16.小さなガイド
片隅にひっそり佇むシェルフに気づいたのは小径を二往復もしたあとのことだ。横板を渡しただけの簡素なそれ。木製の枠組みには何かの蔓植物が這い上がるように絡みつき、すっかり自然物の一部と化している。三段なのに物が置かれているのは中段と下段だけ、雨ざらしでも問題ないジョウロやシャベルなどが整然と置かれていた。
セイルはまっすぐ足を向ける。シェルフではなく隣に並ぶ収納箱の方へ。片膝をつき、古びた蓋をそうっと持ち上げた。が、求める姿はもちろん、めぼしい物も見当たらない。
何気なくシェルフの下段に目をやれば、奥に隠すように押しこまれたバケツがあった。ちょうど猫が丸まってくつろげそうなサイズだ――。小さく頬を緩め、セイルは静かに手をかける。
一瞬後、一気に引っ張り出した。
バケツは拍子抜けするほど軽かった。ここもハズレか。半眼を閉じ、立ち上がるついでに蹴っ飛ばせばバケツはがらんがらんと派手な音を立てて転がっていった。
「……だああああめんどくせえ!」
がりがり髪を掻きむしる。腰を伸ばしたセイルは辺りを見回し、やがて引き寄せられるように屋敷へと足を向けた。勝手口と思しき扉近くの階段に座りこむと身体中の苛立ちを全て吐き出した。
靄がだいぶ晴れてきた。周りを取り囲む植え込みはしっとりと濡れ、朝の光をきらきら弾いている。投げる視線はその根元辺りに自ずと落ちた。黒い影がどこかに潜んでいまいか、死角になって見えないだけではないのか――もはや視界に入る全ての箇所が疑わしい。
だが今こうしている間もヤツは高みの見物と称してこちらを眺めているのかもしれない。前足を品良く揃えた姿が思い出され、ますます向かっ腹が立ってくる。
やがてセイルの耳はぱたぱた近づいてくる軽い足音を捉えた。
「こちらでしたの」
眉間に力を込めたまま振り仰ぐ。見下ろしていたのは声音通りの澄まし顔だ。こましゃくれた幼女に向かってセイルは片目を眇めるとゆっくり頬杖をついた。
「どこ行ってんだよお前。オレだけに探させて」
「支度が整いましたわ。どうぞ」
「は、支度? アイツ見つかったのかよ?」
返事も聞かずにフウラは踵を返す。左右でふたつに結われた長い白髪がふわりと舞った。
小さな背中はテーブルセットの前で止まった。玄関ポーチ脇のテラスだ。テーブルには柄の違う端切れを縫い合わせた布がかけられ、その中央に蓋つきのバスケットがまるで重石とばかりに乗せられていた。
フウラはそこから中身を次々取り出していった。蔓薔薇の絵が描かれたティーポットに同じ模様のカップとソーサー、サンドイッチの乗った平皿、それからプラムがひとつ。
「お口に合うかわかりませんけれど」
ポットの中身を注ぎ終えてフウラが退いた。
食事を認識した途端に胃が騒ぎ出す。そういえば昨夜は甘ったるい茶のみで空腹を凌いだのだった。両手を重ね行儀よく控える幼女に一瞥をくれたあとセイルは席に着いた。おもむろに手にしたカップはほんのり温かく、柑橘系の爽やかな香りを漂わせている。前日の茶とは別物らしい。そのまま口に運ぼうとし、セイルはちらと視線を投げた。
「……変なもんは入れてねえだろうな?」
「何がですの?」
「眠り薬、とか」
「まあ。今あなたを眠らせて何になるんですの? 不用でしたら片付けますわ」
フウラが両手を腰に当てた。顔にはほとほと愛想が尽きましたとはっきり書かれている。
しばらくカップ越しに睨み返していたセイルは、視線は逸らさず口をつけた。僅かな一口におかしな点は感じられない。独特な風味がスッと鼻に抜けたがそれだけだ。変な甘さがない分、昨夜腹に押しこんだものよりは飲みやすい気がする。美味くもないけど。
次にサンドイッチを無造作に掴んだ。挟んであるのは至って普通の玉子のようだった。贅沢を言えばもう少し塩っけが欲しい。
「結局ニームは見つからないんですのね?」
二つ目に伸ばした手が思わず宙で止まった。む、と横目で見やればフウラは自身の頬に片手を添えていた。
「困りましたわ。案内がいないことにはとても辿り着けませんわ」
「あの猫じゃなきゃ駄目な理由ってなんなんだよ。他に知ってるヤツは? お前知らねえの」
「おおよそはわかりますけれど……わたくしはここを離れられないんですの。そういう契約なんですもの」
「じゃあ地図でいい。あるんだろ? わざわざ案内してもらわなくたってそれがあれば――、んう?」
三つ目のサンドイッチを齧ったセイルの言葉が止まる。じゃり、と噛み砕いた何かから溢れ出す妙な味。
殻か? とよぎったのは一瞬のこと。それ以上を考える間はなかった。弾かれたように立ち上がったセイルは咀嚼物を草むらに吐き出し、カップを呷った。それだけでは足りずポットに直に口をつける。
「……おい! お前、これ、なに……!?」
「どうかなさいました?」
「からい!」
口内が熱く痺れていた。鼻に抜ける香りすらとてつもなく辛い。むしろ痛い。熱い。今なら火が吹けるかもしれない。
「あら、胡椒が固まっていましたかしら」
申し訳ありませんでしたわ、とフウラは頭を下げてみせる。相変わらずの澄まし顔を見れば形だけの謝罪であるのは明らかだった。
――このガキ、確信犯か。
さすがに幼児を痛めつける趣味はセイルにはない。とはいえ椅子の背もたれを掴む手に力が籠っていく。
そのとき何かがふうわりと横切った。手の平大の物体が影の色をまとって飛んでいく。風景が滲むような錯覚にまばたきすればそのたびにちらちらと鮮やかな青が浮かんで見える。
フウラが手を伸ばした。指先にゆったり止まったのは後翅に長い尾を持つ蝶だ。
「イーラ、しーってる。レーレ、いーく!」
「まあ。あなたが案内役を?」
「あーんない! レーレ、いーく!」
蝶を見つめる虹色の双眸が丸くなると同時にセイルも眉間に皺を刻んだ。辺りを見回し何度もまばたきし、耳には手を当てたり離してみたり。だがいくら目を擦ったところで光景は全く変わらない。
フウラは伸ばしていた手を引き戻し、真摯な面持ちで首を傾けた。
「本当にお任せしてよろしいんですの?」
「しろむーすめ、すーき! おーんじん。レーレ、あーんない!」
「わかりましたわ。それではお願いいたします。この人間をイーラの元まで――」
突然ぱんっと乾いた音が響いた。反射的にフウラが振り返り、蝶はふわりと浮かび上がる。
おもむろに両腕を組む幼女の訝しげな視線を受け止めつつ、セイルは呆然と立ち尽くしていた。両頰に打ちつけた手はそのままに。
「……何をしてるんですの?」
「……しゃ、」
「しゃ?」
「しゃべっ……るわけねえ、よな……。虫だし。……お前、腹話術できんの?」
頰に残る痛みは現実のものだ。だからこれは夢ではない。空耳でなければガキの小細工としか考えられない。
フウラは即座に冷めた瞳を向けた。
「あなたの頭が足りないことは重々承知しているつもりですけれど……わたくしのどこを見ればそんなとんちんかんな答えが出てくるんですの? それに、あの子は虫ではありませんわ。同胞です」
「どこからどう見ても虫じゃん! まさかあれが精霊って言うのかよ!? んでお前は雪花人って!?」
まくし立てながらストンと腑に落ちる感覚があった。白い髪に白い肌、加えて動物と話すことが出来るなど雪花人以外いるわけがない。何故今まで気づかなかったのだろう。
セイルはよろめく足どりで椅子に腰を下ろした。同時に沈黙も落ちる。半眼を閉じていたフウラはやがて花が綻ぶようににっこりと口角を上げた。
「では、あなたも雪花人ということになりますわね? あの子の声、あなたにも聞こえているみたいですもの」
「……は?」
「というのは冗談ですけれど。思った以上に効くのが早くて助かりますわ」
セイルが大きく瞬いた。それから未だ痺れの残る喉にハッと手をやる。
口を開きかけたまさにその瞬間、フウラの人差し指がピタリと当てられた。
「心配なさらずとも人間が〝魔術道具〟と呼ぶ物と大差ないですわ。それより、早く行かないと効き目が切れてしまいますわよ」
セイルの言葉を封じた指をフウラはそのまま空へと掲げた。つられて視線を巡らせれば小さな影がひらりはらりと遠ざかっていく。
* *
橋を駆けていく背中はあっという間に消えた。
「御しやすくて何よりですこと」
フウラはテーブルへと視線を戻した。真っ先に取り上げたのは蔓薔薇模様のポットだ。顔の近くで振ったあと、念のため蓋を開けてみる。
「……上々ですわね。さあ、あのイーラ相手にどう渡りをつけますかしら。お手並み、拝見させていただきますわ」
空のポットをバスケットに戻し、幼女はにんまりと口の端を吊り上げた。




