10.銀の鎖
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取っ手に掛けられた手はそのまま力なく下ろされた。物を大切に扱う家系なのだろう、前にしているのはなかなかに年季の入った戸棚である。ガラス戸の向こうに並ぶのは全て見覚えのある本ばかり。特別興味をそそるものはない。
この部屋の主が読書する姿をウィルトールはこれまで一度も見たことがなかった。棚に並ぶタイトルからして本人の趣味でないだろうことも容易に想像できた。どれも半ば強制的に置いていかれたもののようだ。
彼はどちらかというと静かに読書をするよりも外で人と会ったり身体を動かしたりする方が好きそうな印象がある。末の弟とタイプが似ているようで、そのくせ成績は常にトップだったというから、もうひとりの兄とともにこの人も底知れないと思う。
戸棚には本の他、置物も幾つか並んでいた。木製やガラス製といった違いはあれどこちらはしっかり所有者の趣味のようだ。今にも動き出しそうなほど生き生きと精巧に造られた動物や精霊たちは、それぞれがまるで対峙しているかのように置かれている。
一通り観察し終え、ウィルトールは溜息をひとつ落とした。期待したほどには時間を潰せそうにない。
ふと視界の端に動く物体を捉えてそちらを追う。窓の外、眼下に停められていた馬車のひとつに複数の人影を認めた。使用人に見送られ乗りこんでいくのは身なりのよい中年男性と小柄な娘の二人。その男性の方にどこか見覚えがある気がしたが、記憶を辿る前に馬車は滑らかに走り出していく。
「待たせたな」
快活な声が背に届いた。
窓辺に佇んでいたウィルトールは入室してきた男性と目を合わせ、軽く会釈をする。
「ファル兄さん」
「急な来客があってさ、話が噛み合わないし参った参った」
そう言いながら男――ファーライルは部屋の中央に設えられた応接椅子にどさりと身を預けた。自身の茶髪をぐしゃぐしゃ掻きまわして崩せばそれまでの近寄りがたい雰囲気は一転、ウィルトールにとっては馴染みのある姿になる。「用件は」と尋ねる次兄の人懐こい瞳の前に、弟は知らず詰めていた息を静かに吐き出した。
ウィルトールには三歳上の兄が二人いる。要するに双子だ。今日訪ねたファーライルはその片割れであり、子どもの頃からウィルトールやセイルにも好意的に接してくれる兄だった。ただし、〝顔を合わせるたびに身近な人の噂話を面白おかしく吹きこんでいく〟のを好意的と取るならばである。
とはいえ目を合わせることすらない長兄ジルヴェンドと比べれば、笑顔で話し掛けてくれる次兄の印象は格段に良かった。ウィルトールにとってのファーライルは、気を張らずに接することのできる数少ない肉親だった。
その兄と向かい合う位置にウィルトールは腰を下ろした。
「朝、セイルが来たと思うけど」
人の近付く気配を感じて一旦そこで言葉を切る。やってきた使用人の女は軽く一礼するとそつのない所作でお茶の用意をし始めた。
食器の擦れる音が小さく響く中、きらきらと光の粉を含んでいるかのような薫風が吹き抜けた。瑞々しい緑の香りが鼻腔をくすぐる。季節は夏に移り変わろうとしている。窓の向こうには濃い青空が広がり、黄金色の陽光が木々の下にくっきりと影を描いている。
あっという間にお茶の席を整えた使用人は、来たとき同様静かに退室していった。再び視線を戻したウィルトールは目の前の光景に思わず眉を顰めた。
お茶請けに出てきたのは街で今大人気だという店の一押し商品だ。つい最近ウィルトールも口にする機会があったので知っている。蝶の形を模した焼き菓子は見た目に可愛く歯触りも良く、特に女性に人気があるらしいという噂は真実だったと図らずも実感した覚えがある。
菓子に問題はない。疑わしいのは飲み物の方だった。よく冷えてそうなグラスに入れられた琥珀色の何か。一応檸檬の輪切りが浮かべられてはいるが、もしかするとこれは――。
途端にファーライルが吹き出した。
「なんて顔してんだよ。お茶だよ、お茶。さすがにこんな時間から呑まないって」
「同じ言葉を前にも聞いたな。あのときはセイルがまんまと騙されて」
「んん、そうだったか? ま、酔わないお前にはやらないよ。ああいうのは弱いやつにやるから面白いんじゃん。……最近暑くなってきただろ。暑いときに熱いもの飲んだら余計暑い。それだけだって」
可笑しそうにくつくつ笑い、ファーライルは平然とグラスを口に運ぶ。その様子を見届けてから数拍遅れてウィルトールも口をつけた。――今回は嘘ではなかったようだ。茶の持つ渋みと仄かな甘みが口内に広がり、爽やかな檸檬の香りがすっと鼻に抜けていく。
「それで?」
顔を上げれば朗らかな笑みがあった。楽しそうな瞳の奥に浮かんでいるのは用件の本質を見極めてやろうという鋭い光。ウィルトールはグラスを置くと居住まいを正した。
現在祖母の屋敷に住みこむ次兄は次期後継者として、舞いこむ雑多な用事を手際よく片付けていると聞く。その次兄へ父からの文書を届け、ついでに祖母伺いをすることがセイルの今日の予定だったらしい。
この母方の祖母というのがとかく孫好きなのだ。孫に会える機会を窺っては趣向を凝らしたもてなしをするのがささやかな楽しみとなっており、今日もセイルが顔を出しにくるのを今か今かと待ち構えていたそうだ。
それが、来ない。ファーライルに届け物をしたあと、どうやらセイルは祖母の部屋には寄らずに屋敷を出たようだ。
執事に確かめた限りでは他の予定は特になし。帰りの馬車は前もって不要と言ってあったらしく、セイルを送っていった馬車はそのまま先に帰っている。気分屋の弟のこと、単にふらふら寄り道をしているだけにも思えるが、それにしてはどうにも引っ掛かる。
「セイルが帰りにどこに寄るか、行き先聞いてないか?」
「……懐かしいなそれ。確かクラレットから戻ってきてしばらく、口癖みたいに聞いてたやつ」
「頼まれたからだよ。兄さんも知ってるだろう? アンが――」
「子どもじゃないし、気楽な身の上なんだしさぁ。好きにさせとけばいいんじゃないか」
兄はくつろいだ様子で背凭れに凭れた。足を組み、如何にも過保護であると、その藍色の双眸が語っていた。だが同時に面白がる色も見てとれ、ウィルトールは思い切り顔を顰めてみせる。自分と弟の仲の悪さなどとうに知っているくせにこんなふうに茶々を入れてくるのは次兄の悪い癖でもある。勘弁してほしい。
服の下に落としていた銀色の鎖をおもむろに引っ張り出し手渡した。細い鎖に通された青玉を軽く一瞥すると、ファーライルの目は話の先を促してくる。
「セイルも同じものを持ってる」
「ああ、アンが押しつけたんだっけ。魔術道具?」
「もっと強力なものだよ。もちろん持ち主を守る力もあるけど、あいつに何かあると共鳴するんだ。……今朝強い反応があった。六年前と同じような」
神妙な声が、六年前、と繰り返す。小指の爪ほどの青玉を光に透かしたり転がしたりとためつすがめつ眺めた次兄は、それが何の変化も起こらないと見ると弟に投げて寄越した。
「もういいんじゃないか」
溜息混じりに吐かれた言葉の意味を、ウィルトールはすぐには掴むことができなかった。訝しげに見返した先でファーライルは目を眇め、弟の手に戻ったペンダントを指差してくる。
「律儀すぎるって。おれだったらとっくに放り出してるよ。そりゃアンの頼みごとならなるべく頑張りたいところだけどな、六年だろ? アンもお前が未だに守ってるなんて思ってないって」
「でも、」
「たとえば長兄が頼りないから面倒見てやってくれって言われたとするじゃん」
「……誰が、誰の面倒を見るって?」
弟の眉間に刻まれた皺が深くなる。ファーライルはひらひら手を振って「おれがお前の立場だったらだよ」とグラスを呷った。
「アンはやっぱ保護者だからさ。ジールに限らずおれもお前も、いつまでも子どものように見えてるんだ。けど六年も経てばいろいろ変わるし、誰の助けも借りずに切り抜けるだけの力もつけていく。よって放置も問題なし」
「じゃあ兄さんは何もしないと」
「おれは喜んで手を出すぜ。お兄ちゃん大好きだからな。義務感に駆られてやる必要はないって話」
のんびりと焼き菓子に手を伸ばした兄は、次の瞬間おかしそうに破顔した。
「納得いかないって顔だな。ま、セイルにはあの雪花人が関わってるもんな。放っとけない気持ちはわからなくもないが――待てよ、雪花人? 確かこの間の縁談の相手も、」
一瞬の間があく。ウィルトールが「そうだよ」と言葉を受ければ、拳を口に当て思案していたファーライルはゆっくりと視線を戻した。
「……兄さんにも話は来てたんだ?」
真正面に見つめ、薄く笑みを刻みながらウィルトールの意識は過去へ飛ぶ。
縁談の噂を耳にしたのは色とりどりの花が咲き誇る春のことだった。程なく当主より呼び出しがかかり、幾らかのやり取りを経て話がついた。
弟が不服な顔で飛びこんできたのはそれから半月以上もあとのことだ。もう随分前のことのようにも思える。
ファーライルはにやりと片頬を歪めた。
「縁談の類いはおれには来ない。まわりがうるさいからな。お前は?」
「……似た感じかな、セイルが適任だろうってまとめてくれた。その割には、苦渋の決断って顔をしてたけど」
「苦々しい顔はいつもじゃないか。お父上も、お母上も」
あっけらかんと言い放つ兄にウィルトールも口の端を僅かに吊り上げる。何でもすぐ思い詰める質のあの母からお互い同じ色を継ぎながら、次兄の瞳に浮かぶ光は母や自身のそれとは全く別物のように感じられる。喩えるなら夏の朝力強く昇っていく太陽のような眩しさ。新緑の中を吹き抜けていく風のような爽やかさ。
ウィルトールの手の中でしゃらと音がした。細くて軽いが決して切れることはない丈夫な鎖だ。その銀色に繋がれた青い石は冷たく鈍い光を湛えている。朝から気に掛けてはいるものの、あの発熱は夢だったのかと疑いたくなるほどに、石には何の変化もない。もはやすっかり振り回されてしまっている。
「好きなように動けるといいのにな」
再びペンダントを服の下に落としたウィルトールはおもむろに顔を上げる。ファーライルが組んだ足に頬杖をつき、まっすぐに弟を見据えていた。全てを見透かすようなその視線はウィルトールの胸元あたり――丁度ペンダントがあるだろう箇所に注がれている。
「まあたまにはさ、おれだって考える。もしあの家に生まれなかったらいろんなことがもっと自由だったんじゃないかって。口出しも押しつけもなくて、自分のことは自分で好きに決める」
「俺は自分の思うように動いてるつもりだよ。この生まれだからこそ得たものもある」
真っ向から視線がぶつかって、ふたりの間に沈黙が降りる。
「そりゃそうだ」
兄はウィルトールの挑むような視線をかわしてふっと息を吐いた。微苦笑を浮かべる顔には〝生意気だ〟と書いてある。決して弟を咎めるものではない。年長者が年少者を慮る、もっと温かな光がそこには宿っている。
ファーライルは一気にお茶を飲み干すとそのまま立ち上がった。遅れてウィルトールも腰を上げる。
そっと心の中で嘆息する。セイルが次兄と会ったあとの足取りは結局わからず終い。重要な手掛かりも特にはなさそうだ。これまで得た情報に見落としはないか、もう一度始めから検めねばならない。
執務机に向かう兄の足がふと止まった。「例えばだけど」と前置きしたファーライルは振り返り様にウィルトールの胸元を指差す。
「それ、前と同じ反応したってことはさ、異変も同じとか」
「……昔と同じ目に遭ってるって? セイルが?」
「可能性としては考えられなくもないだろ。昔、何があったんだっけ」
ウィルトールは僅かに顔を背けて押し黙る。過去と同程度のことが起きている可能性については自身でも考えていた。そうではなくて、全く同じことが起きているのだとしたら。
「――クラレットに行かないと」
叔母からもらったペンダントには強い守護魔術が掛かっている。あれをセイルがちゃんと身に付けていればそう簡単には最悪の事態に陥らないはずだった。だがいまいち大丈夫と言い切れないところがあるのも事実だ。弟は叔母を毛嫌いしているようだし。
「クラレット? 再来月に向かう、あの?」
「それまで待っていられない。確かめたいことがあるんだ。幸い、俺もまだ〝気楽な身の上〟だからね」
怪訝な瞳を向ける兄には小さく笑ってみせた。六年前を繰り返すのだけは何としても避けたかった。未だわからないことばかりだが、それでもあそこに行けば少しは備えることができるかもしれない。




