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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

知らないものはいらない

 私の名前は深山岳美。年齢は二十七歳。○×電力の子会社に勤め、電柱に関係する職務に携わっている。社内での立ち位置は上々で、金もそれなりに貰っている。女のような名前だが私は男だ。

 私は今日、普段よりも二時間以上も遅い、十九時三十分に会社を出た。私の会社は八時三十分から十七時三十分、休憩に一時間取られているから、一日八時間がおおよその労働時間になっている。これは法が定める労働時間の上限にぴたりと当てはまるギリギリの時間なのだが、日本の企業にご多分に漏れず、私の会社がこれを守ることはそう多くない。

 残業……忌々しい言葉だ。私は二時間もの残業をしてから帰宅しようとしていた。

 会社から私の自宅までは歩きで三十分ほど。電車に乗る必要がなく、一時間以上かかることもないので、通勤条件としては、まあそこそこいい方だろう……とても良い、とまでは言い切れないが。

 自動ドアを出て道路を渡り、目の前の階段を降りるとそこからは緑道だ。アスファルトで整備された道が中心にあり、その両脇を川が流れている。更にその脇には木々と、近所の会社や家庭が共同で管理する花壇が設置されている。私はこの緑道が大嫌いだった。

 なぜって、とても暗くて見辛いし、夏には虫も飛んでいる。無造作に歩こうものならアスファルトの上でひっくり返っているセミを踏み潰してしまったり、その近くを通ったことでいきなり飛びあがってくるセミに驚かされたりするからだ。

 特にこの、暗いというのがどうにも駄目なのだ。例えば、会社の薄暗い給湯室に得体の知れない化け物がいて、妙な活動を行っているかもしれない、と会社の食堂で昼食を取りながらぼんやりと考えること。土曜日の夜、巨大なテレビから大きな音を流させて007の『ロシアより愛を込めて』を見ながら、地下室を虫やネズミがはい回ってその生ゴミ臭い息や体臭をまき散らしているかもしれないという考えを頭に浮かべること。

 この暗い緑道から、私はそういった考えを思い起こす。つまり、この暗闇の中、得体の知れない……KGBのスパイのような意味の分からない恐怖の権化が私の後ろをつけてニヤニヤと口の角を釣り上げているのかもしれない。恐ろしいビジョンだ。

 アスファルトで舗装された道の両脇……川はいいが、生い茂る木々も厄介だ。特に片側、山になっている箇所である。山は神隠しが起こり得る場所なのだ。

 山には何かいるかもしれない。それは山菜を取っているおばさんかもしれないし、トレーニングに励んでいるスポーツマンかもしれない。もしかしたら、誰かをさらって神隠しにあわせてやろうとする化け物かもしれない。誰かいるかもしれないし、誰もいないかもしれない。誰にも分からない。だから恐ろしい。

 未知は恐ろしい。私も知らない、他の誰も知らない。

 私は会社の前の横断歩道を渡り、緑道へと足を踏み入れた。セミ声が鼓膜を突き破ろうとしている。視界の隅を羽虫が横切り、地面には微動だにしないカナブンが妙に光沢のある体で自己主張をしていた。

 この昆虫というやつもよく分からない。何を考えているんだ? 骨がない。皮膚がない。毛も生えないし、目の形も違う。痛覚はあるのか? 味覚は? 何か考えているのか? それとも原始的な反射神経のみで行動している?

 顔のすぐ近くを通った羽虫を、私は手の平で叩き潰した。手から離れたカバンが落下して音を立てた。虫は私の手の平によく分からない色の体液を吐き出して死んだ。

 周りの虫が私を見ているように感じた。セミが私の頭にフンを落としてやろうとしている。カナブンは私の頬に体当たりを食らわせようとする。蚊は私の体液を吸い出して、憎しみと共に栄養として吸収しようとしている!

 私は初めてひったくりをする貧困層の若者のように大慌てで地面のカバンを手に取った。それを頭の上に掲げて、私は緑道を早歩きで進んでいった。





 虫が私に投げかけていた敵意は、ある程度歩き続けることで収束していった。虫は骨を持たず代わりに甲殻を備えているという、哺乳類には見かけない特徴を持った生き物だ。つまり、私達哺乳類からすれば完全に未知であり、恐怖を生む存在だということだ。

 私はセミの鳴き声が鬱陶しいこと以外はちょっとした羽虫が灯りに群がっている程度で、大したものではないことを確認した。

 私には普通の人には見ることのできないものを見る特別な能力が備わっている。周囲に対して言ったことは一度しかないが、冗談だと思った彼らは聞き流した。それ以降、口に出したことはない。精神科に通うハメになると理解したからだ。

 私は首を振り回して周囲を確認した。アスファルトの道、脇を流れる川と木々、右には木の隙間から住宅の群れが見えた。

 そこには家族があり、彼らの食べる食料があり、そしてそれを横取りするネズミやゴキブリがいるだろう。地下室があるならそこに潜んでいるかもしれない。恐ろしいことだ。

 ふと何かの気配を感じて、私は排水溝へと目を向けた。丁度その時、ゴキブリが中から這い出ようとしているところだった。頭部に備えられた触覚を揺らしながら。

 私はそうしなければならないという使命感を覚えて、会社で使用している書類でその汚らわしい虫を叩き潰した。妙な色をした体液が紙に染み込むのが理解できた。私はそれを捨て、その場から足早に立ち去ろうとした。

 家に向かってこの場所から遠ざかる……そんな時、私は何かにつまずいてしまった。石ころだ。構わず再度歩き出すと、またもや石ころに足をぶつけてしまった。もう一度歩く。もう一度ぶつける。もう一度。またぶつける。

 私は恐怖に囚われかけていた。これは何らかの意思を持って私に害をなそうとしている。明確な敵で、悪意だ。姿は見えないが。

 電灯の光で私の背後に影ができている。その影が、私の足から伸びている影がうごめいた。立ち上がり、地面に張り付いている薄っぺらい存在という立場を捨て、立体となろうとしている。腕がある。私の首を絞めるための腕だ。足がある。私を追いかけ、背骨を蹴って折るための足だ。歯があるのは私をかみ殺すため、鞄を持っているのは私を殴打するため。

 私は素早い動きで電灯に張り付いた。そうすることで、私に干渉する影の力が弱まるのを感じた。そのまま周囲を見回すと、電柱が立っているのが見えた。光に照らされて、広告までくっきりと。そこには、病院について記してあった。

 あれは私が仕事で取り扱っているものだ。電柱に貼られている病院の広告……。

 私は不思議に思って頭を傾げた。私がついている仕事は、電柱関係だったか、病院関係だったか。

 悩んでも答えは見つからなかった。まあいいだろう。病院に電柱を立てる仕事でも、電柱に病院を立てる仕事でも。

 私は自宅に帰った。






 私の家には常に電気がついている。暗闇は未知だ。未知は恐怖だ。恐怖は消し去らねばならない。

 どうでもいい、と思いながら、私の頭は仕事のことで満たされていた。電柱だったか、病院だったか、頭だったか。

 私はスーツを脱いでクローゼットに仕舞った。ネクタイを取り外して同じようにクローゼットに入れた。ズボンはプレッサーにかけた。

 夕食を取ろうとリビングに向かう途中、私は妻がいないことに気付いた。子供もいない。どこへ行ったのか分からない。

 私は食事を後回しすることに決め、風呂場に向かった。服を全て脱いで体重を計り、扉を開くとそこには妻と子供がいた。

 なんだ、こんなところにいたのか。

 だが二人とも様子がおかしい。妻は白目を向いて倒れている。子供は一面赤いペンキで塗られた奇妙な壁に背を向けて座っている。不思議に思いながら、私は風呂の蓋を開けて内部を見た。男が一人、そこに座っていた。そいつは私と同じ体格で、同じ顔をしていた。

 こいつは誰だったか……と思い、すぐに思い出した。こいつは私だ。いや、私がこいつ、と言った方が多少なりとも正確かもしれない。私はこいつを殺して体にメスを入れ、入れ替わったのだ。

 死体には蠅が集っていた。私は男の体から一匹つまみ出して口に含んだ。よし、これでまた少しこいつになることができた。

 私は男の死体、深山岳美の死体を引きずり出してキッチンまで運んだ。私がこいつになるには、こいつの全てを引き継がなければならない。全てを知る必要がある。その血、肉、骨までも。私は包丁を取り出して振り下ろした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章がジャンルである「ホラー」の気味悪さを表現されててとっても良かったです。心臓がひやっとしました。 [一言] な、何とも言えない気味の悪さと恐怖心、疑問をここまで残すなんて素晴らしいです…
2015/08/14 22:08 退会済み
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