4.家族
オルガー氏の住まいはフォルトレストの街の中でも富裕層の邸宅が並ぶ界隈の端にあった。敷地自体は周りに比べればさほど広くはない。だが立派な門構えがオルガー氏の人となりを表していた。
馬車が着くとオルガー氏とカレンフェルテ当人が出迎えた。カレンフェルテは一言も発さず頭だけ下げ、そのまま奥へ引っこんだ。
セイルたちは書斎へ通された。ウィルトールが持参した書類に目を通しオルガー氏は二人に深々とお辞儀した。
「このたびは申し訳なかった」
「意に沿えなかったのはむしろこちらの方ですから」
受け答えは全て兄がした。オルガー氏が了承したことで縁談は正式に破談となった。
二人が話している間ずっと黙っていたセイルは退室間際にふと振り返った。
「……一つ気になってたんだけど」
「何でしょうか?」
「縁談、今まではずっと断ってたって聞いた。けど、なんで今回は受けたのか」
「セイル」
ウィルトールが横から押し殺した声で制する。オルガー氏は自嘲の笑みを浮かべ溜息をついた。
「気になるのも道理でしょう。端的に申せば私どもはあれを……カレンをこの家から出したかったのですよ」
「出したい……?」
意味を取り損ねたセイルは僅かに眉を顰めた。何故、と目で尋ねる。オルガー氏は弱々しく笑った。
「娘にとってもそれが最適だと思いましてな。あなたのお父上には他愛無い近況として口にしたところ、それならばと今回迅速に話をまとめてくださったのです。このような結果に終わってしまったのは全て私の不徳の致すところです」
「あいつが家に居るのは迷惑ってことか? 力のない雪花人なんか用済みだって――ってぇ!」
「滅相もない!」
セイルが悲鳴を上げたのとオルガー氏が叫んだのはほぼ同時だった。言葉を言い終わるか終わらないかというところで突然生じた爪先の痛みにセイルはよろける。反射的に隣を見ると兄が恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。
「もう黙ってろ」
「なんでだよ!」
「いえ、いいのです。だが一つだけご理解頂きたい。私どもは決してあれを疎ましく思う気持ちで縁談を進めたわけではありません。愛する娘だからこそ幸せになって欲しい、そのためにはこれ以上一緒にいるべきではない。そう、考えたのです。……今回のお話はこれ以上ない良いご縁だと思いました。が、こちらの都合ばかり押し付けるわけにも参りませんで」
切々と訴えるように述べるとオルガー氏は黙ってしまった。それ以上聞き出せるような空気でもなく、納得するに至らなかったセイルは面白くなさそうに唇を引き結んだ。
それから半時も経たずに兄弟二人はオルガー邸を後にした。門前で兄が挨拶の口上をするのを横で聞きながらセイルは何気なく邸宅に目を向けた。ここから見える窓は全部で五つ。あのどれかの部屋に居るのだろうか、雪のように儚いと謳われる少女は。
* *
窓辺に佇んでいたカレンフェルテは薄い紗のカーテンの向こうに父と来客者の姿を見つけ息を顰めた。どうやらこれで帰るようだった。じっと見つめていると二人のうち長身な青年がこちらに顔を向けた。カレンフェルテの息が止まる。目が合った気がして思わず身を引きかけた。
(……こちらの方が暗いもの。大丈夫。きっと、見えてない)
どきどきと高鳴る胸を押さえて見つめるうちに若者二人は父に頭を下げた。馬車に乗りこみ姿が消えてからカレンフェルテはようやく詰めていた息を吐き出した。
「……どうかしたの、カレンフェルテ?」
背後から声が掛けられ少女は振り返った。部屋の奥へと足を向ける。ベッドに横たわる母の枕元に腰を下ろした。
「お客様がお帰りになったみたいです」
「ああ、ウィンザール家の……。……こんなことになって、あなたには本当に申し訳ないことをしたわカレン」
「いいんですお母様。むしろ嬉しいくらい。私、この家が大好きですもの。……これからもここに置いてくださるでしょう?」
カレンフェルテはすっかり痩せ衰えた手を握って微笑んだ。この数年で母の肌は青白く髪も白くなり、一気に老けこんだように見えた。
* *
カレンフェルテの邸宅を訪問した後の数日間、セイルは物思いに耽った。父に頼んで書庫に入れて貰い、雪花人について書かれた書物を読んでみたりもした。
セイルの人となりをよく知る人物がその姿を見たなら間違いなく仰天しただろう。何しろ頭で考えるより先に身体が動くタイプだ。本を開けば数分で寝てしまうような男だ。そんな彼が書庫に籠り書物を漁り、挙げ句物思いに沈んでいるのだ。まさに青天の霹靂としか言いようがない。明日槍が降って来ても可笑しくない。
「あの子の現状か……さぁ、それは何とも言いようがないんじゃないか?」
さらりと何でもないことのようにウィルトールは言った。セイルはむっと不機嫌な顔を作り、苛々と兄に言及する。
「他にも雪花人を見たことあるって言ってたじゃねーか。そいつはどうだったんだよ。最期、知ってんだろ? どのくらい白くなったらヤバいんだよ。あと力の限度とかさ」
結局、書庫に籠ったセイルの結論は「収穫なし」であった。雪花人についての書物など元々の絶対数が少ない上、上辺の一般論しか述べられていないもののなんと多いことか。数日かけたというのにセイルが欲する情報は何一つ見つけられなかった。
ならば生き証人に聞いた方が断然早いし何より確実だ。だからこそこうして頭を下げているのに。
性急な弟の態度にウィルトールは頬杖をつき、小さく溜息をついた。
「個人差というものを考えろ。一概にどうだと言えることではないだろう。……まあそれ以前に、お前にはあまり言いたくはないのが本音だな」
「何でだよ」
「それが人にものを訊く態度か?」
ウィルトールはそう静かに告げると席を立った。部屋の奥に消えていく背を睨みつつセイルは腕を組む。自分の何が気に障ったのか全く分からなかった。
大体、兄の考えが読めないのは今に始まったことでもない。他人には愛想よくのほほんと話したりもする兄は自分に対しては笑顔などもあまりなく、どこか突き放したような物言いをすることが多かった。思い返してみても物心ついた頃からずっとこんな調子だったと思う。別に意地悪なわけではない。特別険悪というわけでもない。恐らくこれが兄の素の姿なのだろう。
だが今はそれでは困るのだ。兄には何か思うところがあるのやもしれないがセイルにだって意見はある。自分の問いに答えて貰えないのは些か気分が悪かった。
不機嫌な顔そのままに大きく息を吐いた。
セイルの立つ傍のテーブルに何かがバサリと置かれた。何かと思えば分厚い紙束である。紐で綴られただけの簡素なそれを数秒凝視し、セイルは顔を上げた。いつの間に戻ったのかウィルトールが静かに立っていた。
「貸してやる」
「……何?」
訝しげな目でのろのろと紙束に手を伸ばす。一枚、また一枚とめくるうちにセイルの顔付きが変わっていった。そこには雪花人についての精緻な研究内容が綴られていた。
「ウィル、これ――」
「昔 雪花人について調べてたからな。だがもしそれでも分からないことだったら俺にもお手上げだ。あとはアンに聞け」
「……え? アン?」
不意に告げられた言葉の意味を取り損ねセイルが眉を顰める。ウィルトールはちらりと視線を投げた。
「アンの恋人が、雪花人だった」
「恋人ぉ? えっあのアンに!? ……い、命知らずなやつも居たんだな」
さすがに驚きを隠せなかった。アンに恋人が居たというのは初耳だった。過去に二度お見合いをしたがどちらもアンに問題があって結ばれなかったという話なら耳にはしていた。それを聞いた時は腹の底から大笑いし、なかなか笑いが止まらず呼吸困難に陥った覚えがある。
ウィルトールは苦笑いを浮かべ「驚き過ぎだ」と弟を諭した。
「その人には俺も良くして貰ったけど何せまだガキだったからな、見えてなかった部分は多いと思う。アンに聞くのが一番だろう」
「ふーん。……あれ、でも今いねーじゃん、アン。どう聞けって」
「アンは大事な時には何故か必ず戻ってくるんだよ。近々、来るんじゃないか?」
お前がアンを必要としてるなら尚更な、とウィルトールは続けた。セイルは眉間の皺を深くしながら低く唸る。
セイルにとってのアンはただの叔母ではない。ほぼ天敵の位置に居る。幼少期の我侭三昧だった自分をことごとく力で捩じ伏せ屈服させた人だ。幼いなりに抵抗もしたが全く歯が立たず、今ではアンに対して純粋なる苦手意識を抱えるまでになっている。そんな彼女の来訪を予言されてしまうとセイルは喜ぶべきなのか否か判断に迷う。
結局いつになるか分からないアンの来訪を大人しく待つのは馬鹿らしく、セイルはウィルトールから借りた資料に一通り目を通したのち考えること自体をスパッとやめた。
(そうだよな。別に気にかける義理も必要もねえんだし)
そもそも自分は彼女に破談を突き付けた張本人なのだ。婚約者なんか願い下げだと言ったその口で彼女の身を案じる言葉を紡ぐなど、お門違いも良いところである。
彼女とは縁がなかった。もう会うこともないだろう。
ただそれだけのことだ。