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第47話 天の川の濁流へ

 私は全力で地面を蹴る。これほど必死に走ったのは何年ぶりだろうか。おそらく警官をしていた時以来だろう。

 たかが数百メートル。曲がり角の先で姉さんは通りかかった車とともに消えた。白いワンボックスカー。どうしてもう少し近くにいてあげなかったのか、後悔だけが残る。

 向かう先は、ただ一つ。弐村山。通常なら走って30分ほどの距離だろう。だが、中年の体では何分かかるか想像もつかない。

 不意に自転車が目に入る。コンビニでたむろする少年たち。彼らの自転車がひどくうらやましく見えた。


「くそっ」


 なんて無力で情けないのだろうか。必死に姉さんを追ってきて、最後の最後に連れ去られて……。姉さんとその彼氏の幸せそうな姿を見て油断したのか。それともこのまま何も起こらないとでも思ったのか。これなら最初から弐村山にいたほうが幾分かましだったかもしれない。こんなことなら、祭りに行くこと自体を阻止すればよかったかもしれない。

 こんなことなら─私は邪念を振り払うよう頭を揺らす。まるでもう間に合わないかのような、そんな思考をする自分の脳みそがひどく許せなかった。

 まだきっと間に合う。否、間に合わせる。私は必死に加速する。心なしか景色の過ぎるスピードが速まったような気がした。


 口の中に血の味が広がる。心臓が尋常じゃない速さで動いてるのが、耳に流れる血管から伝わってきた。コンクリートの道は途切れ、ごつごつした道に入る。山の入り口についたところで、やっと足を止めた。水を被ったのかと勘違いされそうなほどの汗。匂いに誘われてやけに蚊が寄ってくる。それらを振り払いながら、地面を凝視した。

 真新しいタイヤ痕。山の奥に伸びている。一方にしか伸びておらず、車がまだ山にいることは確かだった。

 タイヤ痕にそって歩みを進める。月明りが異常なほど道を照らしてくれる。まるで誘い込むように。

 いつもはうるさかった蝉が今はやけに静かだ。こちらを観察しているかのように。

 自然が演出する不気味さに鳥肌が立つ。この先に進むことへの恐怖からか、すべてのことに意味を、それも悪い方向に持たせてしまっていた。行くなと本能が言っている。

 しかしもう遅い。なぜなら私は山の中腹に到達し、揺れる車を見つけてしまったのだから。


 私はとっさに車へ駆け寄り後部座席の扉を開ける。車内は地獄そのものだった。三列シートのワンボックスカー。二列目で行われている下劣な行為が視界に移る。

 匂い、視界、温度。押し寄せる嫌悪感に脳が悲鳴を上げた。浮かび上がる様々な感情にブレーキをかけることはできなかった。


「なんだ?てめ─」

 

 咄嗟に目の前の男を殴りつける。男は助手席に跳ね返って、そのまま倒れこんだ。

 倒れこむ仲間を見て男たちの目が変わる。その目は私を敵だと言っていた。

 倒れた男を挟んで一人が私に殴りかかってくる。狭い車内から伸びる拳に勢いはなかった。私はその腕を容赦なくつかみ車から引きずり下ろす。月が男を照らした。露わになった男の格好。私は拳を強く握りしめ、露出した下半身を全力で蹴った。何度も、何度も、何度も。

 突如、横腹に衝撃が走る。助手席にいた男が加勢に来たようだ。体を回せぬまま、別の二人が飛び掛かってきた。そのまま倒れこみ、私は抑え込まれる。

 

「なんなんだよ。このおっさん。急に来てヒーロー気取りか?」

「たしかに。ヒーローは遅れてやってくるっていうもんね」

「それにしちゃだいぶ手遅れだけどな」


 私に跨ったまま、男たちはゲラゲラと笑い出す。鼻の奥に汗と酒の匂いが混ざった。力を振り絞って体をねじるが、爪が皮膚を噛むばかり。

 無抵抗な私を男はこれでもかと蹴りつけた。脳へ響く痛みが増していく。


「どうして……」

「あ?」

「どうして笑っていられるんだ。こんなことをしておいて」


 男たちはキョトンとする。


「あんたこそ、あんなに人の玉蹴って心痛まないの?」


 ……は?

 こいつらは何を言ってるんだ。まさかこいつらにとってこの行為は、球をける程度と何ら変わりないということなのか。


「うっわ、見て。おっさんすげえ顔してる」

「もういいだろ。スタンガン持ってきて」


 冷たい金属が首元に触れた。瞬間、頭の中で小さな破裂音がなり、全身に針のような痛みが走る。視界が歪み、意識はゆっくりと底に沈むように消えた。


 

 

「どうすんだよ!」


 叫び声で私は意識を取り戻す。どれくらい経ったのだろうか。

 全身がひどく重く感じる。瞼ですらも錆びたシャッターのようにうまく開かない。聴力が一足先に覚醒する。


「お前がやったんだろ!?何とかしろよ」

「俺だけじゃないだろ」

「最後はお前だろうが」

 

 車の扉が開けっ放しで、会話は丸聞こえだった。何やらもめているようだ。隙間から入り込む月明りが、だんだんと意識を覚醒させる。 

 私はなんとか上体を起こし周りを見渡す。ぼやけた視界の中で男の一人と目が合った。


「おい。おっさん目覚ましたぞ」

「見られたらやばいよ」


 何とか足に力を込める。進めという脳からの命令に足が思うように動かない。ふらつく足元を叩き気合を入れた。

 やからたちのもとへゆっくりと歩み寄る。

 やっと焦点があってきた。何かを囲むようにしている男たち。その足元に転がる人の影。

 近づくほどに輪郭が定まる。それと同時に動悸も速まった。


「まさか……嘘だ。そんな─」


 囲む男を押しのけ私は影に近寄る。

 暗闇の中、顔を見るまで確信はできない。いや、したくない。浴衣は開けて白い肌があらわになっている。綺麗に結ばれていた髪形も解けてぐっちゃぐちゃだ。

 地面に膝をつき顔をじっくりと眺める。


「ねえ…さん」


 その顔を見て思わず手を握る。無意識だった。それがさらに私に現実を直視させた。血の流れが感じられなかった。脈は止まり冷たさすら感じる。


「お前ら……お前ら!」


 近くにいた男に飛びかかる。首元を掴み睨みつけた。


「どうして、どうしてこんなひどいことが……。なんで殺すんだよ!」

「俺らだって殺そうとなんてしてない!ちょっと首絞めたら、そのまま……」

 

 私は襟から手を離しその場に立ち尽くす。

 なんだ。なんだこれは。わざわざ過去に来て、姉さんを救うと息巻いて、結果がこれか?

 防ぐことも、回避することもできずただ結果を眺めている。これでは……これでは、当時の俺と何も変わりない。後から山に来る俺と何も……。

 もう一度姉さんのそばに寄る。開ききった瞳孔からは生命力は感じられない。本当に死んでしまったのだ。


 突如全身に衝撃が走る。男が俺にもたれかかった。体重が乗るたび左の脇腹に痛みが走る。咄嗟に男を引き剥がした。痛みの元に触れる。何やら突起物。ヌメッとした感触がどうも気色悪い。じっくりと手を眺める。血だ。


「お前何してんだよ!」

「だって……見られたんだ

「だから?どうしてナイフ刺してんだよ!

「だって、殺すしかないじゃん」


 脇腹に刺さったナイフに触れると刺された実感が湧き始める。痛みがより一層強くなる。痛い痛い痛い痛い痛い。

 腹を押さえて倒れ込んだ。とてもじゃないが立っていられなかった。

 図らず、倒れた先、すぐそばに姉がいた。力無い手で姉さんに触れる。久しぶりの再会を男たちの喧騒が邪魔をした。


「お前罪増やしてどういうつもりだよ!」

「やめろ!もう助かりゃしねぇんだ。さっさと逃げよう」

「逃げるってどこにだよ。こんだけ体液や指紋が付きまくってんだ。逃げれると思ってんのか?」

「んなこと言ったってとりあえずは行くしかないだろうが」


 喚く声は車扉に遮られる。エンジンをかけると男たちはさっさと行ってしまった。これだけのことをして、あいつらは逃げるつもりなのだ。いや、逃げ切ってはいたか。未解決事件なのだから。

 散らばった荷物の中、俺はスマホを発見する。画面を見ると、母からの電話がいくつも届いていた。


「……ちゃんと届いてたんだ」


 俺はスマホを手に取り震える手で画面に触れる。画面に映し出された「お母さん」の文字。耳元で何度かコールが鳴る。


 ─ジュンコ?


 久しぶりに聞いた母の声。思わず息を呑む。荒い息遣いで俺は言葉を漏らした。


「かあ……さん」


 ──あ、あなたは誰なんですか?


 そうか。知るはずもない。母さんには随分会ってないし、それでなくともこの時代のあの人は俺のことなど知ることはできない。

 段々と分かってきた。今自分が、この時代の俺も含めて自分がどういう状況なのかを……。

 もう言葉を発する力はそれほど残っていない。なら最期に言うべき言葉はこれしかないじゃないか。


「に、にむ……ら………やま」


 そう言うとプツリとスマホの電源が落ちる。力が抜け手元からスマホが落ちた。


「あの時の……男は……俺…か」

 

 口に広がる血の味に嫌気がさしてきた。痛みは激しくなるばかり。でも、もう少しで終わる。それがわかる。自分のことだから。

 死ぬ間際、走馬灯が流れると言うけれど、過去にいる俺には必要ないらしい。ただ意識が薄れていくだけだった。

 仰向けのまま俺は月を眺める。七夕祭。願いもジンクスも叶いはしなかった。

 ああ、そうか。俺の心も身体もこの祭りの日に囚われていたんだな。

 ――ずっと、ずっと。誰か助けてくれ。この輪から抜け出させてくれ。誰か――。

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