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第9章 第3話   あの日の風

 あの日と同じ謁見の間。あの日と同じ、漆黒の鏡。

 そこには、黒い塊があった。


 コールタールをこねて固めたような黒い塊は、時折黒いしぶきを吹き上げ、それを体内に戻しては軟体生物のように動く。


「まさか、これって――」

 フィアナの小さなつぶやきが漏れる。


 ジークは相変わらず周囲も気にしないように、その塊に向かい歩むとともに、右手で『白の世界樹』の印を描く。

 そのまま腰の剣が抜かれ、印の宿る手にさげられた柄の宝石は、わずかに聞こえる韻とともに白い色へと変化していく。


「アーサーさん、ジークさんは――」

「あれは――」


――遂行者だ。

言おうとした言葉は、彼の喉へと飲み込まれる。


 口にしたらもう二度と『ジーク』が戻らないような、もう二度と『ジーク』には会えなくなるような、そんな感覚が彼の思考を支配していた。


 黒い塊は、近寄った青年に気づいたように一瞬その動きを止め、やがてその一部をオウムガイのような触手に変えるとジークへ一気にそれを伸ばした。

 ジークの両腕に絡みつく無数の触手とともに、塊そのものも頭足類のように姿を変え、彼全体を飲み込もうとする。

 しかし、ジークの姿が完全に覆われるかというその一瞬、響いたのは簡潔な一言のみだった。


「――解放せよ」


 すでにジークの姿すら見えなくなった塊の中、白い閃光が周囲を穿つ。

 触手も、黒い塊もまた光の中で灰燼と化し、やがて周囲に光彩が戻されたとき、そこにあったのは、全身を黒く染めた一人の男の亡骸だった。


「皇帝――」

 アーサーの声が小さく漏れた。

 ジークの表情は全く見えない。

 数瞬、『皇帝』を見下ろすようにしていた姿勢が再び正面を向き、彼の歩みは鏡へと向かう。


「ジーク!」

 アーサーが慌てて彼を追った。

「ジーク、もういい、もういいんだ!」

「もういい?なにが、もういいと言うんだ」


 目を合わすこともできず、彼の腕は掴んだものの、視線を上げられないアーサーに対し、ジークの声は体温を伴わない温度で響く。


「何も、変えられなかった。大切なものも、作りたかった未来も。

 なら、ここから再び始める以外に、俺には何一つ残ってはいない」

 そして、ジークは再び黒い鏡に向かい、アーサーの手を振り払うと、再度『世界樹』を描きはじめる。


「――おやめなさい」


 しかし突如として響く、アーサーともフィアナとも異なる声に、ジークの指はそこで止まる。


「そんなことをしても、ここから『彼』のもとへは行けはしない」


 そして、今まで誰もいなかったはずの彼らの後ろで風が踊り、そこには一人の男が現れていた。


「お久しぶりですね。ジークフリート」


 それは神官衣のようなゆったりとした衣装に身を包む、若草色の髪と長い耳を持つ男だった。

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