11.遥かな灯
* *
混沌とした世界だった。
わけのわからない場所で目を覚ます――直近にも似た経験をしたぞと心の声を聞きながら、前と違うのは視界に入る色の差がほとんどないことだ。辛うじて物の輪郭が捉えられる程度の明るさしかない。
両手をゆっくりと握り締め、開いてみた。特に痛む箇所も、また引き攣れる感触もない。次いで曲げた足にも支障はないようである。慎重に半身を起こせば肩から首の後ろ辺りにかけて僅かに違和を感じた。それほど気になるものでもないが。
座りこんだ状態のままセイルは視線をゆるりと上げていく。まわりが崖のような斜面に囲まれている。――いや一ヶ所だけ緩い坂道になっていて、落とし穴というよりは袋小路と表す方がより正確かもしれない。
「何だ、ここ……」
降ってくる風のざわめきは遥かに遠い。振り仰げば頭上の方がまだ明るいくらいだ。だが空の色は随分濃く青く、深みを増している。ここでどのくらい眠りこけていたか知らないがいよいよ夜が近いらしい。
何気なく頬を拭った指先が異物を捕らえた。ぱらぱら落ちた小さな粒はこの辺りの砂利だろうか。
――そういえば。
細い蜘蛛の糸を手繰り寄せるような頼りなさでそろりと記憶を遡る。確か、わけのわからない粉を投げつけられた。蔦に覆われた館を前に、性悪そうな老婆から。
あれは何だったのだろう。防ぎようもなく思い切り吸いこむ羽目になったし、粒子の細かな粉塵は瞬時に身体の奥へ奥へと入りこんだ。鼻や口からだけではない。皮膚にもぺったりと貼り付いて、それこそ毛穴という毛穴から侵入していく様が知覚できるほどだった。
なのに出た症状と言えば咳とそれに伴う涙、鼻水のみ。眠気や痺れに襲われるでもなくただただ激しくむせただけだ。拍子抜けもいいところである。
いっそ催涙が目的なのかと考えたセイルは、しかしすぐさま頭を振った。攻撃する間を稼いだところであの老婆――見るからにか細くて、転べば簡単に骨を折ってしまいそうな――がよもや武術の達人であるわけもない。
咳きこむ合間に睨み付けてやれば、ぼやけた視界に飛びこんできたのは件の人物の丸く目を見張る姿だった。まるでセイルが粉を被ったことは予期せぬ事態とでも言いたげな面持ちの。
カッとなった。自分で粉を吹っ掛けておいて何を驚くことがある。文句のひとつでも言ってやれと、そうして息を吸いこんで――それで。
「つっ……」
セイルは身を竦め、首の後ろに手をやった。そこからの記憶はなかった。
あのとき背後に誰かいたらしい。やはり粉は催涙効果を期待するもので、老婆の一連の行動はセイルの意識を前方に引きつけるためだけの、いわば囮のようなものだったのだ。白髪のぎゃーぎゃー喧しいチビだって実はだめ押しの存在だったとも考えられる。お陰で後方には全く注意を向けなかった。まんまと一杯食わされた。
すぐそばにあった大木の幹に手をつき立ち上がる。セイルが両手を広げても到底抱えこめないほど大きな樹木だ。この一帯で一二を争う大きさかもしれない。絡み合いながら這う蔦を指で分け入ると、下からごつごつした表皮が現れた。そのざらりとした感触からして樹齢も相当重ねてそうだ。
首の後ろを摩りながらセイルはゆっくり一歩を踏み出した。幸い足腰には違和感はない。
森は暗闇に沈もうとしていた。木に沿ってぐるりと回りこみ、まだなんとか視認できる道をのろのろ登っていく。やがてそれは二股に分かれてセイルの足を止めさせた。一方は大木から離れ斜面を上へと上がる登り道。そしてもう一方は大木に沿って下りていく下り道。
どちらに進むべきか思案に暮れていたセイルは次の瞬間息を呑んでいた。手をついていた大木の幹を凝視する。薄暗い中でもその表面にびっしりと這っているのがわかる蔦。セイルは思わず拳を打ち付けた。
ここは、知っている。
舌打ちしたセイルは爪が食いこむほど拳を握り締める。遠い昔に来たというのではない。つい先程通ったばかりなのだ。道案内気取りの妙な黒猫とともに。
――仲間を連れてきなさい。さすれば舟を貸してやりましょう。
胸くそ悪い水色の瞳が脳裏をよぎった。セイルの目の高さよりも遥かに下から見上げてくるその目は明らかにセイルを見下す色をしていた。歯向かうことは許さないと言わんばかりの傲慢な色。あいつの一存でここまで戻されたというわけだ。一方的に出直せと言ってのけるその態度がつくづく癇に障る。
お膳立てをされるままにあの女を迎えに行くのか、もしくは奴らの目を盗んで舟を掻っ払うか――。
僅かに明るさの残る登り道と、すっかり闇に沈んだ下り道とを代わる代わる眺めていたセイルは目をすうっと半眼にして腕を組んだ。大して縁もない、ひとえに足手まといでしかない女をこれから迎えに行って再び下りてくるなどただ骨を折るだけだ。それならばこっそりと川縁へ赴き、舟を拝借した方が断然手っ取り早いじゃないか。
〝寄越せ〟ではなく〝借りたい〟のだと、その旨は始めからちゃんと伝えてある。クラレットにさえ戻れれば後は誰かに返しにいかせればいいのだし、何の問題もないはずだ。
『しーんだ。しんだ。おまえのせい』
『またころすのか。おまえのせい』
『しろいしろーい。しろむすめ。よーんでる。たーすけて』
『おまえのせい。ゆーるさない』
目を見開いた。突如耳に飛びこんできた囁きがセイルの思考を止めさせていた。声音は複数、そのどれもがまるで幼児のもののように高い。繰返し繰返し耳朶を打つそれは調子っ外れな歌のようでもあり、何らかの呪詛のようでもあり。
「誰だ!」
声はピタリとやんだ。代わりに黒い梢がまるでセイルを非難するかのようにごうごうと唸り出す。地鳴りが低く太く、腹に響く。そのまま立っていられずにセイルは片膝をついた。意思のあるようなそれらは一向に止む気配がない。
「何なんだよ! 出てこい卑怯者!」
痺れを切らして叫んだところでようやく変化が現れた。抵抗を見せるかと思われた轟音は呆気なく白旗を振り、セイルの発した怒号を境に急速に収まっていった。
余韻の残る森の中をセイルはくまなく見回している。茂みや木々の陰、揺れる梢の裏側に、犯人の姿が垣間見えるのではないか。――目に見える全てが疑わしく、それと同時に敵意を向けられているような錯覚をも覚えた。生き物の気配は感じられないままなのが余計に不気味でしかない。
「……なんだよ。何が、オレのせいだって?」
力ない呟きは夕闇の中に吸いこまれていった。風は凪ぎ、辺りはしんと静まり返っていた。というのにまだあの歌声が無邪気にこだましているような気がしてくる。
腕が、重い。
始めに気付いた違和感はそれだった。両足はまるで根が生えたようだ。死ぬだの殺すだのと、耳に届いた物騒な語だけが何倍にも膨れ上がって四肢に絡みついている。
頭が痛い。上から押さえつけるような圧倒的な力の前にセイルは両手をついた。最早この手を上げることも適わない。息が、できない。
嫌な汗がじっとりと背に流れる。
(――シロムスメって、何だ?)
遠くなりかける意識の端に引っ掛かっていた言葉。それに気付けたのは幸いだった、とは後から思ったことだ。セイルを押し潰さんとばかりに纏わりつく不穏の中に一つだけ、異質なものが混じっていた。埋もれてしまいそうなそれを見失うものかと懸命に手繰り寄せれば、気になる文句はどうも一つではない。
――たーすけて。しろむすめ。よーんでる。しろいしろーい。
掬い上げた語を反芻するうち、シロムスメは白い娘を指しているのだと気付いた。白い娘が助けを呼んでいる、ということか。
そうしてもう一つの事実に気付く。白い娘に意識を向ける程、清らに澄んだ鈴の音が頭の中にりんと響くのである。己を縛ろうとする鎖のそこここは脆く崩れ、ぽろぽろ剥れ落ちていく。
こめかみから零れ落ちた汗が指先に当たって跳ねた。その拍子に手の自由が戻ったことを知った。爪に土が入るのも厭わず拳を作るとセイルはそのまま腕に力を籠める。
呪縛をどうにか断ち切り、行く手を遮るように生える木の枝を払いながらセイルは坂道を登り始めた。相変わらず生物の気配はない。耳に聞こえるのは己の足音と荒い息遣いのみである。けれどそんなことは最早どうでもよかった。なんとはなしに気が逸る。
白い娘で思い浮かぶのはただ一人だ。白金の色をした癖のない絹糸のような髪の。朝靄に煙る新緑を思わせる白藍の瞳の。ともに連れて行って欲しいと懇願されたのに置いてきてしまった、あの女。
容易に下れた道は登りになると途端に牙を向いた。ごろごろした大きな岩に何度も爪先をぶつけ、また木の根には足を掬われた。大きな怪我に繋がらなかったのはひとえにセイルの反射神経の賜物だろう。
斜面を上まで登りきる。途端に良い香りが鼻に届いた。香ばしく焼けたパイの匂いだ。匂いの元をきょろきょろ辿れば今し方登ってきた薄暗い緑の中にぽつんと光が見えて、思わず眉間に皺が寄った。
どうやらここは風の通り道らしい。そういえば昼間通りかかったときも甘い香りがしていたなと思い出したところでタイミングよく腹が鳴った。
「……腹減った」
溜息混じりに呟いた途端、するする記憶が蘇ってきた。そうだった、朝食以降何も口にしていなかった。その朝食もセイルがうっかり寝坊したお陰でゆっくり採ることはできなかったのだ。食事を半分も終えないうちに顰めっ面の執事がやって来て、問答無用で文書を押し付けられ、馬車に押しこまれた。それで、このパターンは祖母の家かと察しがついた。
着いた先では次兄が待ち構えていた。
兄はセイルから文書を受け取ると、やけに凝った作りの焼き菓子と何やら胡散臭そうな飲み物を勧めて労ってきた。実に爽やか且つ朗らかな笑みだった。それを見て確信したのだ。何かある。心に一点の曇りもないような満面の笑みを見せてくるときの次兄ほど疑わしいものはない。
わざわざ兄にもてなされなくとも祖母の元へ行けば安全で美味しいものが用意されている。それがわかっている以上、長居は無用だった。経験則に基づき、次兄の勧めるものは何も口にしないと決めていたこともある。十以上も年上の癖に未だ悪戯を仕掛けてくる兄なのだ。全く、揃いも揃ってろくなのがいない。
兄の部屋を退室した後は真っ直ぐ祖母の部屋へ向かった。差し掛かった階段でやけに階上が眩しいと感じて……今思い出せるのはそこまでだった。なんとも虫食いだらけで、我ながら苛立たしい記憶力である。
思考を振り切るように深呼吸を一つ、だが直前の行動をようやく思い出せたことにはほっと胸を撫で下ろした。
見上げた天頂はすっかり藍色に占拠されていた。その藍の裾には燃え滓のような朱色が山の端に沿うようにして薄く広がっている。気の早い幾つかの星々の煌きと、ぽつぽつ灯るクラレットの街の灯りがヴィーナ湖の湖面に静かに映りこんでいた。
あれは生者の灯火だ。
あの灯りの元には生きた人間がいる。そう思えば少しは心が慰められた。だが灯りまでのなんと遥かなことか。すぐそこに光は見えているのにその道のりはあまりにも遠い。
まるで見えない壁を一枚隔てているようだ。それくらい、灯火は別世界のもののように思えた。
「あれが生者の灯りなら、ここはさしずめ死者の森ってか」
自嘲気味にひとり笑う。ひとしきり笑った後でセイルはピタリと動きを止めた。昼の残り香のような生温い風がそろりと首筋を撫でていった。
ぐぎぎ、と。音の鳴りそうなぎこちなさで僅かに首を捻れば、横目に見える黒い森はまるで影絵だ。鬱蒼と茂る木々はひたすら暗く、そこに静かに鎮座している。けれど昼間とは何かどこかが違って見えるのは一体どういうわけだろう。密やかな囁きが、忍び笑いが、呪詛が、そこらじゅうから漏れ聴こえてくる、ような。
セイルは駆け出した。生きた心地はしなかった。
ここは長居するようなところではなかったのだ。できるだけ早く戻らなくてはならない。あそこへ――クラレットの街へ。
目指す場所まではもう目と鼻の先のはずだった。目を凝らしつつなだらかな下り道を急ぐ。だが昼間はすぐに見つかった白い色が、行けども行けども見当たらない。仮に移動したにしろ、視力のない女が自力で動ける範囲などたかが知れていると思うのだが……。
「いてっ!」
不意に髪を引っ張られて足を止める。反射的に手を頭にやったが指先に返ってくるのは自身の短い髪の感触ばかり。次いで手をぶんぶん振り回してみるも、当たってくる異物は何もなかった。一体何なんだと憤りたいやら恐ろしいやら、もはや自分の感情がよくわからない。
そんな中たまたま視界に飛びこんできた茂み。その脇に目を留めたセイルは息を呑んだ。暗闇の中に白い絨毯が広がっていた。
駆け寄って、跪く。伸ばした手はその身に触れる直前で止まった。横たわる塊は身動ぎひとつしなかった。
「おい。……なぁ、起きろって! 聞こえてんだろ!?」




