1.寝耳に水
客間には明るい日射しが降り注いでいた。ふわりふわりと揺れるカーテンに誘われて青年は窓辺に浅く腰かけた。鳥たちの合唱に耳を傾け、眼下に広がる庭園に目を投げる。春真っ盛りの庭は細部まで丁寧に手入れされ、色とりどりの花卉が華やかに咲き揃っていた。
カーテンがひときわ大きく翻り、青年の茶色い癖っ毛が軽やかに揺れる。花の香りが鼻腔をくすぐりつい口の端が上がる。
と、背後に気配を感じて振り返った。いつの間に入室したのやら、そこに一人の青年が俯き佇んでいた。短く揃えられた髪は陽だまりの光を集めたような金の色。瞳は夏の海を思わせる爽やかな碧。つい先ほどまで双眸に宿っていたはずの怒りはすっかり消え去り、視線は床の一点に力なく落とされていた。
「お帰りなさいセイル。その様子でどうだったかはなんとなくわかりますが、どうでした?」
「……決定事項、だってさ」
「やはりそうでしたか。まあそんなに落ちこむこともないですよ。縁談なんてよくある話ですし、あなたもそういう話を頂く年になったということですし。あらためて、婚約おめでとうございます」
「まだしてねえよ! 絶対しねえ! アッシュお前な……他人事だと思って好き勝手言ってんだろ」
にこりと邪気のない笑みを浮かべた親友を苛々と睨めつけ、セイルは大きく肩を落とした。
近隣一帯を治めるウィンザール家の末子セイルと、手広く様々な商いを手掛けているクラム家の嫡子アッシュ。彼らは幼馴染だ。子どもの頃の数年間をまるで兄弟のように過ごし、ともに学校にも通った仲である。性格はいっそ正反対とも言えるでこぼこコンビ。だが、だからこそ気が合うのかもしれない。
いつものようにウィンザール邸に訪れたアッシュは、今日に限ってはいつもと少々様子が違った。彼は顔を合わせるなりにこやかに口を開いた。
「この度はおめでとうございます。青天の霹靂とはまさにこういうことを言うのかもしれませんね。不躾ですがお相手はどちらのご令嬢ですか? もうお会いに?」
「はぁ? いきなり何の話だよ。へき……なんだって?」
セイルは眉間にしわを寄せ不快な顔そのままに親友を見返した。沈黙することたっぷり五秒、アッシュは軽く首を傾げた。
「ご存じないんですか?」
「なにを」
「では流言に踊らされましたかね……すみませんでしたセイル。私もおかしいと思ったんですよ。次の縁談が、よりによって末子のあなたにくるだろうかと。ですが父が自信満々に言うものですから」
「父、って言うとお前の父か?」
「他に父はいませんよ。あなたもよく知るあの――」
最後まで聞かずにセイルは反転していた。部屋を飛び出し、一直線に廊下を駆ける。
アッシュの父クラム氏は立場の割には気さくなたちだがこんな冗談を言うような人物では決してなかった。器用に立ち回り各界の膨大な情報を収拾し、そこから自らの商いに活かせるものを選び取ってくる。不確かなことは決して口にするはずもなく、要するにアッシュの持ってきたこの案件は事実に相違ないということになる。
「どういうことだよ!」
階上の一室、扉を蹴破る勢いで駆けこんできた荒々しい来訪者に、室内のふたりが振り返る。ひとりは長年この家に仕えている老齢の執事、もうひとりはこの邸の主ジェラルディオン――セイルの実父である。
息子の態度は予測の範囲内だったのだろう、父は一つ嘆息すると手にしていたペンを静かに置いた。
「来たか」
「来たか、じゃねえよ! 縁談ってなんなんだよ! オレ何も聞いてねえぞ、全部説明しろ!」
「セイラルダさま、またそのような大声で……。お言葉も乱れておりますぞ。由緒正しきウィンザール家のご子息ともあろうおかたが、なんとも嘆かわしい」
執事はポケットからハンカチを取り出すと目元に当て、よよよといかにもわざとらしく泣き真似を始めた。セイルは顔をしかめチッと舌打ちする。
「猿芝居はうんざりだっつってんだろ」
「今、なんと仰いました?」
言った途端にハンカチの陰からギロリと睨まれた。子どもなら身を竦ませたであろうそれも今となってはなんの威力もない。セイルは大股で机に歩み寄ると尊大に腕組みをし、父をまっすぐに見下ろした。
ジェラルディオンは椅子の背もたれに背を預けて息子からの視線を受け止める。悠然と見返す瞳は低い位置にありながら、まるで高みより見下ろすがごとく冷たい色に満ちていた。
「クラムの小倅が来ているそうだな。ならばお前が聞いたことは恐らく事実と大差ない。説明は以上だ」
「はぁ? 全然説明になってねえだろうが!」
「これは決定事項だ。セイラルダ、お前に拒否権はない」
その後セイルは一切の発言を許されずに部屋から摘み出された。せっかく異議申し立てに行ったというのに無駄足に終わってしまった。
「あの野郎、オレが何言ってもてんで聞く耳持ちやしねえ。どうせオレのことは道具か何かとしか思ってねえな」
セイルはテーブルに頬杖をついてふて腐れた。自分の父親に向かってあの野郎とは穏やかじゃないなぁとアッシュは心の内で呟く。セイルが父に舌戦で勝てるなどとは端から思っていなかった彼である。だが、そんなことはもちろん言えるはずもなかった。
セイルの目に剣呑な光が宿った。
「ぶっ潰すか」
「……できるんですか? それにいざ破談に持ちこんだとして、既に金品の受け渡しがなされていれば非常にややこしいことになるんですよ」
「だから、まだ会ってねえって。今日初めて知ったんだぞ?」
「あなたはそうでしょうが……。まあ単なる口約である可能性もおいておきます。いずれにせよ、あなたがお父上の意に背くことは不可能だと思いますが」
「はっきり言うなお前……。あ、じゃあ女の方から断るように仕向ければいいじゃん! なっ」
セイルはパンと手を鳴らした。なかなか良い閃きだと思った。呆れ顔のアッシュから「お会いしたこともないかた相手に、具体的にはどのように?」と突っこまれるまでは。
閉口するセイルを前に、アッシュはのんびりとカップに口をつけた。セイルが戻ったときに淹れ直したお茶からは甘い香りと温かな湯気が立ち上っている。それを優雅に楽しんでいる様を眺めているとセイルの心にまた沸々と怒りが湧いてきた。
もっと親身に考える気はないのだろうか。セイルの心情を慮り、何らかの策を講じてくれてもいいのではないか。アッシュだって同じ立場になればそんなふうに悠長に構えていられるわけがないのだから。
「それで、お相手はどなたと仰ってました?」
数拍おいて、セイルはようやく「は?」と声を返した。完全に虚をつかれた。その顔つきから事態を察し、アッシュは怪訝な目を向ける。
「聞いてこなかったんですか?」
「だから! 言ったじゃん!」
「ああ、話にならなかったんでしたね。その態度ではそうでしょうね……。ともかく、肝心のそれがわからないことにはどうしようも」
「あ、ウィルなら何か知ってんじゃね!?」
セイルが今度こそ目を輝かせた。こういうことはまず年長者である兄に話がいくのが筋のはずだ。
それは例に漏れず正しかった。ふたりが半信半疑ながらに訪ねた先で、セイルの兄ウィルトールは穏やかに笑んだ。
「ああ、縁談の件か。聞いたよ。断ったけど」
まるで後光でも差しているかと思うほどの爽やかな笑顔だった。呆気にとられたセイルは、次の瞬間ダンっと足を踏み鳴らした。
「なんでウィルは断れてオレは駄目なんだよ!」
「妥当なのがお前しか残らないからだろう」
「順当に考えればオレより先にお前だろ!? オレ、四男だぞ」
「へえ、〝順当〟なんて難しい言葉をよく知っていたな」
「馬鹿にしてんのか!」
セイルがそばにあった丸テーブルを勢いよく叩く。卓上の本や小物が飛び上がるのを横目に兄は青藍色の双眸をアッシュに向け、やれやれと片手を腰に当てた。
「――先方はセイルと同い年だそうだからね。九つ上の俺より同年同士の方が話も弾むんじゃないかと思ってさ。……でもそれ以前の問題かもしれないな。相手がこいつじゃあ」
「ウィルトールさん、お相手がどなたかご存じなんですか?」
「オルガー家の娘らしい。名前はなんだったか……」
そう言いながらウィルトールはテーブルをまわり、セイルから離れた位置の椅子に腰を下ろす。口許に拳を当てしばらく思い耽っていたが、やがて頭を振った。
「名前を聞いた覚えがない。確か、二人姉妹の姉の方だと」
アッシュは訝しげに片眉を上げた。
「二人姉妹を持つオルガーというと、魔術道具を扱うあのオルガーですか?」
「ああ、そんな感じのことも言っていたかな」
「アッシュ、知ってんのか?」
「……知ってます。会ったこともあります。セイルこそ知らないんですか? 魔術道具専門店の看板娘……ある意味有名人ですよ」
セイルはうーんと腕を組み宙を睨む。〝魔術道具専門店〟の〝看板娘〟……脳をフル回転させて思い返すがなんの記憶にも掠らない。というか全くの初耳である。そもそも魔術道具って何だ。
ふたりから向けられた訝しげな目にセイルはやがてぶすっと横を向いた。
「店員なんかいちいち覚えてねえし、興味もねえし」
「……ウィルトールさん、姿絵などは?」
「あればとっくに出してるよ」
青年の肩を竦める様にそれもそうだと嘆息し、アッシュは親友に向き直った。
「……大変、美人なんです。結婚の申し出も引く手数多だと聞き及んでいますし、それらを頑に拒んでいるとも」
「じゃあなんで今回は受けたんだよ」
三人の間に沈黙が降りた。その問いに答えられる者は、誰一人としていなかった。