潜水
第三部、第五話。
三人で、決して明るくない顔で夕飯を取っていたとき。
二階で物音がした。
「うん……? カオルさん、起きたんですかね?」
ヒロトさんが気にかけてくれる。
アキさんも上を見上げている。
「すみません。ちょっと見てきます」
「あ、私も行きます!」
ヒロトさんがサポートしてくれる。もしかしたらまずいかもしれないとは思いつつ、任せる。
二階に着くと、廊下でへたり込んでいるカオルさんがいた。泣いている。まずいな。
「タクミ……ここ、どこ……」
「あ、ああ、カオルさん……ここは、知り合いの人の家で、泊めてもらってるんだよ」
「タクミさん……あの……」
ヒロトさんが何か言いたそうにする。首を横に振って待ってもらう。
「その人は……?」
「カナスギ・ヒロトさんだよ」
「そうですか……よろしく、お願い、します」
「は、はい」
「タクミを、よろしく、お願いします」
「え、ええ、もちろんです」
もう。泣かせないでよ。
「ヒロトさん、ちょっと手伝ってください。寝かせます」
「分かりました……」
ヒロトさんとふたりでリコを支え、布団に横にさせる。
出ていこうとすると、リコが話しかけてくる。
「タクミ……ごめん」
「なに謝ってるのさ。なにも悪いことなんてしてないよ?」
「私が悪いの……私が……」
「もう、おやすみ、カオルさん……」
「はは、は……」
リコはなんとも言えない含み笑いをしながら寝てしまう。
「タクミさん。一階でお話ししたいことが」
「はい……」
まずいなあ。やっぱり気づかれちゃったか。ヒロトさん勘がいいもんな。
一階について夕飯の席につく。ヒロトさんが口を開く。
「アキ。これから話すことを怖がらないで聞いてね。タクミさんは悪い人じゃないから」
アキさんが驚いた顔になるけど、すぐに気を取り直したみたいだ。
「分かりました」
「タクミさん。隠さずに教えてください。あなたの奥さん、カナイ・カオルさんはひとりじゃないですよね?」
アキさんが、ヒロトさんの顔を見て、いったいなにを言い出したのかという顔をする。
「はい」
さらにアキさんが驚愕の顔つきになる。
「あの方はどなたなんですか?」
「それを話す前に、長い説明をしなければいけません。そして、これは僕の与太話として聞き流してください。大丈夫ですか?」
「分かりました。アキも、いいよね?」
「……」
アキさんは目がまんまるになりながらも、頷いてくれる。
そして、僕はこれまでの経緯をすべて話した。
なんで自分がここまで話せたのかは分からない。
なんで、ここまで信用しているのかも。
もしかしたら帰ってこられないかもしれないという不安。
ヤスダさんが託してくれた想い。
誰にも話せなかったつらさ。
それらが、最後の最後で爆発した。
経緯をすべて話し終えたとき。
僕のつらそうな姿に共感してくれたのか。
もしくは理解が追いつかず泣きたくなったのか。
どっちにしても、アキさんは涙を拭き、ヒロトさんは今にも泣きそうだった。
その後、沈黙と事務的な会話の後、風呂や支度を済ませ、僕はリコの隣で寝た。
深夜に物音がしたような気がしたけど、眠くてすぐに寝てしまった。
次の朝。出発のとき。
リコを車椅子に乗せ、ヒロトさんと玄関を出る。
「タクミさん!」
アキさんが僕の名前を呼ぶ。
「ご無事を、お祈りしています!」
「ありがとうございます!」
良かった。
「じゃ、アキ、行ってくるよ」
「はい。ヒロトさん。お気をつけて」
アキさんとヒロトさんが言葉を交わしてる。
「それじゃ、行きますか! タクミさん!」
「はい!」
リコを後部座席に乗せ、自分も右に乗る。
「さ、ここから二十分ほどで着きますよ! 覚悟はできてますね!」
「もちろんです!」
その勢いのまま、車は進み始めた。
「……アキのことは、許してあげてください。普段は気が強いのに、肝心なときに怖がりで」
ヒロトさんが沈黙を気にして話しかけてくれる。
「いえ、怖いのは当然ですよ……」
「正直、僕も怖かったんですよ」
「え……そうなんですか……」
「正直に言ってしまうと、はい。ですが、あなたの話を聞いて、納得しました」
「納得できる部分なんてありましたか……?」
「話自体は理解できませんでしたが、あなたとカオルさん、リコさんの絆は理解できました」
「なぜですか」
「……匂い、ですよ」
「ああ……」
「はい。カオルさんとリコさんが入れ替わると、匂いも変わる。それは私が感じた事実です。タクミさんの言葉が理解できなくとも、繋ぎ合わせることはできる。それにですね」
「それに?」
「タクミさん、いつも左手でリコさんの右手を握ってらっしゃるでしょう? 昨日の夜中にも、申し訳ないですが二人で覗いてしまいました」
そうか。
その物音だったんだ。
「はは……お恥ずかしい限りで……」
「恥ずかしくなどありませんよ! ただ、それが、あまりにも……」
「はい」
「あまりにも、美しい、というか、なんでしょう。なにか心に来るものがあったんです」
「そうなんですか……?」
「理由なんてないのかもしれません。ただ、私は、タクミさんのことも、リコさんのことも、カオルさんのことも、なぜか好きになってしまった。それだけのことです」
「ありがとう、ございます……」
「だから、帰ってきてください」
「はい」
「ちゃんと、三人で、帰ってきてください」
「わかり、ました」
なんだか、感無量だった。
車は、湖の畔を、心地よく進んでいた。
ついた。ここが、ヤスダさんの家だ。
リコを車椅子に乗せ、ヒロトさんと一緒に見上げる。
「またここに来てしまいましたね……」
ヒロトさんが溜め息をつく。
「そんなに嫌だったんですか?」
「まあ、あまりいい思い出がないですからね。アキも怖がってますし」
「たしかに、そうですね……」
「では、入りましょう」
「え、ヒロトさんも入るんですか?」
「もちろんです。ほかに誰が案内するんですか」
「大体の間取りは分かってるからいいんだけどな……」
「つべこべいわずに、行きますよ!」
「は、はい!」
仕方なく、玄関の鍵を開けてもらい、中に入る。
「車椅子のまま入っちゃって大丈夫ですか?」
「もちろんです。もう誰も住んでいませんから」
ヒロトさんがブレーカーの電源を入れ、家中の電気を点ける。
この家は研究所も兼ねているだけあって、非常用電源が備え付けられているらしい。
三人で進む。中は、なんとも言えない寂しい空気が充満していた。あのときと同じだ。
ヒロトさんが身震いしているのを感じる。僕も薄気味悪かった。でも、進まなきゃ。ヒロトさんが居てよかった。
「この階段を上ってすぐ左の部屋が寝室です。そこに装置もあります」
「はい」
ボロボロになり始めている家を注意して進む。車椅子のまま、二人で寝ているリコを介助しながら階段を上る。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ヒロトさんのおかげだ。
そして、部屋までリコを連れて行く。
「ここ、ですか」
「はい」
夢で見たのとまったく同じだった。
散乱した工具や紙、作業台にPCデスク、二つのベッドに巨大なサーバー、そして。
「これが、『潜水装置』です」
「……」
普通のベッドの横に、珍しいベッドがひとつ。
それは、シングルベッドが繋げられているような見た目で、なぜか中間地点に手が置けるようなスペースがわざわざ設けられていた。
枕に当たる部分は半透明のゴムのようなものが設置してあり、それに頭を乗せるようだ。ゴムの奥が微妙に緑色に光っている。
「シンプルですね」
「ええ。物資も限られていますしね……片方にタクミさんが、片方にカオルさんが。おふたりのモニタリングは僕が行います。本当はおふたりが寝るだけで起動する仕組みなんですけどね」
安全装置もなにもなさそうだ。たしかに危険かもしれない。
「この手を置く部分はなんですか?」
「分かりません。ですが、おそらくタクミさんとリコさんを模倣していたのなら、手を繋ぐためにあるのではないかと」
「なるほど……」
「もちろん、タクミさんは左手が繋げる位置に横になりますよね?」
ヒロトさんがニッコリ笑う。意地が悪いなあ。
「はい。いつもそうしてますから」
「お熱いなあ」
「ほっといてください」
「では、カオルさんを右手が出せる位置に乗せましょう」
「はい」
ふたりで、リコを装置に乗せる。
「さて、これであとはタクミさんが乗るだけです」
「……はい」
「覚悟は、いいですね」
「はい……あの、ヒロトさん」
「なんでしょう?」
「ちょっと待っててください」
「ふむ?」
僕は、車椅子に作っておいた隠しポケットから遺書を取り出す。
「そんなところにポケットが……」
「はい。僕がここに来て、装置を使う直前に車椅子に載せておこうと思っていたものです」
「君は……」
「僕が帰ってこなかったら、この遺書を警察の方に渡してください」
ヒロトさんが悲しい顔をする。
「……はい。たしかに受け取りました。ですが、あくまでも、これは保険です。いいですね」
「分かっています」
僕は、静かに横になる。
リコの手を取り、握る。
「タクミさん。始めます」
僕の意識が、沈んでいく。明るい水の底に、沈んでいく。
左手には、温もりがかすかに残っていた。
温かい。
そのぬくもりが、僕を生かしてくれた。
そのぬくもりだけが、特別だった。