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プロローグ3 本当の地獄

 夢を見ていた。とてつもなく辛い悪夢を。


 周囲にはテレビ画面のように数えきれないほどの映像が流れている。それらは僕の記憶、これまでの人生の記憶だ。

 それらは言わば僕を構成するもの。それがあるからこそ、僕は僕でいられる。


 だというのに、その映像は次々と虫食いのように黒い斑点で埋まっていく。それと同時に何かが自分から失われていくのが分かった。

 さしずめ自分が自分でなくなっていく感覚といったところか。さすがに長年生きていたがこんなものを味わうのは初めてだ。これまでのどんなものよりも苦しいし、発狂しそうになる。


 消えたところにまた新しい映像が流れていく。喜ばしかったこと、悲しかったこと、怒ったこと、楽しかったこと、それ以外のもの、ありとあらゆる物が。

 その一つ一つ、何物にも代えがたい大切な自分というものを構成しているものが、どんどん砕かれ、消し去られていくのだ。

 

 まるで人生という本があってそのページを燃やされていくようだ。その度に体から何かが抜け落ち、全身がバラバラになったかのような錯覚を覚えてしまう。


 青春の駆け抜け、妻に会い、息子と娘に恵まれ、孫の成長も見守った、そんな何よりも大切な思い出すらどんどん砕け、何もない無に還っていく。

 

 まるで絵の描かれたキャンバスに真っ白なペンキをぶちまけていくように、すべてが白紙に戻ろうとしている。


(い、や……だ)


 この記憶は自分が生きてきた証だ。死んでしまった今だからこそ、これがなくなってしまったらもう僕には何も残らない。すべてを失ってしまう。


 もしかしたらそれが死ぬということなのかもしれないけど、そんなことを受け入れられるわけがない。こんな簡単にあっさりと今までの人生をなかったことにされるなんて耐えられない。


(いやだ)


 そう思っても、どんどん記憶は失われていく。自分や妻、子供の名前すら蝕まれていって思い出せなくなってしまった。

 忘れるのではない、完全な無だ。なくなってしまったものはもう二度と思い出すこともできない。


「やめてくれ……」


 神がいるとしたらなんと無慈悲なのだろうか。こんな風に自らが失われていくのをわざわざその本人に見せ付けるようにするのだから。


 これを地獄と呼ばずなんと言う。


 あるいは先ほど見た木々の風景こそが夢でこちらこそが真の地獄なのかもしれない。そうでなければここまで苦しまなければならない意味がわからならなかった。


「もう、やめてくれ」


 こんな苦しみを味わい続けるなら、いっそのこと狂ってしまった方がいいのかももしれない。

 そう思った時、一つの記憶が浮き上がってくる。


「これは……」


 それは妻の記憶だったが、正確な時までは記憶の崩壊が進みすぎてわからなくなっていた。見た目からして若い頃のようだが。

 ただ、この記憶を見た瞬間胸が締め付けられた。わかる、この記憶は自分にとって本当に大切なものだと。


 記憶の中の妻が口を開いて、何かを言っている。だというのに、その言葉がわからない。

 大切な言葉だったはずなのに、忘れてはいけない言葉だったはずなのに。


「なぜ、思い出せないんだ」


 ふがいない自分に怒りすら湧いてくる。だが、諦めるのはまだ早い。完全な無になっていない以上まだ記憶が残っているはずだ。

 必死に記憶の糸を手繰り寄せて、その映像に触れようと手を伸ばす。体は鉛になったかのように重い。けど、前と違ってそれでも動かすことができる。


「届いてくれ」


 必死に手を伸ばす。


「と、どけ」


 あと数センチのところでついにその記憶にも黒い斑点が浮かび上がってくる。ダメだ、これだけは失うわけにはいかない。

 消え去るギリギリのところで指が触れた。その途端にそれまでの重さが消えて、倒れるようにして、その記憶に突っ込む。


 すると、頭の中に映像が流れだした。ノイズだらけというのだろうか。ひどく醜い映像だ。ほとんど言葉もわからない。

 けど、確かに聞こえていた。


「私のこと忘れないでね」


 どんな会話をしていたかもなぜこんな言葉が大切だと思ったのかはもうわからない。それは既に失われてしまったのだから永遠に謎のままだろう。


 でも、確実にわかることが一つだけある。


 それはこの時、僕が妻にこう言われて、


「絶対、忘れないよ」


 そう返したことだ。言葉だけでなく心の中でもそう誓いながら。


(忘れてたまるか)


 虫食いがひどくなっていく。もうすべてが黒に染まろうとしていた。


 僕にできたのは最後の抵抗として、その記憶をただただ思い続けることだけだった。

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