12.風のざわめく処
ぱち、と少年は目を開けた。静寂の降りる中、顔は動かさずに目だけで辺りを探ってみる。少し前から馴染みになった天井、壁に掛けられた風景画、凝った造りの飾り棚――そのどれもがセイル少年によそよそしく、暗がりの中に沈んでいた。僅かに首を巡らせて分厚いカーテンの向こう側を窺ってみても何の光も見ることはできない。
けれど少年にとってそんなのは瑣末なことだ。音を立てずにそうっとベッドを抜け出した彼は裸足のまま扉に駆け寄った。
片目を瞑り、細心の注意を払って開けた細い隙間から様子を伺う。視線の先にあるのは叔母の背中。鏡台の前で髪を梳いているということはそろそろ就寝する心積もりなのだ。直に寝室へやってくるだろう。セイル少年はほくそ笑み、自身の使うベッドとは反対側に置かれた叔母のそれを振り返った。
この奇妙な生活が始まってかれこれ半月ほどになる。楽しい毎日をのびのび過ごしていたセイル少年の前に、ある日突然叔母と名乗る人物が現れた。
「今日からあたしがあんたの面倒見るからね。よろしくねセイル」
にっこりそう言われたとき、少年は「ふーん」としか思わなかった。それがどういうことになるかなど考えもしなかったし危機感だってなかった。
母が一目置き兄が慕うその人はセイル少年にだけとんでもなく厳しかった。挨拶や作法、食べるものにまで一々口を出してきて叱り、お気に入りの遊びは半分以上が禁止された。代わりに増えたのは新しい教本と学習時間。少年の一日は一気に窮屈なものへと変化した。
それなのに。か弱い末っ子がこんなにも意地悪をされているというのに。
優しかった母も兄も叔母には何も言ってはくれない。それどころか逆に叔母の肩を持つ始末だ。まるで掌を返したようなその態度は子供心に腹が立った。
「いっつもいっつも、ねろねろってウルセーんだよ! まだ、ねむくねーのに」
怒鳴ったのはつい先ほどのことだ。首根っこを掴まれ、ぽーんとベッドに放り投げられた少年は跳ねた勢いのままくるりと身体を反転させた。自分を投げた張本人は両腕を組み、仁王立ちでこちらを見下ろしている。
「子どもは寝る時間! 悪い子のところにはお化けがやって来てみんな食べちゃうんだよ」
「そんなのいるわけねーじゃん。アンのばーか」
少年が言い終わらないうちに拳骨が降ってきたのは言うまでもない。
仕方なくベッドに潜りこみ目を閉じたセイル少年だったが眠る気はさらさらなく、そして話は冒頭に戻るのだった。
ベッドの脇に膝をつき、隠していた小さなバケツを引っ張り出した。中には昼間集めたミミズが蠢いている。暗くて確認できないけど絶対逃げてないはずだ。ミミズが飛ぶなんて今まで見たことも聞いたこともないもの。
昨日ここに入っていたのは一匹の蛙だった。蓋をし忘れたと気付いたときには既にその姿はなく、再会はその日の深夜、意外な形で果たされることになった。
突如金切り声が上がり、少年は瞬時に飛び起きた。そこで目にしたのは叔母のベッドで飛び跳ねる友だちの姿である。
誓って言う。セイル少年が企んだのではない。決して。
けれど可笑しかった。堪らず吹き出してしまった結果、尻を叩かれる羽目になったのは想定外だったけれど。
そんなわけで今夜は進んで用意することにした。この小さな友だちを靴の中に仕こんでやるのだ。知らずに履いた叔母が肝を潰す顔を想像するだけで嗤いが止まらない。が、本番では声を出さないように頑張ろう。肩を震わせながらも決意を新たに、セイル少年はバケツを抱えて腰を上げた。
そのとき生温い風が少年の柔らかな髪を撫でていった。うなじをくすぐる毛先が痒い。片手でそこを掻きながらセイル少年は何気なく振り返る。夜気が入りこんできたのかと思ったが視線の先には叔母の使うベッドがあるのみだった。窓はないし、扉だって開いてない。
ではこの規則的に吹き下ろしてくる風は一体どこから。
(見上げるな!)
――どんなに強く念じても、少年は何の抵抗もなくそこで顔を上げてしまう。過去は変えられない。
見上げる少年の頬にぽたり、雫が落ちてきた。見開かれた碧色は暗い天井の一角に吸いこまれ、逸らすことは適わなかった。一段と濃い闇が、その中央に浮かぶ二つの昏い光が、セイル少年を見下ろしている。
ふわ、と前髪が浮いた。直感的にそれが大きく口を開けたとわかった。少年の手から滑り落ちたバケツが音を立てるのが先か、頭から丸呑みされるのが先か――。
横たわる白い女を視界に入れながらセイルの意識は背後に、そして過去へと向いていた。
少女からの応えはなく、その代わりと言わんばかりに温い風が背後からセイルの髪を撫でていく。温かいのは昼間の熱が残っているから、湿り気を帯びているのは湖を渡ってきた風だからだ。決して得体の知れないものの呼気などではない。わかってはいても膝をついた姿勢のままセイルは固まっていた。
ここはどうもおかしい。この目で化け物の姿を見たわけではないが何かがいる気配はある。その証拠にずっと見られている感覚がある。
心臓の音が耳元でうるさかった。うなじの産毛がちりちりと痒く、搔きむしりたい衝動にかられる。だが動けない。
あのとき自分を飲みこんだあれが今再び飲みこまんと大口を開けているのではないのか。今度こそ食われてしまうのではないか。目の前で倒れているこの女だって実は化け物の被害に遭ったからかもしれないじゃないか。
「ん……」
耳朶に届く音に風以外のものが混じった。ハッと視線を下げた先で女の白金色の長い睫毛が震え、白藍の瞳がうっすらと現れた。
「おい! お前……」
生きていた。
目を見張るセイルの慌てたような声が耳に届いたらしい。白い女――カレンフェルテの意識がこちらに向けられた。セイルの手を借りゆっくりと半身を起こした少女はしばらく視線を彷徨わせる。空ろな視線はセイルと交わることなく通り過ぎていく。
やがて彼女は俯いて小さく頭を下げた。
「……すみません。私、いつの間にか眠ってしまってたんですね……。時間がないって仰っていたのに、本当にごめんなさい……」
「え、ねむって……!?」
数瞬言葉を失ったセイルの重心は次第に後ろへ傾いてゆき、ゆらりと尻もちをついた。目を覆うように片手で押さえれば指の合間に覗くのは星々のさんざめく空だ。脳裏から離れなかった二つの光より断然小さく、断然眩く、無数にきらきら瞬く星の海。
セイルは魂まで吐き出しそうなほど深く長い息をついた。ここに知り合いがいなくて良かったと心底思った。明るい夜空といい、眠りこけていた女といい、数年分の気力を一気に使い果たしてしまった気がする。
「ここがどこか、わかったんですか……?」
カレンフェルテが僅かに首を傾けた拍子にその絹糸のような白金色が肩口を滑った。少女のかろうじて上向いている眼差しはセイルのそれよりも随分低い位置に向けられている。セイルの発する声の位置から顔の高さにある程度見当はつくはずなのに。これこそ気のせいであれば良かった。
淡々と前にも来たことがある場所だと伝えればカレンフェルテは短く「ああ」と息をついた。
「では帰れるんですね」
「……立てるか?」
「はい」
控えめに微笑む少女はセイルに続いて緩やかに立ち上がった。
相変わらず緩慢な動きだが見る限りふらつきなどはなさそうだ。その一方で昼間の彼女の覚束ない足取りがよぎった。
「手、貸せ」
カレンフェルテがきょとんと目を瞬かせた。一瞬変なことを口走ったかとセイルは息を呑み慌てて言葉を継ぐ。
「引いてってやる! 一々転ばれてたら朝になっても辿り着けねえし」
「あ……痛っ!」
少女の返事を待たずその片手を掴んで引っ張ったセイルは反射的に手を離していた。強く掴んだつもりはなかった。にもかかわらずカレンフェルテは軽く俯いて、左手首を抱えこむように押さえている。
セイルが一歩後ずさる。と同時に少女は慌てた様子でパッと頭を下げた。
「……ご、ごめんなさい! あの、知らないうちにどこかで痛めてしまったみたいで、触ると痛くて……。あ、でも触らなければ、大丈夫ですから……」
すっかり日の落ちてしまった今、少女の言が真実かどうかなど一見しただけではわからない。だからといって直に腕を取って確かめる義理もなかった。
む、と唇を引き結ぶセイルの前にやがて白い手がおずおずと伸ばされた。
「……お願いします。あなたと一緒に行かせてください」
小鳥の囀りのように耳に心地好い声音。
そしてそれを攫うように吹き抜けていく温い風。
交わらない視線と、先ほどセイルが掴んだのとは反対の手。
十数秒の沈黙の後セイルはがりがりと頭を掻く。ほっそりした手を取るとやおら踵を返した。
坂道を登り、ふたりはヴィーナ湖を望む丘まで戻ってきた。対岸に揺れる灯りはやはり遠い。このまま真っ直ぐに空を駆けていくことが出来ればと、つい詮無いことを考えてしまう。
「何だかいい匂いがしますね」
僅かに顔を上げ鼻をきかせているふうの少女を横目に入れる。風向きが変わったのか先ほどよりは香りが薄くなった気がする。
「……川上に屋敷がある。今からそこに向かう」
湖に背を向けたところでセイルはぎくりとした。さっき通り掛かった折には確かに見えていた屋敷の光は今どこにも見当たらなかった。視界いっぱいに映る崖下は暗く、微かに川のせせらぎが届くだけだ。
「あの……?」
女の不思議そうな声に押され、慌てて一歩を踏み出す。機械的に足を動かし、だんだん迫りくる黒い森を視界に収めながらセイルは考えを改めた。恐らくもう寝てしまったのだろう。老人は寝るのが早いというし。
だが本当に舟を貸りることは出来るのか。セイルたちが屋敷に着くまでまだしばらく時間がかかる。女を連れてこい、話はそれからだと命令しておいていざ訪ねてみれば出てこないというようでは困る。
(……そのときは勝手に拝借すればいいか)
当面の課題はここからの道のりだった。森に入ればすぐ下り坂になる。ぬかるみ、あまりなだらかとも言い難い獣道を行かねばならない。それも目の不自由な女の手を引いてだ。考えるだけで気が滅入る。
正直なところこの黒い森に再び入るのだって嫌なのだ。だが他に道がない以上、木々のざわめきには無視を決めこむしかない。出来るだけ速く通り過ぎなければ。
「あ、」と小さな声が耳朶を打った。足を止め、肩越しに見下ろせばカレンフェルテの目は前方のある一箇所に向けられていた。
「なんだよ」
「……あれ、さっき助けた蝶……」
「蝶?」
眉間に皺を寄せ、その眇めた双眸のまま少女の視線の先を辿った。セイルの視界に入るのは満天の星の下、影絵のように立ちはだかる黒い森だけである。そもそもここに来てから生き物の姿を一切見ていないのに、一体この女は何を見ている――。
「……お前、見えてんの?」
「はい、あそこに飛んでますよね。光ってるからよく見えます」
「そうじゃなくて……」
カレンフェルテは目を瞬かせた。え、と僅かにセイルを振り返った少女は数拍おいてはっと息を呑んだ。あちこちに彷徨わせていた瞳はやがて力なく伏せられる。
「あの……、他は見えないです。見えるのは光る蝶だけで……何だかついてこいって言ってるみたいで」
「ついてこい?」
「あ、勝手にそんな感じがしただけです……」
しどろもどろに紡がれる言は全く要領を得ない。視力だって本当はあるんじゃないのかという疑いも晴れたわけではない。
それでもひとつ確信した。やはりこの森には何かいるらしい。一般人には見えず、異能力者のみ見ることを許された存在が。
「雪花人にだけ〝視える〟蝶か……」
「……どうして」
ぽつりと聞こえてきたのは抑揚のない囁き。その先は耳に届かなかっただけか、続かなかったのか。桜色の唇はきゅっと引き結ばれ、やや俯いた顔からは何の感情も読み取れない。
少女はセイルの手の中にあった自らの手をおもむろに引き抜いた。
二人の間を宵の風が吹き抜けていった。視界の外で梢が鳴っている。
「……なんだよ。言いたいことがあるんなら――」
「あなたは、誰ですか? どうして私が雪花人だと……?」
今度はセイルが瞬く番だった。
闇の中にあってさえ淡く輝いて見える白金色の絹糸がさらりと宙を舞っていた。顔を上げたカレンフェルテの頬はうっすら紅潮し、相変わらず焦点の合わない瞳には緊張の色が滲む。
「……さっきまで、あなたにも小さな光が見えていたんです。今は見えなくなってしまったけれど……あなたは誰? 〝人〟なんですか?」
そうして少女はセイルに向かって、人差し指を立てた片手をゆるゆると持ち上げた。




