結婚
タクミ三部作、第三部、第一話。
私とタクミの結婚式が、近づいていた。
正確には、カオルさんとタクミの、だ。
でも、カオルさんの意識はもう、ない。
だから、私から見ると、私とタクミの。
周りから見ると、カオルさんとタクミの。
ややこしい、よね。
そう。
これは、私とタクミとカオルさんの、呪いの物語。
誰にかけられた魔法でもない。
自分たちで願った、奇跡の、呪いなんだ。
私の心は驚くほど弱かった。
耐えられるなんて、嘘ばっかりだった。
はじめから、耐えられるなんて思ってなかった。
だけど、しょうがないでしょ?
ほかに選択肢なんてなかったんだもん。
私のことを忘れたタクミと。
意識のないカオルさんの身体と。
カオルさんの身体に紛れ込んだ私と。
そんな、こんがらがった現実を知っているのは、私とメイさまだけ。
そして、メイさまは言っていた。
また会う日まで、どうか耐えてくださいって。
わたし、耐えられるかな。
もう、こんなにボロボロになってるのに。
心はとっくに泣き腫らして、痛々しさしか残ってないのに。
こんな生活を何年? 何十年?
そんなことしてたら、わたし。
わたしの心が……。
壊れて、なくなっちゃうよ。
「カオルさん?」
「う、うん」
まただ。また、トゲがささる。
タクミにそう呼ばれるたびに。
自分の姿を見るたびに。
どうしようもない現実が、わたしを突き刺す。
はは。衣装合わせのときも、ひどかったよね。
鏡の前で泣き出しちゃってさ。
担当してくれた人が慌ててさ。
指輪を選ぶときも、もう駄目だった。
わたし、ひどい顔してたと思う。
でも、そんなわたしを、タクミは嫌がらなかった。
わたしを? カオルさんを?
もう、自分でもわけが分からなかった。
わたしは、いったい何なんだろう。
ああ。わたし、もう、だめかも。
もういっそのこと、ほんとにカオルさんを演じようかな。
カオルさんとして生きようかな。
そのほうが、きっと楽だよ、ね。
「カオルさん、手、つなごう」
「あ……」
だけど。
タクミはいっつも左手を差し出す。
きっとそれに意味なんてないんだろう。
私が右に立ってても、左に誘導して、左手を出す。
でも。
それが、うれしくて。
うれしくて、うれしくて。
わたしがわたしでいられる、唯一の支えが、それだった。
「カオルさん」
「どうしたの?」
タクミが真剣な眼差しでわたしを見る。
「こんどは僕が、守るから」
カオルさんの役目は、タクミを守ること。だから、そういうこと。
「ありがとう」
わたしはカオルさんとして応える。
「だから、泣かないで」
「うん……」
これは、わたしも、かな。
「カオルさんは強い人なんだから」
毎回、これは、どっちに当てはまるか考えてしまう。
「そう、だよね」
わたしは、弱い。
「僕は、ここにいるから」
そう。
「ありがとう、タクミ」
タクミは、ここにいる。
わたしがどんな姿でも、わたしをわたしと思えなくても、タクミとわたしは生きてここにいる。
「贅沢だよね、わたし」
「ん、どうしたの?」
「ううん、なんでもないの」
カオルさんが、わたしに身体を貸してくれたんだ。
だから、甘えちゃだめなんだ。
もっとつらい人なんて、たくさんいるんだ。
「人と比較しなくても大丈夫だよ。カオルさんの苦しみを他人は背負ってくれないよ」
「え……?」
いま、なんて?
「カオルさんと一緒にいられるだけで、僕は幸せ。カオルさんは、どうなんだろう」
「わたしは……」
呪い。奇跡。絡まり。思い。困惑。幻想。
「わたし、は……」
だけど。
「幸せ」
「よかった」
タクミが笑顔になる。タクミの笑顔が、見られる。だから。
「ね、今日の晩ごはん、なにがいい?」
「おっ、元気出てきた? カレーとかどうかな?」
「子供っぽいなータクミは」
「えー、そんなことないよ」
「でも、作ってあげる!」
「やった!」
そっと繋いだ右手と左手が、優しい温かさを広げていた。
結婚式が終わって、私たちは懐かしい水守島の一軒に住んでいた。
つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、受け止めきれないことが、たくさんあった。
それでも、タクミと暮らせることが、少しずつ、わたしの心に刺さったトゲを抜いてくれた。
一本ずつ、一本ずつ、ゆっくりと、それらは抜けていった。
でも、それは嬉しいことばかりじゃなかった。
感覚は、麻痺していった。
わたしは、「ウエサカ・リコ」としての自我をだんだん失っていった。
それで、いい。
そのほうが、つらくないから。
ほんとうに?
私がいなくなったら、タクミは悲しむかな。
でも、もう、私のことなんて、誰も覚えてない。
誰も……。
「カオルさん」
「うん?」
「また泣いてる」
「あ、ああ……」
「ほんと、よく泣くよね、カオルさんは」
「そうか?」
「まえより男らしくなったよね」
「ははは、そうかな? 自分では意識していなかったが」
いつからだろうか。
私は、タクミくんと暮らしている。
幸せだ。
でも、これでよかったのだろうか。
私は、もっと大事なことに身を捧げたのではなかったか?
思い出せない。
「カオルさん、昼ご飯、食べようよ」
「そうだな、食べよう」
昼ご飯は昔懐かしい、玄米ご飯だった。
タクミくんが作ってくれたみたいだ。
こうやってタクミくんとご飯を食べているときが、何よりの幸せだった。
今日は、何年何月何日だろう。
わたしは、夢から覚めるみたいに、ときどきタクミと暮らしていることを思い出す。
思い出しては、タクミの姿を探す。
どこ。
どこ行ったのタクミ。
「あ、カオルさん」
「タクミ……」
「あ、また、泣いてる」
「え、うん……」
「ほら、これ」
タクミがハンカチを渡してくれる。
「ありが、とう」
「よしよし」
「なにするの……」
「僕達の合図だよ」
タクミが、左手で私の左手を握り、右手で私の左手を優しくさする。
「くすぐったい……」
「ふふ」
タクミ、優しいな。
カオルさん、うらやましいな。
さいきん、ぜんぜん記憶がない。
どうなってるんだろう。
私には分からない。
なにも、分からなかった。
なんだか、意識がぼーっとする。
私としたことが、なんだ、この疲労感は?
「カオルさん、涙が……」
「あ、ああ」
これは夢か? 現実か?
「カオルさん、無理しなくていいから、ゆっくり休んで」
「すまない……」
布団で横になり、天井を見上げる。眠い。
私には、使命があったはず。
その使命は、こんなことではなかったはず。
私は、そのまま眠りに落ちた。
おかしい。
なにかがおかしい。
そう感じながら、それを考察する能力が奪われているみたいだった。
ただ漫然とタクミと暮らして、記憶も曖昧なまま幸せを感じて、また眠りに落ちて。
あれ?
わたしはカオルさんとして生きるんじゃなかったの?
これじゃ、タクミの顔すら思い出せなくなっちゃう。
焦りを感じてた。
でも、心地よかった。
このままずっと浸かっていれば、ずっと幸せでいられる。
そう感じてしまっていた。
タクミの笑顔が浮かぶ。
カオルさんの姿が浮かぶ。
これは?
これは、誰?
もうひとり、大事な人がいた気がする。
わたしはその人と、会わなくちゃいけないんじゃなかったっけ。
でも、ま、いっか。
タクミとずっと、幸せな生活を続ければ。
そうやって、死んでいくのも、悪くないかも。
タクミ、優しいし。
私の手を握ってくれる。
手? 手。
右手。
私が右手で、タクミが左手。
あれ?
なんか、昔に。
昔に、そんなことなかったっけ?
まあ、いいや。
もう、寝よう。