6・夜の過ごし方
食事が済んでからのロウは、じっと炎を見つめるばかりであった。片膝を立てた姿勢で、感情の見えない顔を向けている。瞬きをしていなければ、そのままの格好で寝ているんじゃないかとさえ思うほどだった。
プールは汚れた手を服になすりつけると、ロウの方を向いた。
「今まで描いてきた絵って、とってある?」
言うと同時に手を伸ばしてきた。ロウはやれやれと、仕方なしに腰を上げた。
茶でも差し入れるように、ぽんとロウが置いたものの量は、プールの予想を遥かに上回るものだった。
プールの荷物が旭琴のとっているスペースでほぼ埋まっているように、ロウの葛籠の中もまた、多くを紙が占めていたらしい。数える気分にならないどころか、百以上の位を知らない彼女にとっては、完全にお手上げだった。今日という日を思い返せば、どうしてこれほどまでの量に至ったのか、想像に難くはないが。
プールは味わったことのない驚きを胸に、とりあえず二十枚分だけ手に取った。上の三枚は、プールとの旅の最中に描いたもの。雲海を漂う鳥と、氷柱と、崖から見た雪原。四枚目と五枚目は村の場景。六枚目は店の赤提灯……などなど。
どんよりだと言ったことを撤回せねばなるまい。書を嗜むものとして一般に位置づけられている墨汁を、絵に活用しようという発想や経験は意外にもなく、面白い。暗い色合いは確かに縛りではあるが、そこを長所に置き換えるのが腕の見せ所と言えよう。
ロウの絵は、長所の側に傾いていた。紙をめくるたび、情景が鮮明に浮かび上がってくるようだ。見知った風景もそうでない風景も、万事が新鮮に見えてくる。それだけロウの描く絵は精巧に近かしい完成度だった。
しかし。驚嘆でしっちゃかめっちゃかの頭でも、とある違和感を見逃しはしなかった。
「人が人っ子一人いないね。おじさんが提灯描いてた時、周りは人だかりになってたはずだけど?」
「描く気が起きないだけだ。気にするな」
「ふうん。ちょっとつまんない。この旅の道中であたしの似顔絵描いてって頼もうかと思ったのに」
「所詮趣味でやっているからな」
「あっそう。……あ、暇でしょ。あたしの楽譜も見てみる?」
プールには、ロウが手持ち無沙汰であるように感じていた。それは実際、当たっている。虫か小石かの判別さえ難しくなる夜ともなれば、必然的に手が空いてしまうのだ。
プールが寄越した紙束を、ロウは茶をすすりながら、黙って受け取った。焚き火に身を寄せて眺める。プールが楽譜と呼ぶものは『紅』『橘』『未』『竹』『黴』『藍』『高』の七つの文字(汚い)の羅列で主に構成されており、その他にも「重い」「溶ける」「餅」「わさび」「よく分かんね」などと、やたら書き込んであった。それはまるで暗号の解読に当たっているような気分で、なるほど、演奏者というものも大変なんだなと思い知った。
「月……いや、旭琴といったか。それはどこで手に入れた」
「うん? ああ、余所から来た兵士のおじさんに、あたしが丹精込めて育てたカビ付きミカンを売ったことあってさ。その時おじさんの荷物から、この琴がチラッと見えたんだよ」
プールはロウを真似て、枝をポイと火に投げ入れた。
「戦地に持っていこうとしていたんだから、そりゃあ大事なもんだったんだろうけど……あたし小さかったしバカだから、ねだっちゃってさあ。でも今思うと、感慨深いよ。あれはまさに運命の出会いだったんだなーってさ」
しみじみ噛み締めながら、プールの話は続く。見たことのない形状のものに興味を示したプールは、その道具を使ってみせてと頼み込んだ。わざわざ楽器を持ち込んでいただけあって、その者の腕は達者だったそうだ。叩くだけの祭事の太鼓を聞くぐらいで、それまでろくに音楽に触れた経験がなかったプールは、その伸びやかで後を引く音色に、即座に惚れ込んだと言った。
プールは弾き方を教わって、兵士が村を離れた後も、独自のやり方で一生懸命練習した。最初のうちは楽器ではなく、ギコギコとノコギリを引くような雑音で、やっぱりしょっちゅう背を犠牲にする羽目になったが、今では村人の心を惹きとめるぐらいに成長したようだった。
「なんだかんだ村人に愛されてるんだな、お前」
「ふふん、まーね。村のみんなの娘みたいなもんよ」
「盗女の間違いじゃないか?」
「でもさ、ちっちゃい村の中で一番の弾き手になったって、満足できないんだよねえ。あたしは自分の可能性に期待してるんだ。今よりももっと上手くなれるはずだって。もっと音楽を楽しめるはずだって。だから、いつかは村を出るつもり。そんで、立派な演奏者になるんだあ」
どっかの誰かさんみたいに全否定しやがる奴もいるから、道は険しいだろうけどさー……。
プールは恨んだ目をして顔を上げた。
「……まあ、その……志があるのはいいことだな」
どっかの誰かさんは、笠の向きを整えた。
「そりゃどうも。んで、おじさんは?絵を描くきっかけって、なんだったの?」
「俺の話はどうだっていいだろう」
「えー? 聞きたいなー、聞かせてほしいなー」
期待を込めた眼差しを向ける。ロウは少し考え込んで。
「悪いな。短い付き合いで済ませる予定の奴に、話す道理はない」
「ケチくせえ!あたしは赤裸々に語って聞かせたってのに!」
「だから謝っただろう」
「そんなもんで許せるほど、プール様は甘くはないよ! どうしてもダメってんなら、話の代金よこしな。ほら、冗談じゃないって吠えるところだよ」
「いくらだ。二百銀あれば足りるか? ほら」
硬貨を指ではじくと、弧を描いてプールの手中に収まった。プールは顔を真っ赤にした。
「十分すぎるっつんだよ! 意地悪! 無愛想! 真っ黒すけ! 干し椎茸! あたしもう寝る!」
地団太を踏みながらも、返すつもりはないらしい。服の中に荒っぽく突っ込むと、さっさと蓆を敷いて寝る態勢に入った。
ロウは大人気ないことをしたな、と頭をかいた。団子虫のように丸まっているプールを、気まずそうな目で見つめる。ロウ本人は、別に隠すほどの話でもないと思っていた。しかし一方で、言って彼女が得する話であるかといえば、そうでもない。
最大の決定打は頭だけでなく口も軽そうだったことか。
ロウはため息をつくと、己も寝支度を整え始めた。