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天身供儀   作者: 伽椎
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湧水

その日、都の中心、大内裏の地下に密かに存在する円筒分水の中央から水が滲んだ。


枯れて久しい暗渠から響く慣れない導水音に、始め周囲をぐるりと見回していた水案内とは名ばかりの衛士はその音の出処が足元の暗闇から発していることに気づいた瞬間、中心から噴き上がった水流が己の足を濡らし始めたのを目にし、火急の知らせと部屋を駆け出た。

すでに多くの宮廷人が寝入った真夜中、わずかでも勘が利く者は寝台から起き上がり火を入れた燭台の灯りを頼りに外を伺っていた。


音を殺しながらも駆けてゆく大勢の足音が冷え切った石廊下に響く。

只事ではない何かが起こっている、いつ呼ばれてもいいよう、生活用井戸まで走る。地下水を汲む為につるべから紐を手にし籠を下ろそうとしたが、いつもは井戸の底まで降りるはずが手前で籠が止まり、ばちゃりと音を立てて衣の前身頃を濡らす。

そんなはずはない、干上がるのではと噂が絶えなかった井戸の水があふれ出してる。

小さな悲鳴を上げ、地面にへたり込む。しとどに水を含んだ衣がこれほど重いとまるで知らなかった。なんらかの兆しであることは間違いない。吉兆か凶兆か、それだけがわからないいまま、水は静かに地表を潤していった。


燭台の炎が揺らうに張り巡らされた五色の紙垂と鈴が風もないのに擦れ合い、鼓膜に芯を刺し込まれたような怜悧な浄音を立てるとともに、闇の中からおびただしい人数が紡ぎだすまじない言葉が空間そのものまで震わせている。

わずかな明かりすら差し込まない深い闇に閉ざされた空間を、どこから迷い込んだのか一匹の蝶がひらひらと舞っていた。

やがて燭台の炎に吸い込まれるように近づくと、一瞬の間に鮮やかな羽は炎に包まれる。

まるでそれは炎に捕り喰らわれるかのごとく、けれどいまわの際に甘美な官能を呼び起こしたのか蝶は地に墜ちることもなく、より妖しく漆黒をたゆたっていく。

炎が再び意思を持ったようにひそやかに揺れた。

炎に焼かれた羽が飛翔するたびに、静まりかえる闇のひとつひとつが映し出されていく。


不安定な光のもとで陰影が露わになり、面をかけた四つの立ち姿が御簾越しに映えては消えた。

蝶が羽ばたくごとに燭台に小さな火がひとつ灯り、またひとつ灯る。豪奢だが色彩のない装束は闇に溶け、白式尉、黒式尉、中将、小面、それぞれの名を持つ面貌だけが白く浮き立ち、恐れに似た威厳を放っていた。彼等の足元には同様の装束に身を包んだ脇侍が控え、息を潜めている。

その内の最も闇に溶け込んだ者の眼前で、炎に巻かれた蝶は触手に採って食われるかのように水流に飲み込まれてかすかな塵だけを残した水面がうず高く巻き上がった。

その瞬間を待っていたとばかりに朽ちていく最後の灯火が、黒式尉の神懸かった神の面を照らした時、壇上の中央に明かりが灯り御簾と御簾に隠れた人の影が現れ、それをきっかけにして覆い尽くされた喧騒はこときれた。


「一天四海、三柱の神に問う。天がたなごころに抱くは徳・智・正いずれの器か」

「天が抱くは八咫鏡、玲瓏な清き心」

「天が抱くは八尺瓊勾玉、導きの智恵」

「天が抱くは徳と智の器、天のたなごころは移ろいやすき正の剣を持つべきにあらず」


ごうごうという水音を立て中空に立ち昇った水柱の中心に、一枚の紙垂が千切れ落ちた。

御簾越しに四つの人影が声を上げる。手にした刀を床に打ち付ける度に水流が盛り上がり、目を疑わざるを得ない速度で紙垂が溶け消えたと同時に白い骨片が生まれ出でて人の形を成していく。眼球が生まれ、血管が張り巡らされ、その上を受肉していく。本来ならば胎児の身体として形成されていくはずの肉体は、成長の速度を矛盾させて成人と変わらない大きさまで育った。


うつむいていた顔を上げると水中に揺蕩う髪が舞い上がる。

渦巻く水面の中心に、人間が降り立つ。髪の隙間から二つのが四人を睥睨すると、御簾がふうわりと持ち上がり面があらわになる。

面で四人の表情はわからないはずなのに、無を言わさぬ剣呑さをひしと感じさせた。敵意と言っても過言ではないのではとさえ思う。

目の前の存在に対し、怯む素振りもなく口を開いた。


「そなたの血は多くの血を吸い、すでに穢れた。剣は穢れた野心に呼び起こされる」

「悪しき心に従い災いを招くこと、まかり通らぬ」


白式尉に次いで小面が声を上げる。


しとどに濡れた肉体から出でる声音は陰陽のどちらにもつかない。生まれながらに威厳が備わっていた。


「ならば私の足元を染めるおびただしい血の一滴となれ」


四人がやにわに立ち上がり手にした刀を中心の存在に向ける。


「我らが在る限り、その言葉まかり通らせぬ」

さもおかしいとばかりの笑い声が響いた。刀を構える金属音とまじない言葉が紡がれ始め、喧騒が再び上がる。


「呼子栄朽湧水より生まれしこの時より、御世は私とひとつになった。一夜の終わりに千の御霊を喰らい、一夜の始まりに千と五百の新御霊を産むだろう」


呼子栄朽湧水は大内裏の奥に存在しながら秘匿された枯れた泉の名。

時に国を覆うほど豊富な水が湧き出し、民に富と繁栄を授けるという。

泉が湧くのは数十年の時もあれば、数百、数千年も枯渇したまま。

しかしひとたび湧いたその時は、必ず御世の為政者が変わる。

果たしてそれは人か神か。


構えていた刀を掲げなおし、あふれ出た水が己の足先を濡らすのも気にせず、泉の中央に立つ人物に向け、四人は御を破り抜かん声を上げた。


「人に遠く神に近きヒトカタ、いまだ此の世の理に遠く、言霊は堅き縁にてあまねく混沌を滅す」

「国造りの御世より語られし言霊、天の因果によりて我ら四海の業となる」

「東海将軍アララギ」

「西海将軍インイツ」

「南海将軍バイコウ」

「北海将軍サヌキ」

「四海将軍、天に等しき大王のたなごころに神の剣をおさめん」


国の為政者が譲位した。

耳にした者の動揺を誘う鶏鳴が夜明けを告げ、大内裏を連ねる空に響き渡った。


つづく





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