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図書室で、名前のない距離に気づいた

作者: 星恋 hosiko
掲載日:2026/05/10

図書室は、いつも静かだ。

けれどその静けさの中には、言葉にならない気配がいくつも沈んでいる。


誰かと並んで座るだけで、世界の温度が少し変わることがある。

触れていないのに、近すぎる距離。

近いのに、まだ名前のない関係。


これは、その“名前がつく前”の時間の話。

放課後の図書室は、音を一枚ずつ剥がしたみたいに静かだった。

ページをめくる音だけが、紙の森に落ちていく。


窓際の席。

夕方の光が斜めに差し込んで、机の上に金色の線を引いている。そこだけ、時間が少し遅れていた。


「……今日もいるんだ」


背中越しの声だった。


振り向かなくても分かる声だったのに、振り向くまでの一秒が妙に長い。

その一秒の中で、何かがいつもと違う気がした。


「うん。ここ、落ち着くから」


彼女は私の隣に座る。

机は広いはずなのに、その一瞬だけやけに狭くなる。


本の匂いと、シャーペンの芯の匂いと、言葉にならない緊張が混ざっていく。


「それ、面白い?」


彼女が指さしたのは、私が開いている小説だった。


「まだ途中」


「じゃあ、面白くなる前だ」


くすっと笑う声。

その笑い方が、なぜか胸の奥に残る。


ページをめくる。

でも文字は、ちゃんと読めていない。


隣にいるのに、少し遠い。

触れられそうで、触れたら何かが変わってしまいそうな距離。


その距離に、名前がないことに気づく。


友達でもなくて。

特別でもなくて。

でも、ただのクラスメイトでは絶対にない。


「ねえ」


不意に彼女が言う。


「ここ、毎日いるの?」


「うん」


「じゃあさ」


一拍。


夕方の光が、少しだけ傾いた気がした。


「私も、ここに来る理由できたかも」


その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

理解できないまま、胸の奥だけが先に反応する。


本のページの端が、指に少しだけ触れる。

それだけなのに、なぜか息が浅くなる。


彼女は何もしていない。

ただ隣にいるだけ。


それなのに。


距離が、名前を持たないまま形を変えていく。

近づいているのか、離れているのかも分からないまま。


「ねえ、次はどこまで読んだ?」


「まだ、最初の方」


「じゃあ、私も追いつく」


そう言って、彼女は同じ本を取り出した。


並んだページ。

同じ物語。

同じ光。


でも、なぜか同じじゃない。


指先の温度だけが、やけに現実だった。


ページの中の世界よりも、今ここにある沈黙の方がずっと大きい。


そして私は思う。


この距離には、まだ名前がない。

でもたぶん、名前がつく前のほうが、ずっと危うくて、ずっときれいだ。


夕方の光が、最後の一行みたいに長く伸びていった。

この物語で書きたかったのは、「関係が完成する前の美しさ」だった。


好きとか、友達とか、そういうラベルがまだ貼られていない時間。

ただ同じ場所にいて、同じ光を見て、同じ沈黙を共有しているだけなのに、なぜか心がざわつくあの瞬間。


名前がないからこそ、壊れやすくて、やさしい距離がある。


もしこの物語を読み終えたあと、

少しだけ図書室の静けさを思い出してもらえたなら嬉しい。


そしてあなたにも、まだ名前のない誰かとの距離が、どこかにあるのかもしれない。

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