18.泉の住人
決してなだらかではない山道を黒猫はひょいひょい下る。勝手知ったる庭なのだろう。斜面が陥没していようがぬかるんでいようがお構いなしに進んでいく。
――道理であの幼女が案内役に推していたわけだ。
頭の片隅にしゃしゃり出てきた得意顔はさっさと追い払い、セイルは小走りに猫を追いかけた。音を一切立てないのですぐ姿を見失いそうになる。
「ぅわっ!」
突如足首を掴まれ、たたらを踏んだ。手近な木にすがりついたセイルは舌打ちする。どうせ犯人は見つからない。だから振り返る必要はない。
「人気者だな」
揶揄の籠った声にむっと顔を上げた。数歩先にある小さな影は相変わらず無表情だ。
延々繰り返される嫌がらせにも腹は立つがこの猫は猫でいけ好かない。
何故今になって協力を申し出てきたのか。ガキの話では確か案内を渋っていたはずだ。腹を探りたくても返ってくるのはトンチンカンな言葉ばかり、それでセイルが眉を顰めればさも馬鹿にした空気を醸し離れていく。
セイル自身、そういう駆け引きが不得意なのは認める。認めるが、遠回しな言い方でわざとわかりにくくしているのは向こうの方だ。考えれば考えるほど裏があるとしか思えず、かといってそれが何かは見当もつかず。
世話焼きか、はたまた親切なメス猫か。そんなふうに考えていた昨夜が懐かしい。威張った口調も勝手気ままな態度も全くといって可愛くない。
誰かに似ている気はするのだが――。答えの糸口は掴む前にするりと逃げてしまう。
金の双眸がちらとセイルの頭上を一瞥した。どうやらさっきの皮肉はもう一匹の同伴者をも含むらしい。
「そう見えるんならやめさせろよ、これ」
「諦めろ。一途が取り柄だ」
「はあ?」
眉間に深くしわが寄る。猫は意味ありげに沈黙し、踵を返した。想定内の態度にそれを見送る顔も半眼になる。
溜息をつきつつ一歩を踏み出して、セイルは視線を上向けた。
「お前いい加減にしとけよ。温厚なオレもそろそろ怒るぞ」
「イーラ! あーっち!」
「イーラはもういいっつってんだろ。何度言ったらわかんだよ、代わりがあるってアイツが」
「ちーがう! あーっち!」
甲高い声と同時に髪が引っ張られる。大した痛みがあるわけではないし、抑止力にもならない。ただ鬱陶しい。ここまで散々払いのけようと試みたが蝶がいなくなるのは一瞬だけ、数歩歩けば再び毛束を掴まれていた。そうしてやいのやいの喚かれている。ちなみに蝶の足でどうやって髪を掴んでいるかはわからずじまいだ。
また深い溜息が漏れた。結局は黒猫の言う通り、諦めるのが賢明なのだろう。それができれば苦労はしない。
セイルたちの前に倒木が立ちはだかった。何本もの大樹が折り重なり、その高さはセイルの背を優に超える。
――あれを越えるのか。
身体能力は決して悪くないセイルである。それでも猫の身軽さには遠く及ばない。
げんなり溜息をつきかけた次の瞬間、前を行く黒い塊は忽然と姿を消した。
「は? ……ええ!?」
目を瞬かせた。前後左右、倒木の上から下まであちこち視線を彷徨わせるもそれらしいヤツは見当たらない。一息に飛び越えたようには見えなかったが、まさか何か不思議な術でも使えるのか。
慌てて駆け寄ってみれば答えは至極簡単だった。猫一匹がちょうど通り抜けられるだけの隙間があいていた。向こうで待ち構えている小さな影。
「おい、猫!」
当然セイルが抜けられる穴ではない。半眼で睨めつけると金の双眸はついと横を向いた。
「全く、人間は不便だな」
結局大回りをしたセイルたちはその後も黙々と歩を進めた。
髪を小さく引かれる気配から、蝶はずっとセイルの頭にくっついているらしかった。疲れたのかあるいは気が済んだのか。
傾斜が終わりを告げ、森の空気がふっと変わった。ひんやりした風が肌を撫でる。辺りの木々は黄金色に色づき、足元には同色の落ち葉が絨毯のごとく広がっている。
黒猫の足が止まった。
「ここまでだ」
「んん、着いたのか?」
「この先に泉がある。お前ひとりで行ってこい」
「……なんだよそれ、無責任じゃね? 案内するって言ったのお前だろ」
「無責任。どの口が言うんだかな」
セイルの口許がひくついた。黒猫は何かの気づきを得たように「ああ、ひとりじゃ怖いのか」と独り言ち、セイルの握り拳にはさらに力が籠っていった。馬鹿にしている。
言い返すべく息を吸いこんだ。そこでセイルはようやく糸口を掴んだ。
――ウィルだ。
回りくどくて偉そうな物言いも、態度が冷たいところも何もかも。この猫はセイルのすぐ上の兄・ウィルトールに似ている。だから苛立つ。
得心がいくと怒りはほんの少し和らいだ。あの兄と一緒ならば相手にするだけ無駄というもの。不快感を全て吐き出し、髪をがりがり掻き回す。
「お前の問題は、都合の悪いことを都合よく忘れているところだ。思い出せないなら知るべきだと思うが」
耳朶を打った低い声に手が止まった。金色の瞳はセイルをまっすぐ見据えた。
「ここには様々な者たちが棲んでいる。力のある者ない者、体格や気性も千差万別だ。その精霊たちが全く姿を現さない。オルジュは今のお前は無害だと言って聞かせていたが、信を集めるオルジュの言でさえ皆に届いたかどうか。実害を被った一族は決して味方しないぞ。イーラが良い例だ」
「イーラ? え、オレが何かしたって言うのか」
「さてな。話す気にならん」
カシカシカシ、と後ろ足で首を掻いていた猫はそのうち毛繕いをし始めた。自分から話をふっておいて、これのどこが無責任ではないというのだろう。
黒猫はふいと立ち上がった。とっとっと、と数歩離れて振り返る。
「まあ、泉の住人は過去など気にしない。性格に少々難はあるが上手くやりさえすれば望みは叶うだろう。お前次第だ」
言うが早いか猫は高く飛び上がった。普通ではあり得ない跳躍力だ。颯爽と木の枝に飛び乗ったあとはセイルを一瞥し、彼はあっという間にその場から消えた。
* *
「性格に難あり? アイツこそどうなんだよ、〝お前が言うな案件〟じゃねえの?」
愚痴が止まらない。誰が見ているわけでもなし、全開の不満顔でぶちぶち零しながらもセイルは仕方なく前へと進む。
かろうじてわかるような獣道はやがて細い小川とぶつかった。下流の方へ視線を滑らせていくと鬱蒼と茂る藪の下を流れていくようだ。では上流はどうかといえば先に小さな泉が見える。
緑色をした水の透明度は低かった。膝をつき覗きこんでみるが浅いのか深いのか全然判別できない。おい猫、これは泉じゃない。沼だ。
とはいえ精霊が棲んでいそうな雰囲気は確かにある。片手を口に添え、セイルはすっと息を吸いこんだ。
「あーー……。ええと待てよ、あれっ?」
始めこそ威勢のよかった呼び声はだんだん尻すぼみになり、添えていた手でもって口を覆った。
そういえばここに棲んでいるのは一体どんな精霊なのか。名前もわからなければ蜂蜜に代わるシロモノが何かも聞いていない。
思わず梢を見上げていた。
「アイツ……!」
前言撤回、あれのどこが案内役だというのか。一番肝心な情報を忘れている。
きらきらしい金色の隙間に黒い影が隠れていないか、セイルは目を皿にして探し出した。ヤツのことだ、どうせまた高みの見物をしているに決まっている。
「やァだ珍しい。人間じゃない」
不意に甘ったるい声が響いた。それもセイルの真下から。
反射的に飛びのいていた。そうしながら小柄な人影を視界に収める。
「……お前がここの住人?」
いつからそこにいたのだろう。泉の中から両肘をつき、上目遣いにゆったり微笑んでいるのは見知らぬ女だ。下ろしたダークグリーンの髪はぬらぬらと輝き、長い前髪の奥に覗くアーモンド型の目はセイルを捉えて妖しげに揺れる。
「アナタ、ステキな水の匂いを感じるわァ。風の子を髪飾りにしてるノ? それ、流行ってるノ?」
「はぁ? 髪飾りって」
「いいわね、アタシも欲しいなァ。欲しいわ、それ欲しいわァ。ちょうだい」
上向けた両手の平が差し出される。訝しみつつセイルが頭に手をやれば、その指先を何かが掠めた。見上げた先で蝶がひらりはらりと羽ばたいている。
「あー……」
「イーラ! ちーがう!」
「こんなのでいいんなら喜んでやるけど。その代わりオレも欲しい物があってさ、」
「イーラ!」
「お前ちょっと黙れ」
「――アアわかっちゃったァ。みんなが騒いでる元凶、アナタでショ? 洪水を起こした水の愛し子」
蝶を捕まえようと伸ばした手はそのまま、セイルは再び女に目を向けた。時が止まったセイルとは対照的に、女はくつろいだ様子でのんびり髪を梳いている。
「噂は聞いてるわよォ。アタシも見たかったワ。眷属として鼻が高いもの。みんな、アタシたちにもっと敬意を払うべきよねェ」
「おい待て今なんて言った。洪水? オレが?」
「とぼけちゃって。こんなにステキな匂いのする人間、他にいるわけないじゃなァい。アア、いい匂い……だァいすき」
話が見えない。――いや、問題はもうそこではなかった。話が通じるように見えない。うっとりと見上げてくる赤茶色の瞳は禍々しい色に染まり、薄く開いた口から細い舌がちらりと覗く。よくよく見れば肌には鱗みたいな模様があって、もはや危険な匂いしかしない。まずい。早々に退散すべきでは。
一歩後ずさる。そのときセイルの頭上でざあっと梢が鳴った。巻き上げられた無数の葉がまるで紙吹雪のごとくはらはら舞い落ちる。金色に染まった視界に一瞬黒い色が映りこんだ気がした。
「ちーがう!」
甲高い声が響いた。はっと息を飲んだセイルは身体の両脇で拳を握りこんだ。
一体何をしに来たのか。ここの住人が危ないことは前もって聞いていた。それも性格に難のあるヤツがわざわざ念を押してくるぐらいだ、このくらい想定の範囲内と見るべきだ。
それより目的を達成するにはどうすればいい。出方次第と簡単に言うが、この女がすんなり交渉に応じるとも思えなかった。とは言え今度こそ失敗できないのも事実。
唇を引き結びうんうん唸っていたセイルは、最終的に大きく息をついた。
「……蜂蜜の代わりになるもんがあるって聞いた」
「エエ、なァにそれ」
間合いをしっかり取りつつ女を真正面に見据える。セイルはごくりと唾を飲みこんだ。
「オレはそれが欲しい。取り引きしたい」




