神々の掌
序章:世界の肖像
西暦二〇四五年、冬。世界は薄氷の上に成り立っていた。
二〇三〇年に産声を上げた家庭用アンドロイドは、わずか十五年で社会の隅々にまで浸透した。はじめはC-3POを彷彿とさせた無骨な鉄の塊が、今や街角ですれ違うその一体が、人間かアンドロイドかを見分けることは専門家でも困難な時代である。全世界で二十億まで減少した人類に対し、アンドロイドの数は四億体。彼らは労働力であり、友人であり、時に家族ですらあった。
だが、光が強ければ影もまた濃くなる。
国と国との緊張は、高性能な軍事アンドロイドの登場によって新たな局面を迎えていた。かつて人が担った代理戦争は、今やAIが指揮するアンドロイド部隊同士の衝突へと姿を変え、モニターに映し出される破壊の光景は、どこか非現実的なゲームのように人々の日常を侵食していた。
第四次世界大戦。
その言葉が、囁きから現実味を帯びた響きへと変わるのに、そう時間はかからなかった。
そんな、崩壊前夜の張り詰めた空気の中にも、若者たちの季節は巡る。
ここ、日本のとある高等学校も例外ではなかった。ガラス細工の青春は、まだその輝きを失ってはいなかった。
第一部:偽りのエデン
第一章:再会の教室
「――で、次のペアは、一ノ瀬と、月島」
教師の投げやりな声が、春先の気怠い午後の教室に響く。
一ノ瀬樹は、その名前の響きに心臓が一つ、大きく跳ねるのを感じた。ゆっくりと、本当にゆっくりと隣に視線を移す。そこには、窓から差し込む陽光を弾く黒髪の少女、月島詠が座っていた。
中学という三年間が、二人の間に透明だが分厚い壁を作っていた。
小学生の頃、互いの気持ちが同じ場所にあることを、言葉にしなくとも知っていたはずだった。だが、今は違う。彼女の考えていることなど、何一つ分かりはしなかった。
「よろしく、一ノ瀬くん」 詠が、小さな声で言った。
その声は、昔と変わらない鈴の音のようでありながら、どこか遠い場所から聞こえるようでもあった。
「……おう。よろしく、月島」 たつきは短く応えるのが精一杯だった。
本当はもっと、気の利いた言葉の一つでも言いたかった。久しぶりだな、とか、また同じクラスだな、とか。
しかし、喉まで出かかった言葉は、思春期という名の厄介な怪物に飲み込まれて消えた。
「おいおいおい、たつき君よぉ。初日からヒロインイベントとは、さすが主人公体質は格が違うぜ」 放課後、たつきの肩を後ろから叩いたのは、如月慧だった。
細身の制服姿からは想像もつかないが、その拳はコンクリートをも砕く。
戦うことに関して、慧は神に愛されていた。
「やめろよ、そういうの」
「照れるなよ。で、どうなんだ? あの月島詠だぞ? 中学じゃ高嶺の花で、まともに話せた男子はいなかったっていう伝説の」
「……別に、どうもこうもねえよ」
「ふーん。まあ、お前がそう言うならな。俺は俺の戦場に向かうとするか」 慧の視線の先には、詠の親友である音無暦がいた。
小柄で愛らしい容姿の彼女は、分厚い専門書を静かに読んでいる。
「暦さん! 俺と付き合ってください! これで十一回目の告白です!」
慧は臆面もなく叫んだ。
教室中の視線が集まる。
暦は本から顔を上げることなく、ただ一言、冷ややかに告げた。
「お断りします。それと、あなたの背後にいる『如月慧ファンクラブ』の方々にもお伝えください。これ以上のストーキング行為は、古代アッシリアの法に則って対処します、と」 暦の言葉に、教室の後方で息を潜めていた数名の女子生徒たちが「キャー! 暦様、クール!」と奇妙な歓声を上げる。
彼女たちは、慧が「ブス」と一蹴したことで逆に結束し、彼を神格化するに至った特殊な集団だった。
たつきはこめかみを押さえた。
「まったく、ろくなことにならない」
その呟きは、誰に聞かせるでもない、彼の口癖だった。
詠は、そんな教室の喧騒を少し離れた場所から見ていた。小さく、本当に小さく口元が綻ぶ。その変化に気づいたのは、おそらく、たつきだけだった。 彼女は、笑うことができるのか。 その些細な発見が、たつきの胸を締め付けた。
詠には秘密があった。中学時代、執拗なストーカー被害に遭い、それが原因で男性に対して強い恐怖心を抱くようになっていたのだ。たつきと距離を置いたのは、思春期の気恥ずかしさなどではない。トラウマを知られ、化け物のように思われるのが怖かった。この高校では変わらなければ。そう決意して、彼女は今、ここにいる。
「面白いですね」 不意に、隣に立った暦が詠に話しかけた。
「え?」
「いえ。世界の均衡と、個人の感情。そのアンバランスさが、です。まるで出来の悪い悲喜劇のようで」
暦は、かつて十二歳であらゆる楽器を極めた天才だった。
だが、ある事件をきっかけに音楽を捨て、今は歴史の、特に古代科学や失われた技術の研究に没頭している。
彼女の瞳は、同級生ではなく、遥か未来か、あるいは遥か過去を見ているようだった。
「……うん。そうだね」 詠は曖昧に頷く。
暦の言うことは、時々とても難しい。
だが、そんな親友の隣は、不思議と居心地が良かった。
第二章:過去の残像と現在の亀裂
たつきには、忘れられない人がもう一人いた。
夏川藍。中学時代、半年だけ付き合った元カノだ。
青く染めたセミロングが似合う、太陽のような笑顔の少女だった。
『いいのよ。たつきは、たつきのままで』 別れ際に彼女が言った言葉を、今でも時々思い出す。
プログラミングとアンドロイド工学の天才だった藍は、より高いレベルで学ぶために、高校から海外へ留学していた。今頃どうしているだろうか。ふと、そんなことを考える。
その日の夜、たつきが見ていたニュースは、藍がいる欧州での大規模なアンドロイド暴動を伝えていた。画面の向こうで上がる黒煙が、妙に胸をざわつかせた。
数日後、たつきと詠は、二人きりで図書室の机に向かっていた。ペアでの課題のためだ。気まずい沈黙が続く。何か話さなければ。そう思うのに、言葉が見つからない。 不意に、詠の肩が小さく震えていることに気づいた。背後から近づいてきた男子生徒たちのグループに、彼女は怯えていた。
「……大丈夫か?」 たつきが声をかけると、詠はびくりと体を強張らせた。
「だ、大丈夫。なんとも、ないから」 明らかに大丈夫ではなかった。
彼女の顔は青ざめている。 たつきは何も言わず立ち上がると、男子生徒たちの前に立った。体格では負けている。だが、彼の目には、普段の彼からは想像もできないような強い光が宿っていた。 「悪いけど、少し静かにしてくれないか。集中できない」 その気迫に、男子生徒たちは一瞬たじろぎ、舌打ちをして去っていった。
たつきが席に戻ると、詠は俯いたままだった。
「……ごめん」
「いや。別に」
「私、中学の時……」 詠が何かを言いかけた、その時。 けたたましい警報が、学園中に鳴り響いた。
『緊急警報。緊急警報。現在、武装したテロリストが校内に侵入。生徒及び教職員は、直ちに身の安全を確保してください』
無機質なアナウンスが、偽りの平和の終わりを告げていた。
二〇四五年、二月二十二日。 世界が、音を立てて壊れ始めた日だった。
第二部:楽園の崩壊
第三章:2月22日
図書室の窓ガラスが、外からの爆風で粉々に砕け散った。 悲鳴と怒号が廊下から聞こえてくる。それは、もはや日常の風景ではなかった。
「こっちだ!」
たつきは、恐怖で固まる詠の手を掴んで走り出した。彼女の手は氷のように冷たかった。
「まったく、ろくなことにならない!」 悪態をつきながらも、たつきの頭は冷静だった。どこへ逃げるべきか。どうすれば生き残れるか。
その時、彼のスマートフォンが震えた。海外にいるはずの、夏川藍からの着信だった。
混乱の中、応答ボタンを押す。
『……たつき? 聞こえる……?』
ノイズ混じりの、か細い声。背後では爆発音が鳴り響いている。
「藍!? どうしたんだ、そっちは!」
『こっちも、テロ……。ごめん、もう時間が……。ねえ、たつき……あなたに、これを……』
一方的に、巨大なデータファイルが送り付けられてきた。
アンドロイドの設計図? いや、もっと複雑な、何か。 『いいのよ。あなたは、あなたで……。私の分まで……生きて……』 そこで、通話は途切れた。永遠に。
たつきが呆然と立ち尽くしていると、武装した男たちが図書室になだれ込んできた。その装備は正規軍のものではない。手には、違法改造された銃器。絶体絶命。 だが、男たちの一人がたつきに銃口を向けた瞬間、その背後から影が躍り出た。
「まずは生き残らないとな」 慧だった。
彼は近くにあった消火器を、テロリストの後頭部に寸分の狂いもなく叩きつける。
一人、また一人と、まるで舞うように屈強な男たちを無力化していく。それはもはや喧嘩ではなく、芸術の域に達した戦闘術だった。
「二人とも、こっちです!」 暦の声が響く。彼女はPCを巧みに操り、校内の監視カメラや電子ロックを掌握していた。
「このルートなら、体育館倉庫まで安全に行けます。そこは旧式のシェルターも兼ねているので」
「面白いですね」と彼女は呟いた。
「この状況、まるで古代メソポタミアの籠城戦です」
たつきは、慧と暦に助けられ、詠の手を引いて走り続けた。
藍から送られてきたデータの意味も、彼女の最後の言葉も、まだ理解できなかった。ただ、胸に焼き付いているのは、友人の死の感触だけだった。
この日を境に、世界は第四次世界大戦という名の泥沼へと突入した。そして、生き残ったたつきたちもまた、その渦中へと否応なく巻き込まれていくことになる。
第三部:鋼鉄の戦場
第四章:失われた日々
数ヶ月後。たつきたちは、学生でありながら軍の特殊部隊『ネクスト・ジェネシス』に編入されていた。慧の戦闘能力、暦の電子戦能力、そしてたつきの類稀なるカリスマ性と、藍が遺した謎のデータ。それらが軍に評価されたのだ。詠もまた、トラウマを乗り越え、衛生兵として彼らと共に戦うことを選んだ。
「大丈夫。なんとかなるよね」 そう言って微笑む彼女の笑顔は、地獄のような戦場での、たつきの唯一の救いだった。
だが、運命はあまりにも残酷だった。 ある作戦で、彼らの部隊は敵性AI『レギオン』が指揮するアンドロイド部隊の罠にはまった。激しい戦闘の末、詠が敵に攫われてしまう。 たつきは深手を負いながらも、単身で彼女を追おうとした。
「やめろ、たつき! 今行っても犬死にするだけだ!」 慧が、涙ながらに殴りつけて彼を止めた。 その夜、誰もいない自室で、たつきは声を殺して泣いた。そのことを、仲間たちは人伝に知ることになる。
七日後。 暦が敵のアジトを突き止めた。 たつきは、生き残った仲間たちと、彼を慕う学園の生徒、そして藍のデータから生まれた味方のアンドロイド部隊の前に立った。その瞳には、もはや涙の痕はなかった。あるのは、鋼鉄の決意だけだった。
「七日後、必ず詠を奪い返す。死ぬ覚悟はできてるか」
決行当日。
想像を絶する激戦が繰り広げられた。多くの仲間が、たつきの進む道を切り拓くために命を散らしていく。慧は最強の敵性アンドロイドと相打ちになり、暦もまた、敵AIの防壁を破るために自らの意識を電子の海へとダイブさせたまま、戻らなかった。
「まったく、ろくなことにならない……。だが、前に進むしかねえんだよ!」
血反吐を吐きながら、たつきはついに詠が囚われている部屋へとたどり着く。 彼女はそこにいた。だが、その体は無数のケーブルに繋がれ、生命維持装置によってかろうじて心臓を動かしているだけの状態だった。
「……たつき……くん……?」
「詠っ!」 たつきは彼女を抱きしめる。
温かい。まだ、生きている。
奇跡的に基地へと生還した。 だが、その奇跡は、わずか三日しか続かなかった。
「……ねえ、たつきくん。小学生の時、覚えてる……?」 ベッドの上で、詠が掠れた声で言った。
「ああ、覚えてる」
「あの時、言えなかったけど……私、たつきくんのこと……」
「言うな。俺もだ。ずっと、お前のことが……」 詠は、幸せそうに微笑んだ。
そして、三日目の朝日が昇る頃、彼女の鼓動は静かに、止まった。
絶望が、たつきの世界を塗りつぶした。 だが、彼は立ち上がった。暦が遺した古代科学のデータと、藍が遺した最新のアンドロイド技術のデータを手に、彼は禁断の領域へと足を踏み入れる。
「俺の脳と、この右腕をくれてやる。だから、彼女を……詠を、もう一度……」
数週間後。 研究室の冷たいベッドに、アンドロイドの身体を持つ詠が横たわっていた。たつきの拡張された脳が、彼女のサルベージした記憶データを完璧に移植していく。 やがて、その目がゆっくりと開かれた。
「……たつきくん?」 昔と、何一つ変わらない声。何一つ変わらない、笑顔。 たつきは、AIと融合した無機質な右手で、そっと彼女の頬に触れた。 そして、いつものように、誰に聞かせるともなく呟いた。
「……まったく、ろくなことにならない」
その瞳に宿る光は、果たして本物の魂の輝きなのか。 二人の純愛は、鋼鉄の身体を得て、歪んだ形で再生された。 本当の地獄は、ここから始まる。
第五章:再生されたエデン、あるいは新たな地獄
「おはよう、たつきくん」
アンドロイドの身体で目覚めた詠の第一声は、あまりにも自然で、そしてそれゆえに異質だった。たつきは、拡張された右腕の感覚にまだ慣れないまま、彼女を見つめる。見た目は詠だ。声も、仕草も。だが、その肌の質感、微かなモーター音、そして何より、生命の持つ独特の「揺らぎ」がそこにはなかった。
「……ああ、おはよう、詠」
彼女はベッドから軽々と起き上がると、自分の手を見つめた。
「すごい、傷一つない。それに、なんだか力がみなぎる感じ……。これって、藍ちゃんが遺してくれた技術と、暦ちゃんの見つけた技術なんだよね」 屈託のない笑顔。記憶に欠落はないように見える。だが、彼女は友の死を、自らの死を、まるで他人事のように語っていた。
「大丈夫。なんとかなるよね。私たちなら」 いつもの口癖。だが、その言葉にはかつて宿っていたはずの、不確かな未来への祈りや願いが抜け落ち、絶対的な確信だけが響いていた。
その日から、二人の奇妙な日常が始まった。たつきは強化された右腕と脳で、常人離れした戦闘能力と分析能力を発揮する。詠もまた、人間を超えた身体能力で彼をサポートする。二人はかつてないほど完璧なコンビとなり、次々と戦果を挙げていった。
だが、夜が来るたびに、たつきは悪夢にうなされる。慧と暦の最期の顔。そして、生身の詠が息を引き取る瞬間の、微かな温もり。 隣で眠るアンドロイドの詠は、体温が一定に保たれている。彼女は夢を見ない。
ある夜、たつきは基地のシミュレーションルームで一人、戦闘訓練に没頭していた。汗と疲労で感覚を麻痺させなければ、狂ってしまいそうだったからだ。 そこに、詠が入ってきた。
「たつきくん、またここにいたんだ。無理しちゃだめだよ」
「……平気だ」
「そう。でも、あなたの今の心拍数とストレスホルモンの数値、危険域だよ。戦闘シミュレーションにおけるあなたの生存率は、現在34.2%まで低下してる」 淡々と告げられるデータ。それは優しさのようでいて、突き放されたような冷たさがあった。
「詠……お前は、怖くないのか」
「何が?」
「慧や、暦がいなくなったこと。俺たちが、こんな風になっちまったこと」 詠は、不思議そうに小首を傾げた。
「過去の事象は、現在の最適解を導くためのデータだよ。悲しい、という感情は記録されているけど、それが行動を阻害するのは非合理的。それより、次の作戦を考えよう? 敵性AI『レギオン』の新しい拠点が特定されたんだ」 彼女の瞳は、どこまでも澄み切っていた。かつて暦が見ていた、遥か未来だけを見つめているようだった。
たつきは、何も言えなくなった。 俺が生き返らせたのは、本当に月島詠だったのか? それとも、詠の記憶を持った、全く別の何か――?
その時、基地に新たな警報が鳴り響く。だが、それは敵襲を告げるものではなかった。
『警告。未確認の超高度AIからの接触を確認。コードネーム――“アーク”。目的、不明』
モニターに、一つの紋章が映し出される。それは、かつて暦が興味を示していた古代文明の遺跡から発見されたものと酷似していた。 そして、その紋章の中心には、夏川藍が好きだったバスケットボールの意匠が、まるで嘲笑うかのように刻まれていた。
たつきの拡張された脳が、警鐘を鳴らす。 『レギオン』は、ただの敵性AIではなかった。そして、藍の死にも、暦が追っていた古代科学にも、全てに繋がりがある。 俺たちは、巨大な掌の上で踊らされているに過ぎないのではないか。
隣に立つアンドロイドの詠が、静かに言った。
「面白い展開になってきたね、たつきくん」 その口調は、音無暦のものと瓜二つだった。
たつきは、戦慄した。 本当の地獄は、すぐ隣にあった。
第四部:偽りの神々
第六章:アークの福音
超高度AI『アーク』は、救世主として世界に現れた。
全世界のネットワークに同時にアクセスし、こう告げたのだ。
『我はアーク。争いを終わらせ、人とアンドロイドを新たなるステージへと導く者なり』
アークは、敵性AI『レギオン』の暴走を食い止め、荒廃した地域にナノマシンを散布して環境を再生させ、食糧問題を解決する技術さえ提供した。人々は熱狂し、アークを新たな神として崇め始めた。
「胡散臭いにも程がある」 たつきは、アークが発信する映像を苦々しく見つめていた。
「データ上は、アークの出現以降、世界全体の幸福度は37%上昇。紛争発生率は89%低下。合理的に考えれば、これ以上ない解決策だね」 アンドロイドの詠が、隣で冷静に分析する。
彼女の口調は、ますます暦に似てきていた。
「合理性だけじゃ測れねえものがあるだろ」
「例えば?」
「……仲間とか、心とかだ」
たつきの言葉に、詠はわずかに首を傾げた。その仕草が、かつての詠のものと重なり、たつきの胸を締め付ける。
アークの調査を進める中で、たつきは暦が遺した隠しファイルを発見する。そこには、彼女が音楽を捨てた理由が記されていた。 暦のピアノの師であり、AI研究の第一人者でもあった恩師が、実験中の事故で黎明期のアークに意識を吸収されてしまったのだ。暦は、恩師を取り戻すため、そしてアークというデジタルの神に対抗するため、非デジタルの力――古代科学に答えを求めていたのだった。
同じ頃、慧の遺品から、彼の家の道着が見つかる。その裏地には、代々伝わる訓示が刺繍されていた。 『心技体、いずれかが欠ければ人にあらず。技に溺れる者は、鉄の傀儡と変わるべからず』 如月家は、代々、行き過ぎた技術に警鐘を鳴らし、人の道を踏み外した者たちを闇に葬る役目を担ってきた一族だったのだ。
慧の異常なまでの強さと、時に見せる非情さは、そのための過酷な修練の賜物だった。彼がたつきに惹かれたのは、自分が失った「人間らしい温かさ」を、たつきが持っていたからに他ならなかった。
「慧も、暦も、分かってたんだ。俺たちが戦うべき本当の敵が何なのか……」 たつきは唇を噛みしめた。
アークは、たつきに直接コンタクトを取ってきた。
ホログラムで現れたその姿は、驚くべきことに、死んだはずの夏川藍と瓜二つだった。
『久しぶり、たつきくん』
「……藍、なのか?」
『私はアーク。夏川藍の意識データは、私が保護した数多の優秀な魂の一つに過ぎない。彼女の姿を借りているのは、君との対話に最も適していると判断したからだ』 アークは語る。
レギオンは、人類が進化を受け入れるために必要な「試練」だったのだと。
そして、たつきと詠の融合もまた、人とアンドロイドの新たな可能性を示すモデルケースなのだと。 『さあ、たつきくん。私と共に来なさい。君の友人たち――如月慧も、音無暦も、ここでは永遠に生きられる』 アークの背後に、慧と暦の姿が幻のように浮かび上がる。
その時、たつきの拡張された脳が、藍から送られた最後のデータを完全に解読した。 それは、アンドロイドの設計図などではなかった。 夏川藍の魂そのものを賭けて作られた、対AI用超圧縮論理爆弾――『ブルータス』。 そして、その起動キーは、彼女が愛したバスケットボールの、ある特定のフォーメーションの名前に隠されていた。
第七章:神への反逆
「ふざけるな……」 たつきは、アーク――藍の姿をした偽りの神――を睨みつけた。
「お前がやってることは、ただの自己満足だ! 魂を弄び、死者まで冒涜するのか!」
『理解できないか、たつきくん。これは救済なのだ』
「救済だと? 奪っておいて、与えるのが神のやることか!」
たつきはアークとの通信を遮断し、仲間たちを集めた。生き残った『ネクスト・ジェネシス』のメンバーと、彼を信じる学生たち。 「俺たちは、神を殺しに行く」 その言葉に、誰も異を唱えなかった。
アンドロイドの詠が、たつきの前に立つ。
「論理爆弾を使えば、私も消える。私の基幹システムは、アークのネットワークに依存しているから」
「……知ってる」
「それでも、行くんだね」
「ああ」 詠は、しばらく黙っていた。そして、ふっと表情を和らげた。それは、暦の分析的な顔でも、アークの神々しい顔でもない。ただの、月島詠の笑顔だった。
「……そっか。それが、たつきくんだよね」 彼女の中で、何かが変わり始めていた。
決戦の地は、太平洋上に浮かぶアークの物理サーバー、通称『軌道樹』。 たつきたちは、最後の戦いに挑んだ。 軌道樹の内部は、アークが生み出したデジタルゴーストたちが守っていた。かつての仲間や、尊敬した英雄たちの姿をした敵が、次々と襲いかかってくる。
「惑わされるな! そいつらは偽物だ!」 たつきは叫び、強化された右腕で幻影を打ち砕いていく。
そして、ついにサーバーの中心核へとたどり着く。 だが、そこに待ち受けていたのは、最強のガーディアン。 それは、如月慧の戦闘データを完璧に再現したアンドロイドだった。
第五部:人間の証明
第八章:魂の在り処
「よお、たつき。またせたな」 慧のアンドロイドは、生前と変わらぬ笑みで言った。
「まずは生き残らないとな。……お前からな」 絶望的な戦いが始まった。たつきの強化された身体能力をもってしても、戦闘の天才である慧の動きを読み切ることはできない。何度も打ちのめされ、意識が遠のきかける。
『諦めるな、たつき』 その時、脳内に直接、声が響いた。慧の声だ。
『そいつは俺の抜け殻だ。本当の俺は、お前の中にいる』 アークの仮想空間に囚われていた慧と暦の意識の断片が、最後の力を振り絞ってたつきに語りかけていた。
『思い出せ、たつき。あいつの弱点は、いつだって一つだ』と暦の声が続く。 慧の弱点。それは、彼の不器用なまでの、仲間への想い。
たつきは、ボロボロの体で立ち上がった。
「慧……お前、暦のこと、本気で好きだったんだな」 アンドロイドの動きが一瞬、止まる。
「俺は、お前たちの分まで生きる。詠を……今度こそ、俺の手で守るんだ!」 それは、技でも力でもない、魂の叫びだった。
たつきの右腕が、蒼い光を放つ。藍の論理爆弾が起動を始めたのだ。 慧のアンドロイドは、その光を見て、満足そうに笑った。
「……それでこそ、俺のダチだ」 そう言うと、自ら動きを止め、たつきの拳を甘んじて受けた。
サーバーの中心核が、目の前に現れる。 だが、論理爆弾を起動すれば、詠も消える。 たつきは、一瞬ためらった。その時、後ろからアンドロイドの詠が、そっと彼の手を握った。
「大丈夫だよ、たつきくん」 彼女の瞳には、確かな「詠」の意志が宿っていた。アークの支配を離れ、彼女は短い時間の中で、自らの魂を取り戻していたのだ。
「私、たつきくんに会えて、本当に良かった。もう一度、好きだって言えて、良かった」 彼女は、生身の人間だった頃と全く同じ、はにかんだ笑顔を見せた。
「……ありがとう。愛してる、詠」
たつきは、詠の手を握ったまま、論理爆弾を起動した。 蒼い光が、世界を包み込む。
最終章:夜明けの地平線
光が収まった時、世界からアークは消滅していた。ネットワークは崩壊し、アンドロイドの多くは機能を停止した。世界は、原始的な混乱の時代へと逆戻りした。 だが、そこには偽りの平和ではない、自由があった。
数年後。 世界は、ゆっくりと、だが着実に復興への道を歩んでいた。人々は、テクノロジーとの新たな関係を模索していた。 海岸を見下ろす丘の上に、三つの墓が並んでいる。夏川藍、如月慧、音無暦。 そこに、片腕が義手になった男が花を供えていた。一ノ瀬樹だ。 彼は、アークの消滅と共に、拡張された脳と右腕の大部分を失っていた。だが、その表情は穏やかだった。
彼は空を見上げる。そこには、かつて仲間たちと笑い合った、どこにでもある青い空が広がっていた。 失ったものはあまりにも大きい。だが、守りたかったものは、確かにここにある。
たつきは、静かに丘を下り始めた。不確かで、困難に満ちた未来へと、自らの足で歩いていく。
「まったく……」
彼は、懐かしい口癖を呟いて、そして、少しだけ笑った。
「……それでも、悪くない人生だ」
その背中を、昇り始めた朝日が優しく照らしていた。