4・表現の相違
鷹を見失い、再び崖の上に戻ってきたロウ――落胆をよそに、プールは安堵した――は、のんびりと作業を開始した。硯に墨汁を引き、筆の先を浸す。筆は紙の上に降り立つと、なめらかに滑って、抑揚のある線を描いた。時に強く、しわが寄りそうになるほど紙面に押し当て、時にふっと手首の力を抜く。次第に穂先が割れてくるが、それによってもたらされたかすれ具合も、趣と化した。
「ほー。おじさん、手慣れたもんだね」
ひょっこりと、プールが横から顔を出した。
「なんていうのかな、不思議な感じ。人の手で、もう一つの世界が作り上げられていくような気がするよ」
「……通じる奴に出会ったのは久方ぶりだな。大方は変わり者の目で見られる」
「まーね。畑違いだけど、あたしもそっち側に手を突っ込んだ人間だから」
ニッと歯を見せ、プールは荷物を開いた。小型で、三本糸の張った柄と丸い形をしたものが姿を現す。
「月形琴か」
「おじさんの方ではそう呼ばれてるの? へえ。あたしは旭琴って呼んでるよ。――風景とか村の人達とか朝に食べた漬物とかさあ、いろいろ見てると、たまにぽんと音が頭に浮かんでくることがあるんだよねえ。バラバラに出た音を一個にまとめて、見たものを元にした曲を作るのが好きなんだよ」
一曲弾いてあげる、とプール。タイトルは「たくあんの曲」だと言った。
横にどっかり座って、旭琴の軸を両足で挟んで固定する。本来この楽器は斜めに倒して弓を弾くはずだとロウは記憶していたが、場所が場所だ。呼称よろしく別の伝わり方をしたのだろうと想像することで納得した。
楽弓を糸にこすりつけ、振動させることによって音が生まれる。プールの奏でる音は、見事なものだった。明るい曲調で、彼女の性格を表している。何より様になっていることが驚きだった。
曲名に影響されてか、何となく「おいしいおいしい」「やめられない止まらない」と彼女のメッセージが歌われて聞こえてくるような気さえする。弾き終わると、ロウは簡単な拍手を送り、素直な感想を伝えるべく、口にした。
「へったくそ」
「ウソ言え! 冗談だろ? 神様はどんな奴にも優れたものを与えてくださるんだなって、村の連中からも評判なんだぞ! よく聞いてなかったってんなら、もう一回弾いてやるよ!」
「いや、もういい。目の前に集中したい」
「ぬああ腹立つ! ようし! あたしもおじさんと同じ題材で曲つけてやるよ」
どうやら火をつけてしまったらしい。つい絢爛豪華な合奏と比べてしまったのがいけなかったか。
だが、下手と評したのにはロウなりに理由があった。それを言うと長引きそうなので、ロウは言葉を呑み込む。目の前の景色には時間が限られている。今、この時を逃してしまえば、抱いた心情もろ共、霞んでいくばかりだ。
ロウは目線を紙に戻した。しかし、一度自分の世界に入ったのも束の間。浮かんだ音を書きとめておくためにプールが取り出したものには、思わず口を挟んでしまった。
「それは盗品か? 普及してきたとはいえ、お前のような娘がちゃんとした紙を持っているはずがない」
「健具屋の障子をちょいとね。あたしだってうら若い乙女の成長期を犠牲に払ってるんだから、割に合うと思わない?」
「背丈とついでに身ぐるみ全部でちょうどだ」
「へえ。思ったより安いじゃん」
プールは丸めていた蓆を敷いた。胡坐の上に頬杖をついて、「……の暗い音色から始まって、未……いや、橘につなげた方が締まるかなー」などとぶつぶつ呟いている。浮かんだイメージを実際に書きとめているのだと推測されるが、ロウは音楽については素人なので、彼女が何を言っているかさっぱりだった。
楽譜が出来上がると、プールは琴を手にした。ロウの孤独に慣れた耳が、琴の音をしっかり吸収する。
ロウはこの二人旅で初めて嫌な顔をした。目を細めて、それはもう露骨に。静かな大地では琴の音が否応なしに耳に届くわけだから、気が散って仕方がないのだ。綺麗な音だろうが、雑音であろうが同じこと。そんなロウの苦労を露も知らないプールは、気分よさげに音を奏でた。
なんとか絵を完成させたロウは、風に晒して乾かした。はためく絵に、秘かに自画自賛をするのだが、いつもより完成が遅くなってしまったことについては遺憾に思った。反対に、プールは嬉々とした表情を露わにしていた。早速、出来たばかりの曲を聞いてほしいと弓を弾く。短時間だったから完全なものとまではいかないものの、スタッカートを活用した、愉快な旋律だった。
だがしかし。互いの作品を見て・聞いて得た感想は、二分するものだった。
「雪原という題材にしては、曲調が明るすぎやしないか」
「おじさんの絵が湿っぽいんだよ。確かに綺麗だけど、黒ばっかり使ってるせいで、全体的にどんよりしてるんだもん」
「ありのままを描いているからな」
そもそも、水墨画とはそういうものだ。
「あたしは冷たい雪に覆われたこの地にも、いつか春はやってくるっていうイメージで作ったんだけど。重たい音からだんだんと高い音になっていったでしょ」
「お前の弾き方は主張が激しすぎる。月形琴は空気感との調和が命だぞ」
「くーきかん? ちょーわ? 何それ、意味分かんない」
……根からの性分か、他より分かる者と出会ったためか。歳も付き合いの隔たりも、最早関係ない。
その時の天候は雪がチラつくこともなく、それほど悪いものではなかったが、二人の芸術家の間では小さな火花が散ることとなった。