07. 逃げる
私は何でこの世界に来たのだろう?
何で言葉がわからないのだろう?
聖女じゃないのにこんなに必死に勉強をしているのはなぜ?
誰のために?
何のために?
ミサキがグッと手を握ると手はジンジンと痛みが増した。
ミサキは汚れたワンピースを脱ぎ、この世界に来た時、着ていたパーカーとズボンに変えた。
靴もスニーカーに履き替える。
ミサキが扉を開けると心配そうなニックと目が合った。
『さっきの場所に行きたいの』
ミサキが窓の外を指差すと、ニックが首を横に振った。
お願いポーズをするミサキ。
何も落とし物はしていないが、下に落としたから探したいのとジェスチャーするとニックはメモにサラサラと何かを書き、ドアの下に差し込んだ。
ナタリー宛なのかな?
行ってきますみたいなことが書いてあるのだろうか?
『参りましょう』
案内してくれるニックの後に続いて豪華な廊下を歩く。
一階まで降りるとレオナルドと一緒にいたキレイな女性とすれ違った。
『ダサい田舎娘がウロウロと。迷惑だわ』
キャサリンは扇で口元を隠しながら呟く。
何と言われているかわからないけれど悪口だろう。
ミサキは聞こえていないフリをして通り過ぎた。
眉間にシワを寄せるニック。
王子の婚約者はキレイな人だと思っていたが、あんなことを言う女性だったなんて。
だが騎士は文句を言うことができない。
ニックが言えばミサキの責任になってしまうからだ。
ニックがギュッと拳を握ると、気づいたミサキがそっと手に触れた。
「ありがとう、ニック」
私のために怒ってくれてありがとう。
『申し訳ありません。頼りにならなくて申し訳ありません』
悔しそうなニック。
ニックもナタリーも優しくていい人だ。
そんな二人を今から裏切ろうとしている。
罪悪感がよぎったが、もうここでの勉強は限界だった。
聖女じゃないからここにいる理由もないし、誰にも必要とされていないだろう。
ミサキは噴水からルククの木まで何かを探しているフリをする。
ペンダントを無くしたと嘘のジェスチャーをするとニックも一緒に探してくれた。
ニックは噴水の近く、ミサキはルククの木の下。
落ちているルククの実を集め、ミサキはそっと紙を置いた。
部屋で書いたナタリー宛の手紙だ。
書ける単語のみで精一杯書いたが通じるだろうか?
ミサキは探すフリをして木の裏側に入った。
ニックから姿は見えない。
ミサキはダッシュで薔薇の横を通り抜け奥へと進んだ。
部屋から庭は見た。
噴水の向こうに薔薇、その向こうに花壇が広がり、その向こうは門だ。
不思議な格好のミサキを見た門番が止めようとするがミサキは当たり前の顔をして通り過ぎた。
「黒髪の女性を見ませんでしたか?」
息を切らせながらニックが門番に尋ねる。
「あぁ、さっき通ったよ。変な格好の小さい子」
「どっちに行きましたか?」
「いや、わからないなぁ」
ニックはルククの木の下にあった紙を手に持ちながら眉間にシワを寄せた。
「どうして相談してくださらなかったのですか!」
ニックは急いで引き返し、ナタリーの元へ向かった。
――ありがとう ナタリ ニク さようなら レオナルド。
ニクになっているがニックと書いたつもりなのだろう。
ニックはナタリーに手紙を渡すとすぐに街に飛び出した。
「……ミサキ様」
震える手で手紙を持ちながらナタリーは補佐官チャールズの元へ。
数分前に怪我をしたと報告に来たばかりなのにまた現れたナタリーに補佐官チャールズは溜息をついた。
「今度はどうしましたか?」
「……ました」
「え?」
「ミサキ様がいなくなりました」
「は?」
手紙を広げて目を見開くチャールズ。
いつも冷静な彼らしくない声だ。
「原因は先ほどの庭園ですか?」
「おそらく」
この三週間文句も言わずに真面目に勉強していたミサキ。
レオナルドが別の女性と歩いているのがショックだったのだろう。
「レオナルド様はミサキ様とも結婚するとおっしゃっていたのに」
逃げなくてもと言うチャールズにナタリーは首を横に振った。
「言葉が通じない場所へ来て不安なのに、優しくしてくれた男性が他の女性と恋仲では驚くのは当然です」
食事のマナーさえ知らなかったミサキが王族は複数の女性と結婚すると知っていたとは思えない。
『ダサい田舎娘がウロウロと迷惑だわ』
キャサリン様に言われたとニックが言っていたと報告するとチャールズはまさかと驚いた。
「本当にキャサリン様が?」
「今だから言わせて頂きますがキャサリン様は侍女の中では評判がよくありません」
王子レオナルドの前では完璧な淑女のキャサリンは女性だけになった瞬間、当たり散らすのだ。
熱い紅茶をかけられた侍女は何人もいるし、淹れ直しは当たり前。
キャサリンが王子妃になったらここを辞めるという侍女は多い。
「騎士を数人、あぁ、彼女の顔がわからないから探せませんね」
困ったというチャールズにナタリーは自分が探しに行くと名乗り出た。
言葉も通じないのに街なんて危険すぎる。
お金も持っていないので食べることも何処かに泊まることもできない。
「無事でいてください」
ナタリーは侍女のお仕着せから私服に着替えると急いで裏口から街へ向かった。