第9章 第2話 再びヴァナヘイム
「ヴァナヘイム、か――」
アーサーがこぼすように口にし、横目で、その脇に立つ青年を見る。
ジークは口を結び、感情を感じさせない目で、城を見ていた。
孤児院を発ち、彼らが最初の目的地に選んだのはヴァナヘイムだった。
「確認しておきたいことがある」
そう言ったジークの意思を受けてのことだが、転移魔法を使い、彼を運んだアーサーにしても、この場所への再訪には、言葉にできない思いが存在していた。
「フィアナ?」
わずかに咳き込むような音を感じ、アーサーが、後ろに立つフィアナに声を掛ける。
「大丈夫、です……」
言いながらも顔色を青く、背中を丸める姿はその言葉とはかけ離れている。
動揺するアーサーの脇を抜けるように、フィアナの元へと近寄ったジークが、『世界樹』を描くと韻を唱える。
白く輝くわずかな光が、ベールのように彼女を包む。
「ジークさん、あなた、魔法が!」
顔を上げたフィアナが目にした『世界樹』の印。その輝きは、明らかに以前と比べて弱々しい。
だが、ジークはそれには答えず、彼女へとただ語りかけた。
「浄化の韻だ。俺が魔法を止めても、しばらくは留まって瘴気の影響を防いでくれる」
「瘴気!?」
反応したのはアーサーだった。
ジークは振り返り、アーサーを見る。
「アーサー、この空気、覚えていないか?」
アーサーは匂いを探しでもするように、視線を少し高く、周囲を見渡す。
やがて、
「おい……まさか……」
ジークはゆっくりと頷いてみせる。
「魔界の、空気だ。この城の周囲が、魔界に近い状態になっている」
「一体、なんで……」
「――あの鏡だ」
アーサーの問いに、ジークは答えを断定する。
「あの日、皇帝の後ろにあった黒い鏡。あれは、姿をゆがめられているが、世界樹だ。
歪な形で魔界と人間界の扉とされた世界樹が、ここで瘴気を撒き散らしている」
「あれが――」
自分が帝都にいた頃、城に置かれていた漆黒の鏡。
ヴァナヘイムに移されていたそれこそが、この異常の原因だというのか。
だが、同時に生じた疑問を、アーサーはジークに対してぶつける。
「だが、前回ここに来たときには、これほど魔界の空気は感じなかった。この短期間での異常はなんだ!」
ジークは答えない。
ただ、目を細め、視線を低く佇んでいる。
「あの!」
重々しい空気に耐えかねたように、フィアナが彼らの沈黙を破る。
「見ていただきたいものが、あるのです」
もとの表情に戻ったジークがアーサーと顔を見合わせる。
「こちらです」
そう言ってフィアナは、男二人をあの日の部屋へ、シアルヴィと共に自身が逃げ込んだ、あの隠された部屋へと先導した。
藪に隠されるようにした小さな入口。
その先にあったのは、あの日と同じ、あの肖像画の飾られた部屋。
フィアナがまず肖像を見上げ、追うようにジーク、アーサーもそれを見上げる。
城主であっただろう男性とその妻、そして彼らの嫡男であろう二人の少年。
弟は黒髪と琥珀色の目をした少年。そして、兄は――
「これって、ロシェと――」
アーサーの口から声が漏れる。
真紅の髪、赤い右目と金の左目。
肖像に残された兄の特徴は、彼らのよく知る赤毛の男性のそれと、驚くほどに一致していた。
ジークの視線が斜め下へと落とされていく。
「シアルヴィさんはあの日、私をここへと逃がされました。そして、私にはジークさんと合流するようにと言って、ご自身は――」
フィアナの言葉はそこで止まる。
アーサーが彼女の肩へと手を置く傍らで、表情を変えないジークが肖像画の下へ足を進める。
そして彼はそのまま、肖像の下の扉の前へと腰を落とした。
「ジークさん?」
フィアナの声も聞こえないように、ジークの視線は床の埃に注がれている。
放置された城内に残る埃が、真新しく、扉の根本に溝を刻ませていた。
ジークは立ち上がるとともに、扉の取手へ両手をかけ、奥へとそれを押し開けようとする。
気付いたアーサー、フィアナが慌てて駆け寄る。
舞い上がる埃を霞と引き、閉じられた扉は奥へと向かい開かれていた。
そこは、白い部屋だった――いや、白い部屋だったのだろう。いたるところに魔法の痕跡を残すその部屋は、もはや褐色と言ってもよかった。
そして、その中心に立つ異形の剣士。
その姿に、ジークの後ろに立つ二人から言葉に出来ない声が聞こえる。
――それは、紅い剣士だった。
髪だけではない。その肌も、衣装も、手に下げられた剣の先まで、すべてが紅く染められた剣士は、この地で生を散らせた忠義の剣士と同じ姿を映しとっていた。
「――ジーク!」
進み出る剣士を友が呼んだ。
剣が鞘を滑る音が鋭く響いた。
――そして、対峙は一瞬だった。
剣の一閃が銀の尾を引き、紅い剣士が前へと倒れる。
だが、それが床へと触れるほんの一瞬、彼の姿は一気にほどけ、真紅の髪が周囲に散らばる。
「遺髪――シアルヴィさんの――」
フィアナの声が小さく聞こえる。
「ジーク!」
駆け寄ったアーサーが、ジークの顔を覗き込み、身を反らせるとともに一歩下がった。
豊かな感情に満ちていたはずの表情は湖面のように静まり返り、その目は、すべての感情を焼き尽くしたように、青く凍りついていた。




