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9.誤算

 光の珠が浮かんでいた。

 丁度両手に乗るほどのその珠は闇の中でゆうらり膨らみ、ゆうらりと縮む。まるで生命の源を彷彿とさせるその動きに合わせ、周りには光の粒子が飛び散った。細かな光が闇に解けて消えていく様は実に美しかった。

 幻想的な光景にカレンフェルテはしばしうっとりと見惚れた。耳に届いた音の――それはやはり言葉だったのだけど――その意味を理解するまでは。


「たーすけて。たーすけて」


 たすけて――助けて。

 救いを求める声だ。幼い子供が発しているかのような高い声音。それがこの小さな光の珠から聞こえている。カレンフェルテは信じられない思いでまじまじと見つめた。

(これは、なに?)

 光が、人の言葉を発している。

 生き物、なのだろうか。こんな生き物がいるだなんてこれまで見たことも聞いたこともないけれど。


 突如、そのか弱い声が鬼気迫るものに変わった。悲鳴が空を裂き、珠そのものの収縮も激しくなる。小刻みに震える光は必死に藻掻いているようだった。だが何かに絡めとられてでもいるのかその位置は全く変わらない。

 間を置かず、光の珠に近付くもうひとつの光の存在にカレンフェルテは気付いた。輝きの強さは同じでもこちらは珠より随分と小さい。それがにじり寄れば珠は明らかに震え、怯える風を見せた。

「待って、今……!」

 迷ったのは一瞬だけ。次の瞬間には茂みを掻き分けていた。

 指先から腕にかけ、鋭く引っ掻かれるような痛みが生じた。あたりに群生しているのは刺のある低木らしい。けれどそんなことは構わずにカレンフェルテは進める限界の場所まで分け入り、珠に向かって必死に手を伸ばす。

 あとちょっと。あともう少しで光に手が届く。

 そう思った直後、細い糸のようなものがふわりと指先に絡み付いた。肌に吸い付くように纏わりつき、やたらにべたべたしたその感触。すぐにあるものが連想されたが、浮かんだ疑念を確認する術は今のカレンフェルテにはない。

 思わず引っこめてしまいたい誘惑に耐え、カレンフェルテは更に手を伸ばした。なんとか光を掬い取り、手中に収めたところでようやくその正体を知った。

「……蝶?」

 それは金色に光る蝶だった。蝶はカレンフェルテの手の中で、縁に滑らかな波状を象った翅をゆっくり羽撃(はばた)かせる。そのたびに後翅から伸びる長い尾のような部分がひらりひらりと揺れた。膨らんだり縮んだりして見えたのはこの翅を動かす動作のせいだったらしい。

 羽撃きに合わせて細かな光の粒子が周りに散り、闇に解けて消えていく。

 そのうちに蝶は音もなく浮かび上がった。そうしてカレンフェルテの頭の周りをくるくる飛び回った。

「あーりがと。あーりがと」

 高い声がはっきりと耳に届いた。確かにカレンフェルテが呼ばれたあの声だった。嬉しそうな印象を受けるのはきっと気のせいではない。

 しばらく旋回していた蝶は不意に天を目指して舞い上がり、闇に溶けるようにして姿を消した。





 * *





 始めこそ緩やかに見えていた下り坂は、進むごとに険しさを増していった。道らしい道はない。ほとんど獣道のようなものだ。

 行く手を遮るように生い茂る木の枝を振り払いながら、セイルはひたすら下っていく。ところどころ湧き水が出ているらしく、ぬかるんだ箇所は注意深く足を乗せて進んだ。

 柔らかな紗を思わせる風が額を撫でて、セイルの目は風上に向けられた。ぽっかりと開けた緑の合間に、まさに今これから向かおうとしている屋敷が見えた。始めに見つけたときより随分近い。この分だと日の落ちる前にはなんとか辿り着けるだろう。

 ふうと安堵の息を漏らしてセイルは再び歩き出した――歩き出そうとした。足を踏み出した格好で固まったのはあるものを見つけたからだ。行く手に戻した視線は一点に吸い寄せられていた。


 台座のような平べったい岩があった。大人が優に二人は座れるだろうその上に、猫がいた。ビロードを思わせる黒い毛並みは艶々と輝き、金色の鋭い目がじっとセイルを見つめている。前足を揃えて行儀よく座ってはいるが、のんびり日向ぼっこを楽しんでるというよりはセイルを監視している風に見える。

 数秒、睨み合う。

 ――先に目を逸らしたのはセイルだった。猫と睨めっこをしてどうする、馬鹿馬鹿しい。日が落ちる前にはあの屋敷に辿り着いておきたいのだ。こんなところで時間を無駄にしている場合ではない。

 脇を通り抜けるつもりで近寄ると猫はさっと飛び退いた。そのまま逃げるのかと思いきや数歩行った先で立ち止まり、こちらを振り返ってくる。金に輝く瞳が静かにセイルを見据えている。

 どんなにすばしこく駆けようと、また高く飛び上がろうと、猫は決して物音をたてなかった。そういえば鳴き声も聞いていない。ただ距離が縮まるとぱっと遠退きこちらを窺う、それを二度繰り返されたところでセイルは不快そうに眉を顰めた。まるで“ついてこい”と言われているようだった。それもたかが猫に。

 もしかすると向こうは道案内でもしているつもりなのかもしれない。

 だがこの道は始めからずっと一本道だ。迷いようもないのに恩着せがましい行為を押し付けられるのは甚だ不愉快でしかない。


 そうこうするうちに道が少し開けた。行く手には大木がそびえ、道が左右二手に分かれていた。猫は右側へ颯爽と駆けて行く。走り去る方向を見るにどうやら分岐というわけではなく、木を回りこむように分かれているだけのようだ。

 小さくなっていく黒い小動物を目で追いながら、セイルは若干の抵抗をこめて左側の道に足を向けた。

 だいぶ下ってきているはずだがこの勘違い猫との追いかけっこは一体どこまで続くのだろう。

 大木に手を添え、天を見上げた。どれだけの年月を重ねればここまでの巨木になるのか、幹にはびっしりと蔦が這い、梢は随分高い位置にあってあたりは薄暗い。木葉の合間に見える無数の小さな空は依然として明るいものの、暗くなるのは時間の問題かもしれなかった。


 ――刹那、道は唐突に終わりを告げた。


 踏み出した足の下には地面がなかった。えっ、と思った時にはもう身体は前に傾いで、立て直すことも出来なかった。セイルの右足が空しく宙を蹴る。

「う、わっ!」

 咄嗟に身を捻る。受け身をとる間もなく衝撃が走った。

 派手な音が響いた後、あたりにはただ静寂が横たわっていた。


 しばしの後、セイルは詰めていた息をゆるゆる吐き出した。

 緩慢な動きで半身を起こす。したたかに打った腰と太股を擦りながら背後を振り仰ぐと、先程まで歩いていた地面がかなりの高さの位置に見えた。まるでちょっとした崖である。天を気にしていたお陰で足元が急な段差になっていたことに全く気付けなかった。

 ふと視線を感じてあたりを探る。すぐ近くにあの黒猫がいた。じっとこちらを見つめる双眸は相変わらず鋭い。が、表情がない分なんとなく非難されているような、バカにされているような。

「……なんだよ!」

 不機嫌そのままの顔で睨み返した。手頃な小石を掴んで投げると猫は逃げるように背を向け、あっという間に彼方へと消えた。



 しばし時間をおいたからか八つ当たりが効いたのか、その後黒猫の姿を見ることはなかった。

 ようやく川に差し掛かる。上から見下ろした時には細い糸のようだったがそこそこに幅がある。ここを渡れば屋敷はもう目と鼻の先だ。簡素な橋を渡りながら、視線は自然と屋敷に向いた。

 それは異様な空気を纏っていた。緑色だと思っていた壁は実は緑色ではなく、全面を蔦が這うように覆っていたためだと知った。窓の箇所だけがぽっかりと見えているが曇りガラスの向こうは暗く沈んで人気もない。

「何か出そうな雰囲気だな……」

 声に出すと本当にそんな気がしてきた。一晩の宿にするつもりで目指してきたものの、いざこうして廃墟を前にすると挫けてしまいそうだ。

 得体の知れぬ何かが出るくらいならいっそ野宿した方がましかもしれない。季節は初夏、一晩くらい野宿したところでのたれ死ぬことはないだろうし。


 ひとつ溜息を零し前方に目線を戻した、その瞬間セイルの息が止まった。

「わっ!」

 慌てて後ずさった。途端に心臓が暴れ出す。

 橋の真ん中に老婆がいた。先程まで影も形もなかったのに、何をどうしたのかほんの一瞬の隙に現れた。

 背はセイルより随分と低い。が、背筋を伸ばし真っ直ぐ立っているせいか弱々しい雰囲気は微塵もない。むしろ威圧感を漂わせ、行く手を遮るように立っている。

 眉間に皺を刻みこみじっと見つめてくるその顔、何より歯向かうことは許さないと言わんばかりの強い意志を宿す水色の目に、とても、見覚えがあった。

「出た……」

 口をついて出た呟きは思いのほか掠れていた。背筋を嫌な汗が伝っていく。正直に、一番会いたくなかった。ここを目指してきたのは短慮だったか――。

「……何が目的ですか?」

 静かに発せられた声には明らかに非難の色が滲んでいた。セイルの来訪を歓迎しないと、顔にもはっきり書いてある。

「前回はまだ年端も行かぬ子供だと思い、帰しました。ですが戻ってきた以上、何か手を考えなくてはなりません」

「別に来たくて来たわけじゃねえし……」

「とても、聞き覚えのある台詞ですね」

 老婆の目が剣呑に光る。セイルがぐっと言葉を詰まらせたその瞬間、脳裏に過去の情景が弾けた。

 月のない静かな夜。後ろ手に縛られ、言われるがままに歩かされ、着いた先は川のほとり。

 ハッと首を巡らせる。セイルの目に西日を受けきらきらと輝く細い川が飛びこんできた。

 この川はやがて湖に注ぎこむ。ここから一番近い街を考えたとき、湖を真っ直ぐ突っ切ることが可能ならばそれは向こう岸に位置するクラレットとなる。――道理で歩いた記憶がないわけだ。

「なあ、舟。舟貸してくれよ。あんた、出ていってほしいみたいだしオレも早く帰りてーし。手っ取り早いじゃん」

「何を勝手なこと言ってるんですの!? 貸すわけないでしょう!?」

 急にきんきんした高い声音が耳に届いてぎょっとする。弾かれたように見下ろせば老婆よりも更に背の低い少女がそこにいた。ふたつに結った白い髪を揺らし、両手は腰に当てて胸を張り。不思議な煌めきを持つ円な瞳は物怖じすることなくセイルを見上げている。

 本人はせいぜい威嚇か凄んでいるつもりかもしれない。が、そのちんまりした姿からは脅威を感じるどころか滑稽ささえ覚える。

「……このチビ、何?」

「まぁぁなんて言い種! わたくしを馬鹿にしてますわね!? ……オルジュ様、やはり何も変わってませんわ。こんな粗野で野蛮で失礼極まりない人間など何の価値もありませんわ。もう宜しいでしょう?」

 始めの部分を真っ赤な顔で言い返した少女は、その勢いのままに老婆の顔を窺った。老婆はひとつ溜息を吐くと、今にも食って掛かりそうな少女を片手で制した。

「舟を貸すのは、構いません」

 セイルの口笛に少女の不満の声が重なる。老婆はまるで検分でもするかのような鋭い眼差しをセイルに向けた。

「依然あなたは守られているようです。その者を尊重し、即刻出ていくならば不問としましょう。ただし、これから言う二つの条件は飲んで貰います」

「は、条件?」

 セイルが眉を顰める間に老婆は散歩かと思えるほどの気軽さでセイルにすたすた近付いた。そうして二歩ほどの距離を残して止まると、真正面から彼を見据えた。

「一つ、この地に住まうか弱き者たちに決して手を出さぬこと。一つ、仲間もここに連れてくること」

「……仲間って」

「いるのはわかっていますよ。何故行動を別にしているか知りませんが、二人揃わぬ限り舟は出しません。良からぬ企みは捨てなさい」

 老婆の言が誰を指しているのか、瞬時に悟ったセイルだったが否定することは叶わなかった。セイルが口を開くより早く、老婆は懐から何かを取り出す。そうして勢いよく振り上げた。

 手にしていたのはハンカチ、のようなもの。そう認識したときにはもう細かな粉塵が舞い散り、セイルはそれを思い切り吸いこんだ。

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