第9章 第1話 さよならの空の向こうへ
空が黒くなり、降り始めた雨の中を一人の少女が駆け抜けていく。
かつて『孤児院』だった建物へとたどり着いた彼女は、破壊された入口から中へと入る。
中に一人いた青年が、顔を上げ、少女を呼ぶ。
「フィアナ」
「食料と水、それに必要になりそうなものを買ってきました」
「すまない。俺は、顔が割れていたらいけないからな」
そういって、栗毛の青年――アーサーは包みを受け取る。
「ジークさんは?」
「――まだ、あのままだ」
問いかけるフィアナにアーサーが答え、フィアナが顔を曇らせる。
「ここから生まれたんだな――今のあいつが、そして、あいつらの関係が――」
言って、アーサーは天を仰ぐ。
かつて子供たちの声が包んだ場所は、今、ただの無人だった。
以前の惨劇を物語るように、壁や内装は黒く焼け焦げ、屋根の一部は崩落している。
それでも、残された壁や屋根は、降り始めた雨から彼らを庇うには十分だった。
「俺は、知らなかった」
言って視線を落とすアーサーを、フィアナが言葉もつがずに見守る。
「――あいつらは互いを、どんなふうに感じていたんだ。ただの戦友か?そうじゃない。
あれは、まるで――」
「――私にも、全てわかっていたわけではありません」
前置きしてからフィアナは言う。
「シアルヴィさんはたしかに、ジークさんを愛しておられました。友として、仲間として、そして――家族として」
「家族――」
「シアルヴィさんの、ジークさんを見る目はずっと優しかった。まるで、弟を見る兄のように」
――弟
その瞬間、アーサーの心は杭に打たれた。
蘇るのは、姉の姿。
弟を守り命を賭した、その姉にして魔界の王女、ディアドラ。
――なにが違う?
――同じではないか!
――姉が弟を、兄が弟を思うその感情に、なんの違いがあるというのだ!
「――俺は、どうすればいい」
詰まるようなその声には、明確に震えが混じっていた。
「俺は、どうすればいい!
俺は、どうすればあいつの生に報いてやれる!」
荷物の包みを固く抱き、アーサーは絞り出すような声で叫ぶ。
「アーサーさん……」
アーサーへと抱きつき、フィアナが言う。
「今は、ただ待っていてください。
大切な人を目の前で失うというのは、ときに自分自身を切り刻まれる以上にその身に傷を残すものです。それは、私にもわかります」
「――だから、今はただ、待っていてください。大丈夫、大丈夫ですから」
その言葉にアーサーはしばし沈黙し、やがて、意を決したようにフィアナに言う。
「――フィアナ、頼みがある」
屋根を叩く雨の音は、次第にその足音を大きくしていた。
――岬の先端にほど近い緑の草原。
柄の部分を組み合わせるように立てられている黒の双剣。
それが、彼の墓標だった。
「せめて最期は、彼の愛した子供たちのそばで眠らせてあげたい」
そう願ったジークの思いを受け、その永遠の寝所は、彼が保父として生きた孤児院のそばに設けられた。
土の跡も真新しいその傍らで、ジークはただ佇んでいる。その背には、白い翼が広がっていた。
それは、彼ら翼を隠すものの死者に対する、最大限の礼儀であり、シアルヴィを大地へと眠らせた後、彼はずっとそうしていた。
すでに感情がどこにあるのかさえわからない。
左手で鎖の部分を握ったペンダントだけが、彼との、唯一のつながりであるような気がした。
やがてわずかに顔を上げ、ジークは左へ視線を振る。
並んでいるのは石の墓標。
あの日、シアルヴィを逃がした後、ジークが作った子供たちの小さな墓。
誰よりも帰還を望んだはずのこの場所へ、ついぞ、彼は帰ることは叶わなかった。
「シアルヴィさん――」
呟くように口にするとともに、その左手から鎖が抜け、ペンダントが大地へ落下していく。
落ちたはずみに蓋が開き、あの頃と同じ、オルゴールの音が歌い始める。
慌てたようにかがみ込み、両手ですくい上げるジークが、そのままその場で動けなくなる。
喉を突いて嗚咽がもれ、彼の体が小さく震える。
ペンダントを握る両手に力が入る。
降り始めた雨が、彼の翼を湿らせていく。
――シアルヴィさん!
嗚咽は次第に慟哭へと変わり、彼はその場に泣き崩れた。
強くなる雨が翼にはらみ、重くなったそれが、彼の周囲を覆い隠す。
堰を切ったように溢れ出す涙は、もはやどうすることもできなかった。
朝の訪れを瞼に感じ、アーサーが重く両目を開く。
強い雨はすでに立ち去り、破壊された屋根からは銀の光が差し込んでいる。
彼は横になった姿勢のまま、確認するように周囲を見渡す。
「――ジーク!」
かつて『扉』であった場所に、光が囲む影を見つけ、アーサーは一気に体を起こした。
隣の、神官の少女も同様だった。
「――ジーク」
アーサーは、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「もう、いいのか?」
その問いに、ジークはわずかに微笑んでみせる。
しかし、笑みを形作った口元に対し、低く下がった目元と眉は、その答えが肯定ではないと示していた。
「――行こう」
やがてただ一言口にし、ジークは孤児院へ背中を向ける。
光の中へ消えていく彼をアーサーとフィアナが急いで追う。
雨を受けた草は真珠と輝き、それを蹴立ててジークの足が駆け抜けていく。
朝の光だけはあの頃と同じように、穏やかに孤児院を照らしていた。




