15.同居猫
テーブルの下に転がっている小さな塊。それが昨夜食べた焼き菓子だと気付くのにセイルは数分を要した。わかってしまえば後は速いもので、脳内には少女の膝の上に危なっかしく乗っていた器が映し出される。あんなところに菓子が落ちていた覚えも、器を取り上げる際に落とした覚えもなかった。セイルが気付くより先に落ちたのだろう。
「何故、黙っていたのです?」
カウチにふんぞり返り頬杖をついていたセイルは声のした方に目だけを向けた。
朝の光に照らされた室内の一角、ベッドの前に老婆の背中があった。枕元にかざされていた皺だらけの手はやがてゆるりと下ろされた。振り返ったオルジュの瞳にははっきりと非難の色が宿っている。
「昨夜のうちにわかっていれば、無駄に体力を消耗せずに済みました」
「……わかるわけねーじゃん」
セイルは目を眇めて独り言ちた。組んでいた足をわざわざゆっくり組み直す。
さもセイルの過失であるかのように責められるのは不愉快極まりなかった。異変に気付けるわけがない。女の普段の様子などまるで知らないのだから。ガキが気付かなければおそらく今も放置していたことだろう。
老婆の肩越しに見えるカレンフェルテは頬を上気させ、浅い呼吸を繰り返していた。誰が見ても発熱しているのは明らか。だが昨夜はそんな素振りはなかったはずだ。カウチへと引っ張った手もむしろ冷たかった。
――夜も更けたあのときベッドに運ぶ選択をしていれば、もしかしたら気付いたのだろうか。散々迷ってそのままにしてしまったが、結局運ぶことになるなら昨夜のうちにしていればよかったとさえ思う。老婆とガキ、二人の白い目に晒されながら抱きかかえることの居心地悪さといったら。
「今更でしたね」
溜息混じりの声が思考に割りこむ。ハッと目を向ければ老婆の視線は既に幼女に向いていた。
「フウラ。今から言う薬草を用意なさい。イーラの蜂蜜はまだありますか?」
「イーラのものでなくてはなりませんの?」
「この娘が毒に打ち勝てるかどうかは体力次第になるでしょう。なければ分けてもらうしかありません。もっとも――」
「おい、毒ってなんだよ。山歩いて、疲れが出たんだろ?」
しばしの間があった。両手を腹の前で重ね、正面に向き直ったオルジュの瞳は変わらず冷たい色を湛えていた。思わず腰を浮かせたセイルにわざとらしく嘆息する。
「これは毒からくる熱、私の見立てではガラタによるものです」
「ガラタ?」
「この辺りに群生する低木ですわ。葉の表面が毛のような棘に覆われていて、毒はそこにあるんですの。細い幹にも鋭い棘がたくさんついていますのよ」
眉を顰めるセイルの後ろから澄ました声が響いた。振り向けば「そんなことも知らないのか」とでも言いたげな冷めた双眸と目があってますますムッとなる。
「オレの街にはねえからな」
「あら残念ですこと」
ツンと答えたフウラはそれ以上セイルと話す気はないようで、くるりと背を向けてしまった。テーブルに乗っていたポット類を手早く片付け、持ってきた布巾で卓上を丁寧に拭いている。小さなワゴンに移されたカップや深皿に何気なく目をやったセイルは次の瞬間あっと声を上げた。
「それだ!」
大股でどかどかとテーブルをまわりこんだ。一口でげんなりしてしまった焼き菓子と茶。何故あそこまで甘ったるくしなければならなかったのか――味覚が合わないとしか思わなかった昨夜の自分が恨めしい。
「犯人、お前だな」
「いきなり何ですの?」
「毒入れたんだろ! アイツ、旨いって何個も食ってたし、そのナンタラってわけわかんねえ木よりよっぽど怪しいじゃん!」
ワゴンを指差して怒鳴った。おもむろにセイルが拾い上げたのは死角になって存在を忘れ去られていた小さな塊だ。
迷惑そうに口許を歪ませていたフウラの顔色が僅かに変わった。セイルは強い確信とともにそれを老婆の鼻先に突きつけた。半ば押し付けられるように受け取った菓子をじっと見つめていたオルジュは、やがて静かにフウラに目をやった。
「異論は?」
「……申し訳ありません。おやすみのお邪魔をするわけにはと思いましたの」
「ほらな!」
セイルは両手を腰にやり、得意満面に胸をそらせた。偉そうな口をきく幼女を見下ろすのはなんとも気分がいい。
「ですが、」
凛とした声が響く。軽く腰を折って主人に詫びたあと、幼女はセイルに向き直った。
「毒ではありませんわ。一晩ぐっすり眠れるおまじないみたいなものですわ。よくおやすみになれたでしょう?」
「おまじない! そんなもんで熱が出るって言うのかよ!?」
「お言葉を返すようですけれど、病人の枕元でぎゃんぎゃん喚くあなたの方がよっぽど毒だとわたくし思いますわ!」
「よく言えるな!」
「そこまで」
静かな制止の声が上がった。幼女に向かって踏み出されたセイルの足がピタリと止まる。
オルジュは眠るカレンフェルテの腕をおもむろに取った。ご覧なさいと呼ばれ渋々ベッドに寄ったセイルは目を見張らざるを得なかった。袖の下から現れた右腕は酷く腫れあがり、幾筋もの引っ掻き傷がまるで何かの模様のように走っている。
「なんだこれ……」
「――熱は半日ほどで下がるでしょう。ですが小康を得たあとで呼吸困難に陥るのがガラタの毒です。感染する類いの病でないのは何よりでしたが油断はできません。こちらの回復も少しかかりそうですし」
今度は左腕を取る。同じようにまくられたその手首あたりに何かが巻きついたような青黒い痣がくっきり浮かび上がっていた。紐状のものでやられたのか強く締め付けられたらしい痕は見るからに痛々しい。
これが物理的な力によってできたものだというのはさすがのセイルにもわかった。道理であのとき触られるのを嫌がったわけだ。
『知らないうちに痛めてしまったみたいで』
ふわふわした小鳥の囀りが耳の奥に蘇る。どこか申し訳なさそうな色を滲ませていたのはセイルに遠慮をしていたからか、それとも詮索されるのを避けるためか。
「聞いていますか」
「は?」
思い耽っていたセイルは訝しげに振り向いた。オルジュは丁寧な手つきでカレンの腕を寝具の中に戻していた。セイルに一切構うことなく、淡々と手を動かしている。
「――あなたには二つの選択肢があります。一つは明朝、舟に乗って帰る方法。もう一つは私の言うことを全て素直に聞き、数日の後に帰る方法」
「明日!? どういうことだよ、今日貸すって言ったじゃん! オレはこんなとこに長居する気は」
「ならば祈っていなさい。娘の命が早く尽きるように。このまま放っておけばこの子はもたない。生きた人間は今日のうちにあなた一人になる」
脊髄反射の勢いで息を吸いこんだセイルはそのまま言葉を飲みこんだ。オルジュは背筋を正すとセイルを真正面から見据えた。
「ここは精霊の住まう森。こちらとしても早く出て行ってもらいたいのです。――どうしますか。わざわざ手を尽くすより、見送る方が早いですよ」
沈黙ののち、先に視線を外したのはセイルだった。逃げるように顔を背ければ自然と視界に入ってきたのはベッドに横たわる細い身体。
『お願いします。あなたと一緒に行かせてください』
『お父様のお言い付けですから……できるだけお考えに添いたいと』
真剣な眼差しや悲壮な横顔が次々と浮かんでは消えていく。まだ数えるほどしか会っていない。昨日再会したときだって受けた印象は〝ぼんやりした女〟だ。であるのに思い返してみればすでに様々な顔を知っている。
『良いご縁に結ばれることをお祈りしてます。またのご来店を』
たおやかにお辞儀をする姿が脳裏に蘇った。もうずいぶん昔に感じられる一件だった。季節は春真っ盛り、変装して出向いた薄暗い店内での短いやり取り。まっすぐに顔を上げ目をあわせた彼女がふわりと浮かべた微笑みは、例えるなら夜陰に紛れてそっと咲く白い花のようで。
眠る少女の長い睫毛が目許に落とす影を見つめながら、セイルはゆっくりと右手を握りしめた。
「……薬は、あるのか」
* *
朝靄がゆったり流れていく。気温があまり上がらないのはここが森の中だからか、それともセイルの想像以上に高地なのか。鬱蒼とした木々に囲まれどこが道かもわからない中、フウラは迷いのない足取りで進んでいく。
間もなく辿り着いたのは荒れた花壇と言うのがぴったりな一画だった。猫の額ほどの開けた土地に雑然と並ぶのは緑を基調とした地味な草ばかり。自邸の庭園に植えられているような華やかな花はもちろん、野菜の類いもひとつとして見当たらない。
フウラがぱたぱた駆けていった。雑草と見紛うそれらを検分していく幼女を横目にセイルは辺りを見渡した。といっても植物には明るくないセイルである。かなり独特な香りが漂っていること、相変わらず生き物の気配がしないのが薄気味悪いことの他は特に気になるところもない。
今しがた歩いてきた方を見やれば一晩過ごした屋敷が白い光の中でぼんやり浮かび上がっていた。蔦に覆われた外観だけを見るとまるで廃墟だった。あそこで一晩過ごしたのかと思うと実は化かされているのではという気になってくる。
「必要なものは全てありましたわ。この花、夏には全て枯れてしまうんですのよ。咲く時期はもう過ぎてしまったのではと思いましたけれど……幸運でしたわね」
戻ってきたフウラから満足げに示された籠の中には暗紫色の蕾の他、手のひら大の葉っぱが数枚入っていた。傾けると下からたくさんの小さな実がざらざらと転がり出た。
「……これが?」
「調合はオルジュさまにお任せすれば間違いないですわ。残るは蜂蜜ですわね」
「んなもんどうすんだよ」
「この黒い実がとてつもなく苦いのですわ。苦味を緩和するために赤い実を混ぜるのですけど蜂蜜からも同じ効果を得られますし、なんといってもイーラのものは栄養価が高いんですのよ」
「そのイーラって、精霊って言ったよな。オレが行く意味あんのか?」
籠の底をさらっていたフウラがきょとんと顔を上げる。セイルを捉えた虹色の瞳に朝の光が差しこんできらきらと不思議な色に煌めく。
この世界のどこかにいるとまことしやかに囁かれる精霊というもの。彼らが自然豊かな地を好んで住み処にしていると知ったのはつい最近、雪花人を調べるついでに得た知識だ。
「今まで見たこともねえんだぜ。この辺に何か棲んでるみたいなのは百歩譲って信じてやるけど、どうせオレには見えねえし。誰か交渉できるやつが行きゃいいじゃん。ババアとかさ、人間離れしてそうだから精霊も見えるんじゃね」
「見える見えない以前にあなたの場合、その失礼な物言いの方がよっぽど問題な気がしますわ」
フウラが鼻の頭に皺を寄せた。籠を抱いたままどんと足を踏み鳴らし、人差し指をセイルの胸に突きつける。
「あなた、オルジュさまに薬を用意してほしいとお願いしましたわよね。わたくし確かに聞きましたし、頭を下げるところもこの目で見ましたけれど」
「はぁ? 何見てたんだよ。誰が頭下げた?」
「あの娘を助けたいのはどなたなんですの!?」
セイルはむっと押し黙った。
頭を下げたつもりはなかった。ただ、薬があるのなら使えばいいと言っただけだ。女の命が確実に尽きると知りながら見捨てていけば寝覚めが悪くなると思っただけ。一緒に行かせてほしいと請われ、渋々だが了承はした。これを反故にすればもしかすると恨まれる可能性だってある。……長い髪の女が枕元に化けて出てくるような事態は全力で遠慮したい。
「ニーム! そんなところにいたんですのね。これからイーラの元まで案内をお願いいたしますわ」
フウラが明後日の方に向かって声を上げた。視線の先を辿れば一本の木の枝の上に見覚えのある小さな黒い影がある。
「ああっ! あの猫!」
思わずセイルは木の元に走り寄っていた。決して太くはない枝の上で黒猫は優雅に前足を揃え、金色の瞳でこちらを見下ろしている。
「そういえば昨日会ってるんでしたわね」
「あれ、お前が飼ってんのか!?」
「わたくしが? 冗談はよしてくださいまし」
嫌悪感も露わに見上げる幼女の姿にセイルは目を丸くした。猫を始めとする小動物はガキなら大抵好むものだと思っていた。
「ニームは言うなれば同居人ですわ。オルジュさまに助けられて、ご恩返しに一緒に住むようになって」
「それをペットって言うんだろ。野良が居着いたってことじゃん……イテッ」
突然降ってきた衝撃に反射的に声が出た。セイルの頭を中継点にふわりと飛び降りた黒猫は、ふたりを一度振り返るとさっと駆けていった。
「まぁ! オルジュさまの命ですのよ!? 待ちなさいニーム!」
フウラがぱっと駆け出した。セイルも仕方なく小さな背中を追う。
「おい、あれについていけばいいのか?」
「案内はごめんだそうですわ。無駄足を踏むだけだと」




