当になんなのだろうか、この男は。

 フィグネリアはクロードが本当に似ているか確認して蝋燭に火は灯したまま浅い眠りについた。

 

 ***

 

 翌朝、寝室に入ってきた侍女がふたりの距離感にがっかりしながら朝食を運んでくる。

 フィグネリアはその視線に気づかないふりをして、早い、寒いとぐだぐだ言っているクロードをテーブルにつかせる。

 そうしてタマネギのスープを固い黒パンで掬うようにしながら素早く胃に収め、着替えの間だけ隣の部屋へとクロードをやり、軍服に着替えをすませて髪を手櫛で整える。

「あ、おそろいなんですね」

 部屋に戻ってきて相好を崩すクロードは他の兵達に比べると薄っぺらい体格だが、手足が長いのでひとまずは物珍しいお飾りになりそうなぐらいには様になっている。

「……皇族は全員黒だ。お前は婿入りした立場だからな」

「ああ、そういえば見かけた兵士はみんな白い服でしたね。しかしこの国の兵士は軽装ですよね。胸当てぐらいしかない……」

 裏に鎖帷子が縫い付けられてある胸ポケットを心許なさそうにクロードが触れる。

「実戦の時はこれに少し防具が増えるが、うちの兵どもは自分の肉体に自信があるなら防具などいらんという者が多い。それを鑑みても他国に比べれば軽装だな。同じ重量の甲冑を着た相手ならば自在に動かせる自分の筋肉を纏った方が上だから不足はない」

 ディシベリアの男は長身に加え隆々とした筋肉を全身に纏い斧や大剣、棍棒などを振り上げて敵に迫っていく。その外見だけでも圧倒される巨体と腕力を備えた軍団で版図を広げてきたことは他国でも有名だ。

「……だからやたら天井が高くて部屋とか廊下も広いんですね。向こうの部屋のソファーもベッドみたいに大きかったし。そういえば皇女殿下も背が高いし、皇后陛下は俺より背が高かったですよね」

 なるほど、とハンライダの平均身長より少し高めのクロードが視線を下ろして、自分の目線の高さまで背丈があるフィグネリアと視線を合わす。

「この国では私は低い方だ。義姉上は義姉上で高いがな。まさか、お前、教育すらまともに受けてないのか」

 今初めて知った風なクロードの視線を真っ直ぐに受け止めてフィグネリアは問う。

「……受けたけど、寝てるかどこかに隠れてたかですね。あ、読み書きぐらいは出来ます」

 わずかに視線をそらしたのは恥じているのか、何か隠しているのか。

 その判別はつかなかったが、フィグネリアは仕方ないと進路を執務室から書庫へと変更することにした。

「まずは基本からだな。九公は分かるか?」

「…………九人の公爵。公爵、だから偉い人ですよね」

 三つの子供でもまだましな返答をしたのではないのだろうかとフィグネリアは呆れる。

「ディシベリアは十の部族が集まって出来た国だ。我がディシベリア家が武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げた。九公とはその部族長の末裔になる。今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。今、口で全部言っても覚えられないだろうが、まずはアドロフ家の名前だけ覚えておけ。先の皇后の父君がアドロフ家の当主パーヴェル・アドロフ公爵だ。アドロフ家は九公の中核的存在でもある」

「ええっと、要するに皇女殿下のお爺さまってことですよね。あれ、俺挨拶してないと思いますけど式に来てましたっけ? 他の家の人たちも来てたんですか?」

 フィグネリアは口を引き結んで来ていない、と声を固くして言う。

 何とも言いがたい沈黙がふたりの間に降りた。

 顔を覗き込もうとしてきたクロードから逃げるようにしてフィグネリアは歩調を早める。

「祝いの品は届いた。今日の公務はまずその礼状書きだ。文面は私が書くから署名だけでいい。その間に九公とその所領の位置ぐらいは覚えておけ」

 早口にまくしたててフィグネリアは書庫の両開きのドアを押し開ける。そしてそのまま地図と歴史書を引っ張り出して部屋の中央の大きなテーブルに広げる。

「これを読むんですか」

 ぱらぱらとページをめくってクロードがげんなりした顔をした。

「……俺のことは信用してないんですよね。こういうのは知らない方がいいんじゃないですかね」

 そうして一ページ目に目をやり広大な地図を見た後に、彼は愛想のいい笑顔で目の前の課題から逃げようとする。

「まだ信用はしていないが、三食昼寝付きで遊ばさせる気もない。雑用ぐらいはして貰う。あれっぽっちの持参金でタダで食事にありつけると思うな、馬鹿者」

 ぴしゃりといいのけてフィグネリアは礼状のための紙とペンが届けられるのを待つ間、クロードの学習につきあうことにした。

 そして何度目かの驚きと呆れを覚えるのだった。

 クロードはこの国の事はおろか祖国の政情すらよく知らないというのだ。

「いったい何をして暮らしてきたんだ」

「笛を吹いて古い物語を読んだり、ですかね。宮殿から出たこともなかったんでここに来るまでにもいろいろ驚きがありましたよ」

 不自然な笑顔でこともなさげに言うクロードの暮らしぶりは箱入りの令嬢のようで、フィグネリアは困惑する。

 身辺調査の報告がまだ届いていないのでどういう立場だったか見当もつかない。

「だから、あまり期待しないでくださいね。なんにも出来ませんから」

 どこか投げやりな言い方にフィグネリアは苛立った。

「期待はしてない。ただお前に出来ることを探しているだけだ。それとやる前から音を上げるな。不快だ」

 それきりふたりの間に言葉は絶えた。

 その静寂をかすかに動かしたのは紙とペンの他に紅茶を持ってきた侍女だった。その顔に見覚えがなく、かつその指先が普段見慣れている侍女の手より荒れているのに気づいて、フィグネリアは彼女を呼び止めた。

「いつから働いている」

「え、昨日からです。申し訳ありません。洗濯場で働いていて急にこんなお役目をいただいたものでまだ不慣れで。なにか不調法を……」

 おどおどとしている若い侍女の顔色をうかがいながらフィグネリアは紅茶に目をやる。

「……いや、なんでもない。一つ頼みたいことがある。厨房からネズミを貰ってきてくれ。私がネズミを欲しがっていると言えば分かる」

 フィグネリアの研ぎ澄まされた声が穏やかになり、緊張がとれた侍女は目を瞬かせながらうなずいて早足で出て行った。

「ネズミって、なんです?」

 不思議そうに問うてくるクロードが紅茶のカップを手に持っていて、フィグネリアは目を見張る。

「待て! 出されたものを不用意に口にするな」

 間一髪クロードの唇がカップにふれる前に止まる。そのままの姿勢で彼はカップの中の自分と目を合わせた後にフィグネリアを見る。

「……もしかして毒が入ってるかも、とか?」

 冗談めかして笑うクロードはフィグネリアの硬い表情を見て静かにカップを下ろした。

「素性を把握している者以外からの給仕は受けないようにしている」

「そうなんですか。でも、皇女殿下を暗殺して得する人間はいるんですか?」

 フィグネリアはすぐに十数人の顔が思いつく自分が嫌になりながら頬杖をつく。

「皇位の継承権は男女関係なく年齢順で他家に嫁いでいない私にも継承権はある。兄上は結婚して五年になるがまだ子供がいないのでこのままであれば私が次の皇帝だ。それがおもしろくない連中はごまんといる」

「へえ。え、じゃあもしかして……皇帝陛下とかも」

 声を潜めて言うクロードにフィグネリアは鼻を鳴らす。

「兄上は私がいるから無理に側室を持つ必要がないと喜んでいる。兄上ほど優しく権力に執着しない者はいない」

 兄のクロードは心の底から妻のサンドラを愛している。だからいくら世継ぎをと重臣から側室を持つようせっつかれても、妹がいるからいいじゃないかとあっけらかんと答える。

 あの何も考えない楽観主義は尊敬に値する。

「そうなんですか。兄妹仲、いいんですね」

 ぽつりとつぶやくクロードの声は少し重たげだった。

「そちらは悪いのか」

「まあ、あんまりですね」

 歯切れの悪い返事が引っかかったが、フィグネリアは詮索する気は起きなかった。

 統治者の家族など、問題のひとつやふたつはあるものだ。

 それからときどきすいませんと断って分からないところをクロードが聞き、礼状をしたためるフィグネリアが短く答える。

 それからクロードが時々質問してフィグネリアが短く答える以外に会話はなく、沈黙が幅をきかせる中で、不意にカップの紅茶が揺れる。

「じ、地震?」

 椅子から伝わる振動にクロードがおろおろとしてフィグネリアは兄上だと答える。

「おお、やっとみつけたぞ!!」

 扉が開くと同時にイーゴルが声をはりあげた。

「なんでしょうか、兄上」

「クロードを軍の訓練につきあわせてやろうと思ってな!」

「……皇帝陛下直々のお誘いを断るのは大変恐縮ですが、皇女殿下のおそばにいたいので今日は遠慮させていただきます」

 慇懃にクロードが断るとイーゴルががっかりした顔を見せた。

「そうか。そうだな。お互いのことをこれからよく知っていけないといけないからな。しかしそれではいかんな。遠慮なく義兄上あにうえとよんでいいんだぞ」

 自分より背丈が頭ふたつぶん高い大男の期待に満ちた少年のようなまなざしに、クロードがフィグネリアに視線でどうしましょうと問う。

「遠慮はいらんぞ」

 フィグネリアにそう言われおずおずとクロードは義兄上、と呼んだ。

「うん、まだ固いがその調子だ! 鍛えたくなったらいつでもつきあってやるからな!」

「……兄上、その手に持っているものは私が厨房に頼んだものでは?」

 イーゴルに右肩を掴まれたクロードの笑顔が引きつっているのを見て、フィグネリアはさすがに骨が折れたら面倒だと助け船を出す。

「ん、そこで侍女に会ってお前のところに持って行くと聞いたから代わりにな。しかしネズミなどどうするんだ?」

「こちらのネズミは彼の国のものと違うらしいと話すと見たいと言うので……」

 クロードの肩から手を離したイーゴルはそうか、とあっさり納得した。

 兄のこの単純さは愛すべき点ではあるが悩みどころでもある。

 フィグネリアはやれやれと適当に言いつくろい、イーゴルを書庫から追い出してネズミの入った四角い鉄の籠を机に置く。

「……うわあ、ネズミまで大きいんですね」

 掴まれた肩を撫でさすっていたクロードがでっぷりとしたネズミに身を退く。

「そうなのか。まあいい。ちょうど二匹だな」

 フィグネリアはおもむろに自分とクロードのカップの中身をそれぞれのネズミに分け与える。するとほどなくしてネズミたちは体を痙攣させたかと思うと泡を吹いて死んだ。

「俺も殺されるところだったみたいですね……」

 籠の中の動かなくなったネズミを見るクロードの顔は青ざめていた。

 芝居でもなさそうなその顔にフィグネリアは顎に手を当て考える。

 見慣れない侍女をよこしたのは本気で毒殺するつもりはなく、ただの脅しだろう。クロードが死んでも問題ない連中となると、この婚姻を仕組んだ者とは別になる。

(だが、そうなると私を陥れるために、この男を連れて来たわけではなくなるか。……とはいえ、奴ら全部が繋がっているわけでもないだろうから言い切れはしないか)

 フィグネリアは矛盾に首を傾げながらもそう結論づけた。

「このことは義兄上には報告しなくていいんですか? さっきの侍女も調べないと」

「……兄上には言うな。事態が余計にややこしくなる。それにあの侍女を追ったところで行き着く先は死体だ。放っておけばいい。お前は余計なことは考えずに目の前の課題に集中していろ」

 ネズミの入った籠を机の下に置いてフィグネリアが礼状書きに戻り、七枚目を書き終えた頃。

「失礼します」

 そう厳かに告げて部屋に入ってくる者がいた。漆黒の髪と灰色の瞳の生真面目そうな青年が静かに向かってくるのにクロードが身をすくめる。

「九公家のひとつ、ラピナ家の御嫡男であるタラス殿だ。兄上の近衛をされている」

「あ、そうなんですか。義兄上ならさっきここ来て行っちゃいましたよ」

 入れ違いですね、とのほほんと言うクロードにタラスは少々難しい顔をしながらフィグネリアに二枚の書類を渡す。

 中身はクロードの身辺報告書だった。頼んだのは別の人間だったはずだが、彼の手にどのみち渡っていただろう物なので受け取っておく。

「……後で確認しておきます。しかしあまり関わりにならないほうがよろしいかと」

 足下の鉄籠を蹴るとタラスがそこに目を向けて口を引き結んだ。

「あの、俺、邪魔ですか……?」

 ふたりの雰囲気に居場所をなくしていたクロードが片手をおずおずとあげる。

「いえ、これを渡しに来ただけなので。こちらは自分が処分しておきます」

 タラスが屈んで鉄籠を取り、立ち上がって紅茶のカップもふたつ籠の上に乗せる。その時、風がそよいできて机の書類が浮き上がる。

「お、俺が行きます!」

 タラスがついでに窓も閉めてくると言うと、クロードが慌てて立ち上がった。

 彼曰くこういうことをするのはすべての妖精ではなく、好奇心が旺盛で騒ぐのが好きでどこにでも存在できる風の妖精達がほとんどだそうだ。

 妖精側は人間の言葉は分かるが、人間側は声を聞くどころか姿を見ることも出来ずに気配を感じることしか出来ないので、こうするしか自分の意思を示せないという理由もあるらしい。

「これは、素晴らしい才ですね」

 聞こえて来た笛の音にタラスが感嘆し、フィグネリアはこれが特技のようだと答えてざっと調査書を読む。

 あの凡庸としたクロードの周囲は殺伐としていた。

 兄弟仲は悪く病死とされている第一公子と第二公子は相続権を巡り対立して相撃ち。残る公子も疑心の塊でいがみ合っている。

 そしてクロードの母は彼が七つの時に彼の母は階段から転落して、腹の中にいた第二子と共に死去。近くで遊んでいた当時八つの双子の第四公子と第五公子が誤って彼女にぶつかったらしい。

 事故、というのは疑わしい。双子の母は第三公妃でクロードの母は元は第三公妃付きの侍女。クロードと双子の年の差は半年足らず。下種な勘ぐりはおおよそ真実に違いない。

「特にこれといった警戒要素はないですね。笛のことは何もないですが……」

 一番面倒な妖精を使役する、という力に関してもない。初日からばれてしまっている時点でそれを利用するという意図も見えてこない。

「あちらではそれほど楽士が重要視されていないせいかもしれません」

「しかし、それを除くと本当に取り柄のない男ですね」

 とにかく今、手元にあるものから分かるのはクロードが後見もなく捨て駒にしやすいということだけだ。

「早かったですか?」

 戻って来たクロードが出て行くタラスの背を気まずそうに眺めながら笛を分解し、胸ポケットから取り出した袋にしまう。

「いや、大体話は終わった……この中身に問題はないか?」

 少し思案してフィグネリアは調査書をクロードに渡した。そして不思議そうにその資料に目を落とした彼の顔が一瞬強張るのを確認する。

「間違いないです。そこに書いてあること全部です。……地位なし、味方なし、何もしないでいれば相続争いにも巻き込まれないので、妖精の相手しながら遊んで暮らしてたらここに急に婿入りさせられたわけです。そういうことで無害です」

 安心してもらえましたか、とクロードが茶化すように言いながらさりげなく本を閉じようとする。

「……何もない、というのはまだこれからいくらでも詰め込めるということだ。さっさとそれを覚えてしまえ」

 それを片手で留めてフィグネリアが言うと、なぜかきょとんとした顔でクロードが彼女を見ていた。

「無理だとか嫌だとかの文句は聞かんぞ」

 本から手を離すとクロードはもう一度本に目を落とす。彼は膨大な量の文字に怯む素振りを見せながらも、今度は閉じようとしなかった。」


***


「そこじゃない、そっちだ!」

 翌日の朝、フィグネリアは狭い廊下を駆けていた。

 曲がり角が見えるとクロードの背を押してそちらへと行かせる。背後には長剣を持った男が迫ってきていた。

「一番奥まで行って動くな」

「皇女殿下はどうするんですか!?」

「いいからそこで大人しくしていろ!」

 すでに息が上がっているクロードの体力のなさに不安を覚えながら、フィグネリアは強い口調で彼を先へと追い立てる。

 そして男が自分だけを狙っているのを確認して、自分は曲がり角の方には行かずにそのまま真っ直ぐ走る。

 広間に出ると急勾配の階段が見えて、フィグネリアはゆるりと速度を落とした。

 振り返り、男を真っ直ぐ見ながら手すりを掴んでゆっくり昇っていく。追い詰められた獲物のふりをして。

「お覚悟を」

 男が追ってくる。

 二段、三段と上へ登りながら階段の半ばまで来たところでフィグネリアは男が振りかざした刃を避けてその脇をすり抜けようとする。

 男が半身を捻り片足が浮く。

 その瞬間を狙い、膝を蹴って男を落とすと同時にフィグネリアも跳んだ。

 彼女の片手には短刀があり、落ちる衝撃と体重をその小さな刃に乗せる。

 仰向けに倒れた男の腹の上に着地し、その右肩に短刀を根元まで埋めたフィグネリアはすぐにもう一本短刀を抜いて彼の首筋の薄皮一枚を裂く。

「主の名前を言う気はあるか?」

 空いた片手で肩口の短刀をさらに押し込みながら問うと、男は苦痛に顔を歪めながらも固い意思を示した目でフィグネリアを見る。

「だろうな……」

 男の首に短刀を添えたままだったが、フィグネリアはその喉を裂く気はなかった。予測していたとおりに遠くから複数の足音が聞こえて来ていたからだ。

「フィグネリア様!」

 部屋に飛び込んできたのはタラスで、その後ろに何人かの兵士がいるのを確認してフィグネリアは男の上から降りる。

「お怪我はありませんか? 申し訳ありません。侵入に気付くのが遅くなりました」

「この通り無事です。後はお願いします」

 男を兵士らに引き渡し、フィグネリアは一番最後に部屋に入ってきたクロードに目をやる。ひとまず無傷そうな彼は兵士達の間を縫って駆け寄ってきた。

「皇女殿下、よかった、無事だ」

 泣きそうな顔になっているクロードの情けなさにフィグネリアは苦笑する。

「慣れたことだ。お前に心配してもらうようなことはない。まあ、ここまで入り込んでくることは滅多にないから安心しろ」

 クロードがでも、と兵士達の姿を見ながら言いよどむ。

「……近くに、いたのに。すいません、何も出来なくて。妖精にも声はかけたんですけど、なんにもしてくれなくて」

 そして兵士達が立ち去ってから彼はそう言った。

 こんな貧弱で臆病なくせに、なぜ自分よりは強いと分かっている相手に対して何かしようと思うのか。

「自分の身を護れないのは困るが、助けてもらおうとは思ってはいない。妖精とは人の都合に振り回されないのが常だろう」

 もしかしてまだ見くびられているのだろうかと思いつつ、フィグネリアは当初の予定通り執務室に向かう。

「う、でも、俺の取り柄ってそれだけですし」

「今の所はな。妖精に関してはあまり暴れさせないでおいてくれればいい。それより物覚えがよく飲込みが早いという特性を利用できるようにしろ。そちらの方が日常的には役に立つ」

 昨日一日学習に付き合って得た手応えはそれだった。まだ信頼は出来ないが、雑用ぐらいはこなしてもらわなければ式やこれからかかる費用の割に合わない。

「……俺の境遇に同情してくれてたりします?」

 自分に自信がないのか萎んだ声でクロードが言う。

「一日観察しての客観的な評価だ。こっちが執務室になる。ここ以外は隣の応接室ぐらいしか使わない」

 フィグネリアは一つ奥の部屋を指し示した後に戸惑い気味のクロードを執務室に招き入れた。

「ここも、狭いですね。なんでこんな小さな人気のない離れでお仕事してるんですか?」

 クロードが寝室のベッドふたつ分ほどの広さしかない部屋を見渡して訝しげにする。

「離れていて限られた人間しかいないので侵入者が見つけやすく、狭さは体格も得物も大きいあげくに何でも力まかせに突っ込んでくる輩を相手するのに有利だ」

 王宮は最初に建てられた中央宮の裏側から放射線状に柱廊が延び、各所に大小八つの小宮が建てられている。ここはその中でも立地の関係で他の小宮より中央から離れている上に、三代前の小柄だった側室のために建てられたもので何もかもが狭く小さい。

「理由は分かったんですけど、相続争いしてるわけでもなくて継承権があるってだけで毒だとか、刺客が襲ってくるっておかしいですよ」

 フィグネリアは質問に答えるかわりに机に積まれた、閲覧されても問題のない書類をいくつかクロードに見せてみる。

「……財務の書類に、ええっと人事関連? これはそれに対する解説文? 後は不正の報告書とか他にもなんかいろいろ……これ全部、皇女殿下のお仕事なんですか?」

「全部そうだ。解説は兄上が分からないと思った点に印をつけ、それを詳しく説明し補足するためのものだ」

 クロードは書類を見直してから唖然とした顔でフィグネリアを見た。

「ほぼ丸一枚理解不能っていうのもかなりあるんですけど、大丈夫なんですか?」

「大丈夫でないから私がいる。兄上のことはどう思う?」

「いい人、ですね。おおらかなかんじで優しそうだなと思いました」

 即座に答えたクロードにフィグネリアは大きくうなずく。

「そう、人として兄上はこの上なく優良だ。だが君主としてはどうだ」

 クロードは少し考えてそれは、と書類の束を見ながら口ごもる。

「……お前の思っているとおりの事を父上も思った」

 当時十歳になろうとするイーゴルを見て先帝は国の行く末に不安を抱いた。イーゴルは疑うことよりも信じ愛することを尊ぶ子だった。それだけならばまだよかったが、武芸には秀でているものの勉学はからきし、だった。

 つまるところお人好しで頭が悪いと君主としては最悪の取り合わせなわけだ。

 先帝は第二子を望んだが、当時の皇后は嫡男出産以降は子に恵まれなかった。そして迎えた側室はフィグネリアを産んだものの、難産で娘の産声を聞いてすぐに亡くなった。リリアはその後皇后が産んだ子で、幼い頃は余命幾ばくと言われていたほど体が弱かったので先に期待をかけられるのは結局フィグネリアひとりになった。

「じゃあ、本当は皇女殿下が皇帝になるはずだったんですか?」

 出生のいきさつを聞いた後にそう問うクロードにフィグネリアは首を横に振る。

「前皇后殿下は九公家中核のアドロフ家の長女だ。兄上が帝位に就かねば九公家との関係が悪化する。……祖父が増長させてしまったせいで皇帝といえど九公家にそう容易く楯突けない」

 先々帝は九公家を抑えきれなかった。贈賄、横領、暗殺と貴族達は腐敗し民は蔑ろにされ、もはや内から崩れかけていたところで父が彼を玉座から引きずり下ろし帝位についた。

 そしてたまった膿は時間をかけて絞り出され今の安定した国がある。だが九公家の権威は依然強く、一時たりとも気を緩められない状況だ。

 父はイーゴルを次期皇帝として据えることで九公家との関係の均衡を取りつつ、九公中心の内政を変えようとしていた。

「兄上を次期皇帝として据えることで九公家との関係の均衡を取りつつ、九公中心の内政を変えるという、父の政策を引き継ぐ私は九公家にとって殺したいほど邪魔な存在だ」

 あげくに九公家の中心であるアドロフ公が自分を皇帝の子ではないのではと疑っていて、他の残る八公は野放し状態である。三年前に前皇后が亡くなってからはいっそう状況は悪化している。

「それならタラス殿は敵、じゃないんですか?」

「あの方は父上の信奉者だ。だからいまだに近衛をしているのだろうな」

 どの貴族も十歳頃から嫡男を皇都の軍に預け五年ほど従事させるが、タラスは自分の意思で十年軍務についている。子供の頃から年が近いこともあり父の政策についての話をよくしたのでその先帝に対する畏敬の念は本物だろうが、九公家の嫡男である以上過信は出来ない。

「九公家と皇女殿下の敵対関係はわかったんですけど、やっぱり暗殺はやりすぎじゃ……」

 まだ納得いかないというクロードにフィグネリアはもうひとつ、とつけ加える。

「相続争いを避けるために私の母が天涯孤独の身の上で平民出身だったことが今、かえって問題の火種になった」

 祖父の代には九公家の血脈が国中に広がり、縁戚関係を持たない者はどれほど優秀であっても上へと登れなくなってしまっていた。それに関しても先帝は変えようとしたが、彼が逝くのが早すぎた。

 実力が認められ半端に自信をつけた状態で、最大の後ろ盾である先帝に先立たれた下位の者たちはまた九公家に虐げられるのに反発し、先帝の死後に反九公家派として派閥を築き上げた。それはここ数年で肥大化している。

「反九公家派は九公家の血を汲まない私を影の皇帝と呼び持ち上げて新しい後ろ盾にしようとしている」

「……皇女殿下がいなくなると反九公家派は弱体化して、九公家は皇帝陛下を好きなように操って好き放題出来るってことですね」

 やはり、物事の飲み込みはよいようだとフィグネリアはうなずく。

「おかげでこの五年で何度か死にかけた」

 五年前に先帝が没してすぐの頃は、自分は十三だったこともあり死なない程度の毒や脅しですんでいた。しかし一向に政務から手を引かず先帝の政策を推し進めようとする自分と、それに乗りかかろうとしている反九公家派の拡大で、この頃は本気で殺しにかかってきている。

「もっと近くに護衛を置くとか、義兄上と一緒に仕事するとか駄目なんですか?」

「駄目だ。私が反九公家派に寄りかかりすぎたり、兄上の側についていると簒奪を目論んでいると思われかねない。今日、駆けつけてきた者たちも私がいなくなったら困るから自主的に監視をしているにすぎない。それぞれの利害の平衡を保つにはここが一番いい」

 淡々と答えると、クロードがどこか寂しげに目を細めた。

「じゃあ、あの人達も味方って訳じゃないんですね」

「この王宮内で信の置けるのは兄上と義姉上だけだ。だが、このふたりもこの争いに関しては何も知らないので迂闊なことは口にするな」

 兄夫婦が動くと面倒なことになるのはもちろんだが、それ以上にふたりはこのまま私欲にまみれたこの惨状など縁遠いところで幸せそうにしていてほしかった。

 兄だけでなく、両派に挟まれた微妙な立場にある妹夫婦も同じだ。自分がここでわずかにでも均衡を崩すようなことがあれば、妹一家の平穏はなくなってしまう。

 だから自分の言動や行動が、なにより大事にしている家族の幸福を脅かす可能性を持っていることを常に考えていなければならない。

「なんかすごい状況のところにお婿に来ちゃったんですね……」

 感慨深そうに言いながらも、クロードの言い方はどこか他人事のようだった。

「私が消えれば内政の混乱は必須だ。そしてお前は私の最も近くまで送り込まれた立場だ。それをよく踏まえた上で自分の置かれている状況を熟考し、行動するようにしろ」

 声を厳しくすると、クロードはびくりと肩をすくめて沈黙する。

「……俺、皇女殿下の味方になりたいです。そのためには何すればいいんでしょうか」

 なぜそういうことになる。そもそも考えろと言ったのに訊いてくるな。

 言いたいことはいろいろあったが、フィグネリアはクロードの真摯な様子にため息を零すだけにとどめた。

「私の命じたことを忠実にこなせ。意見や文句、要求は言ってかまわない。出来ることはきく。出来ないことの理由はちゃんと説明する」

 クロードは首を縦に振ってからじっとフィグネリアを見る。何なのかと見返すと彼は緊張した面持ちで口を開いた。

「皇女殿下のこと、名前で呼ぶのって駄目ですか?」

 別に異論はなかったので許可するとクロードがはにかむ。

「これからいろいろ教えてくださいね、フィグ」

 それは名前じゃなくて愛称だろうという言葉は、返事のないことにクロードが琥珀の瞳を心許なさそうに揺らすのを見て呑み込んだ。

 結婚式から三日。彼の様相は目新しいものにはしゃいでいるのが半分、こうして迷子のような顔をするのがもう半分だ。

 何も知らないというのは本当だろう。だが、いずれは敵に回るかもしれない。

 家族以外は敵か、自分を利用しようとする者のふたつにひとつでしかない。

「あの、皇女殿下やっぱり嫌ですか……?」

「いや、かまわん。まずは昨日の続きからだ。そこに座れ」

 言われたとおり、クロードが執務机と対面するように置かれた席につく。それから少しして、彼はそろりと机から顔を上げる。

「フィグ」

 名前を呼ばれて、なんだと声を返すとクロードが顔を綻ばせた。

「用がないなら呼ぶな」

 続きが返って来ないのでフィグネリアが自分の仕事に戻ろうとすると、クロードが慌てて地図の見方がよく分からないと呼び止める。

 仕方なく彼の側まで寄って、資料を覗き込む。少し特殊な地図で、初めて目にするなら戸惑うようなものだった。

「……分かったか?」

「はい。あの、夫婦っぽくていいですよね、名前」

 同意を求めてくるクロードに、フィグネリアははたと気付いた。

 この男もまた、家族なのだ。

 自分にとって結婚とは公務の一環で、費用やら相手側の政治的意図やらにばかりに考えがいって新たな家族が増えるということにまるで繋がっていなかった。

 フィグネリアは今になってようやく目の前のよく分からないたいして取り柄のなさそうなこの男が家族でもあることを理解したのだった。

 


 結婚式からひとつき経ち短い夏が終わりを告げる頃。フィグネリアはクロードと共に馬で大神殿へと向かっていた。

 肌を時々掠めて行く風は思わず首をすくめてしまうほど冷たいが、陽射しだけはまだ温かく街を行く人々は外套までは羽織っていない。

 ただ、温暖なハンライダ育ちのクロードには堪えるらしく、今日は外套を出してやらねばならなかった。

「外はちょっと暖かいけど、風が、冷たいですね」

 ちょうど真向かいから風が吹きつけてきてクロードが体を縮こめる。それからまた彼は首を伸ばして、目の前にそびえる白亜の大神殿を見上げる。

 七つの尖塔が礼拝堂と大神子の住まう棟の合わさった中央の建物を取り囲み、塔と塔の間は回廊で結ばれていて王冠のような形になっている。

 クロードは結婚式の時は馬車でここまで送られたのでその全貌を見るのは初めらしく、物珍しそうにさっきから大神殿ばかり眺めている。

 フィグネリアはそんな彼を視界の端に留めつつ、大神殿へと向かう人々の様相を眺めていた。

「王宮とはちょっと違う白ですけど……どうしたんですか?」

 フィグネリアの表情の険しさに気付いたクロードが首を傾げるのに、彼女は馬を止める。

「人が多い。もうここから降りるぞ」

 フィグネリアは大神殿の広場の少し手前で馬を降りる。クロードもひとつき前とは違いよろけることなく地面に足をつけた。

 馬術も教えているが、ずいぶん様になってきたものだとフィグネリアは少し表情を和らげる。

「それにしても本当にたくさん人がいますね。やっぱり神霊様が身近だと違うんですかね」

 近くの簡易の厩に馬を繋ぐいで広場に入り、大神殿が近づくにつれて前が見えづらくなるほど人が増えていく。周囲の人間はフィグネリアの存在に気づいているものの、大きく道を空けようとはしない。もうここは大神殿内と同じだ。俗世の地位は無為のものになる。

 近くに官吏である貴族らしき者も多くいるが誰も気にしていない。

「ここは人々が心と体を癒やす場でもある。悩みがあれば神官様にお話しをきいてもらい、病があれば薬を処方してもらう」

「悩みがあればっていうのは俺の国と一緒ですけど、医者っていないんですか?」

「医術を行うのは神官様のみだ。薬師もいるが、それは神殿で修練を積み資格を得なければならない。そして、全て無償だ。とはいえ、皆それを奉納と名目を代えて納めるがな」

 けして向こうから要求されることはなく、貧しい者も富める者も同じように診てもらえる。

「すごいですね。俺の国とは違うなあ……」

 クロードは間近に迫った大神殿に羨望の眼差しを向けていた。

 しかしここに人が集まりすぎることはよくはない、と官僚の多さに眉を顰めていたフィグネリアは指先に触れるものがあってそちらに意識を向ける。

 ちょうどクロードの指先が触れていたのだ。当たったのではなく、確かに意思をもって伸べられている。

「人が多くてはぐれそうだから……」

 クロードは目を泳がせながら、無言の拒否を示すフィグネリアにしどろもどろに言い訳する。

「目的地はすぐそこだ。はぐれても問題ない」

「寒いし……」

「手袋は明日用意する。今日は我慢しろ」

「……手、繋ぎたいです」

 回りくどい言い回しは諦めたクロードに対してフィグネリアは却下の一言ですませた。

 このひとつき、クロードは命じたことは忠実にこなしている。それも義務をこなしている風ではなく、夢中になって学ぶことを楽しんでいるようだ。

 お前は一体何をしに来たんだと最初は思っていたものの、この頃はそれすら思わなくなってきているぐらいに彼は順応してしまっている。

 しかし、少し油断するとこういう行動に出るから気が抜けない。

「まだ、手を繋ぐのも駄目ですか……」

 そして突き放すと寂しげな目をしてしょげる。

 こういう風に居場所をなくしたような顔をされると、こちらが全面的に悪い気がしてしまって苦手だ。

「言っておくが、遊びに来たわけではないんだぞ」

 フィグネリアが罪悪感に声を和らげて軽く窘めるとクロードは体を強張らせる。

「分かってます。笛の査定って必要なんですか?」

「冬籠もりの祭事の楽士は重要だ。しかし、大神殿に届くほど多くの人間がお前の笛を聴いているはずがないのだがな」

 雪が降る前、その年の最後の狩りをした翌日に恵みを与えてくれた地母神達に感謝を捧げる祭事を行う。そのときの供物のひとつが音楽だ。

 例年は国内の楽士が何人か選ばれたりするのだが、今年はなぜか大神殿からクロードを指名してきた。

 そして今日は大神官長が演奏を一度聴いてから、確定したいということで来たのだ。

「粗相のないようにな」

 大神殿の大扉まで来てフィグネリアはクロードにそう告げて大神殿へと入る。

 正面には、礼拝の手前の結婚式などで使う控え室などがある間へ続く両開きの扉が見え、左右には診療所となっている塔へ向かう回廊への出入り口がある。

 多くの人々がひしめきそれぞれが目的の場所へ向かう中、フィグネリアとクロードはその場で立ち止まる。

 神官を迎えによこすと言われたが、まだ来ていないようだった。

 少し待っていると、右手の回廊側で人がさざめく声が聞こえ、誰もが道を空ける。そして姿を見せた細身の青年は大神官長のロジオンだった。

 漆黒の髪と、花のように柔らかい色合いの紫の瞳とけして目立つ色彩ではないが、白で統一された大神殿内ではよく目立つ。

 なによりその美貌が人目を惹きつける。何ひとつ表情を湛えないその顔はつくりもののようだ。

「お待たせしました」

 そして、ロジオンはフィグネリアとクロードの前で抑揚なく言った。感情の込められていない言葉を無愛想と感じることは不思議とない。紙の上の文字を見る時と同じような感覚である。

「いいえ。お言葉に従い、我が夫、クロードを連れて参りました。……なぜ、彼を楽士にお選びになったのですか?」

 大神官長自ら楽士を迎えるというのは異例の事で、フィグネリアは驚きながら疑問を口にする。

「タラス様からよき楽士だと聞き及びしました。今年は昨年と同じ方にと思いましたが、せっかくなので今年は趣向を変え、神霊様方にお喜びいただけたらと思いまして」

 タラスと聞いてフィグネリアは眉宇を曇らせる。彼のことだからただ何気なく口にしたというわけでもないだろう。クロードを目立たせてどうするつもりなのだろうか。

 悪い影響を及ぼしそうなことは思い浮かばないので、フィグネリアはもやもやとしたものを抱えながらもそれを考えるのは保留にした。

「クロード様、お受けいただけますか?」

 ロジオンに視線を向けられたクロードがたじろぐ。

「……大した物じゃないですけど、お役に立てるなら頑張ります」

 そう言う声もどこかぎこちなく、フィグネリアは訝しげにクロードを見上げる。

 緊張している、というより恐れているといった表情だ。

 なにをそんなに怯える必要があるのかとフィグネリアは不思議がりながら、ロジオンが歩き出してそれについていく。

 三人が向かったのは左手側の回廊だ。床には天井近くの硝子窓に刻まれた幾何学模様が映っていて、光と影で織られた絨毯が敷かれているように見える。帰りたそうな顔をしていたクロードもそれを見て琥珀色の瞳を輝かせた。

「綺麗ですね、これ」

 弾んだ口調にだから遊びに来たわけではと思いながらも、フィグネリアはその無邪気さに口元が緩んでしまっていた。

「クロード様」

 しかし、緩やかに湾曲した廊下の中央でロジオンに呼ばれてクロードはまた表情を硬くする。

「神を降ろす、という行為については訊かれていますか?」

「はい。祭事では大神子様が外に出てきて、楽士は神霊様の声を直接聞けるんですよね」

 声はロジオンに向けながらも、視線はフィグネリアに向けてクロードが確認をとる。

 大神子を通して発せられる神霊の声は大神官長ひとりが聞き、それから彼によって人々に伝えられる。だが、祭事の時のみは楽士と、祭壇まで大神子に随行する皇家の人間や幾人かの兵は直に声を聞くことが出来る。

 なので、楽士や随行の兵に選ばれることを誰もが憧れるものだ。

「他の国から来る方はこれをまやかし、と言いますが、クロード様はお疑いにはなりませんか?」

「そういうことはあってもいいと思っているので、特には……」

「それならば安心しました。我々にとって神霊方とは確固たる規律です。俗世がどれほど移ろおうとけして変わることなく、私達を導いてくださるのです。いずれ、あなたも神霊方のお言葉に触れてその真意を感ずることになるでしょう」

 そう言ってロジオンはまた黙って先へと進む。人通りは多いものの、誰もがロジオンに道を空けて行く。膝を折るようなことはしないが、すれ違うときは誰もが軽く頭を垂れてその姿に感じ入った顔をする。

「すごい」

 廊下を抜けて出ると、クロードが吹き抜けになった天井を見上げてそうつぶやいた。

 円筒状のこの棟は五階層になっている。二階から五階まで歩廊がバルコニーのように張り出し、どこからでも診療所の待合室である一階の広間を見下ろせる。

 この変わった造りの塔に対するクロードの反応はなんとなく予想していたもので、フィグネリアは思わず吹き出しそうになった。とにかく彼は目新しいものに、はしゃがずにはいられない性質のようだ。

「あまりきょろきょろするな。この先もずっと同じ造りですぐに見慣れる」

 しかし楽士として選ばれるからにはもう少し落ち着きを持ってもらわねば困る。

 フィグネリアが小声で注意するとクロードは素直にはい、とうなずく。しかし首は動いていないものの、やはり視線は落ち着きない。

 これぐらいならまだいいかとフィグネリアはそれ以上咎めるようなことはせず、そのままロジオンの後を静かについていく。

 そうしてまた同じような廊下で繋がれた神官達が居住する塔をふたつ通り過ぎ、一回りほど大きな広間に出た。

 ちょうど礼拝堂と神子達が住まう場所の真裏に位置する大神官長の棟である。

 広間の右手側にあるひとりずつしか登れないほど狭い螺旋階段を三人は昇っていく。

 そして一番上の幾何学模様の織物が敷かれているだけの部屋にたどり着くと、ロジオンが部屋の奥に垂れ下がる幾重にも重ねた紗の帳に視線をすっと向けた。

 よく見ればその奥に人影があるのが見える。

「大神子様も一度聴いてみたいと仰せになるのですが、よろしいですか?」

 大神子の願いを断るなどあり得ないことで、フィグネリアはすぐに承諾する。

 それから間もなくに笛を吹くようにと言われ、クロードは周囲を不安そうに眺めた後に立ち上がった。

 半歩前に出たクロードの顔に緊張が見られたのは笛に口をつけるまでの間。

 いざ緩やかに音が流れ出すと彼の表情は驚くほど穏やかだった。

 抑揚も高低もかすかな調べが狭い空間をひたひたと満たししていき、どこまでも静謐な音の水底へと沈められていく感覚に意識という意識が捕らわれる。

 クロードの口元から笛が離れても、夢の名残のように耳奥に音の余韻が残り誰もその場ですぐに言葉を発することが出来なかった。

「今年の祭事は格別なものとなるでしょう。あなたのような才ある方が今、ここにおられることを喜ばしく思います」

 厳かにそう告げるロジオンに近づいてこられたクロードが一歩後退った。

「……気にいっていただけてよかったです」

 絞り出すようにそう言ったクロードの顔は薄暗い中でも分かるほど血の気がなかった。今にも倒れそうなその様子にフィグネリアは申し訳ありません、とロジオンに断りを入れる。

「恐れながら、夫の体調が優れないようなので下へと降りてもよろしいでしょうか?」

「ええ。そのようですね。どうやら無理をさせてしまったようで申し訳ありません」

 許可を得るとクロードが安堵して側に寄ってきて、フィグネリアは一緒に階段を下りる。その間彼はずっと息苦しそうだった。

「大丈夫か?」

 階段を下りきって明るい場所に出ると、クロードはこくりとうなずいた。

「……妖精が、変でした。ここに来てすぐぐらいから大人しかったんですけど、あの部屋に入るとみんな急によそよそしくなって」

 ひとつ息を吐いてクロードがそれに、とつけ加える。

「あの大神官長様、嫌な感じがします」 

 そして次に続けられた言葉のあまりの不躾さにフィグネリアは絶句した。

 産まれてこの十八年、大神官長を否定するような事を口にする人間を見たことがなかった。あまつさえここは大神殿ですぐ側に大神官長がいるのだ。

「ひとつ、言っておくがこの国でロジオン大神官長様はもちろん神殿に関わる全ての方々に対するそのような言葉を軽々しく口にしてはならない」

 重く厳しい声で叱咤するとクロードは目を丸くした。

「そこまで酷いこと言ったつもりじゃないんですけど……。ただちょっと話してて言葉に人間らしい音がなくて変っていうか、恐いっていうか」

 クロードの言い分は分からないでもないとフィグネリアは諭すように話し始める。

「神殿とは、神と人を繋ぐ場で全ての事柄に公平な場だ。ナルフィス教とは違い、政治的な事柄には一切触れず、金品を要求することもなく、ただ心身の健康を与えることしかしない。そして、その神殿を統べる大神官長様は神霊方に対しても公平でならなくてはならない」

 フィグネリアはそこで言葉を一度切って、戸惑うクロードを見つめる。

「神霊方はそれぞれ意見がぶつかることもある。甘言でもって自分の意見を通そうとするお方もいる。そういった様々な意見に耳を貸し、時に宥めるということも大神官長様のお役目だ。だから、ああいった人にも神にも惑わされない無私無欲の方でないと務まらないのだ。特にロジオン大神官長様は歴代の大神官長方より無に近くあれほど若くして大神官長になられた」

 ロジオンが大神官長の任についたのは六年前。若干二十五の大神官長は異例の事だったが誰もがその姿を目にし声を聞いて納得した。

「無私無欲って言われてみればそんな風ですね」

 うなずきながらもクロードは少し納得していないような顔をしていた。

「だからこそ人々は神殿に信頼を寄せ、ありあまる感謝の意を奉納という形に変える」

 理解するのに時間がかかっているクロードにつまり、とフィグネリアは最初へと話題を戻す。

「神殿とは一切の中立的立場であり、我々は安易に疑心を持った言葉を口にしてはいけない」

 こういった信条は自分達にとって当然すぎて、説明する必要があるとは思いいたらなかった。

 フィグネリアは今後気をつけておこうと胸に刻む。

「神殿は絶対不可侵の場、と覚えておきます。おおらかに見えてに結構厳しいな……」

「そう難しく考えることもない。常に敬う気持ちさえ忘れなければそれでいい」

 クロードは分かりました、と慎重にうなずく。その顔色はずいぶんよくなっているようだった。

「まだ、気分は悪いか?」

 窓辺に近い場所に移動しながらフィグネリアは問いかける。

「だいぶよくなりました。でも、なんとなく心許ないので手を繋いでくれたら」

「よし、問題ないな。他にもやることはある。帰るぞ」

 馬鹿を言っていられる元気はあるようだと、クロードに背を向けてからフィグネリアはほっとする。

 それから先に数歩進んでクロードがなかなかついてこないと振り返ると、タラスが反対側から来ているのが見えた。

 フィグネリアは声をかけようとしたが、その前に彼は上へと行ってしまった。

「楽士として認められましたって言ったら喜んでくれましたよ」

 クロードが追いついてきてそう言って、フィグネリアはああ、と曖昧にうなずく。

 ここに来たということはタラスもまたロジオンに呼ばれて来たということだ。楽士としてクロードを推挙したのだからおかしいことはないが。

 何か噛み合わないものを感じてフィグネリアは胸の内のわだかまりを濃くした。


***


 その夜、フィグネリアはタラスがクロードを推挙した理由をつらつらとベッドの上で考えていたが、やはり本人に聞くより他なさそうだという結論しかでなかった。

 楽士に選ばれたことに問題はないだろうが。

 そう考えながらテーブルの方にいるクロードに視線をやって、フィグネリアはつい笑みを零す。

「その辺りで諦めておけ」

 彼は地図を眺めながらうつらつらしていた。昼間出した課題を覚えきれずにまだやっているのだ。

 クロードはしぶとく地図を睨んでいたが、眠気に負けたのか大人しくベッドに上がった。その位置は端は端だが、初夜の時よりわずかに中央に寄っている。

 三日目ぐらいの夜に寝返りを打った拍子に落ちかけたからだ。

 自分も寝返りの軋みで目が覚めるほど気を張っていたので、落ちる前に止められたが危ないので仕方なしにそこに場所を変えさせたのだ。

「なんで、あんな似た地名つけるんでしょう」

 クロードは地図を思い描いているのか、シーツの皺を指でなぞりながらまだ考え込んでいる。

「今日はもう寝ろ。そこはもう少し先で教えるところだったから明日でもいい。……予定より十分進んでいるから、急ぐことはない」

 思っていたよりずっとクロードは勉強熱心でそれ以上に結果も出ているので、睡眠を削ってまで無理をする必要もない。今日は大神殿でいろいろあって疲れているだろうし、なおのことだ。

「でも、フィグが喜んでくれるようにもっと頑張りたいです」

 そう言うクロードにフィグネリアは虚を衝かれた。

 最初に味方になりたいだとか言っていたが、まだそのつもりだったらしい。

 それと同時に、苦い物もこみ上げてくる

 子供の頃から起床から就寝まで、政治、経済、史学とありとあらゆる学問を叩き込まれた。それに加えて合間に息抜き代わりとして馬術と武術の練習と、体と頭に限度を超えるほどのものを詰め込まれながらも耐えられたのは、同じ理由だった。

 頑張れば、父が期待通りだと褒めてくれる。そして兄もたくさん喜んでくれる。

 ただ、クロードは自分と違ってそれを口に出してしまえている。

 自分は言えなかった。

 国のため兄を支える影となるために学ばされているのだ。自分の利益のためにやっているだなんて、そんなこと言えるはずがなかった。

「フィグ?」

 押し黙るフィグネリアにクロードが戸惑いをみせる。

「それで、私が喜ばなかったら学ぶことはやめるか? 本当はこんなことはしたくないのか?」

 このひと月で彼の事は何もかも分かった気になっていたが、何か読み違いをしていたのだろうかと思うと少し不安になった。

 クロードは首を捻りながら唸る。

「やる気は減りますけど、やめはしないかと思います。勉強、楽しいですし。そのかわり他にフィグが喜んでくれること探します」

 楽しんでいるのは本意だったらしいとフィグネリアは安堵する。だが、思っていた以上に諦めが悪い性格でもあるようだ。

「……私が喜んでいるかどうかの判断はどうやってつける」

 そもそもあまりあからさまに褒めたことがない気もすると思って問うてみると、クロードは目を瞬かせてこちらをまじまじと見てくる。

「無自覚なら俺の心に留めておきます」

 そして彼は視線を逸らして答えるのを拒否した。その口元は明らかに緩んでいる。

「いや、教えろ。一体お前は何を基準にしているんだ」

 ベッドの中央ぎりぎりまでフィグネリアはクロードに近づいていく。しかし彼は頑として答えない。

「フィグ、真ん中越しちゃ駄目なんですよ」

「私から越すことに問題はない。言え」

 小狡く逃げようとするクロードにフィグネリアは中央を越えた。

「駄目です。言ったら、俺のささやかな楽しみが減ります!」

 そうは言われても自分が知らない自分というのは気になる。

 フィグネリアが答えるまで退かないと睨むと、クロードはようやく観念したようだった。

「……笑ってくれてるんです。嬉しそうに。うう、それ言っちゃうともう笑ってくれないじゃないですか」

 落ち込むクロードの傍らでフィグネリアは今日までの事を反芻してみる。

 クロードは分からないことには真面目に悩んで、それが出来ると目に見えて表情が明るくなる。そしてフィグ、と名前を呼んできて、出来たことを認めてもらうのをうずうずと待っている姿を見ていると、多少は褒めてやらねばならないとは思ってしまっている。

 だが、喜んだのだろうか自分は。その瞬間のことは自分ではまったく分からない。

「お前にとって私が喜ぶことには価値があるのか?」

「あるっていうか、それが一番、俺がやっててよかったと思うことですね」

 クロードの返答はやはり自分の日頃から思っていること同じだった。

「気にくわない」

 自分と共通点があるなど。それに、体面だとかそういうのを取り繕わず素直の言ってしまうところもだ。

「そこでなんでそういう返しになるんですか?」

 戸惑うクロードにフィグネリアはむっつりとする。

 これはただの僻みのようなもので、理不尽な八つ当たりにすぎない。そんな子供のような態度をとってしまう自分のことが一番不服だった。

「もう少しもっともらしい理由をつけろ」

「でも、それ以外理由なんてないですよ。愛妻のためってもっともらしくないですか?」

 冗談でも何でもなく本気で言っているらしいクロードの眼差しに、フィグネリアは閉口する。

 自分に近づいてくる人間は往々にして何かを企てている。それを探って、隠されたものを暴いて叩きつけるなりなんなりして追い払う、あるいは利用するのが常だ。

 それなのにクロードはすぐに感情は表情に出すし、思ったことは全部口にしてしまっているので自分がするべきことがなくて困る。

「もっともらしくない。もう寝る」

 妥当な返答が思いつかなかった末に、フィグネリアはベッドの端まで逃げる。しかしすぐに眠れるはずはなかった。

 クロードの方は早々に寝息をたてて熟睡している。なんとなく見たその寝顔は起きているときより幾分か幼く、緊張感の欠片もない。

 この光景に馴染んでしまっている自分が嫌だ。警戒心を持たねばならないのに、この頃はクロードの寝返りには朝まで気づかない。

 むしろ、クロードが来る前より安眠出来ている気さえする。

「いや、さすがに気のせいだ」

 フィグネリアは自分自身の思考を否定して灯を消す。

 暗闇の中にある他人の呼吸と気配に五感はまるで過敏にならない。あるのは張り詰めていたものがふっと緩むような感覚だけだった。


***


 その翌日、フィグネリアはタラスに兵舎の方へと呼ばれ、王宮と隣合う兵舎へと訪れていた。

「兄上?」

 タラスの私室に入るとそこにはなぜかイーゴルが座っていた。

「おお、お前達も来たか。タラスが見せたいものがあるそうだ」

 いったい何をと言いかけたとき、タラスが細長い箱を持って隣の寝室から戻ってくる。その中が何か知っているフィグネリアは訝しげにタラスを見る。

「これってもしかして銃とかいうやつですか?」

 厳重に鍵のかけられた箱が開けられクロードが目を瞬かせた。

「そうだ。見たことはないか?」

「絵で見たことはあるんですけど本物は初めてです」

 予想していた答えではあった。銃は隣のロートム王国が開発し始めたものの実用にはあまり適さなかったことと、ディシベリアとの間の戦争も終息したこともありそう普及はしていない。ハンライダの様な小国には実物などありはしないだろう。

「これがか。こんな鉄の筒が本当に弓より強いのか?」

 イーゴルが銃を持ち上げて首をひねる。

 確かにこの国の男達でしか引けない長弓の威力は大きいが、と予想通りの兄の反応にフィグネリアは肩を落とした。

「タラス殿、命中率と暴発の危険性は?」

「それは改善されています。技術的な訓練を受ければ、十発中七発は当てることが可能だそうです。撃ち手への負担は軽減されてさほど力がなくとも撃てます」

「……俺でも? あ、思ったより重い」

 イーゴルが軽々と持つ銃を受け取ったクロードが予想外の重量に腕を下げるのに、フィグネリアは苦笑する。

「兄上とお前では腕力が違いすぎる。それでも弓を引けるようにするよりは簡単だろう。量産の体制は?」

「これはまだ整ってはおりません。命中率を上げるための加工が手間がかかるようで。それと鉄や鉛、硝石の安定的な供給もできていないようです。しかし硝石の生産方法も確立しかけているようで、南方にたびたび使節団を送り鉄の供給にも余念がありません。さらなる効率を求めてこちらの鉱脈の発見方法にも探りを入れているようです」

 突然大規模な鉱脈を見つけるディシベリアに、ロートムが手段を探ろうとしているの今に始まったことではない。

 神霊より授かったと言っても向こうも信じないので探りを入れられるのはいいが、それなしにここまで出来ていることが問題だ。

 フィグネリアはクロードから銃を受け取って重さを確かめながら、眉間には深い皺を刻む。

「あの、すいません全然話の意味が分からないんですけど」

 難しい顔で黙りこくるフィグネリアとタラスの側でクロードが遠慮がちに言う。

「今、ロートムに有能な学者がいるらしくここ十年あまりで急速に銃の性能を高めている。だが鉄や硝石がまだ安定的に入手できる術がなく高価なものだ。だいたい分かるな」

「……つまり、新しい銃をロートム王国はたくさん作ろうとしていて要するに戦争を起こす気かもって事ですか」

 自信なさげなクロードにフィグネリアは当たりだ、と笑みを作りかけて止める。そのせいでどこかぎこちない表情になってしまった。

 今のは嬉しいとは違う。間違っていないと安心させるためだ。だがなぜそんなことを自分が考えたのかはよく分からなかった。

「戦か。しかしそんな武器がいくらあろうとディシベリアの兵が遅れをとるとは思えん」

 フィグネリアが別のことを考える横で、イーゴルが納得できない様子でそう言った。こういう意見は彼だけに留まらない。

 恐ろしいことに鍛え上げられた肉体と気合いがあればどうにかなると、ディシベリアの男の大半が思い込んでいるのが現状である。

「でも、これなら俺みたいなのや、女の人とか子供とかでも戦場で直接義腕力で勝負しなくても、それこそ姿すら見せずに勝てるってことですよ」

 そうイーゴルに語りかけたのはクロードだった。

「クロード様のおっしゃるとおりです。いずれはこちらも持たなくてはならなくなるでしょう。念頭に置いていただけたらと……」

 タラスが控えめにそう告げるとイーゴルはまだ懐疑的に銃を見ていた。

「兄上、鉄など資源、鍛冶の技術の高さ、織物、向こうには持ち得ないものがディシベリアにはまだ多くあります。それらをもっと活用出来るようにしなければ銃だけでなく、様々なものの生産においても知恵と技術をもって効率化していくロートムから遅れをとるでしょう。兵力、財力、共に劣ることとなればディシベリアは確実に衰退していきます」

「前もその話を聞いたが、人の手を使わず木や歯車で出来たものを使って今よりも多くのものを作る、ということなのだろう。だが、やはり俺たちは神霊方に与えられたものは自らの手で感謝を込めて扱わねばならない。それに勝手に多くのものをとることは出来ないだろう」

 ディシベリアの技術の発展の遅れにはこの思考もある。

 この国の人間はどんなことも大抵は神霊方のお恵みですませてしまい、それほど物事を深く考えない。それに神々と近しすぎるがために、広い領土を持ちながらも所有権を半ば神霊に委ねてしまっている。

「ええ。ですが、神霊方もそこまでは無慈悲ではないでしょう。これまでのように畏敬を忘れずに心に持ち続ければいくらかはお譲りいただけるはずです」

 フィグネリアの言葉に、イーゴルはそれは人の奢りが過ぎるのでは、と答えた。

「それに俺にはどうにもやり方を変える必要性がよく分からん……」

 典型的なディシベリアの民である兄にこのことを理解してもらうのはまだ難しいようだ。

 フィグネリアは半ば諦めが見え始めているタラスと視線を合わせて、ため息をひとつこぼす。

 クロードの方は話に追いつけなくなってきたのか、ぽかんとしている。

「なんていうか、神様とも折り合いつけなきゃならないって大変ですね」

 神は形ばかりの物になってしまっている国で過ごしているクロードにとっては、その時点で理解しにくいようだった。

「クロード様、祭事の時には直に神霊方のお声を直接に聞いいていただければ、そのこともご理解いただけると思います」

「おお。そういえば今年の楽士はお前だったな」

 タラスがそう言うのに、イーゴルが食いついた。これ以上ややこしいことを話しても無駄そうなので、クロードには兄と一緒に先に王宮に戻ってもらうことにした。

「フィグはどうするんですか?」

「私はもう少しタラス殿と話すことがある。戻ったら執務室でいつも通り課題をこなして待っているんだぞ」

 自分はともかく、楽士に選ばれたクロードが危害を加えられることはないので、ひとりでも問題はないだろう。

「すぐ、戻って来ますよね」

 クロードが少々不満そう言った。思えば結婚以来、馬で一時間近くの距離をとるのは初めてだった。

「そう長くはかからない」

 一時的とはいえ監視をとく状況になぜ不服なのか理解が出来ない、と思いながらそう告げると、クロードはすぐですよ、と念押しして出て行った。

「クロードの事で少し、お話ししたいことがあります。祭事の楽士にとロジオン大神官長様に勧めて下さったそうですが、なぜですか?」

 それを見送ってからフィグネリアはタラスと向き合い、引っかかりを覚えていたことを問う。

「九公家側がフィグネリア様がロートムと裏で繋がり何かよからぬ企みをしているのではないかと疑っています。この頃身辺に変化はおありでしょう」

「少しは脅しの類いが増えました。しかし、見知らぬ侍女から毒入りの菓子を受け取ってきて、どうしましょうと聞いてくる男を、婚姻を結んでまで私が側に置いておく意味が分かりませんが」

 さすがにクロードは菓子に手をつけていなかったが、受け取った時点で罪をなすりつけられる状況が出来上がってしまっている。

 十七にもなる男に知らない人間からは何も貰ってくるなと、厳重注意せねばならない日が来るとは思わなかった。 

「何か企むにしても、あれだけ抜けた男を婚姻を結んでまで側に置いておく意味が分かりませんが」

 その一件を話した後にそうフィグネリアがまとめるとタラスは目を丸くした。

「今まで害意というものにさらされたことがないのでしょうね」

 クロードの過去を考えればそういうわけでもないだろうとフィグネリアはため息をつく。

 察しはけして悪くないし頭もいいだろうに、変なところでクロードは抜けている。そのあたりがまだまだ心配で外に出るときは目を離せない。

「疑いが残るのは仕方ありませんね。タラス殿はクロードを祭事の重役を任せることで九公家の手を引かせたいのですね」

「はい。万一あの方が密偵だとしても神霊方の声を聞けば信条が変わるのではと思います」

 確かにどっちに転んでも不利なことはほとんどないとフィグネリアはうなずく。

「しかし、クロードを送り込んできたのはやはり九公家ではないということでしょうか。ボーリン伯が噛んでいることまでは掴んでいるのですが……」

 クロード自身はともかくこの結婚までの経緯にあまりにも曖昧すぎる。関わっている貴族も九公家に縁はなくそれ以上深くは探れていない。仮に九公家が関わっているにしてもただの捨て駒を連れてくるのにはまどろっこしすぎる。

「ロートム、という可能性もあるでしょう。フィグネリア様が内政に影響を与えていることは掴んでいるでしょう」

 それも考えないわけでもないが、やはり判断材料が少なすぎる。

「もう少し、調査を進めてみます。それとタラス殿はご実家と揉めると厄介なので一度ここで手を引いていただけないでしょうか。国の先のためにも九公家にはあなたのような人間が必要ですから」

 タラスは九公家の嫡男でありながら血統主義をよくは思っていない反九公家派寄りの思想の持ち主だ。家督を継ぐことはほとんど決まっているとはいえあまり偏りすぎるとそれがなくなってしまう可能性もある。

 そう思う一方でタラスが九公家の人間である以上は、あまり情報を渡したくないということもあった。

「今、国を支えているフィグネリア様の敵を廃さずにして先はあり得ません。陛下では、やはり国の発展には……」

「タラス殿、先を考えるならば、それこそ慎重におなり下さい。それ以前に、解決しなければならないことが多くあります。一昨年より進めている北部の食料対策が来年までに整う見通しがったたくなっています。本来ならば今年の冬には援助を拡大する予定でしたが……他にも多くの問題が足踏み状態です。これらを解決していかねば技術の革新もままなりません。この頃、大神殿に頻繁に通う官吏や兵が増えていることはお気づきでしょ」

 九公家派側と反九公家派の間では些細なことでの足の引っ張り合いで話がまとまらないことが増えて来ている。帝都に限らずあちらこちらで利権の取り合いも頻発して、各地から陳情が多く上がってきているが、おかげで対応が追いつかない。

 両派共に思い通りに事が進まないことに疲労してきている官僚が増え、誰もが心の疲労を取ろうと大神殿に縋る。

 そうするのは官吏に限らない。

 王宮の兵の中にはいずれ国の先を担う貴族の嫡男も多くいて、彼らのようにどちらにつくかで板挟みになっている中立派への負担も大きくなってきた。妹夫婦をどうにか取り込もうとしている輩の対処も、自分が出来るだけ引き受けているが、それでも多少は煩わせている。

 このままでは祖父の代よりことさら国は荒れるだろう。

「だからこそです。今、先帝の意思を正しく引き継いでいるのはフィグネリア様以外にはいません。例え廃嫡となることがあろうと、自分はあなたをお護りすることに命をかける所存です」

 タラスの眼差しに偽りはみられなかった。しかしその揺らぎのなさはどこか危うい。

「私はタラス殿が期待するほどの人間ではありません。国のことも大切な家族のためにしているだけです」

 自分が父の期待に応えありとあらゆる不安を取り除けば、家族の誰ひとりも傷つくことなく笑っていられる。望むものはそれだけだ。

「……私の話はそれだけですので、これで」

 これ以上話すことはないと言外に告げてフィグネリアが静かに腰を浮かすと、タラスも無言で立ち上がりわざわざ膝を折って深く頭を垂れる。

 ここまでされても、あの揺るぎない目を見ても九公家という彼の背後にあるものが警戒心を解かせてはくれない。

 フィグネリアはその後ろめたさにタラスに声をかけることもなく部屋を後にする。

 誰も彼もこの国の現状に疲弊している。それに最初に倒れたのは父かもしれない。国をどうにか立て直した後もやるべき事はあまりに多く、大神殿に通い滋養の薬をもらい政務をこなしていたが、父は四十半ばという若さで没した。

 父が命がけで築き上げてきたもの護らねばならないけれど、自分もまた同じように疲れてきている。

 片付かない内政問題に加え、暗殺と脅し。反九公家派から寄せられる過剰な期待、そこに透けて見える打算。

 顔を合わせる人間全部が自分を利用しようとしているか、殺意を抱いているかのどちらかにしか見えないことも増えて来た。

 それでも家族が幸せそうにしているのを見ると、苦痛は全部、胸にしまっておける。まだ、頑張っていられる。

 そういえば、自分はクロードと向かい合っているとき何を考えているのだろう。

 ふと、フィグネリアは考えてみる。

 家族ではあるが、まだ家族の内にいれがたい人間。

 思い出そうとしてみたが、具体的にはなにも出て来ない。しかし、不快なものでないことだけは確かだった。


***


「ううむ、やはりあのふたりの話は難しいな。お前はそうでもなかったか?」

 王宮に戻る馬上でイーゴルがそう問うてくるのにクロードは苦笑する。

「難しいけど、わりと楽しいですね。あのふたりって昔からあんなかんじなんですか?」

「ああだな。俺にはタラスの難しい話がわからないのでフィグネリアを紹介したら馬が合ったようでな」

 訊けば八歳の時からフィグネリアはあんな調子で十歳のタラスと接していたらしい。

「八歳と十歳……すごいですね」

 想像してみるとあまり可愛くはない子供である。

「そうだ、フィグネリアも子供の頃から頭がよかった。五歳になると俺が三ページで力尽きた歴史書を一冊全部読んだこともあったな。そうだ。七歳の時には俺が解けなかった数式の答をこっそり教えてくれてたりしたぞ」

 さも自分のことのように胸を張るイーゴルにとってフィグネリアは本当に自慢の妹らしかった。

「フィグネリアもそういう子供で俺が相手してやれるのは武術や馬術の訓練だけでタラスが話し相手になってもらえて助かったな」

「……実は、あのふたりが結婚するとかいう話が出てたりしたんですか?」

 クロードはずっと気になっていたことを思い切って訊いてみる。

 刺客に襲われたときの駆けつけてきたタラスの様子は、敬服する先帝の意思を継ぐ娘だからとかそういうかんじではなかった。

 フィグネリアの方もタラスに対して最低限の言葉しかかけていないように見えて、それだけできちんと会話が成立している。

 あの関係は見ていて羨ましく、ふと自分を振り返って落ち込んでしまう。

「それは俺も昔確認をとったが、ふたりにそれはないと断言された。なに、気にするな。フィグネリアもお前のことをすっかり気にいって四六時中一緒にいるというではないか」

 それは監視のためだろうし、今はどう考えても厄介払いされている気がするのだが。

 そこは口に出さずにおかげさまで仲よしです、とクロードは愛想笑いを浮かべてみる。義兄は相変わらず疑うこともせずに喜んでくれた。

 そうして主に幼少期のフィグネリアの話を聞きながら王宮にたどり着くと、ちょうどサンドラに会った。流れでクロードは義兄夫婦と話すことになり、一時間ほど後に執務室に向かう。

 フィグネリアはすぐに追いついて来るだろうかと思いながら、のろのろと小宮まで歩いたが彼女はまだ来なかった。

 そうして自分の席についたはいいもののあまり手を動かす気にはなれなかった。

 お気に入りの史学の本を開いてみてもいまいち頭に文字が入ってこない。

 ふらりと視線を向けた先にはいつもフィグネリアが座っている場所がある。ぼんやりとそこを見ていると風がまとわりついてきた。

「暇じゃない。後で聴かせてやるから静かにしてろよ」

 今は笛を吹く気分にもなれないので要求をはねのけると、不満を示すように風の精達が銅色の髪をかきまぜた。

「フィグがいないとやる気が出ない……」

 クロードはつぶやいて机に突っ伏す。

 頑張ったご褒美のように、厳しいフィグネリアがふっと表情を崩してくれるあの瞬間が好きだった。

 その楽しみがばれた後でも、つい微笑みそうになって戸惑う彼女は可愛くて、なおさら楽しみになってしまっていた。

「あのな、うん、いろいろいい方向に予想外だったわけだよ」

 側にに感じる気配にクロードは語りかける。端から見ればその様子はひとりで見えない誰かと喋っている頭が気の毒な人間である。

「本当に、義兄上に最初会ったときには正直期待してなかったんだけど、いざとなったらすっごい美人だったわけだ。胸大きいし」

 笛の音ほどでもないが声も好きな風の精たちがクロードを取り囲み、それでとせっつくように彼の周りで旋回する。

「だから書類は飛ばすなって。……朝は早いしやらなきゃならいことはいっぱいあるしで全然自由じゃないのになんだろうな。あそこにいたときより自由な気がする。見てて飽きない美人付きだしな」

 思い返すのは、空ばかりが高く周囲の蔦の這う灰色の煉瓦の壁に囲まれた王宮の片隅の塔。そこで朧気な母との思い出と共に閉じこもっていることしか出来なかった。一歩出れば異母兄の双子がにやけた顔で待ち構えているし、外に出たところで何があるわけでもないのでただ怠惰な毎日を過ごしていた。

「意外と俺、いろいろ出来るみたいだし、もうちょっと人生欲張ってみてもいいかな、と思うわけだ。うん。フィグにさ、好きになってもらうってもうちょっとの範囲だよな。この頃は褒めてくれる事もふえたし、ちょっとくしゃみしたらすぐに侍女呼んで上掛けくれたりとか優しいし、ほら、高望みってほどでもないはず、だよな」

 高い天井を見上げながらクロードは椅子にもたれかかる。

 とはいってもどうすればいいだろう。現状は養ってもらっている身の上だ。贈り物一つも出来ないし、そういうものを喜ぶとも思えない。

 つらつらと考えながらうっかり体を傾けすぎて椅子と一緒に倒れかけると、風の精達が支えた。

「ありがと。わかんないなあ。何が欲しいんだろうな。なんか仕事が大変そうだからその手伝いするとか? でも、信頼してもらえないと一番大変なことは手伝わせてくれないよな」

 フィグネリアはいつも緊張状態にある。周りは敵だらけで唯一信頼している家族にそれは言えず、味方についても頼りきることが出来ない。

 愛されているのに、彼女はひとりぼっちなのだ。

 自分はもう事情も何もかも知ってしまっているので、ふたりきりのときぐらいはもうちょっと肩の力を抜いてくれればいいのにと思う。

 もしかするとタラスの側ではもっと無防備な姿を見せているかもしれないが。

「ふたりきりで何話してるんだろうな……でも俺もう結婚してるし心配はしなくても大丈夫だろ。たぶん。後は素直に愛してますって毎日言い続けてたらどうにかなると思うか?」

 あまり遠回しな言い方が通じなさしうなのでそれしかないような気がする。

 尋ねても返事がなくクロードはまた机に突っ伏して長いため息をつく。

「どう頑張ってもタラス殿に勝てる気がしない……。フィグが側にいてくれないと寂しくて死にそう……は怒られるな」

 クロードが研ぎ澄まされた瞳を思い出して苦い笑みを零したとき扉が静かに開かれる。そこには待ち望んだ新妻が部屋には入らずに両腕を組んで立っていた。

「声が大きい。この大馬鹿者が」

 そう淡々と告げるフィグネリアの白磁のような頬は、よくよく見れば朱色に染まっている。

「いつから、いたんですか」

「ひとりしかいないはずの部屋から話し声が聞こえたら怪しまれることぐらい考えろ。だいたいそういうことを大声で話すな」

 たぶんこれはわりと最初のほうから聞かれてたらしい。

 いつまで経っても戸口から移動してこないフィグネリアの様子が妙に初々しい。

「……まったく、自分が監視されているかもしれないことぐらい考えろ。いいか、お前は敵対国寄りの者だ。誰もがお前自身に何か裏があると疑っている」

 フィグネリアがクロードに視線も向けずに自分の席につく。

「そんなのないですよ。えっと、フィグもまだ疑ってますか?」

 クロードはフィグネリアのすぐ目の前まで移動して彼女の瞳を覗き込む。

「今のところは白だ。だが、ほんの少し好意めいたものを受けただけで勘違いするのはやめろ。お前のその力を利用しようと考えて近づいてくる者もいるかもしれない」

 そういうことは考えたことがなかった。この力は異端で排除されるべきものなのだから隠さなくてはという認識でこれまで生きてきたのだ。そもそも利用するとしても妖精達にまともに話を聞いてもらえていない。

「……でも、フィグは違いますよね。全然あてにしたことないですし」

 言われて初めて気づいたらしくフィグネリアは押し黙る。

 彼女をこんな風に言い負かすのは初めてで、クロードはつい好奇心を抑えられなくなる。

「フィグのそういうところ、すごく好きです。……さっき喋ってたことが全部俺の本音ですから」

 真っ直ぐに見つめながら言うとフィグネリアの頬が見る間に色づいていく。その反応は年相応の少女らしく可愛らしい。

「やはりお前は単純すぎる。私は隣で仕事をするから少し頭を冷やして考え直せ」

 先に視線をそらしたのはフィグネリアだった。彼女はさっさと机の上の書類と筆記具をまとめて出て行こうとする。

「それと、タラス殿とは何もない。勝手な妄想で落ち込むな。鬱陶しい」

 扉を開ける前にフィグネリアはそう言って出て行った。

「……これってさ、俺、まだ望みありそうってことかな?」

 同意を求めると風の精達がざわめき笛の入っている胸ポケットに入り込んできて、クロードは窓を開けた。

 

***


 少しだけ開けた窓の隙間から入り込んできて優雅に跳ねていた音が転調し、哀切なものへと変わった。フィグネリアは嫌がらせだろうかと、さして動いていなかった手を完全に止めてしまう。

 そしてペンを置いて顔を両手で覆う。まだ頬が熱い気がする。

「まったく、ひとりで妖精と話すのは禁じておくべきだったな」

 国の行く末や山積する内政問題に頭を悩ませながら戻って来て、執務室から話し声が聞こえたのでひやりとした。

 しかし耳をそばだててみればあれで、膝から力が抜けるほど脱力した。

 頭を悩ませるのが馬鹿馬鹿しくなるほど素直すぎる。あの生い立ちでどうやってああいう風になれるのか不思議で仕方がない。

 そして内容が内容なので喋り終えてから素知らぬふりをして部屋に入ろうと思ったのに、なぜか不貞の疑惑を口に出されて思わず扉を開けてしまった。

 だが、不貞を否定しようとすると思ってもいないことまで口にしそうで、まるきり違う説教をしてしまった。もしかすると最後のあの言い方では否定にならなかったかもしれない。

「……勘違いされたままだと私の名誉に関わるからだ」

 別にクロードに嫌われたくないだとかそういうわけでなく、と考えれば考えれるほど、どつぼにはまっていってまた熱がぶり返してくる。

 フィグネリアは自分の思考を全部振り払うようにソファーに横になる。

 クロードの奏でる笛の音が低い場所からふっと高みへと上昇し、どこまでも昇っていくような余韻を残して終わる。

 仰向けになり高い天井を見上げてフィグネリアは薄青の瞳を細め、ふっと盗み聞いた彼の言葉を思い出して耳が熱くなった。

 愛していると言ってくれたのは兄と妹、それに父と。

 母上、とつぶやいてフィグネリアは瞳を伏せて下唇を噛んだ。

 側室の子である自分の事を前皇后は実の子として確かに大事にしてくれた。愛していると言葉にして伝えてくれた。

――フィグネリアは可愛いわ。娘も同然だもの。でも、思うの。わたくしはあの方が望むような執政者になれる子供の母親になりたかっただけなのかもしれないって。自分が出来なかったことを消すためにあの子を愛しているのかもしれないわ。

 あれは、五つの時だっただろうか。なんのために皇后の部屋を訪ねたのかは覚えていないが、彼女が生家から連れてきた初老の侍女にそう話しているのを聞いてしまった。

 いつも穏やかで柔らかな笑みを湛えているはずの彼女の声は震えていた。

 母が泣いているのを聞いたのはその時と父が死んだときだけだ。三年前に亡くなったときは笑っていた。

 兄や妹に向けているのと同じ笑みに、自分は、彼女の期待を裏切らずにすんだのだと思った。

 そうして自分の居場所はまだここでいいのだと安堵した。

「いかん、こんな事をしている場合ではない」

 視界が滲んでてフィグネリアは起き上がり書類と再び向き合う。

 やらねばならないことは山ほどある。過ぎたことをいつまでも考えていても仕方ない。

 だが、先のことは。

「本当に、余計なことを」

 これといった正答のない問題は嫌なんだとフィグネリアは顔をしかめた。


 ***


 それから数日後の夜、夫婦の寝室では敷布や上掛けが天井高くまで持ちあげられてひらひらと揺れていた。それは子供がマントのように肩にかけて走っている様子に似ている。

 妖精とは子供の様な姿をしているのだろうかと、部屋の隅でフィグネリアはクロードと並んでそんな想像をする。

「毒針なし、毒蛇なし、その他危険物なし、ですね」

「祭事も近いしな。あまり不用意な事も出来ないのだろう」

 クロードが楽士に選ばれてからは、そういったっものは全てフィグネリアの枕の下や、執務机に置かれた書類の間に置かれている。しかし、その二度ぐらいで最近は平穏だ。

「じゃあ、これでゆっくり眠れますねって、こっちじゃない!」

 突然上掛けと巨大な敷布が頭上に振ってきて目の前が真っ暗になる。

「何をやっているんだ。待て、動くな!」

 抜け出そうともがいているうちにクロードとぶつかってフィグネリアがしりもちをつく。そのときクロードの足を引っかけてしまい転んだ彼が体の上に落ちてくる。

「ああ、すいません。これどうにかしないと笛、吹けないぞ」

 クロードがそう言うとふわりとふたりを覆う布の塊が浮くが下に敷き込んでしまっていて完全には浮き上がらない。

 こんなことならクロードの妖精に頼んで調べてみよう、という提案を受け入れるべきではなかった。

「…………今日はこのまま寝ましょうか」

 ごく近い距離で囁きかけてくるせいか吐息が耳の下辺りにかかってきてフィグネリアはうろたえた。

「ふざけるな。まずそこをどけ」

 しかし声だけは平静を保ってクロードの体を押すが、不自然な体勢のせいでうまく力が入らない。

「やっぱりだめですよね」

 しゅんとするクロードがごそごそと布をかき分けて動く。しかしなかなか上手くいかないようでああでもない、こうでもないというつぶやきが聞こえる。

 ふたりで動くと余計に絡まりそうなのでじっとしているフィグネリアは寝転がったまま小さくあくびをかみ殺す。

 ふたり分の体温で暖まった布の中は心地よすぎて瞼も重くなってきた頃、あ、というクロードの声と共に夜気が吹き込んできて目が覚めた。

「うわあ、火、消えちゃってますよ」

 クロードの声を頼りにフィグネリアは布の塊から顔を出す。そうしたところで燭台の火が消えてしまっていて、真っ暗で何も見えなかった。昨日冬に向けて掛け替えたカーテンは分厚く月明かりも届かない。

 蛇の一件から侍女達も近くの部屋に置かないようにしてしまったので、ここから呼びかけるのも無理だろうし、下手にこの暗がりの中で動くのも躊躇われる。

「火の妖精には頼めないのか?」

「いや、消えちゃってるんで無理ですよ。俺に出来るのは近くにいる妖精に何かして貰うことなんでいない妖精を呼ぶことはできないんです。ていうか寒いですね」

 クロードが自分の近くの布をかき寄せるので、仕方なくフィグネリアは彼に寄り添うような形でふたり一緒に寝具にくるまる。

「目が慣れるまでだぞ」

 触れ合った肩から伝わってくる温度に自然と体が強張る。

「俺が最初に好きになったのはフィグの見た目だけど、それよりこういう優しいところが好きなんですよ」

 ふと小さく笑ってクロードがそんなことを言いながら手を重ねてくる。 

 タラスとのことは誤解だと分かったらしく、彼は想いを包み隠そうとはしない。考えてみればこれから夫婦としてやっていくのだから受け入れればいいことだ。

 フィグネリアは逃げようとした手を留めてうつむく。

「フィグ、これが答えでいいですか?」

 手を握られているのに振り解こうとしないフィグネリアの耳元でそっと、クロードが問いかけを重ねる。

 触れられるのは緊張して気分は落ち着かないけれど、嫌な気分にはならなかった。

「……お前のことは嫌いじゃないが、好きかは分からない」

 分かりたくないのかもしれない。

 家族の前でさえ常に自分の言動に気をつけて緊張感を保っているのに、クロードといる時は気が緩んでいることが多い。そんな自分は自分らしくなくて嫌だ。

 そうして誰かに助けて欲しいなんて思ったことはないはずなのに、あの日盗み聞いた彼の言葉に胸を揺るがされている自分が恐い。

 不意に、ひゅるりと高い音をたてて風が舞う。凍みるような冷たい風で、ふたり同時に身をすくめると体がぶつかった。

「すいません……」

 そのはずみでクロードが手を離して、手の甲がやけに冷たく心までひんやりとした。

「いや。妖精達は笛を聞きたいのではないのか?」

「笛はサイドテーブルですし、この暗さじゃ無理ですよ。寒いから大人しくしてろよ、よけいなことするお前らが悪いんだからな……しかし本当に何にも見えませんね」

 フィグネリアと違ってまだ何も見えていないらしいクロードが隣であくびをする。

 そういえば今日の午後は遠駆けに出てその場で軽く護身術を教えたのだが、城に戻って来た時にはクロードはずいぶん疲れている様子だった。体力はついてきているもののまだ無理だったのかもしれない。

「このまま寝るか」

 投げやりな口調で言ってフィグネリアは横になる。え、とクロードが驚きの声を上げるがそれを無視する。

 床は絨毯敷きなのでそう寒くはないから大丈夫だろう。

「すきま風が入ると寒いから隣で寝ていいですか?」

 クロードが問うのにフィグネリアは今日だけだぞ、とつけ加えて目を閉じる。背中のすぐ側に彼がいて、ひとりで眠るよりずいぶん暖かい。

 クロードが眠った後、程なくしてフィグネリアも意識を眠りの淵にすとんと落とした。

 そして気がつけば朝だった。

 いつ眠ったのかも覚えていない自分にフィグネリアは驚いて、目を開いて今度は飛び起きそうになった。

 背中合わせでいたはずなのになぜかクロードの腕を枕にして彼の胸に頭を埋めるような体勢になっていた。

 頭上では穏やかな寝息が聞こえている。

 フィグネリアが怒鳴り声を上げそうになるのを抑えてそろりと起き上がると、クロードが小さく呻いた。

 そして緩やかに彼の瞼が持ち上げられて目が合う。

「……おはようございます」

 舌の回りきっていないぼやけた口調で挨拶をしながら、クロードが琥珀色の瞳を蜜のように蕩けさす。

「いい朝ですね。今日もフィグは綺麗だ」

 そうして腕を伸べてきて、フィグネリアの淡い光の粉がまぶされた髪を撫でる。

 彼の指先が頬に触れその瞬間、心臓が飛び上がった。

「寝ぼけてないで早く起きろ!! この大馬鹿者が!」

 訳の分からない動悸と火を噴きそうな頬の熱さに混乱しながら、フィグネリアは大声を上げる。それでもまだクロードは寝ぼけた様子で半身を起こし、子供の様な仕草で目をこすっている。

 あり得ない。いくら気が緩んでいると言ってもここまで近寄られて気づかないなど、あってっはならないことだ。

 動揺しながらフィグネリアは上掛けと敷布の塊から抜け出し分厚いカーテンを一気に開ける。

(しまった。妖精にカーテンを開けてもらえばよかったのか)

 そして眩い朝日と一緒にそんなことが閃いて、なぜこんな単純な事に気づかなかったのかと額に手をやった。

 どうしてこう人の正常な思考をことごとく奪ってくれるのだ。

 フィグネリアはそう思いながら、クロードが布にくるまってもそもそしてまた横になってしまいそうになっているのをちらりと見る。

「…………眠い。わかってる、わかってるからこれ元に戻しとくんだぞ」

 ようやく起き上がったクロードは妖精にまとわりつかれていた。彼の言葉に従って布の塊がまた浮きあがってベッドへと移動していく。その間に彼はサイドテーブルに置かれた笛を取ってフィグネリアの隣に立った。

 真横にあるクロードの顔にまた鼓動が高鳴る。

「おはようございます。フィグは朝早いですよね。俺どうも苦手で……なんか顔赤いですよ」

 どうやら起き抜けのことはまるで覚えてないらしいクロードにじっと顔を覗き込まれてフィグネリアは視線をそらす。

「気のせいだ。私は身支度をすませるからその間にお前もすませておけ」

 まだ半分ぐらい眠っているらしいクロードが間延びした返事をした後に笛に口をつける。

 そこから流れ出る音は夏の朝の様に涼やかで川のせせらぎにも似たものだった。

(寝ていても笛は吹けるのか)

 呆れ半分で感心しながらフィグネリアは、無意識のうちにクロードが触れた自分の髪を撫でてふるりと頭を振る。

 そして深呼吸をひとつして気を静めたつもりだったが、部屋を出るその動きはどこかぎこちないものだった。

 


 空に雲がかかる日が増える中で二日ぶりに薄水色の空が広がる日に冬の祭事は行われた。

 日が昇ってすぐに神殿から大神子を乗せた五色の紗がかけられた輿が担ぎ出され、この日のために織られた、幾何学模様の織物を背にかけた馬に乗る皇帝と皇后がそれを先導する。輿の後ろには大神子に仕える九才から十四才までの少女達が後ろを付き添い歩く。

 フィグネリアとクロードはその列の最後尾に騎乗してゆっくりと進んでいた。

「はあ、すごいですね」

 ふたつき前と違って馬に慣れたクロードが首を伸ばす。列の周囲は騎乗した屈強な兵士達が壁を築くようにしているのでそうでもしないと見えないのだ。

「あまりきょろきょろするな。ぶつかるぞ」

 前を歩く最年少の少女を見ながらフィグネリアはクロードに注意する。

 十分な距離がありクロードの馬はとても大人しく、なにより彼自身の手綱さばきも上達していて心配はしてはいないが念のためである。

「……脇見は事故の元、ですね。気をつけます。それにしても鈴の音、綺麗ですね」

 輿が通るたびに通りに並ぶ民達が手に持った鈴を鳴らしていく。それはいくら混ざっても音が濁ったり割れたりする事なく調和し美しい音を奏でている。

「ああ。こういう音は妖精が好むのだろう?」

「そういえばなんかすごく楽しそうですね」

 クロードの浮ついた様子は妖精の感情そのものであるようにすら思える。

 本当に不思議な男だ。

 結婚してから今日までは雑事に追われている内ににあっという間に過ぎた。その中で自分でも信じられないほどクロードに気を許してしまってる。

 冷え込んできたこの頃は手を伸ばしたら互いに触れられる距離で眠っている。昨日はもう少し小ぶりのベッドに変えてそのかわり大きめのテーブルを用意しようか、などと考えている自分がいて唖然としてしまった。

 クロードの身辺はまだ不透明で警戒心を抱いていなければならないのに、彼といるとそんなことが全て頭から抜け落ちてしまう。

「フィグ、あれ」

 クロードがふと指さす薄青の空に灰色の鳥が並んでいるのが見えた。

「雪雲鳥だ。数日中に雪が降るな……」

「へえ。いよいよ人生初の雪か。なんだかわくわくしますね」

 境遇は自分よりいろいろとあったようなのになぜこうも生きていて楽しそうなのだろう。

 クロードの横顔をちらりと見てからフィグネリアはもう一度空を見上げ眉をひそめる。

 雪から逃げるようにして南へと渡っていく雪雲鳥の渡りが大神子の渡りと重なるとその冬は荒れるという凶兆となる。

 何も起こらなければいいが、と胸に暗雲を抱えながら浮き足立ったクロードの相手もしていると、じきに王宮の裏手に広がる森にある祭壇へとたどり着いた。

 森の中の広場には石を積んで出来た高い台があり、その周辺に控える数十人の神官が輿を迎える。

 フィグネリア達従者は側に跪いて輿から降りる大神子を待つ。

 少女達が輿の紗をめくり上げ、真白いガウンに身を包んだ女がゆったりとした動作でその場に降り立つ。その腰まである髪も雪のように白い。

「あれ、大神子様も若いし綺麗ですね」

 大神子の白いベールの隙間から覗いた三十前後の透き通るような雰囲気の美しい顔にクロードがなにげなくつぶやく。

「クロード」

 あまりに不躾な態度にフィグネリアは小声ながらもきつい口調でクロードの名を呼んだ。彼はすぐにすいませんと謝って固く口を閉ざした。

 フィグネリアはまったくとこぼれそうになったため息をのみこんで、視線を祭壇へ昇る大神子に戻す。

 ちょうど太陽を真後ろにして立つ大神子の姿にその場にいる者たちが畏敬のまなざしを向けてから頭を垂れる。

 すっと大神子が両手を広げると神官達がひとりずつ木箱を持って祭壇へ上がっていく。

 これからが長い。

 冬籠もりの祭事は北から順に国の各地で行われ、大神殿から派遣された神官が現地の神子と共に祭事を執り行う。そして帰還した神官が一斉にここに集い大神子に各地で捧げられた供物を持ち寄るわけだが、その数五十七人である。

 地理が苦手なクロードには聞きながらあげられる地名がどこにあるか思い出してみろとは言っているが。

(……諦めたな、これは)

 半分ほど終わった頃に覗き見たクロードは退屈そうにあくびをこらえていた。

 そうして太陽が中天にさしかかるころにようやく終わり、フィグネリアは隣の夫が半分だけでもちゃんと目を開けているのを見て安堵する。

 しかし、これからだ。

「さあ、音を捧げなさい。神霊に、妖精に、その心を潤す甘美なる音を」

 大神官長のロジオンの言葉にクロードが息を詰める。眠気も吹き飛んだようでその顔は緊張に強張っていた。

 ゆっくりと立ち上がったクロードが祭壇の前に立ち、大神子に向けて一礼する。

 そうして笛に口をあてた瞬間、彼の纏う空気が変わるのがわかった。

 緩やかに、音がこぼれ出す。

 最初は風が木々を揺らすかすかな音に紛れ込んでいた音が音階を上げながら次第に存在感を増していく。

 軽やかに駆けていく美しい乙女に似た音色。

 それを追いかけていくうちにふと沈黙が訪れる。美しい乙女のその手を取りたいと恋焦がれさせるような余韻を残して。

 そうして高い音が音階と緩急を巧みに変えながら転がりでてきた。

 聴衆の期待と同じように音は膨れあがって弾け、激しい旋律が踊り狂う。

 乙女が嵐の女神に姿を変えて全てを呑み込んでいくようだ。

 息継ぎをしていないのではと思ってしまうほどの勢いで音がその場を駆け巡った。

 ゆっくりと嵐が静まる。

 そうすると嵐の女神はまた乙女に戻り、静かに去って行った。

 クロードが笛から口を離し、最初と同じように一礼して人々はようやく我に返り思わずあげかけた歓声をこらえる。

 最初に言葉を発するのは大神子、いや神霊でなくてはならない。

 これまで吹いていた風が止んで、辺りから音という音が消える。そうして鈴の音がどこからともなく聞こえた。

 神霊が降り立った合図だ。

「ここへおあがり」

 高く甘やかな声が響いて、クロードが大神子を見上げた後に後ろを向いてフィグネリアに視線を送ってくる。

 そのまま従えとフィグネリアが首を縦に振ると彼はゆっくりと祭壇を昇っていく。

 クロードと大神子は何か話しているようだが、フィグネリア達には聞こえない。

「影の娘、そう、名はフィグネリアか。この黄金、気に入った。このアトゥスに献上せよ」

 気まぐれな西風の女神に呼ばれてフィグネリアはきょとんとする。

「はよ返事をせよ。この妾を捕らえられる人の子など久しぶりじゃ。姉様方にも見せびらかしてやるのだ。ほれ是と答えよ」

 そこにいるのは紛れもなく風の四女神のうちのひとり、アトゥスだ。

 彼女がこうして真っ先に降りてくるのは珍しいことだ、と半ば現実逃避のように考えていたフィグネリアは急かされて現実に引き戻される。

「失礼ながら、私とその者は大いなる地母神ギリルア様や他の神霊方に宣誓し婚姻しています。私ひとりの一存では決めかねます」

「つまらん娘よのう。そういうことを訊いておるのではない。この黄金はお前にとってこの妾に譲れぬほど大事かどうかと訊いておるのじゃ。いらぬと言うならすぐさま神界に引き返して母様や兄弟らに許可をもらってくるわ。ほれ、ほれ。はよせぬとこの者を連れて帰るぞ」

 実に楽しげにアトゥスはフィグネリアをせき立てる。

 周囲は息を呑んでふたりの様相を見守っている。

 どうやらおちょくられているらしいと分かってはいるもののどう返答していいかは分からない。

 どうぞと言って本当に持って行かれても困る。何故と言われれば使い物になりそうだとせっかく手をかけているのに、取り上げられるのは腑に落ちない。たとえ女神様であろうとも。

 それに煽るようになにやらクロードの腰に手を回したり、わざわざ耳元に口を寄せて話していたりするのを見ていると胸がむかついてくる。後頭部しか見えない夫は鼻の下を伸ばしているんだろうかと思うとなおさらだ。

「その者は私が磨き上げる黄金です。お譲りするわけにはいきません」

 つい目つきを鋭くして切っ先を向けるように言葉を発してしまい、我に返ったフィグネリアが自分の言動に蒼白になると同時に高らかな笑い声が響いた。

「安心せい、このクロードには先に自分の女神はそなたひとりと先に断られたわ。しかしそなたからはまるで相手にされないと嘆くのでそれが真実ならば無理にでも攫ってしまおうと思うたが……のう」

 フィグネリアはもはや耳まで赤くするより他なかった。

「よい、よい。なかなかに可愛らしい顔も出来るではないか。よし、アンハルム姉様にもそなたらが永久とこしえに睦まじくあるよう祝福を贈ること頼んでやろう。実に楽しいものを見せてもらった。春には妾からも恵みの風を送ろうぞ!」

 アトゥスが高らかに宣言するとそれまで押さえていたものを一気に放出するかのような歓声が巻き起こる。

 その熱気の中で別の意味の熱さで汗をかくフィグネリアは、いますぐここを離れたくて仕方なかった。

 しかしながら次に現れた愛の女神アンハルムに呼ばれ、ことさら目立つ羽目になってしまう。

 祭壇に昇ってようやく顔が見れたクロードの緩んだ顔と熱の籠もった視線に言葉は一切奪われてしまっていた。

「あなたがたの愛が永遠に続くように」

 アンハルムがフィグネリアとクロードの手を取って重ね合わせた。

「さあ、愛の印を唇に」

 さらりと続けられたアンハルムの言葉にうつむき加減でいたフィグネリアは思わず顔を上げる。

 そうするとクロードの琥珀色の瞳が真正面にあって凍り付いてしまった。

 逃げ場などあるはずもなく覚悟を決めてぎゅっと目を閉じる。

 そうすると頬にクロードのかすかな吐息がかかって、次に額に口づけられた。

「唇は、いずれ」

 そして赤く色づいた耳朶にそっとそんな言葉を残して彼が離れる。

 アンハルムが両手を合わせて、あらあらかわいらしいわと少女のようにはしゃぐ横でフィグネリアはむくれていた。

 せっかく人が覚悟を決めてやったのに。

 そんな自分自身の思考にフィグネリアは大いに動揺し、心の内であれこれと自己弁護しているうちに次々と神霊達が降りてきてふたりとディシベリアに祝福を約束していった。

「……そなたの笛はこの上ない美酒だ。だが過ぎたる酒は妖精達を狂わせ人も狂わせる。風の妹達には妖精達をおさえるよう進言しておくが、そなた自身も気をつけるがよい。その妻であるお前はこの者が心愚かな者に利用されぬよう気をつけておけ」

 最後に降りてきた地母神ギリルアの二番目の子である闘争の男神、キサガダがふたりに密やかにそう告げた。

 闘争の神が降り立ったこととその言葉に、速やかに思考を転換させたフィグネリアの脳裏に雪雲鳥が空を渡る姿が閃く。

 キサガダが降りてくる時にはふたつの意味がある。

 戦の最中であれば勝利をもたらす吉兆。それ以外の時は争乱の幕開け、だ。

「そう恐い顔をするな影の娘。火種はまだ小さい。己をよく知ればそれは治められるであろう。……困難は多くあろう。だが、春には恵みを我が妹が約束した。人の世とは常に戦の場。お前達ならば必ずや打ち勝てるだろう」

 フィグネリアに語りかけた後、キサガダが祭壇の下へと声を張り上げるとイーゴルが前に進み出る。

「お言葉。感謝いたします!! 我ら大陸随一の闘争心で必ずや勝利しましょう!」

 腰の太刀を抜いて高く掲げた皇帝の宣言に兵士らが雄叫びをあげた。

 地が割れんばかりの咆哮にキサガダはよき闘争心だと満足げに言って神界へと戻っていった。それと同時に大神子がその場に崩れ落ちる。

「だ、大丈夫ですか!?」

 屈んで抱き起こそうとするクロードをフィグネリアは制する。

「毎年こうだから心配はいらない。後は神子様達がやる」

 ほら、とフィグネリアは顎で静々と昇ってく少女達を示し入れ違いに降りていく。

 その間もキサガダの言葉が気にかかって頭を離れなかったが、不意にクロードに手をとられて思考が止まった。

 顔を上げるとクロードは調子に乗りすぎてしまったかと思っているのがありありと分かる気まずそうな顔をしていた。

 フィグネリアは無言でその手を握り返す。

 その時はもう正面を向いていたが温度の上がる掌から伝わってくるものから、夫が喜んでいるのを感じた。

 こうして触れるだけで分かるものがあるというのは悪くはないとフィグネリアは思った。


***


 祭事で神霊達が降り立ち帰った後、祭壇から軍の広大な練兵場に場所は移った。

 敷地の半分には屋台が建ち並び、売り子のかけ声や民衆の楽しげなさざめきでごったがえしている。フィグネリア達の向かうのは柵で区切られたもう半分の高い櫓が三つ建てられている場所だ。中央奥の櫓にロジオンと大神子と神子達、その手前の右の櫓に皇帝夫妻、左にフィグネリアとクロードが登る。

 そうすると神が何を語ったか聞こうと民衆が柵まで集まってきた。

 今年は皇女が迎えたばかりの夫を巡り神霊に対峙し見事に死守したというところで民衆は口々に祝福をのべ、キサガダが降りてきたことに少し動揺するがたいしたことではないと分かるとすぐにすぐに賑やかさを取り戻す。

「お前の力については詳しく聞きそびれたが、キサガダ様の言葉がやはり気にかかるな」

 食事が運ばれてきてフィグネリアはまず火酒の入った杯に口をつける。

「よくわかんないですけど、俺の力のことは秘密にしておけば大丈夫じゃないですか。あとはフィグにかまってもらえたらいいな、と」

 地方から戻ってきた神官がもう一度同じ場所へ戻り、今日のことを報告する事を思いだしてフィグネリアは神霊方も戯れがすぎるとため息をつく。

「いいじゃないですか。夫婦円満が国中に伝わっておめでたいですよ」

 ため息の理由を聞いたクロードは満面の笑顔だった。

「……めでたい話題はなければならないが。……なにかあったか?」

 櫓へ登るための階段を踏む音にフィグネリアが持っていた酒杯を置き、乾し肉を切るためのナイフを手に持つ。

 ゆっくりと姿を現わしたのは白い軍服姿で片手に巨大な斧を持った大柄な中年の男だった。

「……クロード、あれが退いたら下に向かって走れ」

 焦点が合わず異様にぎらついていた目にフィグネリアはそう言ってナイフを投げつける。

 至近距離なので避けられながらも切っ先は肩口に命中していたが、筋肉に阻まれてそう深くは刺さらずにすぐに抜け落ちてしまう。

「……防具いらずってこういことか」

 血が滲む程度の負傷ですんでいる様子ににクロードが呆気にとられている内に男が踏み出してくる。その狙いは攻撃を仕掛けたフィグネリアだ。

「先に下に行け!」

 男が斧を振り下ろしてフィグネリアが階段とは反対側へと避ける。それと同時に櫓が大きく傾いだ。

「置いていけません!」

「いいから逃げろ!」

 雑に振り回される斧の位置は高い。

 フィグネリアは軽く身を屈め、頭上を斧が通り過ぎたら一歩後退する。

 短刀を抜いたものの斬るか斬らないかで迷ってしまう。明らかに薬物でおかしくなっている様子と、一切の狩りが禁じられるこの祭事の日は人を傷つけることも同じく禁じられていることもあってうかつに息の根を止めることも出来ない。

 だが、このままではやられる。

 端まで誘い込んだフィグネリアは男の懐に潜り込もうとするが先に上から攻撃が来る。

 横に跳ぶと床板が割れた振動で着地のときに体勢を崩した。

 そのときちらりと階段側にクロードの姿が見えてまったく、とフィグネリアは呆れる。

 恐がりのくせに妙なところで意地を張る男だ。

 体勢をすでに整えたフィグネリアは次のなぎ払いが来る前に、膝が床につきそうなほど身を屈めて短刀で男の膝の下を真横に斬る。

 その刃は白い軍服の膝下を赤く染めた。

 足場がもっと安定しているなら後ろに回って腱を斬りたいところだったが致し方ない。

 動きを鈍らせる男と距離を取ってフィグネリアは右手側に見える階段を見る。

 あそこまでは十数歩。走ればすぐに距離をとれるが階段で斧を振り回されるとまずい。

「確実に動きを止めるしかないか……」

 つぶやいている内に振り下ろしが来る。避けるとまた床に穴が開いて梁に亀裂が入る。

 弱った床の上に誘い出して落とすにしてもあの巨体に踏み抜かれて櫓が持つかどうか。

 考えていると距離を詰めてくる男が斧を振り上げてフィグネリアはまた後退する。

 それとは逆に真っ直ぐに男に向かって行く物があった。

 その瞬間を狙い澄ましたかのように男が高々と上げた腕を矢が貫く。

 飛んできた方向を見ると、かろうじて表情が確認できる距離にある櫓でサンドラが長弓を構えていていた。

「義姉上! なりません!」

 禁忌を破るのは自分だけでいいと叫ぶフィグネリアの声すら裂くように、彼女のすぐ横を矢が通る。

 それは男の腿を貫き、さらにもう一本が残る片方の腿も射貫いて彼を跪かせた。

 フィグネリアは下唇を噛んで階段へと駈ける。

 だが矢を引き抜き男が立てないまま無事な方の腕で落ちた斧を握って振り回す。それはいい加減脆くなっていた梁を打ち砕いた。

 櫓が大きく揺らいで足下に雷光が走るようにひび割れが来る。跳ぼうとするがそれより早く床が崩れて体が傾ぐ。

「フィグ!」

 あとわずかで届かない距離で手を伸ばしていたクロードが前に踏み出す。

 何をしているのだろうか、この馬鹿は。

 フィグネリアは目を見張ってクロードの顔を見つめたまま身動き一つ出来なかった。我に返って突き放そうとするより先に体を抱き寄せられる。

 しかし、もうすでに落ちかかっている状態を彼が支えるのは無理だった――。


***


 揺れる櫓の上でどうにか立ったままクロードはフィグネリアを手を伸ばすが、襲撃者が落ちてその衝撃で櫓が大きく揺れ動く。

 非力な腕でどうにか出来るはずもないと考える間もなく、クロードは前に出て落ちかけているフィグネリアを夢中で抱き寄せた。

 いつだって嫌な事には耳を塞いで目を背け、楽しいことだけに集中して、最初から何も期待は持たないでいたのに。

 今は、逃げられない。諦めることも出来ない。

 クロードは足に力を込め、どうにか体重を自分の側へとかけようとするがかなわない。

 腕の中にあるフィグネリアがどうしようもなく愛おしい。

 出会ってからずっと彼女のことは好きだったけれど、今になって自分で思っていた以上に好きなのだと気づいた。

 ふと見せてくれる笑顔も、何気ない優しさも、強いところも厳しいところも全部好きで、でもきっとそれがまだ彼女の全部じゃない。

 まだ自分が知らないフィグネリアのことも好きになりたいし、愛したい。

 そのためにもこのままで終わりたくはない。

 絶対に、なくしたりなんかしたくない。

 クロードの瞳が淡い光を帯びて、祭事の時の笛で満足しきって動かなかった周りの妖精達がざわめく。

 手に取るように彼らがなすべきことを命じられるのを待っているのが分かる。

「お前ら、受け止めろ!!」

 落ちる瞬間にクロードは言葉を叩きつける。

 それと同時に一気に周りの妖精達が結束し、気配を濃密にしていく。

 どこか一体化してしまいそうなほどのその存在感の強さに恐怖も焦燥も消え失せた。

 そして落下が緩やかになる。

 大きな手に受け止められてゆっくりと降ろされる感覚がして、気がつけば足はちゃんと地面についていた。

 クロードは妖精達が離れていく気配を呆然と目で追う。もはや先ほどまでの一体感はなく、彼らは気まぐれにあたりに漂っている。

 いつもと違ったことに多少の不安は覚えたが、それより腕の中のフィグネリアが気になって、クロードは彼女に視線を落とす。

「……どうにか助かりましたね」

 しばらくそのままでいたかったが、顔もちゃんと確認したかったので体を離す。無言でうなずくフィグネリアの表情はあまり明るくなく、どこか痛むのだろうかと心配になる。

「大丈夫ですか? どこか捻ったり打ったりとか……」

「いや、そういうこともない……」

 それなら恐かったのだろうかとクロードはフィグネリアをまた抱き寄せる。まるで拒んでくることもなく、むしろ体重を預けてくるのでますます不安に思う。

「フィグネリア! クロード!」

 怒鳴られるまでこうしていようかと思っていると、狼狽したイーゴルの声が聞こえてフィグネリアが我に返ったように離れた。

「無事か!? ふたりとも怪我はないな。神霊様の奇蹟に感謝せねばならんな」

 目を潤ませてイーゴルがフィグネリアとクロードをふたりまとめて抱きしめる。

「義兄上、俺たちは無事ですので」

 力が強すぎて息が詰まりそうで身を捩ると緩やかに解放されたが、その代わりにぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

「フィグネリア様、ご無事でなりよりです。皇帝陛下、ここは私がいますのでロジオン大神官長様と大神子様にこの騒ぎについてのご報告を」

 後にタラスが他の兵とやってきて、イーゴルがもう一度だけ妹夫婦の頭を撫でて大股で大神子の櫓へと向かった。サンドラは禁忌を破ったことを詫びるため先にそちらに行っているらしい。

「義姉上にも迷惑をかけてしまったな」

 ぽつりとフィグネリアがつぶやいてまた表情を暗くした。

「すぐに救援に向かおうと思ったのですが、登るわけにもいかず皇后陛下のお手を穢すことになり申し訳ありません」

「いえ、選択肢が他になかったことは承知しています。それよりこの男は?」

 フィグネリアがクロードが出来るだけ視界に入れようとしなかった襲撃者を見る。首の曲がり方からして生きてはいないだろう。

「素性は分かりません。すぐに調べさせます。……フィグネリア様、衛兵を常時おつけください。向こうはなりふりかまわなくなっています」

 真摯に訴えかけてくるタラスの瞳から目をそらしてフィグネリアが白い軍服を着て死んでいる襲撃者を見る。

「信頼できる者がいれば、そうはしますが……」

 クロードはフィグネリアの様子を見ながら一歩前に出る。

「あの、俺が頑張ります。フィグは俺がちゃんと護ります」

 自分で言いながら説得力のないと思ったもののタラスはそれで納得したようだった。

「……あなたは神霊方より加護を受けられているようでしたが、あれ普段からですか?」

 自分たちが助かったのをタラスがいた位置からでも見えたということは他の大勢の民衆にも見られたかもしれない。そう思い柵の向こうを見ると人集りが出来ていて食い入るように自分たちを見ていた。

 まずいことになったと思いながらもクロードは表面上だけ冷静な顔を必死に取り繕っていいわけを探す。しかしそれより先にフィグネリアが口を開いた。

「あれに関しては私もクロードもよく分かっておりません。今日は祭事です。いずれかの神霊様の御慈悲かもしれません。護衛に関してはまたいずれ。それまでは自衛に努めます」

「……そうですか。クロード様、フィグネリア様はディシベリアの礎となるお方です。それをしかと覚えておいてください」

 タラスの言いたいことはよく分かるが、なんとなく面白くない言い方だった。

「それ以前に俺にとって大事な人なので、気を抜くなんて事はしませんので、失礼します」

 そしてクロードはいつもより大人しいフィグネリアと共に大神子の元へと向かう。

「フィグ! 怪我ないわね、本当にないわね。ああ、よかった。クロードもありがとう」

 その途中でサンドラが駆けてきてフィグネリアを抱きしめて、次にクロードにも同じようにした。

 よく似た夫婦だと微笑ましく思いながらなんとなしに隣のフィグネリアを見ると彼女はいっそう沈んでいた。

「お手を穢させて申し訳ありません。助かりました」

「ごめんない、は大神子様にだけでいいの。あたしにはありがとうだけで十分。もうちょっとゆっくり話したいけど後ね」

 どこから湧いて出てきたのか神官達がぞろぞろと迎え出てきてふたりは大神子の櫓の下へと連れて行かれた。

 そこにはあの騒動の中ですら表情を微動だにさせていなかったロジオンがいて、皆一斉に跪きクロードとフィグネリアも同じようにする。

「大神子様が無事で何よりということです。古の神の楽士のごとき笛の音に妖精達も惹かれお守り下さったのでしょう」

 労る言葉を無感情に言うロジオンをやはりこの人は嫌だとクロードは思う。

 まったく胸に響いてこない言葉は胡散臭いとしか感じない。なによりあの目だけに穴が開けられた仮面越しに見られているような気持ち悪さがある視線が嫌だ。

 全てに無関心なふりをしてあの目だけは見える物全てを捕らえようとしている。

「兵舎の方でちょっと休みません? 静かなところに行きたいんですけど」

 ようやく話が終わってロジオンが大神子の元に戻るとクロードは胸ポケットを軽く叩いてフィグネリアにそう言う。

 本当は大神官長や大神子に報告するよりも先に妖精に礼をしておきたかったのだ。

 それに、どうにも様子がおかしいフィグネリアを人気のないところで休ませてあげたかった。


***


 フィグネリアは軍舎の一室で、小春日和の木漏れ日のようにどこまでも柔らかい笛の音に全身を浸しながら深く椅子にもたれかかる。

「大丈夫ですか?」

 演奏を終えたクロードが窓辺から側に寄ってきて青白いフィグネリアの顔を覗きこむ。

「……すまなかった、おかげで助かった」

 まさか祭事の場で騒動を起こすとは予想もせずに気が緩みすぎていた。

 もっと周囲に気を配って警戒していればあの男が上まで来るまでに気づけていたはずだった。そうすればサンドラに禁忌を破らせることもなかった。

 そうして、クロードも同じように危ない目に合わせた。

 何をするにしても自分の力量を正しく図り、周囲に視線を巡らせて常に正しい選択をしていかないといけないのに、それが出来なかった。

「謝るのは駄目だってさっきも義姉上に言われましたよね。俺も義姉上も愛してるなら当たり前のことをしただけで、迷惑かけられたとかちっとも思ってないんですから」

 愛しているなら、当然のこと。

 それは頭では理解できるし、心でも分かる。

 だがどうしたって自分に限ってはそれを受け止められない。

「だいたい俺なんてなんにも出来なくて最後にちょっと運がよかった程度ですからね。役立たずって怒られるのはまだ分かるけど謝るのは絶対に違いますよ。よし、なんか楽しくなるような曲吹きますね」

 クロードが明るく言って笛を吹こうとするのをフィグネリアはその袖を掴んで止める。

 とてもそんな気分にはなれそうにない。

「あんまり思い詰めるのはよくないですよ」

「恐いんだ」

 困り顔のクロードから視線を外してフィグネリアは零す。

「ひとりでなにもかも護りきれないと、いらないと言われそうで。私は兄上の影となるために産まれたのに、それだけが私の産まれた意味なのに……受け入れてくださった母上も報われない。全てを私に託して志半ばに亡くなられた父上にも申し訳が立たない」

 どうしてクロードにこんな事を話しているのだろうと思えど言葉は止まらなかった。

 吐き出しきれなかった感情は涙になって溢れる。

「フィグ……」

 そっとクロードに背を撫でられてフィグネリア小さく頭を振る。

「すまない。今の私はどうかしている」

 ひりつく喉で言葉を押し出すとクロードがため息をついて視線を合わせるために跪いた。

「謝る意味が分かりません。言いたいことは言っちゃった方がいいですよ。俺なんて子供の頃は兄上達の悪口とか妖精相手に言いまくってましたから。ちょっとした手違いで聞こえちゃって酷い目にあったこともありますけど」

 その様子はなんとなく想像がついてフィグネリアは涙をぬぐいかすかに笑う。

「お前らしいな。……私は出来ない。言葉は常に揉め事を起こさないように選ばなければならないものだ」

「それで周りが傷つかなくても、フィグ自身は苦しいでしょ」

「私だけが苦しいならそれでいい」

「それが義兄上のためだから?」

「……何が言いたいんだ、お前は」

 上から琥珀色の瞳を覗き込んでフィグネリアは眉根を寄せる。

「理屈とかいったん忘れましょう。愛に打算はないんです。別に義兄上はフィグが難しい事ぜんぶやってくれるから愛してるわけじゃないでしょう」

 一度言葉を切ってクロードが寂しげに微笑む。

「血が繋がってたって愛し合えない兄弟だっているんです。お互い想い合えるって事はフィグにとっては当たり前のことかもしれないけど、たぶんフィグが思ってる以上にすごいことだと思いますよ」

「だが兄上や母上達に貰った愛に報いるためにはやはり私は全て背負わねばならない」

「だーかーらー、報いるとかそういうのなしです。愛してるって言われたら愛してるって返せばいいんです。自分から愛してるって言ったっていい。それが心からの言葉なら他には何にもいらないものなんです」

 自信たっぷりに断言されてフィグネリアは目を瞬かせた。

「勢いだけしかないのに説得力があるなど意味が分からん」

「説得力があるって感じるならそれはフィグが最初から分かってるってことですよ」

 悪戯っぽく笑った後にクロードの眼差しが優しく細められる。

「愛しています。だからフィグを失いたくなくて俺は必死になってたんです。妖精達もそれに応えてくれたんだと思います」

 期待するような目にフィグネリアは言葉に詰まる。

 味方になりたいと、懸命にここまで頑張ってきたクロードに返すべき物がそれならば、愛していると言うのが義務なのだろうか。

 そう考えてフィグネリアは違うな、と否定する。

 そして彼が何かを成し遂げたときに、自分が何を想ったのか今ようやく思い出す。

 愛おしさだ。

 理屈なんてものは何もなくて、ただふっと心に浮かんだのはそれだった。

 自分の心がなによりも正直に彼の想いに答を返していたのだ。

 そうして彼を失うと思ったときに恐怖を覚えたのは、自分にとってもう大事な家族の内に入れてしまっていたからだ。

「……私も愛している」

 そろりと口に出してみると、その言葉の温度は家族に向けてきたような暖かいものではなかった。

 自分自身で戸惑ってしまうほどに高い熱を持っていて頬に血が昇った。

「びっくりするぐらい幸せですね」

 そんなこと言われなくても分かる満面の笑顔でクロードは言って立ち上がり、自分の感情に硬直しているフィグネリアを抱きしめる。

「すいません、愛してるだけでいいって言ったけどもうちょっと欲張りになっていいですか?」

 いったん体を離してまた跪いた彼は硬い声でそう言った。

「なんだ?」

 あまりの彼の真剣さにフィグネリアは思わず半身を引いてしまう。

「唇、今ここでいただいていいですか?」

 嫌だとは思わなかった。しかしいいと言うのも恥ずかしくて無言で首を縦に振って瞼を伏せる。

 そっと触れ合うものと同じ柔らかさに幸福を感じた。

 瞼を持ち上げるとクロードの顔が間近にあって、何を言っていいか分からずフィグネリアは彼の肩口に顔を埋める。

 顔は見られたくないが離れたくもなかったのだ。

「フィグ……」

 とても大切なもののように名前を呼ばれて抱きしめられ、フィグネリアも戸惑いながらもその背に腕を回した。


***

 

 そしてその夜。

「すいません、なんで距離は変わらないんでしょうか」

 フィグネリアがいつも通りの間隔でベッドに潜り込むと、まだ半身を起こしているクロードが遠慮がちにそう聞いてきた。

「神聖な祭事の場であの揉め事を起こしてくるような奴らだ。ここに踏み込まれる可能性もある。警戒は怠るな」

「ですね。いろいろ我慢します」

 クロードが意気消沈した声で言って背から倒れ込んでベッドが軋む。

「…………別に嫌なわけではないからな」

 なんとなく悪いことをした気がしてフィグネリアぼそりとつけたした。

「ああ、そういうのが一番辛いです。可愛すぎる」

「話を変えるぞ。この馬鹿が」

 サイドテーブルの燭台の灯はベッドの上まで鮮明に照らしておらず、赤くなった顔を見られないことに安堵しながらフィグネリアは語調をきつくする。

「話変えるって言っても妖精のことはもうあれ仕方ないですよね」

 それについてはあの後何度も話し合った。祭事中で神霊より祝福を受けた後なのでクロードが神の楽士である事は気づかれてはいないだろう。

 だが不安は濃い。雪雲鳥の渡りにキサガダが降り立ったことにと不吉すぎる。

 祭事が終わると妹夫婦の心配でそれどころでなかった兄が、遅れてやってきた怒りを爆発させていたのも気にかかる。今まで暗殺のことを隠してきたというのに面倒なことになりそうだ。

「そうだな。だが兄上はどうしたものか……」

「ああ。怒ってましたね。あれは恐かったです」

 怒りの矛先が向いているわけではないのに部屋から逃げ出したそうにしていたクロードが身震いする。

「厄介なことが起きないように祈るしかないな」

 下手をすれば内乱まで起こしかねないイーゴルのことを考えながら、フィグネリアはため息をつく。

「そうですね…………」

 クロードがあくびをして、フィグネリアは自分も眠たいことに気づく。

「お互い助かってよかったな」

 時間が経てば経つほど死に直面した瞬間の恐怖は深まり、思い出すと背筋が冷えた。

 どちらともなく手を伸べて指先を絡め合い無言でお互いの温度を確かめる。

 フィグネリアは引き寄せられるままにクロードの元に身を寄せる。

「今日ぐらいは近くで寝かせてもらっていいですか?」

 囁かれる言葉にフィグネリアはうなずく代わりにおやすみと言って目を閉じる。

 そしてふたりは手を繋いだまま慌ただしい一日を終えたのだった。



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