第十二話 『ソーロング』 3. 殺意
竜王の格納庫の隣にある控室に桔平と綾音の姿があった。
その日の訓練を終え、綾音がパイプ椅子へ腰を下ろし、深く息を吐き出す。表情の薄いその顔は少し疲れているようにも見えた。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
桔平から手渡された紙コップを受け取り、綾音が嬉しそうに笑った。
「もうすっかりコツつかんじまったな」
桔平を上目遣いに眺め、コーヒーをズズズとすする。「まだまだですよ」
「そんなことねえだろ」ズズズズズーとすすった。「あっちーなあ! もう!」
「ひいらり……、柊さん、猫舌でしたっけ?」
「んあ?」凶悪なまなざしを綾音に向ける。「ひいらりんでいいわ。約束だからな。あの激辛勝負以来、舌の皮がズルむけなんだって」
「それはまいっちんぐですね」
「まいっちんぐだな」
「だったらアイスにした方が」
「おお、いつも買ってから気づく。さっきもそうだ」
「……」ふいをつかれたように綾音が笑う。「本当に変な人ですね。夕季が言っていたとおりです」
「うるせーよ! こっちは目一杯普通のつもりなんだよ! それをあのガキャ、思いっきりぶん投げやがって。まだ後頭部いてえぞ。おい、綾っぺ。おまえ夕季の姉御なんだろ。ガツンと言っとけ」
「わかりました。ガツンと言っておきます」ズズズ、と軽く受け流した。「あ~、おいしい」
「野郎、俺のこと、完全に見下してやがるからな。何とか尊敬するように仕向けられねえもんかな」
「あっははは」
「いや、笑いごとじゃねえって」
「大丈夫ですよ。ああ見えてあいつ、柊さんには一目置いていますから」
「……。とてもそうは思えねえんだが、俺の気のせいか?」
「余裕がないだけですよ。あいつはいつも、いっぱいいっぱいですから。どんな時でも目一杯で、一生懸命で、それがあの子の唯一のとりえなんです」
「わかってる、けどな……」ふいに物憂げに目を細める。「ほんと、猫みてえな奴だって。なつかねえくせに知らねえうちにチョコンといやがるから、触ろうとするとまた逃げていきやがるし」
「猫、お好きなんですか」
「……。猫はな」
「ご自分もノラ猫ですからね」
「……」淋しそうな顔を向けた。「てか、俺は一匹狼のつもりだったんだが……」
「人間社会に一匹狼なんて存在しませんよ。そんなことを言っているのは群の中にいるのに気づいていない平和な人だけです。まあ、だいたいご自分だけそう思われてるパターンがほとんどですが」
「……。俺?」
「はい」
「……」
「狼は集団を好み調和を重んじる賢い動物です。もしたとえるのなら、一匹狼は一人で運命を切り開くかっこいい存在ではなく、群から締め出された嫌われ者という解釈が妥当でしょうね」
「……。……俺?」
「……。その点はどうなんでしょう……」
「……」
「狩りをする獣は生きるために群を作ることが多い。そうしないと他の群に邪魔をされて獲物にありつくことができないから。何だか、人間と似ていますね」
「生き物の本質は同じってことかもな。俺らだって木場みたいにウッホウホ言ってた時は集団で狩りとかしてただろうしな。会社の組織なんかも、どっかしら自然の摂理と似通ってる」
「でも野生の動物は人間の社会の中では生きてはいけない。どれだけ強くても、大きくても、捕獲されるか飢え死にするだけです。ごくまれに共存を実現している地域もあるようですが、それも人間側の妥協による部分が大きいはずです」
「てめえらで奴らの居場所踏み荒らしといて、妥協もくそもねえだろが」
「それは言えてますね」意地悪そうな顔をしてみせた。「だけど、猫はどんな環境でもしたたかに生き抜いていく。時には媚びて、時には牙を剥き、そのくせどこにいても野生を失わない」
「犬だって同じだろ」
「……」がっかりしたように桔平を見つめる。「犬は木に登れないじゃないですか」
「なこと言ったら、猫だって泳げねえだろが」
「……。引き分けですね」
「……。引き分けか、な」
「そんなことはどうでもいいんですけど」
「どうでもよかったのか、やっぱ……」販売機に硬貨を投入し、セレクトする。「あ、またホット買っちまったじゃねえか!」
綾音がおもしろそうに笑った。
「大丈夫です。夕季も礼也も、決して嫌いな人間に頼ったりはしませんから」
「……」桔平が、まあいいか、という顔になる。「おまえさんに言われるとそんな気になってきちまうな」
「甘えているんですよ。あいつ、同年代の人達の中にいるのが苦手みたいだし」
「だったら、もっとかわいく甘えてくれねえかな」ズズズ。「あち! すごくあち!」
「かわいいじゃないですか、充分」
「ん?」
「あたしはあいつがかわいくて仕方がありません。あいつだけじゃなくて、礼也も雅も、忍だって……」
「……。おまえさん、こんなことやってねえで、学校の先生にでもなった方がよかったんじゃねえか」
「はい?」
「何だったら口きいてやってもいいぜ。山凌の講師くらいなら何とかなるしよ」
「そんなツラじゃないですよ」
「どんなツラだ、そりゃ……」
「あははは」
楽しそうに笑う綾音を眺め、桔平もおもしろそうに笑った。
「まあいいわ。んなことになったらリベンジもままならねえからな」
「リベンジ?」
「おうよ」ふん、と鼻息を荒げる。「この俺を二度までも負かした、激辛大好きバカ食いエロメガネ女を勝ち逃げさせてたまるかっての」
「……もう少し言い方ないんですか」
「オバキューでもそんな食わねえぞ」
「なんスか、それ……」
「おいおい、ずいぶんと挑戦的じゃねえか。今度は何で勝負しようってんだ! おお?」
「いや、あっしは何も言ってねえですが……」
「メガ味噌カツか? びっくりベトコン・ラーメンか? それともサクっと鬼盛りチャーハンか?」
「ああ、それ全部クリアしました」
「何!」
「ただになるからって雅にそそのかされて」自嘲気味に微笑む。「結局あいつが食べた分は私が払いましたが……」
「ぐむむむ」と悔しがる桔平。「てめえら、何故俺も誘わねえ!」
「……。お忙しいだろうと思って……」
「お忙しいもへったくれもねえだろ!」激しく睨みつけた。「冷てえじゃねえか!」
「……ノラ猫というよりは淋しがりやのウサギちゃんですね」
「ウサギちゃんだってえの! あ~あ、みっちゃんも切ねえよな。あんなにおごってやったのによ。誘ってくれりゃ仕事早引けしてでも行くってえのに」
「……副局長って結構ご自由なんですね」
「ああ!」じろりと綾音を睨めつける。「ご自由も何も、どうせ俺なんざ飾りみたいなモンだからな。いらねえ子だ」
「みなさん、よく従っていらっしゃいますよね」
「んなモン、俺の後ろにいる局長が怖いからに決まってんだろ。俺がチクりゃ、てめえらがクビになるとでも思ってんだろ。俺には何の権限もねえってのによ。凪野のおっさんの一言で大臣の席に空きができるとは聞いたことあるが」
「怖い世界ですね……」
「怖い世界だっての。俺なんか局長のハンコがなけりゃ意見の一つもとおらねえ立場だってのに。置き物ってか、言ってみりゃマスコットみてえなモンだ。寝坊こいて爆睡してても、ふけて便所でタバコ吸ってても、知らないうちに重要な会議は暮れてく。後で怒られても知ったこっちゃねえ。つまんねえ揚げ足とって得意なツラしてやがるアンポンどもを睨み倒して黙らせるのが、マスコットである俺の役目だ」
「ずいぶんやさぐれたマスコットですね……」
「所詮任命職なんざその程度だろ。本当の権力者だとは誰も認めてねえよ。奴らから見りゃ、チンピラがコネで肩書きだけの仕事をやってるようなモンだからな」
「……自覚していらっしゃったんですか」
「たりめえだ」
「そうですか。お心が広いんですね」
「まあな」得意げに胸を張る。「もしメックや他の奴らが言いやがったら、顔の形がなくなるまでブン殴ってやるけどな」
「あ、やっぱり……」ふっ、と笑いかけた。「でも、それだけ柊さんと進藤局長の信頼関係が磐石だと、みなさんが信じていらっしゃるということですね」
「ぬかせ」けっ、と顔をしかめる。それから腕組みをしながら考える素振りをしてみせた。「だが、正直、あいつがあれだけできる女だとは思わなかったけどな。あれなら前任者にもひけをとらねえ。しゃくだが、俺なんかじゃとてもあいつの代わりは務まらねえ」
「……。なるほど……」
「ん?」にんまりと微笑む綾音に、桔平が不思議そうな顔を向ける。「何が、なるほど、なんだ?」
「いえ、別に」
「?」
綾音はそれ以上何も答えようとせず、ただ嬉しそうに桔平を見つめていた。
照れ臭そうに顔をそむけ、桔平が咳払いをする。まあいいか、という表情だった。
綾音といると桔平は妙な安心感につつまれるようだった。
「なんかよ」
「?」
「綾っぺ見てると、昔のあさみみたいに思えてくるわ。髪型とかよ」
綾音の心が揺れる。静かに紙コップを見つめ、淋しそうに笑ってみせた。
「なんでそんなに自分を縛りつける」
桔平の言葉に綾音がはっとなる。
「……何のことですか」
すると桔平は残りのコーヒーを流し込みながら、何ごともなかったように続けた。
「言いたくなきゃ言わなくてもいい。だがこれだけは自覚しておけ。おまえさんが苦しそうな顔すると、あいつらも苦しむ。その方がおまえさんにとってはつらいんじゃないのか」
「……。聞いていたとおりの人ですね……」
「……」真顔になり、綾音の顔をまじまじと眺める。「おまえ、死んでもいいって思ってるだろ」
「!」
目を見開いて硬直する綾音。それから笑みを作り、無理に平静を装ってみせた。
「わかっちゃいました? 私が死にたがっていること」
桔平が静かにその顔を見据えた。
「死にたいわけじゃない。でも死んでもかまわないって思ってる」
「……」
「わかるんだよ、そういうこと考えている奴のツラは。生きていることを申し訳ないって思ってやがる。理由まではわからないがな。だから、いつ死んだって、後悔とかしないんだろ」
「ご自分がそうだからですか」
今度は桔平が動きを止める番だった。
それを好ましげに見守り、綾音がふっと笑った。
「……何となく、わかる気がする」
「何がだ」
「いえ……」桔平から顔をそむける。暗くなった窓から本館の辺りを見上げた。「おとなしく飼われていれば楽なのに、自ら人の手を離れてノラになる犬や猫がいる。どうしてなんでしょうかね」
「そういう生き方が好きなんだろ」
「そうでしょうか。私にはそうしなければならなかった理由があるように思えて仕方がないんですけれど」
「……」
「ウサギは淋しいと死んじゃうってよく言いますけど、あれは嘘ですね。野生のウサギは一匹でも生きていける。淋しいと死んでしまうのは、生きることを放棄した人間だけです。だから……」淋しそうに目を伏せた。「気をつけてあげてくださいね」
「……」
桔平の表情が曇る。そのまなざしに決意が浮かび上がった。
「知ってるんだよな」
振り向きもせずに綾音。
「何がですか」
「やっぱりな。全部知ってますって顔だ」
桔平と同じ顔になって綾音が振り返った。
「だったら、どうします」
「どうもしねえよ」じろりと睨めつける。「おまえさんこそ、どうするつもりだ」
「どうもしませんよ」
「何故だ。あいつを助けたいんじゃないのか」
「だからです」涼しげなまなざしを向けた。「あの人を助けられるのはあなたしかいませんから」
「……俺はあいつの敵だぞ。つじつま合ってねえんじゃねえのか」
「そうでしょうか」
「どういう意味だ」
「私にはそうは思えない。本当に矛盾しているのは、あなたの方なんじゃないですか」
綾音の言葉が桔平の心へ突き刺さる。
その悲しみを含んだ微笑みが誰に向けられたものなのか、桔平にはわからなかった。
「……。どこから情報仕入れたかは知らないが、それが本当だと信じているのなら、このまま放ってはおけないだろう」
「そうですね」
「俺を殺すつもりだったのか」
「それも考えました。それで本当にあの人が救われるのなら」淡々と受け答え、平然とそれを口にする。「でも、それじゃ何も変わらない。むしろ彼女を苦しめるだけだから……」
今度は桔平が悲しげな表情を向ける番だった。
「苦しいのはあいつじゃなくておまえの方だろ」
「かもしれませんね。こちらが返り討ちにあう確率の方が高そうですし」
口をつぐんでしまった桔平に、綾音が力なく微笑みかける。
「すごいですよね。ほんの二、三分前まで食べ物や動物の話をしていたのに、今では殺すか殺されるかの睨み合いです。ほんと、怖い世界ですよね。きっと夕季達はわかっていないんでしょうね。自分達がこんなにも凄まじい環境に組み込まれてしまったことすら」
「……」
「ついさっきまで親しげに笑いながら世間話をしていた仲間が、次の瞬間には突然敵意を剥き出しにして自分の命を奪おうとする。そんなこと夢にも思わないでしょうね、あいつらは」
「心配なら教えてやったらどうだ」
「そんなことしたら夜も眠れなくなりますよ」
「だったら、おまえさんがそばにいて守ってやるんだな」
「必要ないでしょ。あなたがいれば」
「とぼけたことぬかしやがると……」
「ぶっ殺しますか?」
桔平が綾音の顔を真っ直ぐに見据える。
その直視すら、綾音は笑顔で受け流した。
「……」桔平が口をへの字に結ぶ。「俺のとっときのジョークで笑い死にさせてやる」
「無理ですよ、柊さんのセンスじゃ」
「何!」
「すみません」申し訳なさそうに眉を寄せた。「こっちも結構いっぱいいっぱいなんですけどね、柊さんの顔を見ているとついからかいたくなってしまって。朴さんの言うとおりですね」
「てめえら……。……なんか本気で殺意がわいてきちまったな」
「あははは」おもしろそうに笑った。「……わかるような気がします。あの人の気持ちも……」
「……」
複雑そうな表情で桔平が窓から外を見上げる。
本館の最上階からは消えることのない明かりが二人を見下ろしているようでもあった。
それから桔平は、向けるべきか否か迷っていたあいくちを綾音ののどもとへと突きつけてみせた。
「もしあいつが、おまえを殺そうとしているとしたら、どうする」
「……さあ」桔平を静かに見つめ、綾音が淋しそうに笑った。「どうしたらいいですかね……」