からっぽ魔女ときらきらのかけら
冬の童話祭2026のテーマ「きらきら」参加作品です。
よろしくお願いします。
森の奥は、夜になると音が減る。
風の擦れる気配と、どこかで鳴く虫の声と、枝から落ちるしずくの小さな衝撃。それだけが、闇の形を作っていた。
その闇のいちばん深いところに、おんぼろな家がぽつんと立っている。
屋根は少し傾き、板壁のあちこちに隙間がある。それでも中へ入れば、思ったよりも風は入らない。炉は小さく、棚は古く、床はきしむ。けれど、暮らすには足りていた。
そこに住んでいるのは、レーレという名の魔女と、黒猫の使い魔タマ。
レーレの姿は幼い。村の子どもと並べば、背丈も声も同じくらいだろう。けれど、その瞳の奥だけが古かった。三百年以上も、同じ森と、同じ空と、同じ季節を見続けてきた目の色をしている。
魔女は昔、迫害された。
怒号と石と火の匂い。祈りの言葉の形をした罵り。誰かの正しさが、誰かの命を削っていくあの時代を、レーレは幼い姿のまま生き延びた。
だから、希望は持たない。
持てば、奪われる。
そうやって自分に言い聞かせ、今日まで生きてきた。
人とのつながりも、最低限だった。
森の奥、獣の足跡と人の足跡が土の上で静かに混じり合うあたり――森の境界。決まって日が傾くころ、人目につかない時間を選んで村人がやってくる。「薬師さまに会いに行く」そう言うことにして。
レーレもまた、村まで出向くことはない。日課の散歩のついでに森の境界まで出て行く。
その日も、木の根元に小さな包みが置かれていた。干しパンと塩、麻布の切れ端。生活に使えるものばかり。包みの上には、短い紙切れが一枚。
『咳止め、少し。子どもが夜に苦しむ。代わりはこれで』
レーレはしばらく紙を眺め、ため息でもつくように来た道を引き返す。
***
「……ボクはからっぽな魔女だからね」
誰に言うでもなく呟いて、棚から瓶を一つ取った。
薬草の粉や、乾かした葉や、塩と混ぜた軟膏を入れた、ただのガラス瓶。口の広いもの、細いもの、背の高いもの。古い棚に、いくつも並んでいる。
レーレは瓶をもう一つ選び、乾いた葉をすり鉢で潰した。香りは苦く、鼻の奥がつんとする。少しの蜂蜜を混ぜる。火にかけて、ゆっくりと煮る。
魔法ではない。知識と手間で作る薬だ。
瓶に詰め、ふたを締める。
そして、森の境界へ置いておく。次の日には、包みはなくなっている。代わりに別の何かが置かれている。糸、針、干した果実、布切れ。そんなやり取りが続いている。
好きでも嫌いでもない。
興味がない。たぶん、それが一番近い。
そう思っている。
***
夜になると、タマが外へ出て行く。
黒い影が、黒い森の中へ溶ける。いつもふらりと、気まぐれみたいに。けれど戻ってくるとき、口には小さな「きらきら」をくわえていることがあった。
それは星の欠片に似ていた。
指先ほどの小さな粒で、淡く、揺蕩んでいる。
レーレはそれを本物の星の欠片だとは思っていない。星は空の遠くにある。手で拾える距離に落ちてくるようなものではないはずだ。
けれど、ただの埃でもない気がする。
だから、名前をつけた。
「星の残滓」
言葉にしたとき、少しだけ落ち着く。
星の欠片と呼ぶほど立派ではない。残りかす。何かの名残。よくわからないもの。
その程度にしておけば、期待せずに済む。
タマが持ち帰った「きらきら」は、薬草を入れるための瓶のひとつに入れていく。棚の端の、使い古した瓶の中に。
気づけば、瓶の底に少し溜まり、やがて半分ほどになっていた。
不思議なのは、タマがそれを拾ってくるのが決まって、村人と何かしらやり取りのあった夜だということだ。
ただ薬を置いて交換した日。子どもの熱の相談を受けた日。怪我の手当ての仕方を紙に書いて渡した日。
そんな日だけ、タマはどこか得意そうに、「きらきら」を運んでくる。
レーレは理由を考えない。考えた途端、意味ができてしまう気がした。
意味ができれば、心が動く。心が動けば、希望が生まれる。
希望は――危ない。
月が出る夜だけ、レーレはその瓶を窓辺に持っていき、瓶越しに夜空を見る。
瓶のガラスが月明かりを折り曲げ、星が少し滲む。
それを眺めている時間だけ、レーレは自分が何をしているのか分からなくなる。
タマは足元で丸くなる。
時々、腹が減ったと鳴き、撫でてほしいとすり寄る。
レーレは「はいはい」と言いながら、指先で黒い毛並みをひと撫でする。
その日も、いつものように終わるはずだった。
***
嵐の匂いがしたのは、夕方だった。
風が湿り、空の色が早く暗くなる。枝葉がざわつき、森が落ち着かなくなる。
戸を叩く音がした。
一度、二度。迷いのない、強い音。
レーレは眉を動かす。誰かがここまで来ることは滅多にない。村の人間は掟を守る。森の奥へ踏み込みすぎない。互いに利用するだけの距離を、代々きちんと守っている。
それが、今、破られている。
「……誰」
戸の向こうから、息を切らした声が返った。
「レーレ! 開けて! お願いだ!」
名前を呼ばれたことが、まず異様だった。
薬師さまでも隠者さまでもない。
レーレ、という名前。
戸を開けると、少年が立っていた。テオだ。村の少年。何度か、森の境界で荷を置く姿を見たことがある。
その背には、少女がしがみつくように背負われている。けれど少女の腕に力はない。頭がだらりと下がり、髪がまだ少し湿っている。川の匂いが、微かにした。
「妹が……リズが……!」
テオの声が震えている。怒りでも泣き声でもない。間に合わないかもしれない、という恐怖の震えだ。
レーレは一瞬、言葉が出なかった。
胸の奥へ、冷たい水が流れ込むみたいに、知らない重さが落ちてくる。
これは自分の感情ではない。誰かの――テオの感情だ。
そんなものを、こんな近くで浴びたのは、数百年ぶりだった。
「……どうしたの」
「川に……落ちたんだ。流されて……大人たちが引き上げた。でも、長く水に浸かってて……。温めたのに……今度は熱が……!」
テオは息を継ぎながら、必死に言葉を並べる。
リズの体はぐったりしている。指先は冷たいのに、額だけが不自然に熱い。呼吸は浅く、小さく胸が上下するだけ。
「村の大人が……言ったんだ。厳しいかもしれないって……今夜……」
その言葉だけで、テオがここまで来た理由が分かる。
掟を破る覚悟。叱られる覚悟。嫌われる覚悟。妹のためなら、境界線など関係ない。
「レーレは……魔女なんでしょ!?」
「……無理だよ」
レーレは言った。
声は自分でも驚くほど淡々としていた。いつもの調子に戻ろうとする、癖みたいなものだ。
「ボクはもう魔法が使えない。からっぽだから……」
テオの目が見開かれる。
拒絶を受け止める暇もなく、彼の中の何かが跳ねた。
「そんなの関係ない! 助けてくれよ! お願いだよ! 他に……他にいないんだ!」
叫ぶ声が、森の暗さに響いた。
レーレは一歩、後ろへ下がりそうになる。
胸の中に、洪水のように感情が押し寄せる。恐怖、焦り、願い、怒り、絶望。
それが、自分の中に流れ込む。
そのとき、足元で小さな音がした。
タマが、棚の端を見上げ、ぴょんと跳ねる。
前足で、こつん、と瓶を小突いた。
瓶が小さく揺れ、かすかな音を立てた。
レーレは、無意識にその瓶を取った。
使い古した瓶。半分ほど、淡い光が溜まっている。
テオはそれを見て、顔を歪めた。
「……なに、それ」
「……本当の星の欠片なら、願いが叶うかもしれないけどね」
レーレは瓶を見つめながら言った。
瓶の中の光は、ただ静かにきらきらと漂っているだけ。
「これは、よくわからない星の残滓だよ」
テオの視線が瓶に刺さる。
そして、怒りが爆ぜた。
「空瓶じゃないか! 何も入ってないじゃないか! ふざけるなよ!」
癇癪のような声。
けれど、その裏側にあるのは、切迫だ。妹が死ぬかもしれない時に、空の瓶を差し出されたら、誰だって壊れる。
レーレは、あの時から壊れたくなかった。
だから、いつも境界線を保ってきた。
感情に触れないようにしてきた。
それなのに――
「……」
レーレは、リズの額に手を伸ばす。
理由は分からない。気まぐれかもしれない。
ただ、どうしてか、放っておけないと思ってしまった。
胸の奥が、ほんのりあたたかい。
そんな感覚は、長い間、忘れていたものだった。
瓶を片手に持ち、もう片方の手でリズの額にそっと触れる。
その瞬間。
瓶の中が、はっきりときらきらきらめいた。
ただ淡い光ではない。
確かな輝き。
星のように、瞬きながら、瓶の中でふわりと揺れる。
テオの声が止まった。
目が、瓶に釘付けになる。
今まで空に見えていたはずの瓶の中に、光が満ちている。
レーレの指先に、あたたかさが伝わる。
冷たかったリズの手が、少しずつ、柔らかい温度を取り戻していくような感触。
呼吸が、ほんのわずかに深くなる。
浅かった胸の上下が、ゆっくりと整っていく。
額の熱が、少し引いたのが分かった。
頬に、薄い赤みが戻る。
派手な奇跡ではない。
でも、峠を越えた、と分かる変化だった。
レーレは、瓶の中の光を見つめた。
星の残滓。そう呼んで、期待しないようにしていたもの。
それが今、確かに、きらきらと瞬いている。
この光は、どこから来たのだろう。
タマが拾ってきたもの。
村人と関わった夜にだけ増えるもの。
――ボクが、こぼしたもの。
そう思った瞬間、胸の奥がまた、少しだけあたたかくなった。
そこに何があるのか、はっきりは見えない。
でも、からっぽだけではないのかもしれない。
テオが、息を吸う音がした。
今まで止めていた呼吸を、取り戻すみたいに。
「……リズ……?」
彼は妹の頬に手を当て、確かめるように指先を動かした。
リズのまぶたが、ほんのわずかに動いた。
「……よかった……!」
声が掠れる。
その言葉が、レーレの耳にふれた。
重い。でも、嫌ではなかった。
***
夜は深い。嵐の前の静けさが、森を包む。
レーレは炉に火を足し、毛布を引き寄せリズを寝かせる。
薬の知識でできることもする。温かい湯で布を湿らせ、額に当てる。呼吸のリズムを整える。
魔法ではない。あたりまえの手当てが、命を支えることをレーレは知っている。
リズは眠るように目を閉じた。呼吸はゆっくり。
テオはその傍で、固まったように座っていた。
しばらくして、テオが立ち上がった。
肩が少し落ちている。やっと、張りつめた糸が緩んだのだろう。
「……ありがとう、レーレ……いや、薬師さま? 隠者さま?」
呼び方を探す声。
村で習った距離感が、今になって戻ってくる。
レーレは一瞬、口を開きかけて閉じた。
薬師さま、隠者さま。どれも、遠い。
けれど名前で呼ばれるのは、近い。
近いのは、危ない。
……なのに。
「……レーレでいいよ」
思ったよりも、声はあっさり出た。
テオは目を丸くする。
それから、深く頭を下げた。
「じゃあ、オレたち、これで帰ります。ほんとうに、リズを救ってくれてありがとう」
その言葉が落ちた瞬間、レーレの体が妙に落ち着かなくなった。
天井を見上げる。
次に床を見る。
腕を組む。
それから、二歩、三歩、その場をぐるぐる回る。
自分でも何をしているのか分からない。
感情の置き場がない。
言葉の受け取り方が分からない。
「……本当は、本当に、イヤなんだけど……」
ぽつりとこぼれる。
嫌だ。何が嫌なのかは、はっきりしない。
踏み込まれるのが。踏み込むのが。期待されるのが。大切にしたいと思ってしまうのが。
「屋根裏だけど、泊まっていきな。せっかく峠を越えたのに、またぶり返してしまうよ」
テオは驚愕した顔でレーレを見た。
「……え? でも……」
「なんだい」
レーレは、照れ隠しみたいに言った。
「ボクだってせっかく救えた命なら、大事にしたいぐらい思うさ」
テオの目に、ぶわっと涙が浮かぶ。
声が詰まり、言葉が出ない。
彼は何度も頷いた。
「……ありがとう……ほんとうに……」
レーレは思わず顔を背けた。
こういうのは苦手だ。
胸がくすぐったくて、居場所がなくなる。
「おい、タマ」
レーレは足元の黒猫に視線を落とした。
「二人を何とかしてくれ。苦手なんだ、こういうの」
タマは、にゃん、と一声鳴いた。
そしてテオの足元へすり寄り、尻尾をゆっくり揺らす。
テオは思わず、濡れた頬を袖で拭きながら笑った。小さく、息を吐くように。
その夜、レーレは屋根裏に古い布を敷き、毛布を広げる。埃を払う。
本当は、人を泊めるなどしたくない。
けれど真っ暗な森へ、峠を越えたばかりの二人を追い出すのも、どうなのかと――ふと思ってしまった。
リズは屋根裏で眠った。
テオもすぐに、眠りに落ちた。
疲れと緊張と、安堵が一度に押し寄せたのだろう。
小屋が静かになる。
炉の火が小さくぱちりと鳴る。
風が壁を撫で、どこかで木の葉が擦れる。
嵐はどこかへ行ったようだ。
レーレはゆりかご椅子に座った。
古い椅子だ。揺らすと、かすかに軋む。
膝の上には、タマが当たり前のように乗っている。
レーレは手を開き、何も持っていない掌を眺めた。
数百年ぶりに魔法を使った感覚が、まだそこに残っている。
熱くもなく、眩しくもなく、ただ、静かな余韻。
胸の奥に、ほんのりと灯るあたたかさ。
あの瓶を棚から取り、指先で転がす。
もう中は空っぽだ。
星の残滓は、光って消えてしまった。
けれどレーレの目には、さっきのきらきらがまだ残っている。
瓶の中で、確かにきらめいた瞬間。
本物ではないと、思い込んでいたものが、あんなにも――。
「……綺麗だったな……」
声が、勝手にこぼれた。
レーレは少し驚いて、口を閉じる。
こんな言葉を、自分が言うとは思っていなかった。
膝の上のタマが、なぜか誇らしげにレーレを見つめている。
まるで「ほらね」と言いたいみたいに。
タマは、にゃん、と一声鳴き、くるりと丸くなって眠る体勢になった。
レーレは苦笑いのような息を吐く。
「なんだい、そのやりきったみたいな態度は……キミ、なまいきだぞ?」
そう言いながら、黒い頭を優しく撫でる。
毛並みはあたたかく、指の間をすべっていく。
タマは喉を鳴らしもしない。ただ、静かに呼吸を続ける。
レーレは窓の外を見た。
森は暗い。
けれど闇は、前よりも怖く見えなかった。
暗い森の中、ぽつんと立つおんぼろな家。
その窓から、わずかな灯りが漏れている。
消えかけた命が、そこで今夜、つなぎとめられようとしている。
夜空は高く、雲の切れ間に星が見えた。
そして、その星の間を――ひとすじのきらきらが流れる。
それは、音もなく消えた。
けれど消えたあとも、森の暗さは、どこかやさしかった。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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