19.交換条件
お前は交渉に向いてない。
いつだったか兄から頭ごなしに言われたことがある。反論の間すら与えられなかったセイルは当然不機嫌だったが、隣にいた親友は曖昧な笑みを浮かべ黙っていた。おそらく異論なかったのだと思う。
「いかに有利に進めるかですからね。手の内を読まれてしまえば確実に足元を見られます」
自室に引き上げてきてようやく口を開いた彼にセイルは半眼を返すしかなかった。
「はったりかますにしても限度があるじゃん。なら始めから『オレはこうしたい』『こっちができるのはこれだけだ』ってはっきり言ってやった方が」
「そうですねぇ……直球なところも真正直なところもあなたの美点だと思ってますし、私は好きなんですが」
「褒めてねえだろそれ」
むっと顔を顰めてみせる。アッシュはあははと声をあげ、「何事も向き不向きはありますし」と締めくくった。
正直なところセイルだって異存はない。そういうのは得意なヤツがやればいい。
だけど今は違う。代わりがいない以上セイルが交渉するしかないのだし、そうなると自分のやり方で突き通すしかない。相手の出方を探りながら遠回しに言うなんてやっぱりまどろっこしい。
泉の中で、アーモンド型の瞳はきょとんとセイルを見上げていた。見つめ合うこと数秒、セイルは訝しげに眉を顰めた。
「……オレの言ってること、わかる、よな?」
全くもって想定外の反応だ。声の大きさからして聞こえなかったわけはないし、難しい言葉も使っていない。となれば女にとって突拍子もない話だったか、それとも――。
「え、薬が切れた……?」
思い至った可能性にハッと喉を押さえる。が、女が「クスリ?」と首を傾げ、頭上からは「ちーがう!」と甲高い声が降ってきて緊張の糸は切れた。
「……他にいねえのかよ、話できるやつ」
深い溜息を吐き出したセイルは両手を太腿に置き、半身を折った。次第にむくむくと苛立ちが涌いてくる。
だいたい薬について危惧したこと自体これで二度目だ。有効時間くらい始めに説明しとけと思う。あの幼女といい偉そうな黒猫といい、一々説明が足りない。
「ねーエ。クスリって?」
自身の髪を梳きながらついでのように女が呟いた。
「……薬はいい。さっきも言ったけど、オレが探してるのは蜂蜜だ。始めはイーラってヤツの」
「イーラ! あーっち!」
「アタシ、ハチミツなんて持ってなァい」
「話聞けよ! だから蜂蜜じゃなくていいんだよ。蜂蜜みたいな、」
「あーっち! イーラあーっち!」
「うるせえ。お前本当に黙ってろ」
斜め上にいるであろう蝶を睨みつけるともれなく髪を引っ張られた。セイルは小さく舌打ちする。
提示できる情報をほとんど持っていないのは痛い。この状況で、話の通じない精霊相手にどう説明し、取り引きを持ちかければいいのか。親友なら、兄なら、どう打開するだろう。
「ねェェ、風の子は?」
女は岸に両肘をついて見上げてくる。
「アタシ、早く欲しいんだけどォ」
「待ってくれ、ちょっと整理する。アイツ蜂蜜よりいい物があるって言ってたよな。そんなのが……」
不満げな声を片手で制しセイルは辺りを見回した。泉の周りは上も下も一面金色に満ちて賑々しい。落ちていた一枚を試しに拾い上げた。透かしたりひっくり返したりするが、セイルの目には至って普通の葉にしか見えない。
とはいえ早朝に説明付きで見せられた薬草類さえ全く区別がつかなかったセイルだ。可能性は捨てきれなかった。
「なぁ、これって栄養あんのか?」
摘まんだそれを突き出した。ゆったり小首を傾げてそのまま固まった女にセイルは一歩近寄るとなおも葉を掲げる。
「どうにかしたら薬になるとか、元気になるとか」
「よくわかんなァい」
「これじゃねえのか……? でもそれじゃ」
「もォ待てなァい! アナタくれるって言ったわ。言ったわ。約束守ってよォ」
甘ったるい声がぐっと低まった。纏う空気がすうっと冷える。
白い手がしなやかに空を薙いだ。女を起点に地面がざざあと凍りついていく。視覚に頼ってしまったセイルの方向転換は僅かに一呼吸分遅れた。
「ぅわっ……」
身体を反転させるより早く左足が縫い止められた。氷の波に捕まったショートブーツは踝から下の部分を覆われ引き抜くことができない。
ずるりと女が這い上がった。泉から出てくることはないだろうと漠然と考えていたセイルの予想を裏切り、氷上を滑るように近づいてきた。腰から下に続くのは同じ幅の長い尾――半身が蛇の精霊らしい――その鈍色の鱗がぬらぬら輝いている。
「待てって! 蝶ならやるっつってんじゃん! その代わりにオレも欲しいんだよ。食べ物か飲み物かわかんねえけど、何か持ってんだろ!」
尻餅をついたままセイルは髪をぐしゃぐしゃ搔きまわしてみせた。途端に降ってきたキンキン声はこの際無視だ。とにかく交渉を成立させてしまえばいい。
「食べ物……?」
残り数歩の距離まで迫った女は首を少し傾けた。怪訝そうに眇められた赤茶色の目はやがて何かの気づきを得たように輝き、口角がニイッと吊り上がった。
「本当にいい匂いよネェ……美味しそう……」
薄く開いた唇から鋭い牙が覗く。
伸びてくる女の右手を捉えた瞬間、セイルはブーツを諦めた。左足を一気に引き抜き泉の縁に沿って駆ける。途中落ちていた手頃な長さの棒切れを拾い上げると十分に離れてから構えた。武器というには心許ないが、ないよりマシだ。
泉を挟んだ向こう側で女がゆったり振り返った。
「おい、取り引きの意味わかってんのか!?」
棒の先を向けて叫べば女はとろんと半眼を閉じた。
「アタシ、難しいことわかんなァい」
「はぁ!? お前なっ」
「……ワタシ、知ってるわヨ」
女とはまた別の声がすぐ足元から響いた。逃げる間もなく白い手が泉から伸び、セイルの左足は再び囚われた。振り解くことは適わず、まるで氷のような冷たい感触には思わず短い声が出る。
セイルの前にゆうらり浮かび上がってきたのはダークグリーンの長い髪を持つ女。それも対岸にいる蛇女と瓜二つだ。今まで対峙していた女もとぷんと泉に沈むとあっという間に同じ顔が横に並んだ。
「離せよ!」
頭めがけて思いきり棒を振り下ろした。蛇女と目が合った、その一瞬で唯一の武器は乾いた音をたて木っ端微塵に砕け散った。欠片の飛び散る様が視界にゆっくりと映りこみ、その向こうで赤茶色の瞳は楽しそうに揺れる。
セイルを捕らえたまま女は隣に微笑んだ。
「ほらァ命の水ヨ。むかァしいたデショ、おんなじこと頼みに来た」
「よく覚えてるわねェお姉サマ」
「んふふ、美味しかったものォあの子」
「……な、なぁ、その」
恐る恐る口を開けば二人の女が揃って顔を向けた。後ずされないセイルは代わりに背後に重心をかけできるだけ離れる。
――住人は二人、それも姉妹。
先に言っておけよ案件がまたひとつ増えた。知っていればこうして捕まることもなかったのに。
セイルをうっとり見上げていた姉蛇は、空いた方の手で泉の水を掬った。
「どうしてもって言うから分けてあげたノ。死にかけた緑の子を助けルって」
「多分それだ! オレもそれが欲しい」
「んふふ、そう? ワタシは構わないわヨ」
女が手を放した。瞬時に飛び退いたセイルは十分に間合いを取る。
ようやく話の通じる相手が出てきた。そう思ったのも束の間、
「三十年でどうカシラ」
春の陽だまりのような朗らかさで蛇女はにっこり微笑んだ。
泉の縁にもたれかかりのんびりと両腕を組む様子に、セイルの眉間には再びしわが現れる。何の話だ。
睨みつけていると女の双眸に剣呑な光が宿った。
「命の水が欲しいんデショ? だから命。前も三十年で手を打ったのヨォ」
「はっオレの!? なんでだよ、蝶で話ついてたじゃん!」
「そうよお姉サマ。アタシ、風の子欲しいワァ」
「イーヤ! レーレ、ちーがう!」
「やだァあんなの、腹の足しにもならないわヨ」
「オレを食う気か!」
セイルはさらに後ろに下がった。もはや交換条件にもならない。
妹蛇の瞳が輝き出したのはそのときだった。
「お姉サマ。きらきらのウロコは?」
セイルと姉蛇が同時に「ウロコ?」と声をあげる。だが怪訝な顔をするセイルと違い、姉はすぐにまんざらでもない面持ちになった。
「そうねェ、この子もいい匂いだし……悪くないわネェ」
「きらきらのウロコ、アタシ欲しいワ、欲しいワァ」
「おい、勝手に決めんな!」
「選びたいノ? いいわヨォ、どちらでも」
セイルはぐっと息を詰める。姉蛇の熱っぽい目に返答を促されるとますます言葉が出てこない。
確実に言える。命に勝るものはない。三十年だからいいとかそういう次元の話ではない。対するウロコとは何のことだろう。蛇女の口振りからすると命に匹敵するほどの物のようだが。
両手の平をじっと見つめた。ひっくり返して手の甲を観察し、それから両腕をさすった。至って普通の肌だ。どこにウロコがあるというのか、蛇女の目は節穴か。
――いや、身に覚えがないからこそ承諾していいのではないか。勝手に勘違いしているのなら儲け物だ。
「……ウロコでいい。その代わり命の水と交換だからな!」
蛇女らをまっすぐに見据えて人差し指を向けた。姉蛇が妖しく微笑む。
* *
辺りに新緑の色が戻ってきた。緩やかな傾斜がつき出した道をセイルは小汗をかきながら登った。
黒猫の姿はとうにない。案内役を買って出たはずの蝶は気配こそ頭上にあるもののすっかり役目を放棄している。老婆と幼女のいる館へは勘で辿り着くしかなかった。
奪い返したブーツの中の左足が思い出したように痛みを伝えてくる。それも不快ではあったが、
「ひーどい! レーレ、きらーい」
非難の声とともにちくちく毛束を引っ張られる行為はもっと不愉快だった。始めは無視を決めこんでいたセイルもさすがに我慢の限界がきた。
「お前いい加減にしろって」
「レーレ、ちーがう! レーレ、イーヤ!」
「もういいだろ? 結局交換しなかったじゃん」
「ちーがう! キラーイ、ひーどい!」
「……言ってろ」
息が切れる。顔は火照って首筋が痒い。時折吹いてくる緑風だけが慰めで、吹き出る汗を手の甲で拭いながらセイルは黙々と足を動かし続けた。
山を登りきると日差しは大きく傾いていた。木漏れ日がきらきら降り注ぐ森は美しいが薄暮に沈む前には抜けねばならない。
「無事なようだな」
耳朶を打った低音にハッと振り仰いだ。まさにそのタイミングで頭に衝撃が降ってきた。「いってぇ!」と頭を抱えるのももう三度目だ。
しゃがんで唸っていると視界の隅に黒い前足が入ってきた。
「お前……いっつも踏み台にしやがって」
「目当ての物は手に入ったか」
「謝る頭はねえのかよ」
「キラーイ、いたーい」
「蝶、うるせえ!」
舌打ちしつつもセイルはポケットに手を入れた。親指と人差し指で摘んだ小瓶を猫に突き出した。瓶を左右に振る動きに合わせて飴色をした水がちゃぷちゃぷ揺れる。
黒猫は僅かに目を眇めた。
「あのなあ、お前知らねえみたいだから教えといてやるけど沼って言うんだよあれは」
「……こっちだ、ついてこい」
「あ、おい聞いてんのかよ」
猫はさっと踵を返し、数歩離れたところで小さく振り向いた。一言「急げ」と呟くとどんどん斜面を下っていく。
「なんだよ! なんで急がなきゃなんねー……え、まさかアイツに何かあったのか!? なあ!」
「黙って歩け。舌を噛む」
「かーむ」
「噛まねえよ!」
道無き道を行き、猫を追って急斜面を降りていくとやがて大樹が見えてきた。蔦の絡む幹はひんやりとしていた。
やっと戻ってきた。大きく息をついた瞬間セイルの身体がぐらりと傾いだ。え、と膝をつくと大量の汗がぼたぼたと地面に吸いこまれていく。
――なんだこれは。
視界の縁がちかちか眩しかった。気持ち悪い。なんとか顔を上げればじっとこちらを見つめる金色の双眸と目があった。ヤツは何か知っているのではないか、そう思うものの舌は空回って言葉にならない。
「みゃー」
黒猫が発したのはいわゆる猫の鳴き声だった。のんきに鳴いてんじゃねえ、その思考を最後にセイルの意識は暗転した。
次に目が覚めたのは、それから丸二日後のことだった。




