14.瞳にうつる色
柔らかなオレンジ色に照らされた室内は辛うじて温かみのある印象を放っていた。カウチやテーブルに多少の古さは感じるものの埃やカビ臭さなどはなく、管理は行き届いているようだ。
窓は正面にひとつ、隣り合う壁にももうひとつ。どちらも開かないことを確かめるとカーテンを元の通りに引いた。部屋の出入り口にも当然外から錠がかけられている。
思いきり蹴飛ばして跡がついた扉を睨み付けていたセイルは、舌打ちをする代わりに眉尻と口の端を吊り上げた。ガキのくせにやってくれる。
一通り見回したあと大きな音を立ててカウチに腰を下ろした。組んだ足に頬杖をついて、腹の底から深い息をつく。
閉じこめられたことについては文句のひとつも言ってやりたかったがどうせあとは寝るだけだ。幸い居心地はさほど悪くない。部屋の狭さからくる多少の圧迫感もこの際目を瞑ってやってもいい。明朝までの我慢だと思えばどうとでもなる。
「いつまでそこに突っ立ってんだよ」
未だ扉の前に佇むカレンフェルテに声を投げれば少女は小さく肩を震わせた。躊躇いがちに小さく一歩踏み出した彼女の二歩目は幾ら待っても出なかった。両腕をきゅっと胸元に寄せ、不安そうに辺りを窺う姿はどこか頼りなげでセイルはつい顔を顰める。こういう、如何にも声をかけてくれと言わんばかりのヤツは正直好きではない。普段ならば相手にもしない。だけど視界にずっと入られているのは邪魔で仕方ない。
やおら立ち上がったセイルはむっとした顔でカレンフェルテに歩み寄った。掴んだ手は汗が引いたのか少しひんやりしていた。半ば強引にカウチに導くと、カレンフェルテは足をもつれさせながらよろめくように腰を下ろした。
たっぷり数秒おいたあとで少女はようやく息をつく。それから手触りを確かめるようにカウチを撫でた。つくづく呑気なやつだ。
半眼で見下ろしつつセイルは両腕を組んだ。当面の課題は〝寝る場所〟か。カウチがあったのは幸運だった。小さいけど横になれなくはないだろうし、どちらがどちらを使うかを決めれば問題解決だ。
そのとき耳慣れない小さな音が耳朶を打った。まるで子犬が母に甘えて鳴くようなそれは確かに至近距離から聞こえてきた。だが動物の類はどこにも隠れていないはず――。
カウチの裏側や物陰を窺うセイルのそばで、ぽっと頬を赤く染めたカレンフェルテが恥ずかしそうに自身の腹を両手で押さえた。
「す、すみません……」
――なんだ腹の虫か。
空腹を思い出した途端セイルの腹も鳴り出した。テーブルには折良く食料らしきものがある。ここに置いてあるということは自由に食べろということだろう。善意か悪意かは図りかねるが……。
深皿から摘まみ上げた焼き菓子――小さめのパイを矯めつ眇めつしたセイルは思い切って一口齧ってみた。見た目も匂いも特に問題はなさそうだと思ったのに、咀嚼するうちにその眉根は寄せられていった。舌に絡む甘さは果実の砂糖煮か何かのようだ。今は肉の類が食べたかった。
気が進まないながらに残りを腹に押しこんで、器はさっさとカレンフェルテの膝に譲った。
「やる」
「え?」
「食い物。腹の足しにもならねえけど」
きょとんと小首を傾げていたカレンフェルテは思案気に唇を引き結ぶ。やがて恐る恐る探り当てたパイをゆっくり口に運んだ。恐ろしく小さな一口だとセイルが見守る中、少女の口角は幸せそうに吊り上がった。
「おいしい、です」
「ふぅん。……全部やるわ、それ」
「いいんですか?」
「今は甘いの食いたくねえから」
やや脱力気味に言葉を返して自身はポットに手を伸ばした。空きっ腹に甘い物を入れて気持ち悪くなるくらいなら水腹の方がまだいい。
「……ありがとうございます」
鈴を転がしたような耳触りの良い声が静かに届いた。なみなみ注いだカップを持ち上げながら何気なく少女に目をやって、セイルは思わず息を呑んだ。長い睫毛に縁取られた白藍の瞳が真っ直ぐにセイルを捉えていた。焦点が初めて合っている。……まさか見えているのか。
驚きと戸惑いに硬直してしまったセイルの前で少女はふわりと綻んだ。見る者の心を浄化するような清楚で可憐な花の微笑み。それは間違いなくセイルに向けられたもの。
ガシャン、と不快な音が耳をつんざいた。卓上に落とされたカップは不安定にぐらぐら揺れてからなんとか動きを止めた。倒れこそしなかったものの雫が派手にこぼれ飛び散っている。
「わ、悪ぃ! ……手が、滑った」
あたふたとカップを持ち直したセイルは慌てて身体を反転させた。といっても狭い部屋の中、落ち着ける場所など限られている。
ベッドの方へ一歩踏み出したそのとき、
「あのっ」
背中に声がかけられた。ぎくりと振り返った先には思い詰めたような眼差しがあった。
「あの……、ごめんなさい。私、あなたに謝らなくてはと思って……」
「……謝る?」
返す言葉に訝しげな色が滲む。一瞬交わったかに思えたカレンフェルテの瞳はセイルの視線から逃げるようにそっと伏せられた。
俯く仕草に合わせて癖のない長い髪が肩口をさらさら滑り落ちていった。その一房を少女はそっと摘まんだ。薄明かりの中、それは柔らかな山吹色に染まって見えた。
「――あなたに雪花人だと言われたとき、何故知っているのかと思ったんです。同じ雪花人だからとか、精霊というならわかるのですけど、もしかしたら悪い人の可能性もあるかもって、そう思ったらなんだか不安になってしまって。……でも、今の私を見ればきっと誰もが同じことを言うんですよね……。ですからあの、失礼なことを言って本当に申し訳……」
「別に、謝られる覚えねえし」
セイルはふいと顔を背ける。深々と頭を下げる姿はさっさと視界から締め出した。
詫びてもらう義理はない。彼女が異能力者であるのは既知の事実、むしろ一方的に知っている現状には妙な後ろめたさすら感じていた。始めに名乗りそびれたことで完全にタイミングを逸してしまった。こんなところまでずるずると。
――今こそ名乗るときじゃないのか。
ふと湧いたその考えはあっという間にセイルの胸の内を席巻した。初対面の間柄でないことを伝えれば詫びる必要性がないとわかる。そうすればこんな鬱々とした顔だって見なくて済むし変な気遣いも無用だと言い張れる。
よし、と勢いこんでカレンフェルテに向き直ったセイルは、だがすぐに彼女の真っ直ぐな視線の前に決意が挫けるのを感じた。頬を紅潮させた少女の双眸は今にも泣きそうに潤んでいた。
何故そんな顔をしているのだろう。だって謝る必要はないと言ったのだ。泣かれる意味がわからない。この女、本当にわからない。
「だ、だから気にしてねえって言ってんじゃん! ……その話はもういいから、さっさと食えよ」
名乗るどころではない。言い訳がましく叫んでセイルはどかどかとベッドの端に回りこむ。それからわざと大きな音を立てて座ってやった。
ハーブティーらしい香りが鼻腔をくすぐる。清涼な香りの割に口に含めばこれも甘かった。あまり行儀いいとは言えない音を立てながら啜っていると、やがて「はい」と小さな声が届いた。真面目な顔付きで黙々と食べ出した少女を尻目に、セイルはカップの残りを一気に呷る。
* *
夜になり気温が下がってきたらしい。窓は閉じたままでも室内に暑苦しさはない。両腕を枕代わりに寝そべったセイルは天井をぼんやり眺めていた。
今日一日、全てが納得いくものばかりではなかった。腹の立つことも多かった。中でも一番わけがわからなかったのは日中さまよったあの黒い森だ。同じ道のりを三度通ったが二度目に通ったときは本当に酷かった。今考えてもあれは間違いなく呪詛である。誰かがセイルを狙ったとしか思えない強力な力。
だが限界を感じた次の瞬間、セイルを縛っていた戒めは呆気なく消散していた。鈴の音を思わせる言葉を念じるうちに。
「シロムスメ、か……」
あの言葉に呪詛を無効にする何かがあったとでも言うのだろうか。
そしてその後はカレンフェルテが一緒だった。何事もなく通り抜けて来られたが、もしそれがカレンフェルテと一緒にいたからだと仮定するならば、言葉そのものではなくあの女自身に意味があることになる。
(待て、最初は猫だぞ。それも黒い猫。全然白くなかったし娘でもねえ。……いや、実はメスだったとか? クロメスネコ……?)
セイルの眉間に皺が寄っていく。
やがてセイルは両腕で思い切り髪の毛を掻き回した。頭を抱えたまま大きく寝返りを打ち、そうして横向きに伏せた。
――どのくらい時が経ったのか、やけに部屋が静かだと半身を起こしてセイルは目を疑った。視界に入ってきたのはカウチの背もたれの部分のみ。そこにあるべき姿が見えない。
「は!?」
急いでベッドを下りた。カウチに駆け寄ってみれば少女はちゃんといた。両足は揃えて床に下ろしたまま上半身のみクッションの上に倒して横たわっている。角度の問題でベッドからは見えなかったようだ。
細かな光の粒子を振りまいたような白金色の髪にはランプの灯りが揺れるたびに幻想的な影が浮かび上がっていた。頬はほんのり薄紅色に染まり、桜色の小さな唇は僅かに開いて浅い寝息をたてている。投げ出された手の真下に転がっているのは食べかけの菓子か。
危ういバランスで今にも落ちそうになっていた器をセイルはそうっと取り上げた。その拍子にカレンフェルテの腕も落ちた。
「ぅん……」
零れた吐息が耳朶を打ち、セイルは器を手にしたまま硬直した。大きく跳ねた心臓はしばらく暴れ、ひたすらじっとやり過ごす。
――今もし目を覚まされたら何故こんなに近くにいるのだと怪しまれるのでは。
そう考えてすぐにぶんぶんと首を横に振った。違う、器が落ちそうだったから取り上げただけだ。疚しいことは何ひとつしていない。
セイルは細心の注意を払い、器を静かにテーブルに戻した。かつて友人と競った〝音を立てたら負けゲーム〟でもここまで集中したことはない。身動ぎひとつせず眠り続ける少女を確認するとようやく安堵の息をもらす。
こうして改めてカレンフェルテを見ているとやはり整った顔をしていると思った。長い睫毛が肌に淡い影を落とし、一層儚げな印象を醸し出している。疲労の色も濃い。今日の山歩きはこの女にとっても不本意だったに違いない。
つい出てきた欠伸に大口を開けながらセイルは肩の凝りをほぐすように首を回した。本当に疲れた。自分も早く寝てしまいたい。
結局寝床の相談はできなかった。けれどこの流れならばセイルがベッドを使っても文句は言われないはず。
それとも起こしてちゃんと聞くべきだろうか。いや、聞いたところでこの女ならば遠慮するのでは……。それより、見るからにか弱い女を差し置きセイルが堂々ベッドを使うことについてはどうなのか。いっそ眠ったまま運んでやるべきではないか。ここに来るまで何度か下敷きになったわけだが、あの程度の体重であれば抱き上げられなくもなさそうだし。
様々な思いが去来する。セイルはがりがりと頭を掻いた。
(……めんどくせえな……)
そもそも〝抱いて運ぶ〟ことを出来るだけしたくなかった。どのように抱えるのが最適か、また途中で目を覚まされた場合の説明の面倒さなど考えるだけで億劫である。それくらいなら一度ちゃんと起こしてしまって自分で歩いて行ってもらいたい。
「……なあ。おい」
肩を二、三叩いてみた。が、応えはない。全く目覚める気配もない。
深く眠りこむカレンフェルテをしばらく眺めていたセイルはやがて大きく息をつき、カウチを離れた。ベッドから上掛けを引っ付かんでくると彼女の身体に掛けてやった。
* *
――世界が明るくなっていく。
意識がゆるゆる浮上していくにつれてセイルは違和感を覚えていた。変に圧迫感があるような、何かに見つめられているような……。妙な気配を感じながら恐る恐る目を開けると、吐息が絡みそうなほどすぐ目の前に人の顔があった。
「……うわぁっ!」
瞬時に飛び退けば相手はのんびりと姿勢をただした。両手を身体の前で揃えて立ち、きちんと結われた二本の長い髪が、朝の光に白く輝いている。小さな口許は緩やかな弧を描き、虹色に煌めく双眸は真っ直ぐにセイルを見据えていた。
「おはようございます。よくお休みいただけたようで何よりですわ」
「おっお前! ノックのひとつもできねーのかよ! 礼儀を知らねえやつだな」
「あら、わたくしちゃんとしましたわ。お声もおかけして、それでもお返事がなかったのでこうしてわざわざ起こして差し上げましたのよ。余計なお世話だったのなら申し訳ありませんでしたわ。まだお休みになられる旨をこれからオルジュさまにお伝えして」
「寝ねーよ!」
言葉尻に被せて叫んだものの、幼女は聞く耳持たずで踵を返してしまった。向かう方向からしてカレンフェルテの目覚めも促す気のようだ。全くどこまで本気でどこからが冗談なのか判別しづらい。
大体こちらの一言に対して二言も三言も返してくる相手にはうんざりする。中には勝手に拡大解釈したうえ被害妄想に取り憑かれるやつもいるからたちが悪い。
不満に唇を尖らせ頭をがりがり掻きながら半身を起こした。短い髪の間に砂のざらりとした感触を覚えてセイルはさらに顔を顰める。
「おはようございます。朝ですわ。……あら、もしかしてこれは――」
カウチの方から聞こえる幼女の声に若干の硬い響きが混じった。セイルはゆるりとそちらに顔を向ける。




