存在しない放送
汐見町の川は、もう昔の川筋を流れてはいない。
旧河道は二列の家並みのあいだに挟まれている。
雨上がりには、浅い水が石の隙間を伝って低いところにたまり、晴れれば薄い泥だけが残る。
川沿いの家々には、川に面して開く小さな裏口が今も残っている。
木の階段が一段ずつ下へ伸び、いちばん下の段は泥に埋もれている。
敷居は長年の靴底に磨かれて艶を帯び、いくつかの戸の取っ手には、色あせた紐がまだ結ばれていた。
河道の改修後、そこを船が通ることはなくなった。
ときおり住人が裏口を開け、洗った桶やたらいを木の階段に置いて乾かす。
近くの子どもたちは、学校帰りに今も干上がった河床を横切り、商店街への近道にしていた。
そこから出入りしなくなった家もある。
それでも、戸口はずっと取り壊されずに残っていた。
澪が着いたとき、雨はちょうど上がったところだった。
駅の庇から、トタンの縁を伝って水滴が落ちていた。
駅前の豆腐屋はまだ店を開けておらず、店主が空の木箱を軒下へ運び込んでいた。
隣の新聞売店では、昨日の新聞が束ねられ、戸口の脇に置かれていた。
長靴を履いた男が、自転車を押して通り過ぎた。
前かごには、空の買い物かごが二つ入っていた。
澪は商店街を北へ歩いた。
古い写真館はすでに廃業していた。
ショーウインドーには結婚写真が三枚、まだ飾られていた。
印画紙は湿気を吸い、縁がわずかに反り返っていた。
ガラスには移転のお知らせが貼られており、日付は二年前だった。
澪は子どものころ、ここで入学記念の写真を撮ったことがある。
あのころ、写真館の前には長椅子があり、父はいつもそこに座って彼女を待っていた。
長椅子はとうになく、地面には木製の脚を固定していたボルトが二本残っていた。
ボルトのあいだには小さな草むらができていて、葉は雨に打たれ、地面に押しつけられていた。
1994年9月29日から30日にかけて、台風第26号が近畿から北陸へと進んだ。
父の佐伯修一は、町立有線放送所で勤務していた。
台風が過ぎたあと、父は帰ってこなかった。
当時、父は回線を点検している最中に川へ落ちたのだと言う者がいた。
夜明けには、古い橋を渡る父の姿を見たという者もいた。
三十二年後、町役場は旧放送所を取り壊すことにした。
資料を整理していたところ、未完成の修理記録が見つかり、音声修復師である澪に、録音資料の判別を手伝ってほしいと連絡が入った。
その記録には、父の署名があった。
その下には、こう記されていた。
「北三系統。現地確認。」
時刻は23時42分。
澪は休暇を取り、一人で汐見町へ戻った。
父があの日、いったいどこへ行ったのかを知りたかった。
母は今も、古い商店街の裏手にある家に住んでいた。
塀は塗り直されておらず、壁の根元には雨水が削った浅い窪みがいくつかあった。
軒下には竹製の植木鉢が二つ吊るされていた。
そのうち一つは空で、鉢底に雨水がたまっていた。
庭の石畳は台所まで続いている。
石と石の隙間には細い草が生え、流し台に近いあたりはいつも湿っていた。
母が戸を開けたとき、手にはまだ床を拭く布が握られていた。
「ずいぶん早かったね。」
「列車は遅れなかったから。」
母は身を引いて、澪を中へ通した。
玄関の木の床には、門口から台所まで、薄く色の抜けた道筋ができていた。
子どものころの澪は、よくそこを走り回った。
靴底についた泥水は、いつも同じ道筋に足跡を残した。
今では床板に足跡はなく、モップで拭いた水の筋だけが残っていた。
夕食は二人きりだった。
母は大根を煮て、魚を一尾焼いた。
魚の皮は、鍋に接していた側が少し焦げていた。
母は魚を裏返し、骨を一本取り除いてから、澪の茶碗に入れた。
澪は、父が大根を好きではなかったことを覚えている。
母がこの料理を作るたび、父は汁を飲み干し、大根だけを残していた。
食後、澪は台所の戸棚の下に、黄ばんだ小さな箱が置かれているのを見つけた。
箱の片側には丸い穴があり、外装はすっかり黄ばんでいた。
電線は切断され、切り口から白い芯が少し覗いていた。
「これ、まだあったんだ。」
母はちらりと見た。
「お父さんが残したものだよ。」
昔の通信端末だった。
父はかつて、回線の試験をするために、それを家につないでいた。
澪は子どものころ、それに向かって話しかけるのが好きだった。
ときどき、その中から父の声が聞こえてきた。
「聞こえるか。」
澪はいつも、先を争うように答えた。
母は空になった茶碗を重ねた。
「小さいころ、よくそれに向かって話していたね。」
「覚えてるの?」
「もちろん。」
「お父さん、返事してくれたよ。」
母は茶碗を流しに置いた。
「ラジオの声だったこともあるよ。」
「それをお父さんだと思っていたこともあった。」
澪は反論しなかった。
父の声は覚えている。
けれど、返事をしたあと、本当に端末から声が返ってきたのかどうかは、もう思い出せなかった。
蛇口はきちんと閉まっていなかった。
水滴が一つ、流しに落ちた。
しばらくして、もう一滴落ちた。
翌日、澪は旧放送所へ向かった。
その二階建ての建物は、坂の頂に建っていた。
裏口へ続くコンクリートの道は少し傾き、道端には野草が何株か生えていた。
草の葉のあいだには、風に飛ばされてきた包装フィルムが挟まっていた。
建物の中では、すでに解体作業が始まっていた。
作業員がバールで最後に残った配線ダクトを剥がし、埃が床に敷かれたビニールシートの上へ落ちていた。
壁には古いネジ穴が一列に露出し、その下には色あせた水染みが残っていた。
取り外された接続箱がいくつか、壁際に積まれていた。
蓋には当時の番号がまだ貼られていた。
澪は父が当直していたころの勤務簿を見つけた。
9月29日。
23時31分、北区通信異常。
23時42分、佐伯、現地確認。
23時47分、受信。
23時53分、回線切断。
最後の二項目には署名がなかった。
彼女は次のページをめくった。
翌朝の欄には、走り書きが一つ残されていた。
「確認済。」
日付の数字には訂正の跡があり、二十九日なのか三十日なのか、もう判別できなかった。
壁際には古い工具棚があった。
扉は半開きで、中には形ごとに並べられたスパナやドライバーが収まっていた。
いちばん下には一つだけ空いた仕切りがあり、その脇に「北三」と書かれた札が貼られていた。
持ち出した日付は記されていなかった。
当時の勤務員だった黒田は、坂の下に住んでいた。
老人は軒下で細い竹竿の束を整えていた。
竹竿は長さがまちまちで、一本ずつ壁際に立てかけていた。
いちばん長い一本は戸口を横切り、出入り口の半分を塞いでいた。
事情を聞くと、黒田は澪を家に招き入れた。
「お父さんは、あの夜、外へ出たよ。」
「どこへ?」
「北のほうだ。」
「旧分岐所ですか?」
黒田はうなずいた。
「あそこの回線は、ずっと前に止まっていた。」
「だから点検に行ったんでしょうか。」
老人は澪を見た。
「止まっていたからといって、線まで撤去されたわけじゃない。」
彼は澪に茶を注いだ。
「お父さんはあの日、北三回線のことを私に尋ねた。」
「二度も聞いたのを覚えている。」
「そのあと、父を見ましたか?」
「見たよ。」
黒田は急須を卓上に戻した。
「十一時四十分ごろ、放送所の裏口から出ていった。」
「灰色の上着を着て、工具袋を手に提げていた。」
「私は廊下にいて、出ていくところを見ていたんだ。」
「どこへ行ったんですか?」
「北だ。」
「後を追わなかったんですか?」
「追わなかった。」
「私も当直だったからね。」
老人の口調には、迷いがなかった。
澪は、父が最後に何を持って出たのかも尋ねた。
「工具だろう。」
「具体的に何だったかまでは見ていない。」
黒田は立ち上がり、窓を少し押し開けた。
庭の竹竿が風に吹かれ、かすかに触れ合った。
「あの夜は、ひどい雨だった。」
彼はそう言った。
「それきり、姿を見ていない。」
近藤静枝は、旧河道のそばに住んでいた。
家の前には細い路地があり、かつては河辺まで続いていたが、今は新しい堤防に遮られていた。
彼女は今も路地の入口で洗濯物を干していた。
二棟の家のあいだに物干し紐が渡され、その下には青いプラスチックの桶が置かれていた。
澪が訪ねたとき、静枝は洗濯物の糸くずを切り取っていた。
事情を聞くと、老人はハサミを置いた。
「あなたのお父さんね。」
彼女は少し考えた。
「昔、見たことがあるよ。」
「いつですか?」
「台風の日。」
「どこで?」
「川のそば。」
近藤は引き出しから古いカレンダーを取り出した。
二十九日の欄には、ごく細い斜線が一本引かれていた。
三十日には「豆腐を買う」と書かれていた。
紙の縁には、薄い黄色の水染みが輪になって残っていた。
「あの晩、私は外へ出たんだよ。」
「避難するためですか?」
「違う。」
「誰かに呼ばれたんだ。」
「誰に?」
「夫に。」
彼女の夫は当時、山の上の避難所にいた。
「翌日、夫に聞いたんだ。」
「あの夜、ずっとそこにいて、家には戻っていないと言っていたよ。」
澪はカレンダーの斜線を見つめた。
「何が聞こえたんですか?」
近藤はハサミを膝の上に置いた。
「今、行きます。」
「どこから聞こえたんですか?」
「川の向こう。」
彼女は顔を上げ、窓の外を見た。
「橋のところまで行ったら、向こう側に人が立っているのが見えた。」
「濃い色の服を着て、背を向けていた。」
「手を耳元に上げていたよ。」
「それは父だったんですか?」
「その人は、とうとう振り返らなかった。」
近藤は再びハサミを手に取った。
「あの言葉を覚えているんだよ。」
「そのあと毎晩、眠る前になると、思い出すようになった。」
彼女は糸くずを切り続けた。
糸くずが膝の上に落ちた。
町役場の資料室は、古い庁舎の二階にあった。
階段の手すりは塗装が一層剥げ落ち、窓の下には整理を待つ段ボール箱が積まれていた。
資料担当の千田は、澪のために1994年当時の最初の報道を探し出してくれた。
地方紙の記事は10月1日付だった。
見出しはこうだった。
『深夜、不明の声を聞いた住民たち』
記事には、台風の夜に複数の住民が声を聞いたと記されていたが、特別番組や正式な放送については触れられていなかった。
二年後の町史補遺で、初めて「異常放送」という名称が登場した。
それ以降、すべての記述がその呼び名を踏襲していた。
澪は録音が残っているかどうか尋ねた。
千田は台帳をめくった。
「以前、一本あったような気がします。」
「どこに?」
「分かりません。」
「修理に出されたのかもしれません。」
「誰が出したんですか?」
「記録はありません。」
彼女はもう一ページめくった。
それは放送所の設備点検記録で、裏手の機材搬入口に関するものだった。
「九月二十九日、二十二時十分、裏口施錠。」
その下には、もう一行あった。
「翌朝巡回、封印に異常なし。」
澪はコピーを脇に置いた。
千田は新聞を段ボール箱に戻し、底のほうから薄い冊子を一冊取り出した。
表紙には「消防団出動記録」と書かれていた。
9月30日のページには、数行しか記録がなかった。
「警察要請・佐伯修一捜索」
「午前六時二十分―九時四十分」
「旧橋下流・南岸」
「北側旧道、冠水のため未踏査」
「発見物なし」
澪は一度目を通し、そのページを撮影した。
千田はもう次の資料を整理し始めていた。
彼女は旧小学校へ行った。
学校はすでに廃校になっていた。
運動場は近隣住民の駐車場として貸し出されていたが、体育館はまだ残されていた。
入口の脇には折り畳み椅子が積まれ、壁には古いバスケットボールがいくつか掛けられていた。
木の床に引かれた白線はところどころ擦り切れ、濃い色の靴跡が収納棚の前まで続いていた。
澪は当時の避難者名簿を見つけた。
母と自分の名前が、第十九行に並んで記されていた。
二人の名前の脇には、それぞれ丸印がついていた。
しかし、時刻の欄は空白だった。
前後の行にはすべて具体的な受付時刻が記されていたが、この一行だけは何もなかった。
澪は子どものころ、あの夜、父が帰ってくるのを台所の床に座って待っていたと、ずっと覚えていた。
ところが母は、夕方からずっと体育館にいたと言っていた。
澪は名簿を前のページに戻し、また元のページに戻した。
台所の床に走っていたひび割れを覚えている。
膝を戸棚に押し当てたときの冷たさも覚えている。
外の雨音も覚えていた。
けれど、あの台所に明かりがついていたかどうかは、もう思い出せなかった。
彼女は、自分があの夜を覚えているのだと、ずっと信じていた。
今になって、自分の記憶しているのが、いったい何月何日のことなのか疑い始めていた。
名簿には、二人の名前が今も並んでいた。
その脇の丸印は、二人がいつ到着したのかも、いつそこを離れたのかも示していなかった。
澪は初めて、父がどこへ行ったのかを考えるのをやめた。
あの夜、自分はいったいどこにいたのかを考え始めた。
町役場に戻ると、澪は修理資料をもう一度調べた。
旧式の回線監視装置の修理記録には、すでに廃業した電器店の番号が残されていた。
彼女はその番号を手がかりに、店主の息子を探し出した。
彼は父親の古い帳簿を保管していた。
帳簿には、次の項目があった。
「九月、放送回線記録部、点検。」
年は記されていなかった。
その後ろに、鉛筆でこう書かれていた。
「返却不要。」
店主の息子は、町民会館の古い領収書を一枚、戸棚から取り出した。
「父が倉庫を整理したとき、持ち主が名乗り出なかったテープを何本か、そちらに渡したんです。」
「どの一本だったかは、記録に残していません。」
澪はさらに町民会館へ向かった。
倉庫の管理人は長い時間探し、ようやく廃棄予定の会議録音が入った箱から、灰色のリールを一つ取り出した。
リールにはラベルがなかった。
テープの途中には、手作業で編集された跡が二か所あった。
管理人はリールを机の上に置いた。
「こういうものは何年も置きっぱなしで、誰も取りに来ないんです。」
澪はそれを臨時の作業室へ持ち帰った。
澪は一晩かけてテープを処理した。
最初に原信号を複製し、雑音は取り除かなかった。
冒頭の十数秒は、電流のノイズだけだった。
そのあと、子どもが答えたように聞こえた。
「はい。」
さらにその先では、女性の声がかすかに聞こえた。
「今、行きます。」
長い底ノイズのあと、誰かが言った。
「そこにはいません。」
最後に、途切れ途切れの声があった。
「まだ、聞こえていますか。」
そこでテープは終わっていた。
日付も時報もなく、1994年の台風の夜に録音されたものだと確認できる音は一つもなかった。
二か所の編集跡を見ても、これらの言葉がもともとこの順番で並んでいたという保証さえなかった。
澪はそれぞれの声を別々に保存した。
長い時間、彼女はそれを聞き続けた。
子どもの声は自分とは違っていたが、どこか似ているところもあった。
女性の声は、今の近藤の声より若かった。
最後の一言は父の声のようにも聞こえたが、黒田の声にも似ていた。
彼女はいくつか異なるフィルター処理を試した。
どの処理でも、ある音節が明瞭になる一方で、別の音節は消えてしまった。
彼女は原音ファイルと二つの処理版を、それぞれ別に保存した。
町役場に渡したのは、そのうちの作業用コピーだった。
もう一つの版では、子どもの声が、記憶の中の自分の声にいっそう近くなっていたことを、彼女は説明しなかった。
旧分岐所は、河道の北側にあった。
修理票に記された回線番号を頼りに、澪は古い地図をたどってそこを探し当てた。
新しい堤防の外側には、幅の狭い保守用階段があり、その先には封鎖された鉄扉があった。
扉の古い塗装は膨れ上がり、鍵穴はセメントで埋められていた。
近くには、かつて回線標識を固定していた金属製の台座が残っていた。
台座の縁には、いくつか傷がついていた。
澪はしゃがみ込み、指で傷と傷のあいだの距離を測り、それから鉄扉の下のセメントを見た。
地図上では、放送所から延びた回線はここまで来て、その先で二つに分かれていた。
一方は旧河道に沿って延び、もう一方はすでに取り壊された住宅地へ向かっていた。
彼女は地図に引かれた破線をたどった。
古い地名の中には、今の街並みではもう見つけられないものもあった。
澪は地図をしまった。
その日の夕方、澪は再び黒田に会った。
老人は庭の竹竿を家の中へ片づけているところだった。
彼女は旧分岐所にもう一つ入口があったかどうか尋ねた。
黒田は話を聞くと、手を止めた。
「昔、あそこには門があった。」
「今もあります。」
「その門じゃない。」
彼は竹竿を壁際に立てかけた。
「昔は、川の反対側からも入れたんだ。」
澪は、父がそれを知っていたか尋ねた。
黒田は言った。
「もちろん知っていた。」
「どうして、前に教えてくれなかったんですか?」
老人は澪を見た。
「前に聞かなかっただろう。」
そう言ってから、彼は腰をかがめ、地面に落ちていた竹竿を拾い上げた。
「お父さんは、誰かに付き添われて何かをするのが好きじゃなかった。」
その言葉は、失踪した人間を評する言葉には聞こえなかった。
まるで、今にも戸口から入ってきそうな、昔の同僚について話しているようだった。
母は台所で夕食を待っていた。
食卓には、焼き魚が一皿増えていた。
台所の戸棚の下には、あの黄ばんだ通信端末が、まだ同じ場所に置かれていた。
切断された電線は壁際に沿って伸び、切り口はきれいにそろっていた。
澪はしばらくそれを見つめた。
「父さん、家のものを持って出たことがあった?」
母は魚を裏返した。
「そういうこともあっただろうね。」
澪は何を持っていったのか尋ねなかった。
母も、それ以上説明しなかった。
澪は席についた。
大根はすでに冷めていた。
汁の表面には、ごく薄い油の膜が張っていた。
母は茶碗を澪の前へ押しやった。
「食べなさい。」
しばらくして、母が言った。
「人がいなくなってしまうと、どんなものも、まるでその人がわざと残していったかのように見えるものだね。」
澪は顔を上げた。
母は魚の骨を取り除いていた。
骨を一本ずつ皿の縁に置き、その動作はひどくゆっくりだった。
あの端末は、まだ戸棚の下にあった。
それについて、もう誰も口にしなかった。
翌朝、澪は駅へ向かった。
一晩の雨のあと、雲はすでに晴れていた。
電線の水滴はまだ乾いておらず、ときおり一滴が駅のホーム脇の草の葉に落ちた。
通りの店はまだ開いていなかった。
豆腐屋では木箱を運び出しており、店主は竹箒で店先の水を道端へ掃き流していた。
水は石畳の隙間を流れ、伏せて置かれた空の植木鉢を避けていった。
澪は切符を買い、改札へ向かった。
ホームには老人が二人いた。
一人は新聞を読み、もう一人は折り畳んだ時刻表を手に、壁の時計と何度も見比べていた。
列車が山裾から走ってきた。
そのとき、澪はふと、あることを思い出した。
澪は携帯電話を取り出さず、荷物を開けることもしなかった。
切符をポケットにしまった。
それから踵を返し、まだ完全には晴れきらない薄い霧の中を抜けて、汐見町へと歩いていった。




