20.あなたの名前は
――りぃーん。
澄んだ音が耳朶を打った。深淵に潜りこもうとしていたカレンフェルテの意識がわずかに浮き上がる。
呼ばれた気がした、なんとなく。同時にそんなことあるわけがないとも思った。呼ばれる理由が思いつかないし、呼ぶ者の心当たりもない。
りぃーん、また音が鳴る。高いけど丸みがあるから鈴や鐘とはちょっと違う。喩えるなら繊細な造りのグラスを爪で弾いたような、そんな音。
自分以外の存在が確かにそこにある。誰が、何のためにしていることかはわからないけれど。
音が再度響いた。逡巡したのち、カレンフェルテは息を吸いこんだ。
「だ、あ、れ」
小さな小さな囁き。だがその声は大きな変化をもたらした。
やわらかな風が、確かな質量を持って少女をすっぽり包みこむ。穏やかに晴れた日の春風のような、暖かな空気に満たされて知らず口許が綻んでいく。
――りーん、りん。
耳に届いた音にぱちくりと瞬いた。音そのものは変わっていない。ただリズムがついた。まるで言葉のような、いっそ音ではなくて声のような。
――れー、れ。
「れー、れー……?」
――レーレ!
おうむ返しに呟けば音が嬉しそうに返事をした。嬉しそう、と感じること自体おかしな話だった。でも〝嬉しそう〟と表すのがぴったりな声音だし、どうやら会話もできるみたい。
目の前にぽわんと明かりが灯った。そうなって初めて、自分が暗闇の中にいる事実をカレンフェルテは知った。小さく頼りない光は虚空においてゆうらりと上下していた。
「レーレ。なーまえ。レーレ」
「さっきから喋ってたのは、あなた? あなたの声だったの」
目を丸くしていたカレンフェルテの脳裏に既視感のある光景が弾けた。闇の中を飛んでいく光を追ったのは少し前のこと。
「もしかして、あのちょうちょさん? 蜘蛛の巣の……」
カレンフェルテの声に呼応するように光が震えた。輝く丸い珠はほんの瞬きをする間に蝶の姿に変わっていた。ふわりひらりとゆるやかに羽ばたく二対の翅から眩い光の粉が弾け散っていく。
「レーレ! リーダレーレ」
「……それ、あなたの名前?」
「なーまえ! リーダレーレ」
「リーダレーレ……」
蝶は縦にくるりと宙返りした。虫が喋るなんてと思う一方、光の珠が喋るよりはまだ現実味がある気もする。
ふわ、と舞い上がった蝶はカレンフェルテの上でぐるぐると円を描き始めた。
「なーまえ。なーまえ」
「……名前? もしかして、私の名前?」
「なーまえ!」
「私の名前は、カレンフェルテ」
「かー、て?」
まるで首を傾げたような響きがあった。カレンフェルテは小さく笑みを漏らす。
「カレンフェルテ。か・れ・ん」
「カレン! カレン、すき! レーレ、カレン、すーき!」
くるくるふわりと踊る光の蝶に目を細めた。舌足らずな蝶の言葉はどこか幼子の印象を抱かせて微笑ましかった。まっすぐに向けられる想いがくすぐったくて、身も心もほわほわ浮き上がるようだ。
舞い降りてきた蝶に手を伸ばす。指先にふわっと光がとまった。
「いーっしょ? いーっしょ?」
「……そうね。私もあなたのこと、好き。一緒ね」
「すーき! カレン、いーっしょ!」
「好き……」
単に好意を示す言葉だ。カレンフェルテにとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった――これまでは。たった二文字の言葉に込められた想いがこんなにも温かく、こんなに嬉しいものだなんて。
視界が明るく開けていくようだった。澄み切った空の青を目にした気がした。
* *
まず認知したのは柔らかなオレンジ色に照らされた天井と壁。次に清涼感のある香りが鼻腔をくすぐり、軽やかな足音がぱたぱたと耳に届く。
ゆっくりと目を開いたセイルは眉を顰めた。今いる場所の見当はなんとなくついた。薄暗さからいっておそらく夜であることもわかる。逆に言えばわかるのはそれだけだ。
なぜここにいる。いつ戻ってきたのか。
記憶を辿ろうとしたとき、
「あら、」
視界を覆う勢いで横からにょきっと人の顔が生えた。
「……ぁあああ!」
瞬時に飛び退いたつもりだった。が、身体は動かなかった。それどころか叫び声にも締まりがない。口は大きく開けられず、舌も痺れている。
「思ったより早く目が覚めましたわね」
顔が消え、視界の外から響いたのは聞き覚えのある声。
セイルがそちらを向くより早く掛け布団がめくられ腕を取られ、しばらく持ち上げられていたかと思うとやがてぞんざいに放り投げられた。自由気ままな小さな手はその後もお構いなしに頬や首をぺたぺた触ってくる。理解が追いつかない。
「おい!」
「本当に効きやすい身体をしていますのね。助かりますわ。二、三日でお別れできそうですし、ようやく平穏が戻りますわ」
「おあえ……、あだ、あんか、ろあへかろか」
苦労して顔を傾けたそこに、白い髪を頭の両側で結った少女の姿があった。両手を身体の前で揃えて立ち、彼女は口角をにっこりと持ち上げた。
「おまけで合格にしてさしあげますわ。彼に感謝するんですのね」
「がー、がぐ?」
「命の水はニームの入れ知恵でしょう? あなたが知ってるはずありませんもの」
セイルは顔色を変えた。ガラスの小瓶や沼に棲む蛇女が頭をよぎる。ポケットを探ろうとするが腕は酷く重い。
「らあ、あろいずあ……、あいづあ、ぐぎが?」
「まさかニームがついていってたとは思いませんでしたけれど。あなたをここまで運んだのも――」
「いぐ! んみ、じゅ! み、じゅ、あ、」
ろれつが回らない。必死なセイルをフウラは半眼を閉じて見下ろした。
「やっぱりもう少し眠っていてくださいまし。何を言ってるんだかさっぱりわかりませんわ」
小さな手がぺちんと額を叩いた。
「何すんだよっ!」
勢いよく飛び起きたセイルは目を瞬かせた。室内が明るい。それにセイルの他に誰もいない。今の今まで喋っていたあのガキはどこに行った。
「……あ?」
きょろきょろあたりを見回した。まるで生活感のない室内は静けさに満ち、どこかよそよそしい。直近まで誰かがいたような気配もない。
鳥の鳴き声がする。目を向ければ窓の向こうに青々と茂る樹木が見えていた。照りつける陽の高さからして真昼間だ。夜じゃない。
夢を見ていたのだろうか。一体どこまでが夢だ。
自身を見下ろしてセイルはぎょっと目を剥いた。両腕に無数の発疹が出ている。大小様々な発疹は上向けた両手の平にも胸元にも、掛け布団を剥ぎ取れば両足にもあった。こわごわ摩るが指の腹はいつもと変わらない感触を伝えてくる。
「……まさかウロコ?」
蛇女が言っていたのはこれだろうか。だけどアイツらはウロコを〝貰う〟と言ったはずだ。こうして現れるのはおかしくないか。
初日と違って部屋に鍵はかかっていなかった。セイルが扉からそうっと顔を出したところで、
「驚異の回復力ですね」
「ひっ!」
真横、その下方から声がした。白髪の老婆がしかつめらしい顔で立っている。ばくばく喧しい心臓に落ち着けと念じながらセイルは深く息を吐き出した。
「びっ……くりさせんなよな……」
老婆も呆れ気味に溜息をついた。
「びっくりしたのはこちらですよ。命の水を持ち帰るとは……。あの娘をそこまで大切に想っていたのですか」
「あ? 何の話……は?」
「起きていますよ」
老婆が背後を振り返る。その先にあるのは隣室の扉。つられるように視線を投げたセイルは、ハッと色を変えた。
正面に窓がひとつ、隣り合う壁にもひとつ。窓の下にはカウチソファとテーブルがあって、一人用のベッドが部屋の半分近くを占める。
ここは初日に詰めこまれた部屋だ。つまりセイルは間取りが全く同じ隣の部屋に運ばれていたらしい。
「あ……」
ベッドの上で半身を起こしていた少女がこちらを向いた。セイルはむっと唇を引き結んで扉を閉める。なんだ、思ったより元気そうだ。
ベッドへは向かわずにカウチソファにどさりと背を預けた。腕を組み、肺にたまっていた空気を全て吐き出す。ちらと横目に窺えばカレンフェルテと目が合った。確実に焦点が合っているし、どうも向こうはずっとセイルの姿を追っていたらしかった。セイルは訝しげに眉を顰め、自身を指差した。
「お前……見えてる?」
「あの……、ぼうっとですが、なんとなく……」
「え!? なんで」
ふわ、と少女の顔が花のように綻んだ。え、え、とセイルはカウチの上で後ずさる。なぜ笑う。意味がわからないし、やっぱり意味がわからない。ただわかるのは「あなたのおかげで」と微笑むカレンフェルテが本当に嬉しそうなこと、セイルの顔が熱くて動悸がすることだ。
急に喉の渇きを覚えて小さく咳きこんだ。身体がおかしい。きっとまだ本調子じゃないからだ。
「希少なお水をわざわざ取りにいってくださったとお聞きしました」
「みず……命の水? え、もしかしてお前、飲んだのか? あれ」
「水ですか? はい、あの、多分……?」
「……腹壊さなかったか?」
「お腹ですか? ええ、特には……」
丸い目をさらに丸くしてカレンフェルテが小首を傾げる。セイルは口許を手で覆い小さく唸った。
命の水などと勿体ぶった名前こそついているがあれは沼の水だ。取引が成立し、さあ寄越せと待ち構えていたら「好きなだけ汲んでいけ」と言われたのだった。
濁った沼の水は小瓶に汲んでみると澄んだ飴色をしていた。匂いはなかった。見た目だけでは有害か無害かの判断がつかず、とりあえず持ち帰ることにしたというのが真相だ。
本当は、と少し恥ずかしそうにカレンフェルテが口を開いた。
「自分では覚えてないんです。でもフウラさんが仰ってたので多分飲んだんだと思います。そのときに、手に入れるのは難しい水だって聞いて」
「フウラって?」
「え、フウラさんですか? あの、いろいろお世話をしてくださる小さな……」
「あー……」
脳内に白い髪の幼女が浮かんだ。そういや名前を聞いていなかった。別に興味もないのでどうでもいいのだが。いちいち腹の立つあのガキを呼ぶ機会がこの先あるとも思えないし。
セイルは乱暴に頭を掻き、はぁ、と鬱屈した気分を吐き出した。
「別に。言うほど難しくなかった。単に相手が曲者なんだよ。ちょっと話したら簡単に手に入ったし」
「でもあなたのおかげです。お水を頂いて良くなったので。こんなに明るいのは何年振りかと」
「……は? いや、ちょっと待て。普通に見えてたんじゃねえの?」
思わず前のめりになった。まだ日があるうちから真っ暗でよく見えないと蒼白になっていた彼女を思い出す。
「前まで見えてたって言ってたじゃん。ここに来るときに」
「普通というのが、どの程度をさしていいのかわかりませんが……もともと視力は低いんです」
静かに答えたカレンフェルテは、組み合わせた両手に目を落とした。
「昼間はまだかろうじて見えるんですけど夜は本当に暗くて。……あ、でも物の形はなんとなくわかるので、ぶつかることはないです」
カレンフェルテがふわと微笑み、セイルはむっと渋い顔を作る。そこは笑うところじゃないだろう。
とはいえ脳内にはひとつの仮説が浮かぶ。
もしかするとカレンフェルテはセイルの顔を知らないのではないか。
というか絶対、もしかしない。
だとすれば、たとえ視力が回復したところでセイルが元・縁談相手である事実は彼女の知るところではないのでは――セイルが打ち明けない限りは。
目だけでちら、と窺えばカレンフェルテもタイミングよくセイルの方に顔を向けたところだった。
「それでお礼のことなんですけど、私……」
「いらねえよ。礼が欲しくてやったんじゃねえし」
「あ、違うんです。あの……お恥ずかしいのですがいま何も持ち合わせがなくて。どうにかフォルトレストに戻れたらそのときあらためてお礼をさせていただきたいので、それまで待ってもらえませんか?」
少女はおっとりと小首を傾げた。セイルが「フォルトレスト」と呟くと嬉しそうな微笑みが返ってくる。
「私の住んでいる街です。いいところですよ。家は魔術道具店をやっていて……あっ」
大体のことは知っている、とは言えず曖昧に相槌を打っていたセイルに対し、カレンフェルテは唐突に頬を赤らめた。今の会話のどこにはにかむ要素があったのか、訝しんでいると彼女がすっと背筋を伸ばした。
「すみません、私ずっと失礼をしていて」
「何が?」
「ご挨拶が遅れましたけど、私はカレンフェルテと言います。このたびは本当にありがとうございました。よろしければあなたのお名前を教えていただけませんか」
「は……」
セイルの息が止まった。
ついにこのときがきた。朗らかに笑む彼女を前に、両手を膝の上で固く握りこむ。
「……オレ、は」
ただ名乗るだけだ。今までもその機会はあったし、早く言わなくてはと思っていた。けれどこれまでと今ではずいぶん状況が変わった。
口の中はカラカラに乾いていたが無理やり唾を飲みこんだ。カレンフェルテは純真な瞳でセイルの言葉を待っている。その温かな微笑みにいつかの幻が重なった。花が咲き乱れる庭園でセイルの後をとぼとぼ歩いていた暗い顔が。
「あの……?」
少女が不思議そうに首を傾げ、癖のないプラチナブロンドがさらりと肩を滑った。
名乗るべきじゃないともうひとりの自分が警告する。素性を明かせばカレンフェルテの態度は変わってしまう。寄せられる好意は、セイルが名前を言った瞬間に消えてなくなるだろう。
――残された時を共に過ごすのがお前なんて、かわいそうでしかない――。
「ウィル……」
脳裏に蘇った苦々しい声はいつ聞いたものだったのか。
「え?」
「あ、いや……」
兄の指摘が正しいとは思いたくない。だが間違っているとも言い切れない。あの顔合わせを経て、カレンフェルテが下した縁談相手の評価がもし兄と同じものだったら――。
頭の中が真っ白になっていく。
そうしてセイルが告げた名前は、後々思い返してみても口が勝手に動いたとしか言いようがなかった。
「……オレの名前は、ウィルトールだ」




