17.聞く耳持たぬ
ちらちら飛んでいく青を小走りに追った。
見失ってたまるかと意気ごんだのは始めのうちだけで、蝶の飛行経路はひたすら道なりだ。案内の必要性がわからない。
ガイド気取りの蝶を横目にセイルは上着のポケットを探る。取り出したのは何の変哲もない至ってシンプルなガラスの小瓶。館を後にする際、フウラから押しつけられたものだ。
「こんな量でいいのか……?」
親指と人差し指で摘まんだそれをためつすがめつ眺めてみる。このサイズだとおそらくティースプーンで二杯あるかどうか。わざわざ出向くのだから貰えるだけ貰った方がいいのではないか。たくさん飲ませた方が回復量も多いに決まっている。
軽く掲げて透かし見た小瓶は振っても中の空気が色づくことはない。清々しい朝の光を通すのみだ。
「……おっと」
不意につんのめった。振り向き様に見つけたのは地中から顔を出したある物だった。まるで罠のごとく美しい半円を形作った、
「木の根……? うわっ」
体勢を立て直した矢先、重心のかかっていた右足に何かが絡みついた。身構える間はない。思い切り引っ張られ、青々と繁る梢が視界を縦に滑っていき――直後鈍い音とともに背中に衝撃が走った。
詰めていた息を吐き出す。そろりと目を開けたセイルはすぐに腕で顔を覆った。陽光が眩しい。
「……なんなんだよ」
もう片方の手で下肢をさすった。確実に違和感は残っているが身体にも、また辺りにも目立っておかしなものは見当たらなかった。けれど今のは間違いなく〝妨害〟だ。
「卑怯だぞ! いい加減出てきやがれ!」
立ち上がるや否や、側の高木を蹴った。一息に吠えたセイルに返ってきたのはさわさわ忍び笑うような梢のささめき、よそよそしさ。歓迎されていない雰囲気は感じられるのに、肝心の姿を見ることが適わない。
今の自分は視えるのではなかったのか。
むっとしたまま足を踏み出したセイルは次の瞬間弾かれたように宙を仰いだ。
天は光に溢れていた。踊る木漏れ日と瑞々しい息吹、相変わらず生き物の気配のない穏やかな風景。
「おい! 蝶! 返事しろ!」
怒声が虚しく響いた。返事はない。セイルは舌打ちすると最悪な気分で歩き出した。
――あらためて確信する。信用ならないやつが認めた者は同じように信用ならないのである。
自らガイドを名乗り出たなら最後まで案内を務めるのが筋というものではないか。そう思う一方で想定の範囲内だと諦めもついていた。所詮は小さな虫ケラだ。自分勝手に飛んでいくしか脳がないものに腹を立てるのが間違っているのだ。
それとも、と立ち止まる。薬の効果が切れたのだろうか。
数秒後頭を振るとセイルは再び歩き出した。幾らなんでも早すぎる。計算高いあの幼女がそんな粗悪品を用意するとは考えにくい。
前方にどっしりとした存在感を放つ幹が見えてきた。ここを通るのももう何度目か。目印というよりもはや知己のような心持ちで、蔦が覆う表皮を二、三軽く叩く。
ここを過ぎればヴィーナ湖を臨む丘はすぐだった。セイルの見立てでは本日の目的地はそれより先。おそらく昨日倒れていた場所より向こうへ下っていくのだろう。ひたすら続く登り道を思うと出てくるのは溜息しかない。
なにしろ罠に注意しながら進む時点でもう疲れてしまう。昨日もこんなにあっただろうか。ぬかるみに閉口した覚えはある。が、その後カレンフェルテを連れて歩いたときはその事実すら忘れていなかったか。
「ちーがう! のーろま!」
大樹を回りこんでいた足が止まった。いつからそこにいたのか、少し離れた場所でひらりはらりと羽ばたいていたのはあの蝶だ。
「お前! 今までどこに……いや、誰がのろまだっ」
「イーラ、こーっち! はーやく!」
「あっこら、無視すんな!」
気ままなガイドはあっという間に遠ざかっていく。
今度こそ見失うわけにいかなかった。獣道ですらない急勾配をよじ登り、自分の背丈ほどもある巨大な倒木もなんとか乗り越えた。やっとのことで斜面を登りきると急に目の前が開けた。頂上だ。
視界いっぱいに広がる雄大な空と緑の大地。どうやらヴィーナ湖とは別の方角に来たようだ。見渡す限りどこまでも続く森の一ヶ所には三日月のような形をした湖――大きさからすれば池か――が覗いている。
「こーっち! はーやく!」
脇から届いた声に振り返ると蝶はすでに切り立った狭い尾根の先だった。ここを行くのかよ、とは思っても絶対口にはできないセイルである。強い風が髪や額を乱暴に撫でる中、優雅に飛んでいく蝶の後を無言で追った。
「イーラ! イーラ!」
見上げるほどもある大岩の片隅、縦に走った細い割れ目の前で蝶はくるくると円を描いた。目的地に着いたようだ。
セイルはゆっくりと膝をついた。出入口と思われる亀裂の上端は膝の高さと同じくらい。存在を隠すがごとく長く伸びた草を掻きわけ、中を覗きこむ。
「えーと……おーい」
間の抜けた呼び声に対する返事は幾ら待ってもなかった。むう、と眉を顰めて目を凝らすが内部は闇が濃く、どうなっているのかよくわからない。
ちゃんと名を呼ぶべきなのかもしれない。だが馬鹿を見るだけではと思うと喉の奥につっかえて出てこない。同伴者の蝶でさえこちらの話を聞く気がないというのに、果たしてここに棲む精霊とやらは呼び掛けに応えるのか。交渉は可能か。
ふと耳がか細い低音を捉えた。空気を震わすような低い音が微かに聞こえる。
「なんだ?」
辺りを見回していたセイルの視線はやがて岩の割れ目に引き寄せられた。発生源はここか。耳を近づけたセイルは一瞬後ハッと息を呑んだ。
「うわっ!」
瞬時に背後に飛び退いていた。一拍遅れて爆風が額を掠めた。直撃は既のところで避けたものの酷い耳鳴りがしていた。理解が追いつかずに尻餅をついたまま、セイルは呆然と割れ目を眺める。
「アァれェェ……」
亀裂から吹き出してくる風と低い音。それらがびりびりと腹に響いた。音は発生源の異なるものが一斉に鳴り響いているようにも聞こえる。
「アァ……ェェ……さアァれェェ」
「……い、イーラ、か?」
「アァァ……」
明らかに人間の声ではない。動物の鳴き声でもない。ふたつの高さの音を交互に繰り返す低音に身構えつつセイルはそろりと立ち上がった。
大岩に向かって一歩を踏み出す。だが二歩目は地鳴りに阻まれた。割れ目から吹き出した黒い煙が、セイルめがけて一直線に飛んでくる。
「わっ!」
煙はセイルを一気に包みこんだ。無数の針で突かれるような痛みが全身に走った。ひゅっ、と口の中に飛びこんだ煙が暴れまわる。たまらず吐き出すとセイルは歯を食い縛り、両腕を振り回しながら一目散に駆け出した。
* *
どこをどう走ってきたのか。気づけば鬱蒼と繁る森に戻っていた。その場にへたりこみ、ぐったり上体を折る。
――あれは虫だ。
大きさはおそらく親指の爪程度。何百、何千匹の小さなそれらが一団となって飛ぶ様が煙の正体というところか。あちこち刺されたようだが今のところ支障はなさそうだ。
「イーラ! あーっち!」
甲高い声音が耳に痛い。力なく顔を上げれば蝶が抗議するようにぐるぐる飛びまわっていた。
「……ほらな。全然話にならねえじゃん」
「イーラ、あーっち! イーラ、ちーがう!」
「もういいって。向こうが話す気ねえんだから」
「ちーがう! イーラ、ちーがう!」
「はあ? 何が違う……」
セイルは胡座をかいた足に頬杖をつく。騒がしく円を描く蝶をしかめっ面で睨むこと数秒、ふと片眉を上げた。
「……イーラじゃねえ、のか? あの黒いの」
「ちーがう! ちーがう!」
声に喜びが満ちていた。その上くるんと宙返りのおまけ付きだ。半眼で眺めていたセイルは前のめりに「じゃあ、」と続ける。
「何なんだよ、あれは」
「なーんだよ」
「さっきのやつ。虫がいっぱいいただろ。イーラじゃねえなら、なに」
蝶は飛び回るのをやめた。その場でひらりはらりと羽ばたいていたが、やがて「イーラ!」と声高に叫んだ。セイルの眉間に深い溝が刻まれる。
「はああ? 違うって今言ったじゃん」
「ちーがう、イーラ! いーっぱい、イーラ!」
「何言ってんだお前?」
羽ばたくごとに鮮やかな青をひらめかせ、蝶はぐるぐる回り出す。セイルは渋い顔で再び頬杖をついた。会話が不自由すぎる。
頂上にぼんやり視線を投げた。もう一度掛け合ってみるべきか。現状、何もせず尻尾を巻いて逃げたと言われれば反論できない。あの幼女に見下されるのだけは避けたい。
「無駄足と言っただろう」
まるで頭の中を覗かれたようなタイミングだった。初めて聞く低い声は確実に蝶のものではない。
視線を巡らせてセイルはあっと声を上げた。すぐ側の高木の枝に黒い毛並みの小動物がいた。前足を行儀よく揃え、こちらを見下ろす金色の双眸には図らずも覚えがある。
「猫! お前なんで……!」
「てっきりフウラが伝えたと思ったが。イーラは出てこない。何度押しかけようと同じだ」
「なっ……行ってみなけりゃわかんねーだろ!」
「悠長なことだ。俺ならもっと効率よく動くぞ」
「じゃあどうしろって言うんだよ。……いってえ!」
黒猫が枝を蹴った。セイルの頭を中継し、音もなくふわりと地に降りる。前回より格段に高い位置から降ってきた衝撃に頭を抱え唸っていると、猫は数歩離れたところで足を止めた。見返してくる金の双眸がきらりと光った。
「蜂蜜よりいい物を知っている。……来るか?」




