9.後ろ姿の絵
冬休みに入って数日後。朝の底冷えには例外なく藍も勝てず、ベッドで頭まで布団を被って眠っていた。部屋の隅には、視界に入らないようにと追いやられたイーゼルと描き途中の絵が放置してあり、その側には藍が自分で購入したデッサンの指南書が裏表紙を上にして置いてある。
部屋には脱ぎっぱなしの服や靴下、漫画等が散乱したままで、恵理が見たら片付けなさいと怒られることが確定する有様だ。
布団から手を伸ばすようにしてスマホを探してみるが、手に返ってくるのはシーツの感触だけ。仕方がないので布団を体に巻き付けるようにして起き上がり、ベッドの上でそのまま正座する。あちらこちらにはねたぼさぼさの髪に眠そうな目の藍がようやく手に取ったアナログ時計は、既に十一時を指している。
「あー…」
自堕落な生活に焦りを感じつつも、藍は最近はこんな時間の過ごし方ばかりしていた。
顔を洗って髪をとかしてリビングへ入ると、テーブルの上には恵理からのメモが置いてある。文面はこう書かれていた。
「朝ごはんは冷蔵庫の中に入っています。温めて食べてね。 恵理」
藍はちらりと冷蔵庫へ視線を向ける。
「めんどくさ…」
ご飯を作ってくれたことはもちろんありがたい。でもそんなきっちりしなくていい。適当になんかするから放っておいてほしい。管理されているようで息が詰まる。ため息をつきながらメモを丸めてゴミ箱に入れ、リビングを出た。
恵理の用意した朝食は食べなかった、藍はファストフード店へとやって来た。大きな窓に面したカウンター席でお昼ご飯を食べていたのだが、席が悪かった。
大通りを見ると、向かいの店等は飾り付けがXmas使用になっていた。そして今の藍にとって最悪なことに、真向いの服屋や通行人の中にはカップルが多い。どこを見ても必ず視界に入ってくるカップルたち。仲良さそうに話す彼らの姿はここに来る途中にも嫌でも感じていた事だったのだが……
「………」
眉間にしわを寄せ、手にしている飲み物を一気に飲み干した藍はさっさと店を後にした。
次に向かったのは書店。今日は大好きな漫画の新刊を買うために外に出たのだ。決して心乱されたかったわけでは無い。漫画を変えた喜びと、書店の中にまでいる幸せそうな人々への(理不尽な)怒りを抱えた藍は、会計を終えて店の出入り口に向かった。
丁度店を出る直前、アニメ化記念のポスターを見つけ、側まで寄る。
「おおー、アニメ化するんだ」
そのポスターのすぐ近くにチラシの入ったラックを見つける。せっかくなのでポスターと同じ絵柄のチラシを一枚取ると、その下にこの商店街近くの神社で行われる初詣のチラシがあった。
同じチラシはラックの一番下にあったので、誰かが置いたのだろう。
………去年、凛たちと四人で行ったっけ。
楽しかった思い出がふっと脳裏に過る。その関係を壊してしまっているのは自分だ。今更どうすればいいのだろうか。
手に持っていた祭りのチラシに力が入って寄れてしまった。だから藍は、そのチラシも手に取ってお店を出る。
……寄れたものを持って帰るだけだから、と心の中で呟いて。
その日の夕方。ベッドで寝転がり早速新刊を読んでいるところへ恵理が仕事から帰ってきた。
「ただいまー」
部屋のドアに目を向けると、自然に部屋の惨状が目に入る。いい加減、早く片付けないとまた小言を言われる……と眉をしかめた時、重大な事を忘れていたとハッとする。
「朝ごはん!」
そう、今日恵理が用意していた朝ごはんを、結局食べずに放置したのだ。せめて見つかる前に話しに行かないと。しかし、急いで扉に向かうがもう遅い。恵理が階段を上がる音する。藍は慌てて布団に潜り込むが、恵理がそのままガチャリとドアを開けてしまった。
「ねえ朝ごはん食べなかったのー…」
部屋に一歩足を踏み入れる前に、藍が思った通り恵理の顔は驚愕に歪んだ。
「いい加減部屋を片付けなさい!!」
ズンズンとベッドまで歩いてきた恵理は、思い切り布団をはぎ取った。
「勝手に部屋に入ってこないでよ」
はぎ取られた布団を視界の端に収めた藍は、不機嫌さ丸出しでベッドに座り恵理と真正面から向き合った。
「それ言う前に部屋をどうにかしたら?」
「何、文句言うために来たの?」
「片付けないあんたが悪いんでしょ」
「うるさいなあ。何の為に来たんですか」
「…明後日大掃除だから」
「はあ!?聞いてないんだけど」
聞いてない。今日はまだ漫画読んでたし、明日は宿題やらなきゃだけど朝から動画三昧のつもりだったし、明後日も……
「だから今言ったんでしょ。今日中にこの部屋片づけときなさいよ」
そう言って恵理は出て行った。
……こっちの都合考えずに勝手に予定決めて行くとか何なの?もし明後日断れない用事あったらどうしてたの?一言くらいこっちに聞いてくれてもいいんじゃないの?
……どうせこれが塾があるとかだったらやらなくていいとか言うんだろうな。ほんとムカつく。
扉が閉まる音を聞いてから、藍は再び布団にもぐって体を丸めた。
「…めんどくさ」
結局予定はないので大掃除に参加することになった。あの後恵理が「お年玉に少し上乗せしてあげる」と言ったので、藍はルンルンで参加を決めたのだった……。
カラーボックスをどかして掃除機をかけている恵理と、たくさんの紙類を束ねている藍。年末休暇中の圭祐は高い戸棚の拭き掃除をしていた。
「ねぇこれ玄関でいいんだよね?」
「そー」
恵理の指示を聞いた藍は、束ね終わった雑誌の束を両手に持って玄関にやってくる。既に雑誌の束が三個あるところに追加分を重ね、汗をぬぐった。
いくら冬とはいえ、やはり大掃除は疲れる。いい運動になってるかも…とお腹に手を当てた時、恵理の「えー!?」という、やっちゃった、とでも言うような声が聞こえてきた。
「藍ー!」
「何ー?」
恵理に呼ばれリビングに向かうと、席に着いた恵理がメモに何かを書きながら話しかけてくる。
「ごめん洗剤買ってきて」
「えー?!」
「詰め替え分切れちゃって」
藍の反論なんか聞いてない。頼む態度を装っているくせに既に決定事項として進んでいる。
「自分で行けばいいじゃん」
「余ったお金好きにしていいから。はい」
お小遣いが貰える?何を買おう。コンビニでプリンでもいいかな…今日頑張ってるし!
先程、ダイエットになってるかもなんて思っていたのにすっかり吹き飛んだ。そして恵理から三千円とメモを手渡され、藍は意気揚々と出掛けて行ったのだが………
「おっも…」
沢山の洗剤が入ったレジ袋を両手に提げて薬局から出る。三千円には理由があったのだ。補充分の洗剤だけだと思ったら、シャンプー、コンディショナー、洗顔、ラップ、トイレットペーパー、あとは近くの百均でゴミ袋とかもリストにあって……
恵理はこれを見越していたかのように、最初から自分の自転車を使うように言ってきた。いわゆるママチャリだ。確かに藍の自転車では籠が足りないし危ないので、恵理の自転車を借りたのはまあ正解だろう。ただ、恥ずかしい。早く家に帰らないと。知り合いに合わなければいいな。でもママチャリって意外に便利だな……。
重い荷物を籠に乗せて藍は自転車に跨る。そしてふと前を見た時、向かいのスポーツ店内にいる女性に見覚えがあることに気付いた。
えっ、え!!誰!!?
いくら便利だと思ったところでやっぱりママチャリはまだ恥ずかしい。そんな藍は自転車の上で必死に身を隠そうと縮こまっているのだが、その時点で既に周囲の目を惹いていることに気付いていない。藍は女性の正体を知ろうとじぃっと店内を見た。
……そして、ようやく分かったその女性とは。
「…河西先輩?」
男四人といるので気付かなかったが、あれは麻由子だろう。
右側にいた男がニット帽を被せてきて、鏡で確認した麻由子は彼らに笑顔を向ける。
その後、ニット帽を戻した彼らは、店の奥へと歩いて行った。
……なんで?誰あれ。河西先輩って瀬尾の事好きなんじゃないの?そういえば図書室でも別の人とキスしてたような…。ということは瀬尾の事は本当に中学の時だけの話?じゃあ図書室でべたべた触って来てたのは一体…。凛が言ってた男好きってつまりこういう…?
藍の頭の中は先ほどの衝撃的な光景でいっぱいだ。今まで目の敵にしていた麻由子の本性がますます分からなくなってしまった。しかも、もし大河の事を先程の男たちと同じような位置づけで…つまりその他大勢と変わらないと思っているような人だった場合、私と瀬尾はただ振り回されていただけ…?
これが正しいのか正しくないのか。誰が何を思っているのか分からない。思考がぐちゃぐちゃでまとまらないまま、藍は帰宅した。
「ただいま」
リビングへ入ると一旦大掃除はは終了していて、恵理が昼食の用意をしているところだった。
「ありがとう。ソファーの所に置いといて」
「うん」
「ご飯あと10分くらいだから」
「うん」
荷物を置いた藍は、そのまま部屋に戻った。
藍の部屋も大掃除中だったので、今の彼女の部屋は恵理に怒られた時以上に荷物が散乱していた。持っていた肩掛け鞄を置いた時、近くにあったファイルの山が崩れてしまう。ため息をついてファイルを寄せようとしゃがむと、丁度その間に一冊のスケッチブックが、絵が見える形で挟まっていた。閉じて本棚に仕舞おうと引っ張り出してみて見ると、そこに描かれていたのはいつ描いたのかも覚えていない、大河の後ろ姿を描いた絵であった。
………先程の麻由子と男たち。
………練習試合の日の、大河と麻由子の親し気な雰囲気。
………以前、凛から聞いた、大河と麻由子が中学の時に付き合っていたらしいこと。
なんで河西先輩なんだろう。なんであんな人が良かったんだろう。…本当に今は何も思ってないのかな。ああ瀬尾がそうだとしても河西先輩は分からないな。今もまだ好きなのかもしれないし、ただ絡んできただけかもしれない。
…そもそも私に勝ち目はないのかもしれない。河西先輩が本気で瀬尾にアピールしたら……
………あの二人が一緒にいるところなんて、見たくない!!
じわじわと目に沢山の涙を溜めた藍は、目の前にあったスケッチブックを手に取って、思い切りその絵を破いていた。思い浮かべてしまった幻を切り刻むように。
その絵が二枚、三枚と分かれてしまった後、ようやく少し落ち着いた藍は自分のしてしまった行動に青ざめる。しかし絵が戻ることはもう無い。
グッと奥歯を嚙みしめて、破いた紙を近くのゴミ箱に押し付ける。
「藍ー?ご飯できたわよー」
その時、恵理の呼ぶ声が一階から聞こえた。目元を拭った藍は、近くにあったペットボトルからお茶を一口飲む。そして何事も無かったように外に出た。