第8章 第3話 撃破
<――ファブニール!>
ジークの声が高く響く。神代言語だった。
<俺の声が聞こえるな。俺のことががわかるなら、もう戦うな!>
竜の動きが一瞬止まり、喉がぐう、となる音が聞こえる。
<そうだ、思い出せ。俺もお前も、今こんなところにいるべき存在ではない。帰ろう。俺たちのあるべき場所に>
竜が止まったことに気付いたのか、地上から安堵の声がわずかに聞こえる。
ジークが、自然に開いた右手を竜へと伸ばす。
――だが次の瞬間。
魔法の炸裂音とともに、竜の全身は黒い炎に飲み込まれた。
再度竜を呼ぶジークの声も、炎の、爆ぜる音へと飲み込まれていく。
全身を焼くような赤黒い炎に、竜は身をよじり、激しく高く咆哮を上げる。
<思い出せ!お前は我々とともに、冥界を治めた竜の王だ。こんなところで使われていい存在じゃないだろう!>
だがもう声も届かないように、竜は大きく身を震わせ、まとった炎を振り払い、天を仰ぐと獣のように声を上げる。
<ファヴニール!>
「ジーク!」
ジークとシアルヴィの叫びが重なる。
首を振ったジークの視界に、ヨツンヘイムの魔法陣を染めたのと同じ、赤を交えた闇色の槍。
魔法で放たれたその槍に、ジークは剣を抜き、それを断ち割るように大きく振るう。剣が魔法を吸収し、柄の宝石が黒真珠色から槍と同じ、赤を飲み込んだ黒へと変わる。
術者は――ロシェ!
「――!」
バルコニーに立つ術者に対し、声にならない叫びとともに、ジークは剣を一閃する。
放たれた衝撃波がバルコニーを飲み込み、ロシェの姿が見えなくなる。
<ファヴニール!>
剣の先を確認もせず、竜へと視線を振ったジークの目には、竜の口に宿る黒い炎。
――まずい!
「そいつの炎に触れるな!
黒い炎はお前たちを魔族に変える!お前たちが魔族になるぞ!」
彼の声に、喧騒が一層大きくなる。
兵たちが一層ひしめき合い、倒れるものが現れ始める。
悟ったように、シアルヴィがわずかに顔を上げる。
あの日ヨツンヘイムで見たもの。魔族化しつつあった亡骸。魔法を暴発させたジーク。
ではこれが、その時、そこに現れたもの――
黒い炎が放たれる。もはやどうすることもできない。
だが固く目を閉じ、次なる瞬間を覚悟した彼に届いたのは、大地を巻き上げる衝撃音ではなく、金属音にも似た高らかな音。
竜を見上げる。
大きく描かれた世界樹を盾に、ジークは竜と、兵たちの間に割って入っていた。
そしてジークがわずかにうつむいた直後、盾と炎は相殺され、生じた衝撃波とともに、彼は激しく墜落していく。
落下音が人垣の向こうに遠く響く。
「ジーク!」
シアルヴィの叫びにも返事はない。
――手のしびれは消えた。行ける――
シアルヴィが剣を手に、立ち上がる。
正面では目がくらんだ様子の竜が、苦しげに首を無秩序に振る。
――ジークが墜落したのは魔法兵団の方向。
――回復魔法をかけてもらえれば、彼はすぐにここへ戻る。
――ジークの剣と魔法ならば、竜にも通じる可能性は高い。
先ほどの黒い炎はこの竜を、明らかにそれまでの存在とは変えてしまった。
ジークが竜といかなる会話を交わしていたかは分からない。
だが、言葉も通じていた様子だった竜を再び破壊獣へと変えたのは、間違いなくあの黒い魔法だ。
シアルヴィはバルコニーを見上げる。
ジークの衝撃波で破壊されたバルコニー。そこにいた術者を確認することはできない。
視線を竜へと戻す。竜は視界が戻ったのか、唸り声をあげながら頭を振り、獲物でも探すように尾を上げ、姿勢を低くしている。
――ならば、今すべきことは――
ふっ、という呼吸音をわずかに残し、シアルヴィは駆ける。
先程尾撃を剣の刃で――すなわち『線』で受けた時、鱗に傷はつかなかった。
しかしその前、爪の根元に剣は通じた。つまり剣先による刺突であれば――『点』であれば、鱗の隙間は刺し貫ける。
単騎飛び出した小さきものに狙いを定め、竜は炎を宿した目でシアルヴィを追う。
竜の頭が、尾が大きく動き、竜の足は大地を鳴らす。
シアルヴィは竜の足へと駆けながら一本の剣を両手で構える。
そして、何度目かの竜の足が大地をたたく、その瞬間――
――ここだ――!
僅かに開く鱗の隙。
シアルヴィの剣が大地についたかかとの上、竜の足首の腱へと突き立てられる。
巨躯を支える片方の足の腱を切られ、竜の背中が低くなり、体が大きく左へ傾く。
再度竜の尾が彼に迫り、しかし胸元から抜いた短剣で、シアルヴィはこれを受け止める。
短剣の剣先と鱗がぶつかり、激しい金属音とともに彼の体が後ろへ飛ぶ。
着地地点を待ち構えたように、竜が前足を振り上げ――しかし直後、炸裂した魔法とともに、竜の前足が跳ね上げられる。
魔法が飛んできた側をシアルヴィが見る。
先程まで喧騒につぶされそうになっていた帝国兵たちが竜へと対し、魔法の杖を構えている。
シアルヴィが一瞬笑みを浮かべ、前足の軌道から抜け出すとともに再度駆ける。
直後、多数の矢が翼を貫き、飛膜に無数の穴をあける。
「ファヴニール!」
上空より響くジークの声に顔を上げれば、彼は今、光をまとわせた剣で竜の鼻先を斬り上げていた。
続けて上からの刃を返すが、しかし竜にも意地があるのか、火を伴わない熱風を彼へと吐きつけ、とっさに顔を庇ったジークへとその前足を振り上げる。
そしてジークが腕の下から竜をうかがうその瞬間、漆黒の鎖が、竜の前足へと絡みついた。
「これは!?」
だが術の出所を確認もせず、ジークは翼を開き、同時に再び世界樹を描く。
柄の宝石は、緑を帯びた白に輝いている。
ジークが高く飛翔し、竜の頭を超えた瞬間、続けて飛来した数匹の巨大な黒い蛇が、竜の首へ、そして胴へと巻き付き、黒い鎖へと変化していく。
その術者が誰であるのかなどジークにはわからない。
だがこの好機を置いて、ほかにはなかった。
竜の頸へと狙いを定める。
白く輝く翼の軌跡が、風を纏って急降下する。
魔法を宿した彼の剣が、竜の頸へと容易に食い込む。
生命を穿つ感覚とともに、二つの白に視界が染まる。
ジークは一瞬の躊躇ののち、絞るように言葉を紡ぐ。
「――解放せよ――」
剣に乗せられていた『白の世界樹』と、今唱えられた魔法が重なり、剣は白く、白く輝く。
竜のうなじから放たれた光芒の波が、竜を、刑場を飲み込んでいく。
そして光が消え失せた時、刑場の中心には剣を手にした翼の人物と、その足元に横たわる人ほどの大きさの黒い亡骸。
「ジーク!」
シアルヴィが急ぎ彼へと駆け寄り、しかし、彼の足元に横たわる人物に気付くと、その場で思わず足を止める。
「ウトガルド……!」
それは間違いなくウトガルドだった。孤児院を焼き、子供たちを奪った憎むべき相手。
しかし、彼も武人だった。このような最期など――
シアルヴィは胸へ手を当て、目を閉じ、祈りの姿勢を取る。
見届けたように、足元の亡骸が砂となって風の中へと散らされていく。
彼らを囲む人垣から、待ち受けたように声が上がる。
歓喜の叫びとともに手を上げるもの、踊るように飛び上るもの。
歓声はどんどん大きくなり、嵐のようにごうごう響く。
ジークは固く目を閉じている。わずかにうつむき、体を震わせるジークの体をシアルヴィが腕の中へと抱き寄せる。
いつまでもいつまでも鳴りやまない歓声の中、二つの影だけがただ、寄り添っていた。




