貴女の事、嫌いじゃないの
公爵家、グレゴリー邸。
そこに子爵令嬢であるレイン・マリミオンは呼び出されていた。
子爵、といっても正直名ばかりの貴族。ただ歴史だけがあって、金も領地もロクに無い。このままではマリミオンの家が絶えるのは時間の問題だろうとも思っていた。だからこそレインは、家を存続させるため日々奮闘していたわけなのだが。
手っ取り早いのはやはり金と権力がある男を捕まえる事だ。
だがしかし、その結果レインはやり方を間違えた。
焦るあまり、さながら強行突破のような真似をしてしまった自覚はある。
悪あがきとばかりに逃げ出してしまおうかとも思ったけれど、それをやれば自分のみならず家そのものが潰されてしまう可能性は圧倒的に高かった。
途中までは上手く言っていたのに……やはり焦りは過ちを生み出す。気付いたところで今更だった。
どうにか罰は自分だけで済むようにしたい。
家族にだけはどうか、どうか。
そんな悲壮な決意でもって、レインは案内された一室の、やたらと座り心地の良い椅子に腰を下ろした。
レインがやらかしたのは、どうにか高位貴族の目に留まって家に援助をしてもらえないかと画策した事だ。
この際愛人でもいい。そりゃあ勿論、正妻であればなおの事。だが高位貴族相手に子爵令嬢が正式な妻となるのは難しい事もレインはよく理解していた。
常に家計は火の車。金だけある商人の元へ嫁ぐことも考えたけれど、最悪それは家を乗っ取られる恐れがあった。だからこそレインはあくまでも相手は貴族の中から見繕っていたのだが。
最初は、王子の側近である令息へと目を向けたのだ。
うまい事近づいて、それなりにいい関係になりそうではあった。
しかしそこに王子が目を付けたのである。
気付けば、王子の寵愛を受けている令嬢、として大っぴらとまではいかずとも、公然の秘密、くらいの認識が広まってしまった。
レインが最初近づいた相手はまだ婚約者がいなかった。
だがしかし王子には婚約者がいる。
将来的にこの国の王妃、国母となる令嬢。
公爵令嬢アマリリスである。
勿論、婚約者がいる身であるのだから、そんな相手から王子を奪ってやろうだなんて大それた事は考えてもいなかった。
いなかったけれど、こうまで周知の事実として噂や事実が広まりすぎた以上、引き返すわけにもいかなくなってしまった。どうにか穏便に事を解決したい。
レインは純粋に家を持ち直したいだけなので。
とはいえ相手は王子で、こちらがぞんざいな扱いをするわけにもいかない。失礼のない範囲で接しているうちに、気付けば相手から外堀を埋められていたと言ってもいい。
王子はレインと比べると一枚も二枚も上手であった。
まぁそりゃそうだろう。将来はこの国の王となる人物だ。子爵家の令嬢ごときに転がされるようなちょろい人間であるはずがない。
それでなくとも、教育からして王族と子爵家の令嬢とでは比べるべくもない。
向こうはそれこそ一般的なものから、将来的に国を治めるにあたっての人心掌握だとかそういったものも学んでいる。
礼儀作法とダンス、その他細々とした事を学んだだけの令嬢を囲い込む事など、それこそ花を手折るくらい容易い事に違いないのだ。
だが、いくら王子がやらかしたとはいえ、アマリリスからすればそんな事はどうでもよいと言い切れるもので。
実際がどうであれ、自分という婚約者がいる男に近づいた事実は消える事はない。
椅子に座り、ぎゅっと両手を握り締め俯いてじっと待つ。
そうして少しもしないうちに、自分を呼び出した人物がその部屋へやってきた。
「――単刀直入に聞きますわね。貴女、ケルヴィン様の事はどうお思いで?」
貴族としてありがちな挨拶も何もかもをすっ飛ばしそう言ったアマリリスに、レインは思わずきょとんとした表情を浮かべてしまった。
「え、そ、その、とても素晴らしい方だと……」
カッコイイだとか、素敵だとか。そういった恋愛感情を思い起こさせるような言葉は出なかった。
確かに、素敵な人ではあるのだろう。容姿端麗という言葉は彼のためにあるのではないか、と思えるし、見た目だけではなく才能もある。彼が将来的にこの国の王となるのであれば、国は安泰だろうと誰もが言っているし、実際レインもそう思っている。
そう、だからこそ、そんな素晴らしい相手が自分を、というのはそれだけでまるで何か夢物語のようなふわふわとした感覚になって、正直に言えば一瞬とはいえレインも夢を見たのだ。
そんな王子に選ばれて、自分が王妃となる――そんな夢を。
だがしかしレインは貴族令嬢として生まれてから今の今まで生きてきた。
王妃となる人物が、ただ可愛らしいだけでやっていけるはずがない。王を支え、王の隣に立ち、国を支え――考えただけで重圧である。
市井で人気の恋愛小説などは、身分の低い男爵令嬢だとか元平民が王子に見初められ国の妃になってめでたしめでたし、という物も多く溢れているが、実際問題そうなればただでさえ重圧である王にのしかかるものは更に増える。王子の能力如何によっては最悪国が傾くどころか滅ぶ事も有り得てしまう。
好きな人と毎日幸せに暮らす、というのはそりゃあ、夢見る乙女からすればなんて素敵な事だろうと思えるけれど。現実を直視する冷静さが仕事をすれば王子と恋愛だけしていればいいなんて事、あるはずがない。
レインは自分から見た王子の素晴らしさを讃えながらも、しかし決してケルヴィンとアマリリスの間に割り込むつもりなどはなかったのだと弁明する。
そんな必死なレインの言葉を、アマリリスはにこにこと微笑んだまま聞いていた。逆にその笑みが怖い。
「ちなみにわたくしはケルヴィン様の事は頭のねじが外れたクレイジーサイコ野郎だと思っておりますわ」
「……え? え?」
天からやってきた天使というものはきっとこんな素敵な笑みを浮かべているに違いない、と思えるくらいに素敵な微笑みで、今この人なんてった? レインは理解が追いつくまでに若干の時間を要した。
いやあの、ケルヴィン王子は眉目秀麗文武両道、おおよそ非の打ち所がない人だと思うのだけれど。
しかしアマリリスの口から出てきた言葉はそれとはかけ離れていたような。
「貴女の思う部分もあってはいるのよ、実際あの方は優秀だわ。それこそ、例え妃が身分の低い女であっても、そんな妃の助けを必要としない程度には」
にこ、と微笑んだまま言うアマリリスの言葉をレインもまた、そうかも……と思ってしまった。
なんというか優秀なのは当然なのだが、優秀すぎる。人間なのだから欠点の一つくらい目についたっておかしくはないはずなのに、ケルヴィンは誰もが想像するような理想の王子様、というものをまるで具現化させたかのようだった。
多くの令嬢が一度はケルヴィンに恋のようなときめきを感じた事があるかもしれない。けれども、ケルヴィンの隣にはアマリリスがいる。彼女が王子に相応しくない、と思えるような令嬢であれば自分こそが! と奮起する者もいただろう。けれども、二人はとてもお似合いなのだ。
だからこそ、レインはどうして自分が王子に寵愛されるような状況になりかけているのだろう、という思いで一杯だった。主に恐怖で。
身分の低い令嬢。
何か困った雰囲気でも感じ取ったのか、あの王子様は色々と相談に乗ってくださった。とはいえ、お金と権力欲しさにいい感じの結婚相手を見つけたいんです、なんて言えるはずもない。欲望駄々洩れにも程があるし、ましてやそんな願い事を気心の知れた友人とほんの冗談交じりに語りあうならまだしも、この国の王子、それも将来は国王となるのが確定している身の相手に言えるはずないではないか。
なんていうか、所詮金目当てか……みたいな目を向けられる事を想像しただけで「あぁっ、違うんです!」と言いたくなる。レインとしてはとても我儘な望みではあるが、金も権力もありつつついでに自分も好きになれそうな相手が理想なのだ。金と権力だけが目当てで、正直誰でもいい、とかならそれこそ相手はそれなりにいる。とはいえ、そういう相手は大抵評判がよろしくないのだが。
だからこそ、王子の側近だったトマスに近づいたはずなのに。
「あの、えっと……?」
ちょっと現実逃避がてら今までの事を思い返していたが、そういう場合でもないなと思いレインはとても勇気を振り絞った。
今、ケルヴィン様の事アマリリス様なんておっしゃった? クレイジーサイコ野郎? えっ、あの、それ、貴女の婚約者の事ですよね??
「それで今日呼び出した件なのだけれど」
「あ、あのぅ……?」
何かあまりにもさらっと話を本筋に戻されたような気がしたけれど、違う。そうじゃない。
色々と突っ込みたい気持ちはあれど、しかし相手の身分が上すぎて気持ちの赴くままに突っ込めば不敬であるのは言うまでもない。まって、置いてかないでアマリリス様。物理的にはとても近い距離にいるはずなのに、精神的な距離が離れすぎててどうしようもない。
「貴女、ケルヴィン様とくっつく予定なのかしら?」
「いえそんな滅相もないッ!!」
人の婚約者に近づかないで下さる? だとか牽制を兼ねて言われる事は想像していた。けれども、そんな剣呑さを含んだ様子も一切なく、それどころか、
「ほら見て、あの木の枝に可愛らしい小鳥がとまっているわ」
とでも言いそうなくらい口調も表情も軽やかで。それが余計に恐怖しかない。
いっそ人の婚約者に近づくだなんて貴女、一体どういう教育を受けていらしたの? とか言われた方が余程マシだった。
「あら、そうなの? 正妃は無理でも側妃だとか愛人だとか、そういうのも狙っていない、という事?」
「えっ……」
近づく女皆敵、くらいのやつなのかと思いきや、アマリリスがあまりにもさらっとそんな事を言うものだから。
レインは思わず動きを止めてしまった。
えっ、もしかして、そういうの平気なんですか……?
自分が正妃であるなら別に何人愛人がいようとかまわないとか言っちゃう……?
流石に公爵令嬢を押しのけてまで自分が正妃に、なんて思っちゃいないがそれでも、愛人であるならば……とレインはちょっとだけ揺らいでしまった。
だって国王の愛人ともなれば、なんていうか後ろ盾と言っていいかはさておきこれ以上ないのでは……?
金と権力持ってても女癖が悪いだとかその他諸々の評判最悪な、それこそ自分の父親よりも年上の男のところに嫁ぐよりは、王子の愛人とかむしろとんでもなく好条件なのでは……?
そんな風に一瞬でも思ってしまったのは確かだ。
いや流石にない、と思っている。いるけれど、それはそれでちょっと揺らいでしまうのも仕方のない事だった。
そんな気持ちの揺れを感じ取ったのだろう。アマリリスの表情が曇る。
とはいえ、それはやっぱりアンタ王子狙いなんじゃないこの泥棒猫ッ!! というような憤怒を呼び起こすようなものではなく、決して開けてはいけないと言われている開かずの扉を開けようとしている子を見つけてしまったかのような――
「はっ、いや、あの、すいませんちょっと一瞬夢を見ました」
私が最初に近づいたのはトマス! そう心に言い聞かせとにかく違うんですとばかりにレインは首を横に振った。令嬢にあるまじきリアクションの大きさで。
「夢、ねぇ。ねぇレイン、さっきはケルヴィン様について聞いたけど、貴女、わたくしの事はどう思って?」
「ひょぇっ!? ど、どど、どう、って……!?」
言ってる意味が理解できず、思わず声が裏返った。
「どう、って、淑女のお手本といえば、って言われたらアマリリス様が真っ先に浮かぶ感じですかね……王子様ともお似合いですし、未来の国母がアマリリス様ならとても安心できます」
「まぁ、そう思ってくれているのね、嬉しいわ」
にっこり、という音が聞こえてきそうな程の笑み。貼り付けたようなものではなかった。
何というか、思っているよりも友好的な態度だからか、それが余計にレインには理解できなかった。悪い虫が近づいてきた、みたいな態度をとられた方が余程わかりやすい。
今は穏やかに微笑んでさえいるが、これがいつ豹変するかと考えただけでも恐ろしい。豹変すると決まったわけではないが、しないと断言できないのもまた事実だ。
「わたくしもね、貴女の事は好ましいと思っているわ」
「えっ……」
そう言われて、するりとアマリリスの手がレインの手を取った。そっと優しく、まるで宝物を扱うかのような手つきで手を取られたレインは何が起きたかさっぱりわからない。というか、確かに対面していたけれど、いつアマリリスは自分の隣に来たのだろうか、というくらいその動きは静かで、それでいて自然すぎた。
隣にいるアマリリスからふわりと甘い匂いがする。頭の芯からくらくらするような、というようなものではない。まるで春の野に降り立った時のような、花と、爽やかな風に匂いをつけたらきっとこんな感じなんだろうなと思えるような、思い切り深呼吸したくなるような香りだった。
流石にこの場でやったらアマリリスの反応が恐ろしいのでしないけど。
「ねぇ、レイン」
「ひゃっ、はい、なんでしょう……!?」
いい匂いするし取られた手から感じるアマリリスの手の感触があまりにも心地よすぎて、レインはどういう態度をとるのが正しいのかすっかりわからなくなって、情けないくらいに裏返った声が出た。
場が場であるのなら、この態度はよろしくない。礼儀作法という点において、もし他の者に見られたら間違いなく顔を顰められてもおかしくないものだ。
けれどもアマリリスはそんなことは気にする風でもなく、どころかくすりと微笑ましいものを見るような眼差しをレインに向けたのである。
「貴女、わたくしの傍仕えになるつもりはあって?」
「ひぇっ!?」
とんでもないお誘いだった。
てっきりわたくしの婚約者に近づかないでこの泥棒猫とかそういう言葉がくるものだと思っていたのに、しかし実際は傍仕えの誘い。一体これは何の罠なのだ……!? と困惑するのも仕方のない事だった。
「実を言うとね、わたくし貴女の事を調べたの。家の状況が苦しくて、どうにかしようと思っていたのよね?」
「は、はい……」
そうだ、だからもし王子に不用意に近づいたことで罰せられるとしても、それは自分だけで家まではどうか、と懇願するつもりでもあったのだ。
あったのだけれど、何か気付いたらレインの思っていた展開から大きく外れすぎていて、それを口に出す機会もなかったけれど。
「それでトマスに近づいた。そうね、彼にはまだ婚約者がいないし、家柄も血筋も本人の能力も貴女からすれば充分すぎるほどだものね」
「はい……」
あっ、一応最初にトマスに接近していた事もわかっているのね、だから泥棒猫とまでは言われなかったのかしら、と内心でちょっとだけ安堵したもののだからといって何もかもを安心していい状況ではない。
「そこをあのクレイジーサイコクソ野郎に目をつけられた……と」
「えっ、あの!?」
ちょっと待って!?
さっきケルヴィン様の事クレイジーサイコ野郎って言ってたのに今そこにさらにクソっていう淑女の口から出ていい言葉じゃない単語が追加されませんでしたか!?
突っ込みたい。とても突っ込みたいけれど相手の身分と自分の身分を考えると気軽に「ちょいまち」なんてノリで突っ込めない。
というかあの、婚約者ですよねケルヴィン様。自分の婚約者そんな呼び方していいんですか……? と切実に問いたい。
「一応確認しますけど、まだ告白のようなものはされていませんね?」
「はい、それはないです」
えっ、アマリリス様の言い方だとまるでそのうちケルヴィン様が自分に告白するみたいな受け取り方できるんですけれど……えっ……!?
「されても絶対頷いては駄目よ」
「流石にそれはわかっております」
まさか正妃にとか言い出す事はないだろうから側妃か妾か愛人のいずれかになるとは思うけれど、それにしたって荷が重い。さっきちらっと夢を見るような感じになったとはいえ、それだって一瞬の気の迷いだ。
いやでもどうだろう。
もしケルヴィン様と二人きりになって雰囲気満点な状態で愛を囁かれでもしたら……
正直クラッとしちゃうしぽーっとなってその場の勢いで頷くかもしれない。
密着した事まではないけれど、それでも王子が近くにいる時ちょっといい匂いがするし。
もし抱きしめられでもしたら視覚聴覚嗅覚で王子の存在目一杯感じちゃってわけがわからないうちに相手の言い分はいはい聞くかもしれない怖れはたっぷりあった。
そんなレインの考えを読み取ったのか、アマリリスは不安だわ……と小さく呟いた。
うん、弁えているつもりではいるんだけど、それでも雰囲気に呑まれるって事は有り得るし絶対大丈夫! って言いきれない。レインも自分の事を客観的に考えるととても不安になってきた。
「そうね、貴女は知らないものね。仕方ないのかもしれないわ……貴女、この後時間はあって?」
「え? あ、はい。あります」
むしろ最悪今日が自分の命日だとすら思っていたので、この後の予定とか一切入れていなかった。
「そう、ならば城へ行きましょうか」
「えっ?」
「あのクレイジーサイコパスゴミクソ野郎の真の姿を見れば百年の恋も冷めようというもの。知ったうえで尚選ぶなら諦めも尽きますが、わたくし先程も言いましたが、貴女の事は嫌いではありません」
言いながらするり、とアマリリスの手がレインの手の甲を撫でるように移動した。
ひゃわわ、アマリリス様の手、とんでもなくすべすべぇ……なんて思う間もなく立ち上がるように促され、そうして二人は手に手をとって部屋を出る事となる。
あまりにも自然なエスコートに、あれ? アマリリス様は王子様だった……? と脳みそが危うく誤認するところであった。
いやまって?
何かさっきよりケルヴィン様に対する言い草悪化してなかった?
なんて気付いたのは、城に着いてからだった。
「あ、あの、アマリリス様?」
「なぁに? 大丈夫よ、今日ケルヴィン様は公務で城にいないから」
「いえ、そういう事ではなくてですね……」
城に来た事がないわけじゃない。
けれども、それは式典だとかパーティーだとかで開放されている部分までであって。
しかし今アマリリスに連れられて歩いているのは、更に奥、一介の子爵令嬢が立ち入って許されるような場所じゃないのは明らかだ。
だというのにアマリリスは気にした様子もなくレインの手を取りながらも歩いている。それはまるで迷子を先導するような足取りだった。実際、ここでアマリリスとはぐれたならレインはあっという間に迷子になってしまうだろう。迷子、で済めばいいが曲者と断じられれば命はないかもしれない。
不安になって思わずきゅっと手に力がこもる。アマリリスの手をしっかりと掴む結果になって、アマリリスからは「ふふ」と微笑ましいものを見るような目と笑みがこぼれた。
「大丈夫、わたくしがついているわ」
ここに連れてきたのも貴女でしょうに、とは流石に言えないが、まぁ、ここでレインを何か酷い目に遭わそうとかそういうつもりはないのだろう。とりあえず何かあってもアマリリスがいるならどうにかなる。不安もあるが同時に同じだけの安心感も存在していた。
そうしてアマリリスに連れられてきた場所は、どうやらケルヴィンの部屋のようだった。
えっ、勝手に入っちゃっていいんですか!? と声を上げそうになるが、アマリリスが口元に指をあて「しー」と幼子に言い聞かせるようにしたせいで、レインは出そうとしていた言葉を飲み込んだ。
王子の部屋は、特に何かおかしなものがあるわけでもなかった。
なんていうか想像していたとおり、とでも言おうか。レインの家の調度品とは比べ物にならないくらいお値段するんだろうな、と思えるものの、しかし決して派手だとかでもなく落ち着いた感じである。
それはまるで、ケルヴィンの人柄を表すようでもあった。
わぁ、流石は王子様、自室も気品たっぷりね、なんて思っていたのも束の間。アマリリスはレインから手を放すことなく室内に入り込み、そうして奥へと進み壁を三度叩く。
すると――
ゴ……と僅かではあるが重い音を立てて壁がスライドし、更に奥に空間があるのが窺えた。
「隠し部屋……?」
少しは驚いたけれど、かといって「えぇーッ!?」という程の驚きはない。
賊が侵入することは滅多になくとも例えば戦争だとかで他国の敵が攻めてきた時に、隠し通路から安全な場所へ脱出だとか、そういう事があってもおかしくはない。それに、そういった話をレインだって物語で読んだ事がある。
どちらかというと、えっ、あの、これ私が知っていい情報ですか……? という気分が大きい。
アマリリスが手を引いて移動するので、レインもその後に続く。
そうして踏み入ったそこは、逃げるための隠し通路に繋がっているとかではなく単純に隠し部屋だったらしい。
とはいえ、暢気に室内を眺める程の余裕はこの時点でレインになかった。
「……ね? クレイジーサイコパスゴミクソ野郎でしょう?」
「あの、アマリリス様、ここは」
「ケルヴィン様のプライベートルームですわ。どちらかといえばコレクションルームというべきかしら」
「ひっ……」
正直これを見て平然としているアマリリスにも恐怖を覚えたが、レインはどうにか叫ぶのを堪える。
隠し部屋になっている時点で、大っぴらに晒せるものではない、と本人も理解しているのだろう。
室内にはずらりと並んだ大小さまざまな瓶。
瓶の中には、女のものだろう手や足、眼球などが入っている。それ以外の部位もいくつか。
保存液が満たされた瓶の中身が全て女のものだとわかったのは、いずれもその形が華奢であるからだ。眼球はさておき。もしかしたらまだ成長期を迎える前の男性のものもあるかもしれないが、男性も混じっていると言われたとしても何も安心できない。
部品ごとに並べられているそれらは、まるでよくできた模型だと言われればきっとレインはそうなのねと自分に言い聞かせたかもしれない。が、どう見ても作り物ではなく人間のものであった。
「以前、婚約をして間もない頃にまだ入り込む隙があると思った令嬢がいましたの。それがあちらの眼球ですわ。お可哀そうに、あの男に近づいて、まんまと甘言に乗せられてまるで自分の意思で差し出したかのようでしたが、あれは言葉巧みに騙されたのです」
「ひぃ……」
「一応無理強いはさせていないようですが、しかしあのクソ野郎口だけはやたら上手いので雰囲気に流されてしまえば最後、文字通りその身を捧げる事に」
仮にも王子に対してクソ野郎はいかがなものかと思うのだが、しかしそう言われても仕方ないのでは、とも思えてきた。正直さっきまでそのボロクソ言ってる相手、貴女の将来の旦那ですよね? と言いたくて仕方がなかったが、これはそう言っても仕方がない――と納得してしまった。
「令嬢以外にも被害に遭った方はいるようなのですが……お互い合意の上なのでわたくしが口を挟むわけにもいかず……えぇ、いくら場の雰囲気に流されたとはいえ、本人が是と頷いてしまえば……ね?」
レインの人生で未だかつてない程に「ね?」という言葉に恐怖を覚えた事はなかった。
ね? じゃないんですよ、ね、じゃ。そう言いたい。でも怖すぎて声が出ない。
というかだ。
あのまさに素敵な王子様といった感じのケルヴィン様がまさかこんなおっそろしい趣味をお持ちだったとは……!
常に優しく、だがしかし時として厳しくといった、いかにも国の施政者然としているケルヴィンだ。レインだって身分があるとはいえ、あの方の言っている事に間違いはない、と思えるような……いやまって? もしかしなくても、私、王子様に狙われていた? このコレクション候補として?
「わたくし思うのですが。あのウジ虫クソ野郎、王子じゃなければ詐欺師にでもなっていたんじゃないかしら」
いやあの、その呼び名……と言いたいがなんていうかこう、全否定もできない。
あと、なんて言うか詐欺師とかとても説得力がありそうだなと思えてしまってこれもまた否定できなかった。
だってそうなのだ。王子と話しているとなんて言うかどんな事でも説得力がありすぎた。
今になって思い返してみれば、どうしてあの時……と思うような事もあるにはあるのだが、話をしていた時はそれを妙だな、なんて思う事すらなかったのだ。見事に丸め込まれている。
「あの、あまり聞きたくはないんですけれど。もし、私がケルヴィン様のコレクションに狙われていたとしてですよ?」
「もし、も何も狙われてますわよ」
「そこ確信ほしくなかったですぅうう! もしも、の話にしておいて下さいよぅ!」
「仕方ありませんわね……」
容赦なく現実を突き付けてくるアマリリスに、レインは失礼を承知で頼み込んだ。頼み事するにしてももっとどうにかならんのか、という内容ではあったがとりあえず今は心の平穏が欲しい。
「もし、コレクションになったとして、そしたら私、どうなっちゃうんです?」
「どう、とは?
あぁ、いえ、わかりました。そうですわね……まず、レインは死にます」
「ひゅぐぅっ!」
悲鳴と泣き声が同時に出てきた、みたいな声がつい出てしまったが、アマリリスはレインを宥めるようにそっと手をつないでいない方の手でレインの頭を撫でた。その優しい手つきについ「お母さま……」と童心にかえってしまいそうになる。正直今すぐ「ママー!」と叫んで泣き出してお母さんに抱き着きたいくらいにレインの精神は追い詰められているといってもいい。
「ですが、恐らく表向きは愛人とかそういう扱いになって離宮あたりにいる、とされるでしょうね。恐らく実家にはそれなりの援助金というべきものは渡されるでしょう。そうして数年後にそっと病死した扱いかしら」
「あ、一応援助はあるんですね……」
「えぇ、今までの方もそうでしたわ」
「あのそれってもしかしなくても口止め料とか含まれてます……?」
「さぁ? どうかしらねぇ。真実を知る人がどれくらいいるのかすら……そもそも手あたり次第に殺しているわけでもありませんし……その場の雰囲気と状況にのまれて自分からその身を差し出してるわけですから……」
「ひぇぇ……」
恐怖心があまりにも高まりすぎて、レインは半ば無意識にアマリリスにひしっとしがみつくようにくっついていた。元々手を繋いだままであったのと、あとアマリリスが頭を撫でてくれるその手の感触をもっと堪能していたいというか、むしろそれが現状唯一の精神安定剤というかで、もうなんていうか安全地帯のような認識になりつつあったのだ。
ぷるぷると恐怖に震え、救いを求めるように縋りつくレインをアマリリスはどこか恍惚とした表情で見ているが、生憎レインは気付かなかった。
恐らく、そう遠くない未来にレインはまたケルヴィンと二人きりになる可能性がとても高い。貴族たちの通う学院で。そもそもそういった場がなければ自分のような身分の女が王子と出くわす事などそうあるはずもない。
そして、もしケルヴィンに言葉巧みに誘われでもしたとして。
正直その時レインはケルヴィンを遠ざけるという選択肢がとれるかどうかもわからなかった。
こうしている今なら生き残るためには断るしかないとわかっている。けれども、ケルヴィンと二人きりになってその場の状況と雰囲気と王子の態度とが合わさった場合、本当にレインが王子の要求を跳ねのけられるか、となるととても自信がなかった。
何が何だかわからないうちにぽーっとなって、知らず頷く可能性は困ったことにものすっごくあるのだ。
あの王子、正直場の雰囲気を読むのがとても上手い。元々トマス狙いだったはずのレインですら、なんだか王子に恋をしているような気分になって、二人で話をしている時など胸がきゅんきゅんして目の前がキラキラして、あぁどうしようもない程今自分は恋をしている、なんて思える事だってあったのだ。
それが、まさかこんな結末に近づくことになっていただなんて。
自分は果たしてどの部分をこうして瓶詰にされるのだろうか。指か、腕か、はたまた足か、それとも眼球か。もしかしたら他の部位かもしれないが、正直どこをコレクションされようとも行きつく結末は同じである。
「大丈夫よレイン。わたくしなら、貴女を助けてあげられるわ」
その言葉は、まさしく天からもたらされた救いのようであった。
「……ほんとうに?」
「えぇ、貴女がわたくしの傍仕えになるのであれば、あのクソ虫ウジ野郎も手出しはしません。わたくしのものに手を出さないという決まりなので」
それはつまり。
傍仕えの件を断れば王子に狙われ行きつく先は瓶の中、というわけであるのだが。
「どうして」
知らず、ぽつりと声が出た。
「アマリリス様は、狙われたりしなかったのですか?」
「最初は狙われていたようですけれど。わたくしはケルヴィン様とお話をして無事を勝ち取ったのです」
話し合いで解決。それができるなら自分も……と考えたが、しかしあの王子に自分が口で勝てる気がまるでしない。何度想像しても場の雰囲気にのまれ、そうして瓶詰になる未来にたどり着いてしまう。
「一体どのような話し合いを……?」
「それはもちろん、最初が肝心という事もあってシンプルに拳で、ですわ」
めっちゃ肉体言語だった。
え、それでいいの?
でも王子殴るとか不敬の極みでは?
だがしかしアマリリスはそれで己の勝利をつかみ取ったらしい。
しかしレインに同じ方法は無理だろうなとも理解してしまった。
王子は文武両道でもある。いざとなった時、力尽くでとなればレインに勝ち目はない。
むしろ下手に抵抗して王子に一撃でも入れた時点でその罪を償えとか言い出されて最終的に瓶の中に行きそうな気配すらある。
アマリリスが勝利を勝ち取ったのがいつ頃かはわからない。国によって定められた政略結婚であるとはいえ、幼い頃から流石にこんな趣味を持っていたりはしないだろう。流石に。是非ともそう思わせてほしい。
幼い頃からこんな趣味嗜好をしているとかだったら逆に怖すぎる。
ともあれ、アマリリスが用いた手段はレインには無理だ。
それだけは理解できてしまった。
「あの、ですが、どうしてその……アマリリス様は私を助けてくれるのですか?」
「言ったでしょう。わたくし、貴女の事嫌いじゃないの」
一体どこがどうお気に召されたのかはわからない。
わからないが、アマリリスが自分を好ましい人物だと思った事でレインを助けようとしたのは事実だ、とレインも理解はできた。
嫌いな人間に恩を着せるためだとかであればまだしも、どうでもいい人間に対してわざわざこんなことはしないだろう。アマリリスだって忙しい立場だ。忙しい合間にできた自由時間を無駄にするような真似はしないと思う。
「それで、傍仕えの件、考えてくれたかしら?」
「……私でよければ喜んで……!!」
断る選択肢とか存在しなかった。
「まぁ嬉しいわ。これからよろしくね」
嬉しい、という言葉は本当だったらしく、アマリリスはふふ、と笑いながらレインを抱きしめた。
あっ、あっ、いい匂いする……あと柔らかいし温かいしでなんていうかこんな恐ろしい場所だというのに安心感が半端ない……! なんて思いながら、レインもまた恐る恐るアマリリスの身体に腕を回し同じように抱きしめ返す。
多分この場にクレイジー王子がいたならば、人のプライベートルームでいちゃつくのやめてくれないかなぁ、くらいは言ったかもしれない。それとも、狙った獲物に逃げられて悔しがるか。
ともあれ、レインはある意味で九死に一生を得た。
後日改めて疑問に思ったので、ケルヴィン様のあの趣味を知る前は王子の事どう思っていたんですか? と聞いてみれば、別に、の一言が返ってきて、直後、
「わたくし女の子が好きなので」
と言い切られてしまった。
アマリリスの話から、とりあえず自分はそのうちアマリリスが見繕った相手と結婚するようなことにもなっているようではあるのだが。
話を聞いていくうちに思ったのである。
あれ、これ王子の愛人じゃなくて未来の王妃様の愛人になってしまったのでは? と。
それを思わず口に出せばアマリリスは、
「あら今更気付いたの?」
なんてさらっと言うではないか。
あれー? 何か思ってた以上にとんでもない事になってしまったのでは……?
ととても驚きはしたけれど。
けれどもまぁ、なんていうか。
よくよく考えてみれば自分もアマリリスの事は嫌いではないな、と思ってしまったので。
実家の事もアマリリスが良いようにしてくれるらしいし、正直レインに一切デメリットというものが感じられなかったしで、レインはなんとも能天気な事に、まぁいいか、と流す事にしたのであった。