後編
「無理だよ。俺、そんな貯金ないし。沙羅だって……これからお金がかかるのに、慰謝料なんて払えない」
情けないその言葉に応えたのは良子だった。
「そんなの貯金してないあんたが悪いんでしょう。そっちのお嬢さんも仕事してるんなら、貯金くらいしておけば良かったのよ」
一史は一瞬言葉に詰まった。
親と同居しているが、家にお金は殆ど入れていない。しようと思えばかなりの金額を貯金出来た筈だ。それをしなかったのは、遊びに使った一史の責任だ。
だが、沙羅は事情が異なる。
「沙羅は……沙羅はしょうがないんだ。悪い男にひっかかって……ずっと尽くして貢いだのに捨てられたんだ。貯金が少ないのは沙羅の所為じゃない」
それは沙羅の所為だろう。
そのツッコミが聞こえるような視線が、三人から沙羅に突き刺ささるが、一史は気付かない。
「それで泣いていて……慰めたり相談に乗っていたらほっとけなくって……」
そのままなれ初めや惚気話になりそうな言葉を、遮ったのは菜子だった。
「それは、いつごろ?」
「え……、あれは確か……」
突然の質問に素直に答える一史。
そして、その答えを聞いた菜子は、大きな溜息を吐いた。
「それって……彩梨さんが、借金してまで貢いだホストに捨てられた頃ね」
いきなりの爆弾発言。
「な、何をいきなり! いくら振られたからって、そんな根も葉もない酷い事を言わないでよ!」
ヒステリックに叫ぶ沙羅に、菜子は淡々と告げた。
「給湯室で自分で言ってたじゃないの。会社でそんな話をしておいて、根も葉もないなんて良く言えるわね。私じゃなくたって、知ってる人大勢いるわよ」
沙羅の顔が歪んだ。
そんな沙羅の反応は、菜子の言葉を肯定するものとしか思えないもので。
沙羅を見る一史の表情が、驚愕から怒りや失望へと変わっていくのも当然だった。
「そうか……あの借金は、ホストに入れあげて貢いだものだったんだ。随分俺に言ってたことと違うんだな、沙羅」
「ち、違うの……違うのよ、信じて一史さん!」
すがり付こうとしたのか、のばされた沙羅の手を一史は振り払った。
「あらあら……それじゃあ、お腹の子も誰の子だか分からないわね」
ひどく楽しげな声で、良子が言った。
その声音と裏腹に、その表情は冷たい。
「籍を入れるんなら、お腹の子の父親が誰だかはっきりしてからにしなさいね」
「ひどい……百瀬さんの言葉を鵜呑みにして……私を疑うんですね」
沙羅は俯いて肩を震わせた。
それはか弱く庇護欲をかきたてる姿だった。
だが、一史を含め、沙羅に同情的な目は一切向けられなかった。
なんと言っても菜子は幼馴染で、その人となりは良く分かっている。
一史はともかく、沙羅と菜子の言葉のどちらを信じるかなど、答えは分かりきっているのだ。
今までなら一史も沙羅の味方をしたかもしれない。
だが、菜子のやつれた姿を見て、ここでの沙羅の言動を見て、一史は沙羅に対する考えを改めた。
残業が多い菜子と、定時で帰れる沙羅で時間に余裕があるのは当然沙羅だ。
だが、沙羅は自分がほぼ定時で帰れることを一史に言わなかった。
言わずに、自分は菜子と違って一史を優先しているように装ったのだ。
確認しなかった一史は、今更ながらに自分の間抜けさを悔やんだ。
沙羅は、菜子と違って出来無い事が多かった。
些細なことでも、すごい、と言ってくれた。
頼りになる、そう言ってくれた。
沙羅は、一史の自尊心を満足させてくれる存在だった。
だが、裏を返せばそれは自分でやる気がない、ということだった。
自分でやってみようともしないで、出来無い、助けてと縋ってくる沙羅を、可愛いと思っていた。
頼りにされているのではく、使われているだけだったのに。
あっさり騙されて、入れあげた。
ずっと傍にいた菜子の想いすら、疑って。
「今までの言動で、貴方を信じられる要因が一つも無い」
良子が沙羅にはっきりと告げた。
「だから私はあなた達が結婚するなら、一切援助はしない。その子が本当に一史の子供だったとしてもね」
良子は一旦黙り、秀史を見た。無言で秀史が頷く。
「財産も渡さない。生前に寄付なりなんなりしてしまえば、相続するものもないでしょう」
その台詞には、一史は勿論菜子も驚いた。
良子の様子から、怒っているのは分かっていたけれど、そこまで怒っているとは思わなかったのだ。
「そんな……一史さんが可愛くないんですか!?」
沙羅の言葉に、白い視線が突き刺さる。
財産目当てか、という言葉が聞こえてきそうだ。
「可愛いか可愛くないかと聞かれたら可愛くないわね。バカだとは思っていたけど、ここまでとは思ってなかったし」
あっさりと良子は言ってのけた。
「だけど、大切かそうじゃないかと言われたら大切よ、たった一人の息子だもの。でもね、貴方に言われる筋合いは無いわ」
貯金は少ない、高給取りでもなく、見目は悪くは無いがイケメンではない。性格はへたれだ。
そんな一史を、親の財産無しでも選ぶのか。
良子の眼差しはそう言っていた。
沙羅はしばし無言で俯いていたが、考えがまとまったのか立ち上がった。
そして菜子を見下ろして睨みつけた。
「あんたのせいよ。あんたが余計な事さえ言わなければ上手くいったのに」
突然の非難に、菜子は目を見開いた。
どう考えても、非難されるべきは沙羅と一史で、菜子ではない。
しかし、余計な事という言葉で、連想される事はあった。
「もしかして……お腹の赤ちゃんは……」
「そうよ」
沙羅はさも当然のように言い放った。
「別の男性の子よ。誰がこんな親の資産しかとりえが無いような男の子供なんて欲しいと思うのよ。父親が誰だろうと、結婚してさえいれば、子供は夫の実子になるわ。適当なところで別れて慰謝料もらって、養育費払わせてこの子の父親と結婚しようと思ってたのに」
バッグを手に取り、椅子から離れる。
「父親かどうかを確認してからじゃないと籍を入れるな? そんなことしたら、結局ばれるだけじゃない。泣き落としもきかないんじゃ、時間の無題だわ。全く……単純なぼんぼんの親だから、簡単に丸め込めると思ったのに」
自分勝手なことを忌々しげに告げる沙羅に、先程のか弱げなか様子はどこにもない。
そして菜子を見下ろしたまま、嘲笑った。
「この男は返してあげる。アレだって貧相だし、下手だし、いいところなんて親の財産くらいしかない男だけど、好きだったんでしょう? 私に感謝しなさいよ」
あんまりな台詞に一同が固まっている間に、沙羅は赤城家を出て行った。
我に返った良子が、言った。
「なにあれ……ちょっと、塩持ってきて、塩!」
怒りのあまり興奮する良子に、秀史がのんびりと告げた。
「まぁ、いいじゃないか。自分でぼろを出して勝手に出て行ったんだ。詳しい身辺調査やら子供のDNA鑑定だのやらなくてすんだんだ。手間が省けていいじゃないか」
うちを引っ掻き回してくれた報いは受けてもらうが、とお茶を飲む秀史。やはり彼もかなり怒っていたらしい。
「菜子ちゃん」
秀史は真剣な表情をすると、頭を下げた。
「うちのバカ息子がすまない。お天道様に顔向けできないようなことはするな、とあれ程言っていたんだが……」
その言葉に、良子も合わせて頭を下げた。
「本当だわ。まさか菜子ちゃんにこんなひどいことをするとは思わなかった。煮るなり焼くなり好きにして頂戴」
菜子は首を横に振った。
「いいえ……私も悪いんです。仕事が忙しい理由の一つ、言っていなかったから……」
「理由の一つ?」
こくん、と頷く菜子。
「結婚したら……少しでも残業が少ない部署に移動できないかって、交渉してたんです。その所為で仕事量が増えてて……まだはっきりと決まっていないから、ちゃんと決まったら言おう、そう思ってたんです」
「菜子……」
一史は感極まったように呟くと、勢い良く立ち上がった。
「すまなかった!!」
見事なジャンピング土下座だった。
「本当に、俺、バカだった。しっかりしてる菜子に、いつも助けてもらって……そんな自分が情けなくて嫌だった。菜子に頼ってもらえるようにならなきゃいけなかったのに、沙羅にすごいとか頼りになるって甘えられて、それでいい気分になってたんだ。その挙句に、酷い事をしたし、言った。俺、菜子とやりなおしたい」
菜子が返事をする前に、良子が口を挟んだ。
「菜子ちゃん、あっさり許しちゃだめよ。菜子ちゃんには義娘になって欲しいけど、決めるのは菜子ちゃん。愛想を尽かしたならしょうがないわ。もしこのバカと一緒になってくれる気があったとしても、ちゃんと心底反省させて、態度で示させてからよ」
頭を下げたままの一史の顔が、青くなった。
「そうそう、一史。あんた近所にファミレスで話切り出すから、一部始終雅ちゃんに見られてたわよ。ちなみに、菜子ちゃんが倒れたって教えてくれたのも雅ちゃん」
「雅兄が……」
思わず顔をあげて、一史は呆然と呟いた。
「雅ちゃん、菜子ちゃんのこと可愛がってたからねぇ。こんな妹が欲しかったって常々言っていたし。雅ちゃんもかなり怒ってたから、覚悟しなさいね」
だらだらと、一史の額から汗が流れ落ちる。
彼の味方は、現在どこにもいなかった。
当初の予定では、菜子ちゃんが糾弾する予定でした。
が、どこをどう間違ったのかお母さんがかっとばしてくれました。何故だ。
ちなみに、雅史君は、沙羅の身辺調査行ってます。ぐだぐだ言うならホスト通いのことやら、一史以外の男と遊んでることをつきつけて、ネチネチダメージ与えるつもりでした。
それでも一史が沙羅を選ぶか、菜子が一史に見切りをつけたら、自分が掻っ攫おうと思ってました。
菜子ちゃんと結婚できるかどうかは、一史の頑張り次第ですね。
ちなみに、苗字には色を入れようと思ってつけました。
沙羅の苗字の彩梨は彩無し→色無しでした。
本編はこれで終わりです。
おまけで沙羅の後日談があります。