2.噂の少女
立地条件から言えばあまり店舗向きではない場所に件の店はあった。目抜き通りから一本横に入った通りの、更に横道を曲がった並びである。路地と言っても過言ではない。
通りに面した壁に大きな窓が設えてありその上を黒いひさしが申し訳程度に覆っていた。窓にはこちらの姿が映るばかりで中の様子は全く窺い知ることができない。簡素なドアのやや上部にも小窓があったがこちらには色ガラスがはめこまれていてやはり中は見えなかった。小窓の下には〝閉店〟と刻まれた白い小さな札が掛かっていた。
「今日は閉まっているようですね」
札を示し、アッシュは辺りを見回した。店が休みだからなのか、それともいつもこうなのかわからないが人通りは全くない。
「……なあ、本当にここなのか?」
「間違いありません。何度も通いましたから。疑うんですか?」
「いや、そうじゃねえけどさ……」
「とにかく、休みでは仕方ないですね。出直しましょうか。それ、早く脱ぎたいでしょう」
アッシュは振り返ると改めて同伴者の姿を視野に入れた。
いやに存在感のある女がそこにいた。柔らかなスカーフ地のリボンがついたつば広の帽子を目深にかぶっているのでパッと見ただけでは人相までわからない。編み目の細かい紗織りのショールを肩からぴったりと羽織り、見事な細工のカメオのピンでそれを留めていた。ドレスには薔薇を模した造花が至る箇所に縫い留められ、見た目の華やかさを強調している。そわそわと落ち着きなく立っている本人としてはできるだけ目立ちたくないのだろうが、この格好ではそれも無駄な足掻きのように思えた。
「元が良いだけあってよくお似合いですけどね」
笑いを噛み殺しながらアッシュがその顔を覗きこむように見上げる。とにかく、背が高い。それに女にしては肩幅が広かった。薄化粧を施したその顔は本人を知らない人が見れば間違いなく女と錯覚しただろう。
「……それ以上言ったら張っ倒すからな」
艶やかな唇から発せられた声は怒気を含んで低い。こめかみに青筋を浮かべ、青年は口許を引きつらせていた。
「褒めてるんですよセイル。誰にでも出来ることじゃありません」
アッシュはくすくすと苦笑を漏らす。セイルは恨めしげに友を見返した。
そもそもここに来たいと言ったのはセイルだった。そしてできれば相手にわからないようにしたいと頼んだのもセイルだ。そこでアッシュが女装を思い立ち、ウィルトールが衣装諸々を揃えたというわけだ。誰が文句を言えようか。
「ウィルトールさん、よくこんな服を用意できましたね。長身のあなたが着られる女物」
「ああこれな……。多分アンのだな」
「アンさん、ですか? かなり背の高いかたなんですね」
「デカい。身体もデカけりゃ態度もデカい。父親の妹だけどありゃ女じゃねえ、男だぜ。今まで勝てた試しねえし。……アッシュ会ったことなかったか?」
「お会いしたことはないです。あなたに叔母がいることも存じ上げませんでした」
「おば……。お前、アンに向かっておばさんなんて言ってみろ。ぶん投げられるぞ」
「……どういうかたなんですか」
「どうって、たまにふらーっと遊びに来んだよ。……うう、これ絶対汚せねー。借りたのバレたら後で何言われるかわかんねえ」
「あのぅ、すみません……」
話に盛り上がっていた二人は突如割りこんだか細い声にぎくりと動きを止めた。慌てて振り向いたが誰もいない。だんだんと目線を下げてようやくそこに小柄な少女がいるのを認めた。淡いライラックの色のシンプルなワンピースを身にまとい、目深にかぶった飾り気のないグレーの帽子の下に形の良い口許が覗いている。
「うちのお店に何か御用ですか?」
小鳥の囀りのように高く澄んだ声が耳に届いた。咄嗟のことにうまく頭が働かず、アッシュは月並みな言葉を発するので精一杯だった。
「……ここのかたですか?」
「もしご入用の物があるのでしたら、開けましょうか」
「いいんですか?」
ええ、と頷いて少女は持っていた鞄から鍵を取り出し開錠した。ドアに掛けられた札をくるりと裏返す。
「どうぞ」
するりと中に入った少女に続き二人がドアをくぐる。チリンチリンと軽やかな鈴の音が響いた。ドアには鈴の類いはついていないのにだ。
入口から入ってすぐの真正面には天井まで届く大きな陳列棚が置かれていた。仕切り代わりになっているらしく左右にもそれがずらっと並び、店内はまるでちょっとした迷路だ。通りに面した大きな窓は外からだと鏡のようであったのに、中からでは何の問題もなく外の様子が窺える。そしてそんなに大きな窓があるというのに店内は仄かに薄暗く、明かり取りから射しこむ光が要所要所を柔らかなオレンジ色に照らしていた。香を焚いているのかどこか清涼感のある独特な香りが鼻腔を満たす。
陳列棚には見たこともないような品が整然と並べられていた。光の加減で七色に輝く滑らかな布地、逆に全ての光を吸いこんでしまいそうなほど真っ黒い粗織り、細かな文様が美しい飾り皿に変わった形の茶器類、ぼんやりと妖しげな光を放つ石が埋めこまれた装身具……どれもセイルの知っているものとは何かが少しずつ違う。
「……おい、どうすんだよ」
セイルがこそっと耳打ちした。当初の予定では他の客に紛れ、物陰から窺う程度で退散するつもりだった。あわよくばアッシュからそれとなく自分の悪口を吹きこんでもらってもとは考えていたが、まさかこれだけ堂々と入店することになるとは思いもしなかったのだ。当然、客は二人だけである。と言うより欲しい物があるわけではないのでそもそも客と呼べるかどうかが怪しい。
「これ、何か買わねえと帰れねえ雰囲気だぞ。……初めて見るもんばっかだぜオレ」
手近にあった小さなランプを手に取ってセイルが呟く。ランプには精巧な造りの龍が天に駆け上がるような形状で絡み付いていた。灯を点せばその火を護る化身となる意匠なのだろう。両目にはめられた紅玉の粒がキラリと光った。
「そうですね……。まあ、適当にどうにかするしかないですよ……と」
人の気配を感じアッシュが視線をそちらに向けた。セイルもつられて顔を上げ、思わず息を呑んで唖然とした。
「ご入用の物は見つかりました?」
耳に心地良い透き通った声が響く。衣服からして先ほどの少女だった。帽子を取り払い露になったその顔は紛れもなく美少女そのものだ。特に白金の睫毛に縁取られた白藍の瞳がとても印象的だった。薄紅色の唇は桜の花びらのように小さく、肌は滑らかで雪のように白い。
こんなに淡い色彩の人間をセイルは今まで見たことがなかった。彼女が小首を傾げると癖のないプラチナブロンドの髪がさらりと肩口を滑った。
「……そのランプ、ですか?」
セイルの手にしたランプを少女が指した。
「あ、いやこれは……」
反射的に答えてセイルはハッと口許を押さえた。どこからどう見ても女性であるその口から出てきた低い声に少女が眉を顰める。アッシュがふたりの間に割って入った。
「薬を頂きたいんです。今の酷い声を聞いたでしょう? その、風邪をこじらせて声が枯れてしまって。なので、聞いた人を魅了するような美しい声に……確かそういう薬がありましたよね?」
「ああ……ええ、あります。けれどうちで取り扱ってる物はお医者様の薬ではありませんから一時的にしか効きません。それでも大丈夫ですか?」
申し訳なさそうに尋ねる少女にアッシュはにっこりと笑顔を返した。
「結構ですよ」
「あの、差し支えなければ理由をお聞かせ頂いても宜しいですか? 最近規制が厳しくなって書面を作らなくてはいけなくて……あ、どこかに提出するわけではなくてここで管理するだけなんですけれど」
特に処方箋も必要ない薬は取り扱いが簡単な分、犯罪に使われることも増えてきてと少女は続けた。万一何かが起こったときのためのものらしい。アッシュは頬を掻いた。
「あー……ええと、お見合いがあるんです、今度」
「まあ、お見合いですか?」
突然の話題にセイルが目を剥いた。制止することも、まして声を出すわけにもいかずハラハラ見守る中、アッシュは腹を決めたのか何も考えていないのか無頓着に話を進めていく。
「彼女、ご覧の通り身体は大きいですが心はとても繊細なんですよ。それで緊張から体調を崩してこの有様というわけでして。でもとても良い縁談なのでどうしても成功させたいと本人が言うものですから……ほら、何を言っても第一印象が物を言うでしょう?」
「そのようなわけが……。わかりました。では、こちらへどうぞ」
胸の前で両手を組み真剣に聞いていた少女は潤んだ瞳でセイルを見上げた。会釈をして踵を返し、奥のカウンターの更に奥へと消えた。
アッシュがほうっと安堵の息を吐く。その彼をセイルは横目で軽く睨んだ。
「……よくまああんだけスラスラと……。絶対信じてるぜ、あれ」
「こういうのは真実に近いことを織りこんだ方がよりリアリティーが出るんですよ」
「オレは縁を結ぶ気はねえんだよ」
「……本人を前にしても気は変わりませんか?」
「……やっぱり、あれが……?」
こそこそ話していると少女は小さなガラス瓶を手に戻ってきた。カウンターにコトリと置かれたその瓶は蓋こそ閉まっているが空である。これから中身を詰めるのかと見守る中、彼女は意味深長な笑みを浮かべていた。
「何も入ってないように見えると思いますけど、この中には風の力が籠められてるんです」
少女は小瓶を両手でそっと包みこみ、額をつけ祈るように目を閉じた。何か小さく呟くとしばらくして小瓶の中の空気がほんのり青く色づいたのがわかった。固形物は何も入ってないのに瓶を傾ければまるで水が揺れ動くかのごとくゆったりと青の濃さが変わる。渡された小瓶をセイルは不思議そうに眺めた。
「蓋を開けたら、どんな声が良いのか強く念じながらすぐに中身を吸いこんでください。風の力が喉に作用して、願った通りの声に変化させます。ただし半日ほどしかもたないので注意してくださいね。――あ、副作用というほどのものでもないんですけど、思ったことをそのまま口に出してしまう場合が稀にあって、それは問題ないですか?」
「大丈夫ですよ。念頭に置いておきます。ありがとうございます」
こくこくと頷くセイルの横で代わりにアッシュが答えた。少女はにっこり微笑んだ。
書類のサインはどちらでも構わないというので用心してアッシュが書いた。そうして支払いを済ませふたりは店の出入口へと向かった。見送りについてきた少女は怖ず怖ずとセイルに声をかけた。
「これ……よかったら」
ほっそりした手のひらには小さな紙包みが乗っていた。怪訝な瞳を向けるセイルに少女は照れ笑いを浮かべた。
「ただの飴です。……あの、気を悪くされないでくださいね。本当は幼児用に置いてるものなの。でも、飴は喉に良いから……。早く、良くなるといいですね」
少女の気遣いにセイルは思わず口角を上げた。差し出された手から包みを受け取り、小さく頭を下げた。少女が微かに安堵の息をつくのが見てとれた。
「……良いご縁に結ばれることをお祈りしてます。またのご来店を」
少女はたおやかにお辞儀する。
店を出ようとしていたアッシュはそういえば、と振り返った。
「縁で思い出しましたが……ウィンザール家はご存じですよね? 丘の上にある大きな邸の」
「え? え……ええ」
「私はそこのご子息と少々誼みがあるのですがどうやら彼にも縁談の話が来ているようなんですよ。でも実はここだけの話……彼には他に想う相手がいるらしくて」
「はっ!?」
「え?」
セイルと少女が同時に声を上げた。すかさずアッシュはセイルを目で制し、再度少女に顔を向けた。
「親の命だから一応顔は合わせると言ってましたがね……彼の気持ちを思うと遣る瀬なくて。本当に、良い方向へ落ち着いてくれるといいのですが」
溜息をつくような調子でアッシュは話を結んだ。少女は聞いているのかいないのか、物思いに沈んでいるようだった。そうでなくとも白い顔が更に青白く見える。アッシュは素知らぬ顔で首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「あ、いいえ……! あの、何故その話を私に……?」
「何故って、ただの世間話です。――それでは、また」
アッシュは人のいい笑顔を浮かべ一礼すると今度こそ店を出た。セイルも同じように頭を下げ、すぐに後を追いかける。
「ややっこしいことを」
隣に並んだセイルが零した。
「手っ取り早く悪口言やぁよかったんだよ。忠告するっつってさ」
「……勘違いしてますよセイル。信用がない間柄で何を言ったって、それは忠告ではなくただの有り難迷惑です。違いますか?」
アッシュは足を止めセイルに向き直った。
「お互いに絶対的な信頼があって初めて助言という形で受け入れてもらえるんだと思います。それに悪口を言う中傷や非難という行為は一見対象者の評価を落としているようでその実、発言者自身の心証を悪くするものです。私がセイルの悪口を言えばそれは私が悪口を言う人間だと公言するだけのこと。それでは全く意味を成さないでしょう?」
「……お前、顔見知りなんじゃなかったのか?」
不満そうに唇を尖らせるセイルを前にアッシュは困ったように笑った。
「会ったことはある、と言いました。あちらにとっては大勢いる客の中の一人に過ぎません。――とにかく」
アッシュはセイルの肩をポンと叩いた。
「あとはあなた次第ですよ。顔合わせのときは頑張ってください。日取りは?」
「あ、ああ……日取りな、うん」
急に煮え切らない態度になったセイルにアッシュはもしやと怪訝な目を向けた。
「それも何も聞いてないんですか?」
「……ああ、うん、まあな……」
しばしの沈黙のあとに深い溜息を一つ、アッシュはセイルの肩をポンポンと叩いて再び歩き出した。