あなたの髪の毛乾かします
最近風呂キャンセル界隈なるものが流行っていますが(?)、お風呂が面倒な気持ち、分かります。お風呂というか、上がってからやることが多すぎるんですよね。特に髪の毛を乾かすことの煩わしさたるや。そこで、誰か(あわよくばイケメン)が髪の毛を乾かしてくれないかな、そういうサービスがあったらいいのにな〜という思いつきから出来た作品です☺️
美容師とは、客の髪の毛のカット、カラーリング、パーマ、セットなどの髪の毛のお手入れ全般の美容術を行う職業のことである。
親が美容師であるとか、髪型は常に坊主で自分でバリカンを使って髪の毛を剃るとかいう人以外、世の中の大半の人は美容室に行ったことがあるのではないだろうか。
オシャレに興味がない人でも、髪が伸びれば美容室でカットくらいはするだろう。そのため、美容師のメインの仕事はヘアカットだ。
では、カットができなくなった美容師に、存在価値はあるのだろうか?
カットができなくなった私に、生きている価値はあるのだろうか……?
果穂は彼氏いない歴=年齢のオタク女子だ。もちろん男性経験もない。三次元の男性に興味がないわけではないが、今まで良い機会に恵まれなかった。
仕事の昼休み。
「ねえ聞いてよ。彼氏ともう二週間もヤッてないんだけど。女の私にだってさあ、性欲はあるわけよ。でもこっちからあからさまには誘いにくいじゃん?どうしたらいいかな?」
お弁当を食べながらそう捲し立てるのは同期の真美だ。彼氏とは同棲して一年経つらしいが、最近不満が溜まっているようで、昼休みにはいつも彼氏の愚痴を言っている。恋愛経験のない果穂に聞かれてもわかるわけがなかったが、26歳にもなって全く恋愛経験がないとも言い出せず、いつも果穂は当たり障りのない返事をしていた。
「二週間はひどいね。せめて週一じゃない?うーん……シャンプーを変えてみるとかはどう?なんか、人って同じ匂いになると家族として認識しちゃうから、男と女って感じになりにくいらしいよ。」
これはネットで得た知識である。
「そうなの!?うち、節約のためとか言って彼氏とシャンプー、トリートメント、ボディソープ全部同じのにしてる……。今日早速新しいの買って帰るわ。さすが果穂!いつも愚痴ばっかでごめんね」
真美は少し申し訳なさそうに笑いながら、顔の前で軽く手を合わせる。
「いいっていいって!参考になったならよかった」
果穂はほっと胸を撫で下ろす。恋愛経験がなくても、一応それっぽいアドバイスができたようだ。
その日の定時過ぎ、真美はドラッグストアに寄って帰るからと普段より手早く帰り支度をし、去っていった。いつも愚痴は言っているものの、彼氏のためにこうやって必死になるくらいには真美は彼氏のことが好きなんだなと思うと、果穂は少し真美のことが羨ましくなった。
果穂には特に急いで帰る理由はないが、寄り道して帰る理由もなかったので、真っ直ぐ帰路についた。
帰宅後はお腹が空いていたので、休みの日にまとめて作っておいたおかずを温めて手早く晩御飯を済ませる。
そのあとはお風呂の時間だ。果穂はこの時間が大好きだ。お風呂に入る時はいつもその日の気分で入浴剤を選び、タブレットと水を持ち込み、2時間は半身浴をする。タブレットでアニメを見ていると、2時間なんてあっという間だった。
かといって果穂は特別美意識が高いわけではないので、お風呂から上がった後は、ドラックストアで一番安かったオールインワンクリームを塗るという必要最低限のスキンケアしかしない。その間もタブレットからはアニメが流れている。
そして1時間くらいダラダラしてようやく髪の毛を乾かす。ドライヤーをするとアニメの音声が聞こえなくなるので、キリのいいところまで見てから乾かそうと思っていると、いつもこうなってしまうのだ。
そしてその後はひたすらアニメの続きを見る。そうしているうちに寝落ちしてしまうまでが果穂のルーティンだった。
翌日の昼休み。
「聞いて聞いて!昨日お風呂上がったら、彼氏になんかいい匂いするって言われちゃってさあ。おいでって言って、髪の毛乾かしてくれたの!いつもはそんなことしてくれないから、久々にキュンキュンしちゃった!果穂のおかげだよ!ありがとう!」
昼休みに入るなり、真美が嬉しそうに報告してきた。少し頬を赤らめながら話すその姿はまさに恋する乙女で、同性の果穂から見ても可愛らしかった。
「そうなの!よかったじゃん!全然私のおかげなんかじゃないよ、真美が可愛いからだよ」
これは本心だった。嬉しそうな真美の様子を見ているとこちらまで嬉しくなり、顔がほころんだ。しかし、それと同時に羨ましいという気持ちも強くなった。
帰宅後、今日もいつものようにタブレットを持ち込み湯船に浸かる。真美からあんな話を聞かされたあとだったので、今日はなんとなく恋愛アニメを見たい気分だった。
主人公がひょんなことから意地悪な上司と一緒に住むことになるという、そこそこありきたりな話だ。4話に差し掛かると、意地悪な上司にも優しいところが見えてくる。
お風呂上がりに濡れた髪のままうとうとしている主人公を見かけた上司が、主人公の髪を乾かしてくれるという場面。主人公は実はすぐに目を覚ましているのだが、驚きとドキドキのあまりそのまま狸寝入りをする。すると、上司が主人公にキスをしてきて……!?という胸キュン展開だった。
「いいなあ……。」
そんな言葉が思わず口から出ていた。思えば、髪の毛を乾かすのは大変めんどくさいのだ。果穂はロングヘアだから尚更だ。他の誰かに、それもイケメンに髪を乾かしてもらえたら、どれだけ気分がいいだろう。
お風呂上がり、果穂はスマホで何気なく調べてみる。髪の毛を乾かしてくれるサービス、と入力して検索すると、上位二つには普通の美容室のホームページが出てきたものの、三番目にそれらしきサービスが出てきた。
「え、ほんとにあるんだそんなサービス……」
どうせ無いだろうと思って興味本位で調べた果穂は、それらしきサービスが存在していることに驚く。今はなんでもデリバリーできる時代だが、まさかこんなもの(人)までデリバリーできるとは……。
リンクをクリックすると、オシャレなホームページが表示される。『ブロー専門店 サロンMIA』というのが店名のようだ。メニューから、スタッフ紹介というところをクリックする。そこに表示されたのは、王子様のような美しい男性だった。
「すご、めっちゃイケメンじゃん……。イケメンというかもはや美人……」
ホームページには料金表なども載っていた。
毎日の利用となると安くはないが、たまのご褒美と考えると社会人なら普通に出せるであろうくらいの金額だった。普段の果穂ならそのままそっとホームページを閉じていたであろうが、昼休みの幸せそうな真美の顔が浮かんだことと、スタッフの男性があまりにもイケメンだったこと、そして——やはり果穂にも憧れがあったことから、思い切って予約画面へと進んだ。さすがに今日いきなり来てもらうのは果穂も心の準備ができていないので、明日金曜日の午後7時に予約を入れた。
予約をした後に気づいたが、注意事項に、スタッフが到着してからお風呂に入ってくださいと書いてある。
「え、なに、怪しくない……?お風呂に入っている間に何か盗まれたりしたらどうしよう……。てか襲われたらどうしよう……」
果穂は一気に不安になったが、注意事項にはキャンセルは前日の午後9時までにお願いしますと書いてあった。時計を見ると、時刻は午後10時だ。お風呂を上がってからすでに2時間も経っていた。
「え、やば!もうこんな時間!?」
まあ、いざとなれば居留守を使ったり、追い返したり、最悪の場合警察を呼んだりしよう……と物騒なことを考えながら、果穂は髪の毛を乾かした。
いつもよりも遅くなってしまったためか、今日は髪がパサついていた。
翌日の昼休み。
「彼氏、昨日も髪乾かしてくれたんだ〜。なんかもう、幸せ。ヤるとかヤらないとか、そんなのどうでもいいや」
真美は本当に幸せそうだった。彼氏に髪を乾かしてもらうことが、果たしてそんなに幸せなのだろうか?例のサービスに不安が無いでわけではなかったが、一方で、好奇心が湧いてくる。早く夜になってほしいような、なってほしくないような……。
果穂がどう思っていようが、毎日平等に夜はやってくる。やるべきことをこなしていたら、いつの間にか定時を迎えていた。真美は今日も足早に帰ったようだ。話し相手がいなくなった果穂も、自然と早く帰ることになる。
帰宅し、晩御飯を済ませる。今、午後6時45分だ。あと少しでスタッフが来る時間。あんなに美しい人、本当に存在するのだろうか?写真詐欺の可能性もあるな……。果穂が悶々としていると、時刻はまもなく午後7時になろうとしていた。
ピンポーン。
時刻ちょうどにインターホンが鳴った。果穂の家はオートロックではないものの、インターホンにはモニターがついている。女一人暮らし、家探しの時にセキュリティ面は重視した。モニターを見てみると、画面には写真と違わぬ男性が写っていた。写真詐欺の線はなさそうだ。こんなイケメンな人、実在するんだと果穂は感心する。
「は、はいっ」
画面越しに返事をする。
「サロンMIAの結城です」
男性は爽やかな笑顔でそう名乗った。
見た感じは悪い人ではなさそうだ。一応警戒しながらも、果穂はドアを開けた。
「こんばんは。サロンMIAの結城と申します。今日はよろしくお願いします」
キラキラという効果音がついていそうなほど、輝かしい笑顔だった。ま、眩しい……。
「あっ、はい、こちらこそよろしくお願いします」
果穂は同性も含めこんなに綺麗な人と話したことがなかったため、思わず緊張してしまう。
「ど、どうぞ、とりあえず上がってください」
果穂はリビングへと彼を案内すると、テーブルの上にお茶を置いた。
「そちらに座ってください」
果穂は向かいの席を指し、二人とも椅子に腰掛ける。
「そんなに緊張なさらないでください。いわば出張型美容室と考えていただければ結構です。まあ、カットやカラー、パーマはしないんですけどね。あ、一応美容師資格はちゃんと持っているのでご安心ください。」
ははっと彼は爽やかに笑う。その笑みはどこか自虐的にも見えた。
「では、簡単に当サロンの自己紹介をさせていただきます。ホームページでもご覧いただいたかもしれませんが、当サロンはブロー専門店です。簡単に言えば、髪の毛を乾かすだけの美容室です。もちろん、ただ乾かすだけではなく、トリートメントや、ご希望であればヘアセットもいたします。まあ、お風呂上がりにヘアセットを希望する方はあまりいないのですが」
彼は丁寧な口調で、わかりやすくサービス内容を説明してくれる。
「何か質問はございませんか?」
今のところ彼は良い人そうに見えるけれど、果穂には一つだけ引っかかることがあった。
「あ、あの、注意事項にスタッフが到着してからお風呂に入ってくださいと書いてあったと思うんですが、あれはどうしてでしょう……?」
彼はハッとした顔になる。
「ああ、申し訳ありません。ホームページでは説明不足でしたね。すぐに書き加えておきます。濡れた状態の髪の毛はキューティクルが剥がれやすくなっていて、痛みやすいんです。なので、お風呂から上がってすぐに髪の毛を乾かすことで、髪へのダメージを少なくできるんです。」
「キューティクル……聞いたことがあるようなないような……」
果穂が頭を張り巡らせていると、その点についても彼が補足してくれた。
「キューティクルというのは髪の一番外側にあるんですが、髪の毛を守る役割をしています。髪の毛の内側には水分があって、それを守っているんです。水分量が多い髪は、強くしなやかなんですよ」
なるほど……。果穂は美容についての知識は最低限しかないが、そんな果穂でも彼の説明は理解できた。ともかく、ちゃんとした理由があることは分かった。ここで彼が少しでもまごつこうものなら、果穂はキャンセル料を払ってでも帰ってもらおうと思っていた。
「なるほど、よくわかりました。そういうことだったんですね」
果穂のほっとした表情に彼は何かを悟ったのか、申し訳なさそうな顔になる。
「すみません、不安に思わせてしまいましたね。最近はリピーターのお客様が多かったもので……。でも、果穂さんのおかげでホームページの改善点がわかりました。ありがとうございます。」
不意に名前で呼ばれて果穂はドキッとしたが、そもそも果穂はフルネームを伝えていないのだ。予約の時に、住所とニックネームの入力は必須だったが、フルネームの入力は任意と書かれていたからだ。
「いえ、今の説明を聞いて安心しました。では、お風呂に入ってきますね。その間はテレビでも見ていてください」
「もし気になるようでしたら、外に出ていましょうか?」
「いえ、脱衣所には鍵もありますし、大丈夫です」
一応最低限の貴重品は脱衣所に持って行けば大丈夫だろう。それに、彼の言葉が本当であれば、リピーターもいるということだし、当初ほど警戒しなくても良さそうだ。
「わかりました。では、行ってらっしゃい」
ニコッと微笑まれてドキッとしながらも、果穂はそそくさと脱衣所へと向かった。
さすがにいつもほど長風呂は出来そうにないためタブレットは持ち込まなかったが、果穂は今日もお気に入りの入浴剤を湯船へと放り込んだ。香りに癒されながら、リラックスする。入浴剤を入れた湯はそうでない湯よりも少しとろみがあり、柔らかい。そんな湯が優しく肌を包み込むのが、気持ちよかった。
脱衣所で部屋着を着て、洗面所で最低限のスキンケアをすると、果穂は彼がいるリビングへと向かった。
「お風呂上がりました……」
その声に彼は振り向く。果穂がリビングを離れてから一時間近くが経っていたが、彼は一ミリも動いていないように思えた。
「お帰りなさい。頬が赤いですね」
ふふっと彼は笑う。頬が赤いのはお風呂上がりだからだろうが、果穂の恥ずかしさも少しは混じっている気がした。
「では、そちらに座っていただけますか?」
彼が空いている方の椅子を指したので、果穂はそこに腰掛ける。先ほど果穂が座っていた椅子だ。
「まずはタオルドライをさせていただきますね。髪の毛に触れても大丈夫ですか?」
こちらがそういうサービスを頼んだのだからダメというはずはないのだが、彼は律儀に断りを入れてくれる。
「はい、お願いします……」
果穂は恥ずかしさのあまり消えてしまいたくなったが、彼はそんな様子の果穂のことは見ていなかった。彼は椅子から立ち上がると大きなバッグの中からタオルを取り出し、果穂の後ろへと回る。
「では、失礼します」
彼がそう言うやいなや、タオルのふわっとした感触が果穂の頭を覆った。
「なんかこのタオル、めっちゃふわふわですね……⁉︎」
思わず感想が口をついてでる。
「よくお気づきで。実は、このタオルは特別なタオルなんです」
「特別なタオル?」
「このタオル、私が作ったんです。普通のタオルよりふんわりしているおかげで吸水力が高く、ごしごしせずとも優しく抑えるだけで髪の毛の水分を吸い取ってくれるので、髪や地肌への負担が少ないんです。」
「へえ、すごい……!」
確かに彼の言う通り、彼は果穂の髪の毛をごしごしと擦ることはなく、まるで撫でるように優しく触れていた。
「ほら、もうこんなに乾いているでしょう?」
果穂が髪の毛を触ると、あんなに優しく髪を撫でていただけなのに、髪の水分はしっかりとタオルが吸収しているようだった。
「ほんとだ!あの、そもそもの疑問なんですが、このあとドライヤーをするのに、なぜタオルドライが必要なんですか?」
「いい質問ですね」
彼の声はなんだか少し嬉しそうだ。
「髪の毛に強い熱ダメージが加わると、内部の繊維構造が変性したり、キューティクルが脱落してしまったりするんです。そうすると髪のうねりや枝毛、切れ毛につながったり、髪が乾燥してパサパサと固くなってしまったりするんです。まあ、適度に距離を離して、動かしながらドライヤーを当てれば大丈夫なんですけどね。どちらかというと、高温なヘアアイロンやコテの方が髪に与えるダメージは強いです。まあいずれにせよダメージは少ないに越したことはないので、きちんとタオルドライをすることで、ドライヤーを当てる時間を減らそうという感じです」
「なるほど……!」
難しい話をされた気がするが、彼がだいぶ噛み砕いて説明してくれたおかげか、なんとか果穂でも理解することができた。
「まあ長々と説明しましたが、単純に、髪の毛が濡れたままドライヤーを当てるよりは、しっかりとタオルドライをしてからドライヤーを当てる方が、乾くのが早いですしね」
実際には彼の表情は見えないが、ニコッとした彼の顔が脳裏に浮かぶ。ふと、私の髪に触れていた彼の手が止まる。
「さて、タオルドライはこの辺にしましょうか。」
そう言うと彼は、机の上にいつの間にか並べられていたスプレーボトルを手に取る。
「では、次はトリートメントをしていきますね。ウォータータイプのトリートメントで、髪に水分を与えていきます。」
そう言うと彼は、軽くブラッシングをしてから私の髪にプシュッとトリートメントをかけていく。彼はそれを軽く馴染ませると、次はポンプタイプのボトルを手に取った。
「次はミルクタイプのトリートメントです。こちらも髪に水分を与える役割をします」
彼はそれを2、3プッシュほど手に出すと、私の毛先を中心に馴染ませていった。
「はい、ではこれで下準備ができたので、ドライヤーをしていきますね。」
彼はそう言うとドライヤーをコンセントに刺し、電源を入れる。ドライヤーの風と彼の優しい手が、私の髪を撫でていく。
すご、私が普段使っているドライヤーの倍は風量あるじゃん……。これなら早く乾きそうだな。あ、これもドライヤーの時間を短縮することで髪のダメージが減るのかな……と、果穂は少しずつ髪の毛のことがわかってきた気がした。
いくら風量があるとはいえ、果穂はロングヘアなので、乾き切るまで15分くらいはかかるだろう。その間彼と話すこともできないので、果穂の意識は彼に触れられた部分の感覚に集中していた。
ああ……。真美の言っていたことが少し分かる気がする。
まるで大切なものに触れるように優しく触れる彼の手が心地いい。それは果穂が客だからに違いなく、彼氏にしてもらうのとは違うのだろうが、それを差し引いても果穂は果穂自身を大切にしてもらえている気がして、心がじんわりと暖かくなっていくのを感じていた。髪は女の命というのをどこかで聞いたことがあるが、彼の手は命を大切にしているようだった。
幸せだなあ。これが彼氏だったら、もっと幸せなんだろうなあ。だって彼氏って、自分が相手のことを好きで、相手も自分のことを好きなんでしょ?
果穂は気持ち良くて、目を瞑りながらそんなことをぐるぐると考えていた。途中で一度ドライヤーの音が止み、彼がヘアオイルをつけてくれたようで、果穂はいい香りに包まれる。それは果穂をさらに幸せな気分にした——。
「果穂さん、お疲れ様でした」
再びドライヤーの音が止み、頭上から彼の優しい声が降ってきた。果穂は少しぼーっとしてしまったが、気を取り直すと慌てて返事をした。
「あっ、ありがとうございますっ。なんだか心地よくて、少しぼーっとしちゃいました」
そう言って果穂が少し笑うと、彼もふふっと笑った。
「果穂さんの髪は柔らかくて綺麗ですね。水分量の多い、素敵な髪です。」
彼が優しくブラッシングしながら言う。果穂は異性にそのようなことを言われたのは初めてだったので、少しドギマギしながら答える。
「え、そんなこと言われたの初めてです……嬉しい、ありがとうございます」
「いえいえ。本当のことを言っただけですから」
それが彼の本心なのか営業トークなのかはわからないが、どちらにせよ果穂は嬉しかった。
それから彼は片付けを始め、果穂は料金を支払って彼を見送る。
「あの……今日はありがとうございました。正直言って勢いで予約して、怪しいサービスだったらどうしようって少し不安だったんですが……。髪の毛を乾かすっていう日常の一動作に過ぎないものを、人にしてもらうってだけで、なんか温かい気持ちっていうか、幸せな気持ちになりました。」
言い終わると同時に果穂は頭を下げる。
「いえいえそんな……。顔をあげてください。むしろ最初だけとはいえ、不安にさせてしまってすみませんでした。そう言っていただけて嬉しいです。今日は果穂さんの笑顔がたくさん見れて、こちらこそ幸せな気分にさせていただきました。今日はありがとうございました。」
「また、利用させてもらってもいいですか……?」
「ええ、またのご利用をお待ちしております」
そう言うと、彼は夜の闇へと消えていった。
果穂の髪は、いつもより潤っていた。
月曜日の昼休み。
「あれ、果穂、なんか幸せそうだね。表情が柔らかいっていうか、いつもより笑顔が多いっていうか……。さては、彼氏でもできた⁉︎」
「えっ!?ないない、彼氏なんていないよ!」
驚きのあまり、果穂は少し声を張り上げてしまった。周囲の目線が集まり、果穂は恥ずかしくなる。カアッと頬が熱くなるのを感じていると、突然後ろから声をかけられた。
「あっ、あの、僕たちも一緒にお昼いいかな……?」
声の方を見ると、そこに立っていたのは同期の男二人組だった。同期とはいえ部署も違うので、入社以来あまり関わることのなかった二人が、一体何の用だろうか。しかし、特に断る理由もなかったため、果穂たちは了承した。
真美と声をかけてこなかった方の男とが目配せをしながらニヤニヤしていることに、果穂は気づいていない。
彼らが果穂たちに声をかけてきた理由を果穂が知るのは、もっと後のことだ。
最後までお読みいただきありがとうございました!
感想やアドバイスをいただけると嬉しいです☺️
機会があればオムニバス形式で他の利用者について(サービスについての説明を省けるので、もっとストーリー性を持たせて)書いたり、結城がなぜカット出来なくなったのか?について過去を深掘りして書いたりしたいなぁと思います。