沈む
第三部、第六話。
ここは、どこだろう。
明るい。
明るい、水に、浮かんでる。
顔を上げる。
遠くに陸地が見える。
仕方ない。泳いでみよう。
あれ、不思議だな。疲れない。
まあいいや。
陸地に到着する。
あたりを見渡す。
凄い絶景だ。
今まで見たことのない風景が広がっている。
オーロラは光を放ち、島は空に浮かび、太陽と月は並び、天の川はキラキラと輝いている。
美しい。そう思っていると、声をかけられた。
「すみません」
「は、はい?」
振り返ると、女性が立っていた。
なんてきれいな人なんだろう。そう思った。
「ここは、どこなんでしょう」
「さ、さあ、僕にもさっぱり」
近くにいると緊張してしまう。
「あの……」
「は、はい」
「良かったら、一緒にいてもいいでしょうか?」
「そ、それはもう、もちろん!」
かわいい。不思議そうにしている。
「さて。どうしたものやら」
「そうですね……」
このままじっとしていてもしょうがない。だけど、行くあてがない。
その時。
「うわあっ!」
「なに、なんです!?」
足がぬかるみにハマったような感覚があり、そのままどんどんと沈んでいく。まるで底なし沼だ。
それと同時に急激な寒気が襲ってくる。
まるで、死の凍気が僕を捕らえようとしているかのように。
「寒い……寒い……」
「ああっ!」
女性が慌てふためく。彼女の足元はおかしなことにはなっていない。
「このままじゃ――」
「……眠い……」
僕は、急激に眠気を催していた。
「私の手に掴まってください!」
「え……」
女性が必死に手を伸ばしている。
「はやく!」
僕は、寒さと眠気の中、最後の希望にすがるみたいに、手を、掴んだ。
その手から流れ込む暖かさ。
希望。
強さ。
生きる気力に、僕は突き動かされた。
こんなところで死んでたまるか。
なぜか、そう思えた。
女性の手を死に物狂いで掴む。
「いまから引き上げます! 待っててください!」
「は……い……」
「ああぁあっ!」
女性が渾身の力で僕を引き上げる。
上半身が出る。僕は反対の手で地面を捉える。
ふたりの力で、なんとか足の先が出る。
女性が手を離す。
「はあ……はあ……なんとか……あれ!?」
「うわっ!?」
また沈んでいく。
「どうなってるんですか!?」
「うわあっ!」
女性が慌てて手を掴む。
沈むのが止まる。
「これ……」
「これって……」
ふたり同時に声を上げる。
「手を繋いでるときは大丈夫みたいですね……」
「そう、みたいですね……」
冷静になり、僕の顔が熱くなる。
「……」
どうやら女性も同じようで、ふたりして顔を背ける。
「あ、あの、お名前、聞いてもよろしいでしょうか……」
女性が恥ずかし紛れに聞いてくる。
「そ、そうですね、僕の名前は……」
あれ? なんだっけ?
「すみません……分かりません……」
「私も、わからないんです。同じですね。あはは……」
なぜか、その笑顔に、すごく、惹きつけられる。
「じゃ、じゃあ、名前がないのもあれですし、僕が『ハジメ』、あなたが『イチカ』でどうでしょう?」
「あ、それいいですね! ふたりとも一番ってことですね!」
「はい……はは……」
なんかすごく恥ずかしい。繋いでる手が温かい。
ふたりでモジモジしてると、目の前に紅い蝶がひらひらと飛んできた。
「あ、きれいな蝶ですね……」
イチカさんが見とれている。たしかに、すごくきれいな蝶だ。
「おいでー」
イチカさんが人差し指を差し出す。紅い蝶は、まるで言葉がわかるかのように、その指に止まる。
「へえ……」
不思議な蝶だ。そう思った。
再び飛び立った。どこかに行くのかと思いきや、ある一定の距離を保ちながらふわふわと飛び続けている。
「ん……?」
「この蝶……もしかして……」
「イチカさん、なにか分かるんですか?」
「いえ……ただ、もしかしたら道案内をしてくれるのかなって……」
「なぜでしょうね。僕もそんな気がしてました」
「ハジメさんもですか! 気が合いますね!」
イチカさんって元気な人だ。そう思った。
案の定、正解の方向に歩くと蝶との距離が一定になり、不正解の方向に進むと距離が開く事がわかった。
「この方向みたいですよ!」
「そうですね!」
僕とイチカさんは手を繋いだまま、蝶が導く方向に進む。
すると、洞窟らしきものが見えてくる。
「洞窟、ですか……」
イチカさんが嫌そうな素振りを見せる。
「暗そうですね……」
さっきのこともある。あまり気乗りはしないけど、蝶以外に目印らしきものもない。ふたりで入ることにした。
「うわっ、光った!」
「おお……」
イチカさんが驚く。僕も驚く。紅い蝶が光を放って洞窟内を明るく照らしている。
「どうなってるんでしょうか……」
「さ、さあ……」
さっぱり分からなかった。
それから、いくつの分かれ道を進み、角を曲がっただろうか。
異様に深い洞窟だ。もう戻れないだろう。
最後に直線に入った。もしかしたら終点なのかもしれない。上から光が差し込んでいる。僕はやっと終わる洞窟の道に気分が晴れやかになった。でも。
「これ……どうしましょう……ハジメさん……」
「うーん……」
そこには、終わりが見えない鉄はしごがあった。
「手を繋ぎながら登ることって可能でしょうか……?」
「うーん……できなくはないけど、かなり厳しいと思う」
「そう、ですよね……」
「まず、はしごの上でも手を繋がなくちゃいけないか、試してみませんか?」
「はい……お気をつけて」
「分かりました」
僕は片手をはしごにかける。両足も乗せ、準備する。
「では、手を離しましょう」
「はい」
ゆっくりと手を離す。が。
「うわっ!」
「ハジメさん!」
なぜか掴んでいた手が離れ、というよりも弾かれ、後ろに倒れる格好になる。
イチカさんが僕を支えてくれ、さらに手を急いで繋ぎ直し、なんとか事なきを得た。
光る蝶はあいかわらず上の方でふわふわと飛んでいる。
「……やっぱり駄目みたいですね」
「そうですね……はは……」
どうすればいいだろうか。
僕たちは少しの間考える。
「洞窟を戻ることってできないんでしょうか?」
「不可能ではないでしょうが……蝶がついてきてくれるかどうか……」
「そうですよね……」
「試してみましょう」
「はい」
僕たちは少し蝶から距離をあけるように、来た道を戻る。
残念ながら、蝶は微塵も動かずに、鉄はしごのほうで飛んでいる。
「……駄目みたいですね」
「ううん……」
困った。非常に困った。
明かりがなければ戻ることはできない。
狭いはしごを手を繋ぎながら登るのは至難の業だ。
じゃあ、どうすればいい?
「ハジメさん。登りましょう」
「……相当大変ですよ。ほんとに、いいんですか?」
「はい。ハジメさんとなら、大丈夫な気がします」
イチカさんがにっこり笑う。
この人は……。
なんで、こんなに。
「……分かりました。頑張りましょう」
「はい!」
その時、蝶が発する光が、瞬いた気がした。
「えっ!?」
「なんだ!?」
はしごの幅が、広くなる。
ちょうど、ふたりが並んで登れるほどの広さに。
「これ……ハジメさん……!」
「ええ。これなら多少は楽になります……!」
まるで、蝶が僕たちを試しているかのようだった。
「落ちないように支え合いましょう」
「はい!」
イチカさんが決意を込めて返事をする。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
イチカさんと僕は交互に、落ちないように登り始める。
片方が登るたびに、繋いでいる手に力を込めて支える。
そうやってどれだけの時間が経っただろうか。
疲れはなかった。
でも、なぜか、不思議な感覚だった。
僕は、イチカさんのことを知っている気がする。
手を繋いでいる時間が長くなればなるほど、その気持ちは強まっていった。
そして。
「ついたーっ! ハジメさん! 着きましたね!」
「やっとですよ……!」
僕たちは、狭い穴から、広い草原へと顔を出した。
「風が気持ちいいですねっ!」
「そうですね……」
イチカさんが僕のことを不思議そうな顔で見る。
「どうしたんですか、ハジメさん? 元気がないみたいですが……」
「いえ……ただ……イチカさんに申し訳ないなって……」
イチカさんが優しい目になる。
「この手のことですか? いいんですよ。気にしないでください」
「でも! 僕、足手まといにしかならなくて!」
「ハジメさん」
イチカさんの琥珀色の瞳に吸い込まれそうになる。
「わたし、ハジメさんが来るまで、ずっと、不安でした。これからどうすればいいのかも、自分が何者なのかも、まったく分かりませんでした」
イチカさんの魅力的で透き通った声に、癒やされる。
「でも、ハジメさんが来てくれて。ハジメさんのそばにいるだけで、わたし、怖くないんです」
イチカさんを覆っている純白のローブが、まぶしい。
「それに、こうして手を繋いでいるのも、けっして、嫌じゃないんです」
イチカさんの黒い短髪が、光を吸収している。
「ハジメさん……?」
そう。「嫌じゃない」んだ。なぜか、この言葉が懐かしかった。
「え、ええ。すみません。イチカさん、ありがとうございます」
「はい……」
僕は、覚悟を決めて言ってみることにした。
「イチカさん」
「は、はい」
僕の真剣な表情に、イチカさんが驚く。
「僕は、あなたを知っている気がします。なんとなく、懐かしいんです」
イチカさんが驚き、そして、穏やかな目でこちらを見る。
「わたしも、何となくそう思ってました……そうだと、いいですね」
イチカさんがはにかむ。
ああ。なんてきれいな人なんだ。
「……はい」
「さて! それじゃ、蝶さんの行きたい方向について行ってみましょうか!」
イチカさんは、すごい。
「はい!」
僕たちは、草原を紅い蝶の赴くままに歩いた。
歩いて、歩いて、歩いた。
疲れなかった。
それは、イチカさんの魔法なのか。
紅い蝶の魔法なのか。
この世界の魔法なのか。
それは分からなかったけど、気分は悪くなかった。
風が、気持ちよかった。
イチカさんと一緒にいられることが、嬉しかった。
永遠とも思える歩みを進めていると、蝶が目指しているものがなんとなく見えてくる。
イチカさんが巨大な山を指差す。
「もしかして、あそこに向かってるんでしょうか?」
「たしかに、そんな気がします」
「高いですねえ……」
「何千メートルくらいあるんでしょう……」
言わなかったけど、何万メートルという規模だ。
「あれ、登るんでしょうか……」
イチカさんが不安そうにする。
「大丈夫ですよ! さいわい、僕たちは疲れないみたいですし」
「たしかに、疲れませんね……」
珍しくイチカさんが弱気だ。
「他に行くところもないですし。大丈夫ですよ! 僕たちなら行けます!」
「そう、ですね!」
よかった。すこし表情が明るくなった。
そのあとも、ただひたすら歩いた。途中から、だんだんと木が多くなってきて、山の麓に入ってきたみたいだった。
でも、きれいな木々だった。
葉がピンク色をしていて、それがときおり散って落ちる。
それが辺り一帯に広がっている。
それに、これだけ木がウッソウとしてるのに、まったく暗くない。
まるで木自体が発光してるみたいに、幻想的な光に満ちていた。
「きれい……」
イチカさんが喜んでいる。
かくいう僕も、いい気分だった。
「あれ……?」
「イチカさん……?」
イチカさんが、泣いている。
「あれ、なんだろう、嬉しくて、悲しくて……」
「大丈夫、ですか……?」
「こうやって、誰かと、歩きたかったような……」
「それって……」
急に僕の胸が苦しくなる。嫉妬じゃない。
なにかを、忘れてないか?
「……でも、不思議ですね。こうやってハジメさんと歩いてると、なんだか、そんなこと、どうでも良くなっちゃいます」
イチカさんが涙を拭いてほほえむ。
「僕は……なにか、大事なことを……」
「ハジメさん……?」
「いえ……なんでも、ありません……」
僕は、なにか重大なことを忘れている。
でも、それがなにかは、必死に考えても思い出せなかった。
そして、明るい木々の森を抜け、徐々に徐々に道が険しくなっていく。
本格的に山を登り始めたのだ。
僕たちは蝶の導きに従い、山道を淡々と登り続けた。
あの巨大な山だ。どのくらいかかるか予想もつかなかった。
森林限界をとうに抜け、草花だけが生えている神秘的な山を登り続けた。
だが、困ったことがあった。
それは、上に登るにつれ、なんともいいしれない疲れと眠気が増してくることだった。
「ハジメさん、わたし、なんだか疲れてきました……」
「僕もです……」
だいぶ上に来ている。そんな実感が湧いているときだった。
僕もイチカさんも、ヘトヘトになっていた。
「これ以上、登ると、意識が持っていかれそうです……」
「はい……」
「やめませんか……?」
「登るのを、ですよね? せっかくここまで来たんです。最後まで登りましょうよ……」
「わたし、怖いんです。登りきったら、ハジメさんがどこかに行ってしまいそうで」
イチカさんが懇願するような目で僕を見る。だけど。
「蝶には、悪意を感じません。そう思うんです。間違いだとしても、もう、僕たちには他に方法がない。登るしかないんです」
「でも」
「イチカさん。僕はどこにも行きません。約束します」
「なんで、そんなことが言えるんですか」
「分かったんです。僕には、使命がある。それは、あなたを忘れないこと」
「え……」
「たとえあなたが僕のことを忘れても、僕は決してあなたを忘れたりはしない」
「……」
「だから、行きましょう?」
「わかり、ました」
イチカさんが、納得してくれる。
それだけで、僕は嬉しかった。
そうして、僕たちは登り続けた。
果てしない道のりを。
でも、僕たちはひとりじゃなかった。
だから、登れた。
そして、ついに。
ついに、頂上についた。
「つき、ました、ね」
「え、ええ」
「なにも、ない、です、ね」
「は、い……」
そう。
頂上には、ふたりが座るスペース以上のなにかがあるわけではなかった。
蝶は、なぜか真上に飛んでいってしまった。
でも、それどころじゃなかった。
「きれい、です、ね」
「そう、です、ね……」
ただ、ひとつだけ。
ひとつだけあるとすれば。
赤い太陽が、正面に陣取り。
その暖かな日差しが、僕たちを包んでいることだけだった。
僕たちはもう、息も絶え絶えだった。
ふたりで座る。
「手、ずっと、つないでました」
「はい」
「ずっと、離しませんでした」
「はい……」
「ハジメさん」
「はい」
「わたし、ハジメさんと一緒にいられて……」
「幸せでした」
「幸せです」
イチカさんが目を丸くする。
「あっ……」
「僕も、イチカさんと同じ気持ちですよ」
「うう……」
「イチカさん?」
「ハジメさん、すみません……もう、寝ても、いいです、か?」
「はは……僕も、そろそろ、限界、なんです、よね……」
僕たちは、手を繋いで、肩を寄せ合って、頭を預け合って、眠りに、落ちた。
底なし沼に落ちていく感覚が、あった。
沈んでいく。氷のように。