1・提灯の映える村と、おてんば娘
その世界では、大地は白銀に包まれていた。
野山や深い森も、王国の壮麗な屋敷も荒廃した土地の廃家も皆、雪という名の白で分け隔てなく覆い尽くされている。きんと冷えた空気の中、天からはらはらと舞い散るそれも、白。
『白銀の世界』
心に響く美しい光景であれば、まさにそれであると謳われるのだろう。
しかし。いかに化粧をしようが、その地では単なる『雪』でしかない。その価値観から表れるように、あまり人々から歓迎されたものではなかった。降るだけ降っても、食料になるわけでもなし。ひとえに寒さと厳しさを物語るだけであった。
『紙を一面に張り付けたような風景』
時代背景も孕んで、雪を紙であると皮肉をいう者もいた。
そんな冴えない風景の中。とある場面では激しく動いているものがあった。――黒と赤の闘争。交わる事のない二つの色が、紙の上で互いの主張を胸に、一ページを刻みつけている。
場面を近く寄せると、それはただの色ではなく、大男と亥豚の一騎打ちであった。黒で髪と服を塗り固めた大男が太刀を振るうところを、赤で毛並みを汚された亥豚が紙一重でかいくぐり、全身を使って攻撃する。
数時間前まで人の足跡もなかった雪原は乱れ、凄惨な情景と化していた。大男の周りにはすでに絶命した亥豚が八体も横たわっており、大男の並みならぬ強さを露わにしていた。その表情からも、感情と共に一切の疲れの色を感じさせない。対して亥豚の方は、大男との衝突で免れなかった傷を体に負いながらも、依然として立ち退く気配を見せなかった。恐れよりも遥かに、住処を荒らされた怒りが腹に煮えたぎっているのだ。潰れかけた瞳で殺さんとばかりに大男を威圧してくる。
覚悟を固めた亥豚が突進してきた。突出した鋭利な歯を大男に食らわせるべく、前のめりになって向かってくる。
大男は腰を落とした。太刀を構えると、遠く離れた場面から固唾を呑んで見守る男と少年をよそに、ありのままの様を見せつけた。どさりと塊が落ちると、大男は太刀についた赤を払った。
規定の数まであと一体。と、新たに捕えた標的はやや小さく思えた。最後の一匹だけになった亥豚はゆっくりと大男に近づいてくる。そのまま敵の文字を掲げて襲いかかると思われた。が、様子が違った。
亥豚は先ほど絶命した亥豚に寄り添う。鼻を撫でつけ、労るようであった。足を怪我しているらしい。積もった雪の上に、筆のような痕跡を残している。
弱者をかばっていたか……もとい、単純に子供と推測するのが妥当だろうか。わずかばかり眉をひそめる。しかしそれと見ても、毛皮の下は十分な肉を蓄えており、大男を惑わせる材料には至らなかった。
「悪いな。お前以外をあたっている時間はないんだ」
大男は白く息を吐いて突撃した。
「いやあ、おっどろいたよ! お前さんなかなかの腕利きじゃないか。恐れ入った」
場面は打って変わり、盛況の場。先ほどの大男は、森からさほど遠くない位置にある村にいた。背後で狩りの様子を見ていた男に誘われたので、正面の左手からトの字に曲がった先にある飲み屋に、腰を据えている。高床の座敷の上に屋根を乗っけたようなシンプルな構造だが、客の熱気で温い。というか、暑苦しい。
大男は土間に近い席に座っている。背を丸め、店の机ではなく木版に紙を敷いて、絵を描いていた。
「へえ、この人そんなに強いのかい」
「旅人として野放しにするのは惜しいくらいだと思ったほどさ。猟師のあんたでももうちっとばっかし時間を割くだろうよ」
「っはあ。そこまで言うなら、俺も仕事をさっさと切り上げて、見に行きゃあよかったかな。お前がマヌケな顔さらして、呆気にとられていた様をよ!」
ささいなことで、上品とはとれぬ笑いがドカンと起こる。赤く染まった屍に囲まれていた大男の周りには、いつの間にか大勢の飲兵衛が集まっていた。
しかし、酒の肴であるはずの大男はというと、周りには目もくれず、描くのに夢中だ。黙々と手先を動かしては、時たま天を見上げる。
「……者共、旅人が物珍しいのはともかく、注文する客の邪魔だぞ! はけろはけろ!」
「おう親父ぃ~。しゃっきの肉りょ~り、追加で頼むわ~」
「魚だバカ野郎! ――すみませんねえ。飲んだくれのうるさい味音痴連中ばっかりで、まったく。ところでお客さんは……その、生業は猟師なのかい? 絵描きさんなのかい?」
戦える者と絵を描く者。とどの詰まり、それは狼が草を好んで食しているようであり、奇っ怪な組み合わせであると言えた。
机に置かれた冷めていくばかりの料理に、店の主である親父はちょっと顔をしかめながら話しかける。すると、
「赤が」
「は?」
「赤が綺麗だな、ここは。寄って正解だったと身に染みて思う」
筆を操る手を休めずに大男は言った。話を聞いていた人々は口々に何を言っているんだとどよめいたが、その疑問は窓から外を眺めることによって解明された。
へりの沿った瓦屋根から、見下ろすようにいくつもぶら下がっている提灯。張り巡らされた紙の色の影響で、明かりが赤く色づいているのだ。昼にしても夜にしても一色に染まる大地から見れば、その色は遠方からでもよく目立つだろう。
それでも、村人は今一つ理解に苦しむようだった。
「山々に囲まれた日陰の村だが、東と南の町との境にあるもんで、通りには多くの店が立ち並んでいる。客寄せの提灯があったって、何もおかしなもんじゃあないだろう。あんた面白い人だねえ」
面白い人、という親父の言葉には変った人だという意味合いがあった。
「あたしは分からなくもないよ」
どこからか人ごみをかきわけてやってきた一人の少女が、突然大男に話しかけてきた。机の上の皿を端によけてスペースを確保すると、「どっこいしょ」と、あろうことか胡坐をかいて座る。当然店の親父には「何をやってるんだバカたれ!」と怒られ、ゲンコツが降ってきたが、へらへら笑いながら謝ると、再び話しかけた。
「あたしも綺麗だって思ったことあるんだ。見慣れてからは薄らいじまってるけどさあ。ねえ、どっから来たの? 東の方? それとも南? ねえ、絵を描いてるんだって? あたしに見せてよ。こっちからじゃあ見えないよ。ねえねえ!」
随分と我の強い。少女は大男に興味津ヶだった。だが、店の親父がいい加減しびれを切らすと、商売の邪魔をするなと人の集まりを散らした。少女も例外ではなく、襟を掴まれてつまみ出された。
店の親父はくたびれた様子で申し訳ないと詫びたが、大男はそれでも絵を描き続けていた。