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6.課題の結果と練習試合

 とうとう課題再提出の日がやって来た。前回と同じように、藍は美術準備室で吉野と向き合っている。

 今回、藍が持ってきたのはクロッキー帳三冊。連日、少しでも暇さえあれば描いて、描いて、描きまくる日々を送ったのだ。凛にも描いたものを見てもらったり、日常生活でも大げさなくらい何でもよく見て周りを観察していた。

 今まさにその努力が報われるかどうかの判断が下ろうとしている。


 藍はキリキリと痛くなる腹を抑えながら、渡された画集を見るふりをしてチラチラと吉野の反応を伺っていた。吉野は全くこちらを気にすることなく、前回同様一枚一枚丁寧にめくって絵を見ていく。その鋭い眼光で一体何を考えているのか。どんなところを見ているのか。


 ……どちらにしろ、いいの!?悪いの!?どっちなの!!!


 お腹の中で不安と恐れがぐるぐると混在して、ぎりぎりと本を掴む手が痛くなるほど力が入っていったその時。三冊全てに目を通し終えた吉野が、最後の一冊を静かに閉じた。


 遠くから野球部の気合いの入った声が聞こえる。それとは対照的な部屋の静けさに流されないよう、藍は足を踏ん張って吉野の言葉をじっと待った。

 ……それはどのくらいの時間が経った頃だっただろうか。それまでずっと厳しい顔をしていた吉野が、クロッキー帳をもう一度見る。固唾を飲んで一挙手一投足を見守っていると、彼は顔を上げてニヤリと口の片端を上げた。


「お前やっぱやればできんじゃん」

「え」


 思わずバッと顔を上げる。え、先生、今なんて?


「合格。この調子で頑張れよ」


 クロッキー帳を返しながら吉野は笑って言った。呆然としながら受け取る。クロッキー帳の重みを改めて感じた時、顔が熱くなり、胸がどんどん熱くなり、ふつふつと嬉しさが湧いてくる。


 合格…合格、か。


 ふふ、ふふふっ。頬が緩むのが抑えられない。この二週間、頑張ったんだ。もちろんまだまだだけど、でも先生の基準値まではきちんと出来てた。…合格だって!


 藍はニヤける顔を隠そうと、返してもらったクロッキー帳で口を隠し、背筋をピンと伸ばす。

 吉野先生の激励に、大きく頷いた。




 藍が美術準備室から出てくると、一人で美術室で待ってくれていた凛が不安そうにこちらを見る。凛と目が合った藍は、嬉しさを全面に出して笑った。


「合格です!」


 パァァと笑みが広がる凛と、二人はハイタッチを交わし合った。




 下駄箱に向かう途中に窓から見た空は濃い橙色に染まっていて、既に夜の(とばり)が降りつつある。夏の残暑の面影はもう鳴りを潜めつつあった。


「ありがとね、待っててくれて」

「いいよいいよ。よかったね合格で」

「ほんとだよー。これでまたやり直しだったらもう…」


 考えたくない未来に苦笑していると、丁度反対側から大河と弘樹が歩いてきた。


「あれ、お前ら今日部活だっけ?」


 弘樹が靴を手に取りながら不思議そうに聞いてくる。凛がチラッと藍を見ると、小さく頷いた藍は口を開いた。


「…課題、合格しました!」


 見かけるたびに応援してくれた二人にもちゃんと報告はしておきたい。そして次は再提出なんていう失敗は絶対しないんだから!

 こっそり決意しながら言った藍が顔を上げた先では、彼らの表情はとても明るかった。


「まじか!おめでとう!!」


 弘樹がそう言って鞄をごそごそし始める。何をしているのかと思えば、「確かアメがあったはず…」とお祝いになる何かを探してくれようとしていたらしい。いつも通りみんなで笑っていると、大河が柔らかい笑みをこちらに向けていた。


「おめでとう。ずっと頑張ってたもんな」


 顔がポッと熱くなる。そして、次こそもっと誇らしい理由でお祝いされようと心に誓う。


「ありがとう。…そういえば二人は今日部活?」


 藍の質問に大河が首を振った。


「俺らは顧問に呼び出しされてて」

「何で?」

「来週の日曜に練習試合やることになったんだよ」


 凛の疑問には弘樹が答えてくれた。


「へえ!どこで?」

「ここ」

「うちの学校ってこと?…ねえ見に行こうよ!」


 練習試合かぁ、そういえば瀬尾が野球してるところ見た事ないかも…、と思考がふわふわしていたら、凛のテンションでグンッと現実に引き戻された。


「えっ」

「あ、用事ある?」

「いや、暇だけど…」

「じゃあ決まり!差し入れ何がいい?あんまり予算はないんだけど。あ、行っても大丈夫だった?」


 事態についていけなくてぽかんとしているうちに、凛がどんどん詳細を詰めていく。


「俺ハーゲンダッツがいい!」

「はあ?無理無理」


 ちゃっかり強請る弘樹のリクエストは却下され、今更行かないとは言えなくなってしまう。

 そりゃあ気になることは気になるんだけど…


「あの…いいの?」

「あー……」


 隣にいる大河に恐る恐る聞いてみると、大河はちょっと考えるような素振りで頬をかく。


「無理しなくても…」


 大河の煮え切らない様子に藍が断ろうとすると、彼はハッとした顔でぶんぶん頭を振った。


「大丈夫!無理じゃない!その…びっくりしただけだから。…来てくれたら、嬉しい」


 慌てた大河だったが少し恥ずかしそうに笑う。彼の珍しい様子に一瞬ぽかんとした藍だったが、やがてふっと笑みを零した。


「…うん、行くよ。頑張ってね」

「おう」


 ……そんな初々しい彼らをやれやれと見守っている二人が間近にいたのだが、藍と大河は気付いていなかった。



   



 練習試合当日。空は雲一つない快晴で、グラウンドでは試合に臨む選手たちの気合いの籠った声がよく聞こえてきてくる。藍と凛は他の保護者や学生に交じり、いくつかの差し入れを手に用意して応援していた。


 試合も終盤の九回裏。得点は5-4で大河のチームが1点リードした状態の守備回。刻一刻と変化する試合状況を固唾を飲んで見守る藍たちにも、バッテリーを組んでいる大河と弘樹たちを中心としたチームの緊迫した状態がひしひしと伝わってくる。


「このまま勝ちますように!」

「大丈夫だよ。…大丈夫」


 凛の祈るような願望に、藍も息をするのを忘れるくらいじっと試合を見守る。その時、弘樹が放ったボールが、相手チームのバットに当たった。大河がハッとして立ち上がり、その間に二塁に出ていた選手は三塁へ、一塁に出ていた選手は二塁へ、そして今ヒットを放った選手は一塁に出てしまい、二アウト満塁。


「「ああっ」」


 盛り上がる相手サイドとは対照的に、こちらのサイドは一気に緊張が走る。


「4番、ファースト、高橋君」


 その声に合わせて、相手選手の次の打者がバッターボックスへと入ってくる。相手チームにとっては、少しでも塁に出れば同点、もしくはさよなら勝ちもあり得てしまうので絶対に阻止しなければいけない大一番。大河と視線を合わせて小さく頷いた弘樹は、深く息を吸った後、腕を大きく振りかぶった。




 三球目。観客の視線が集まる中、高橋が思い切りスイングする。弘樹が投げたボールは、重い音を立てて大河のミットへ収まった。

 一瞬の静寂の後、試合終了のホイッスルが鳴り響く。観客たちの歓声をその背に受けて、選手たちが審判の前へと並ぶ。


「礼」

「「「ありがとうございました!」」」


 挨拶を終えた両チームの選手たちは、相手チームの監督に意見を貰いに行また走る。せっかく勝ったというのに、大河たちも、藍の隣で拍手をする凛の表情もどこか暗かった。


「勝ったね!」


 藍は選手たちをキラキラした表情で見ていた。途中どうなるかと思ったけど、相手に点数を取られることなく終わったのだ。藍は興奮のまま凛に話しかける。


「うん」

「すごかったー!」


 それぞれの監督に意見を貰い終えた選手たちは、グラウンドの整備を始めていた。今日はもうこれで終わりらしい。


「そうだね…、でも二アウト満塁かぁ」

「ん?」


 凛の最後の呟きは藍には届かず、何でもないと笑顔を向けられた。


「あ、お手洗い行ってくる」

「待ってる」


 藍の胸には勝利の余韻が満ちていた。




 トイレから出ると、近くの水道場から大河が誰かと話している声が耳に入った。せっかくなら先ほどの試合についておめでとうってい言いたい。声のする方へ向かっていくと、大河と一緒にいたのはなんと麻由子だった。

 一体、瀬尾と二人きりで何を話しているのか。気になる、でも見たくない。でも気になる…

 そんなことを思いながら、結局藍は近くの物陰に隠れてそっと覗き見る。麻由子は手に持った花柄の紙袋を大河に渡していた。差し入れだろうか。


「ありがとうございます」

「最後ギリギリだったねえ」


 グラウンドをちらりと見て苦笑する麻由子とは対照的に、大河の表情は芳しくなく、押し黙ったままだった。一体何を話しているのだろう。近くに行きたいけど、これ以上はさすがにバレる。藍はもどかし気に二人を見ていた。


「ピッチャーに救われたね」

「…そう、ですね」


 拳を固く握りしめるままの大河の顔を、麻由子はひょいと覗き込んだ。


「ごめん、言い過ぎたかな」

「相変わらずですね」


 はは、と力無く苦笑する。


 大河の苦しそうな顔は嫌だ。でも、自分は何か分かってるっていう態度を取ってる麻由子はもっと嫌だ。


 …あの二人が一緒に居るところを見るのが一番嫌だ。


 自分とは全然違う二人の雰囲気に、まるで分厚くて見えない壁が目の前にあるような気がして、藍はその場から逃げ出した。






 凛の元へ戻ると、彼女は荷物を片付けて藍が来るのを待ってくれていた。


「お帰り。ね、これから弘樹たちの所行くでしょ?」

   

 差し入れの入った袋を軽く持ち上げながら笑顔でこちらに来る凛に、藍は困ったような顔をして視線を逸らす。


「あー…、ごめん。もう帰らなきゃ」

「え?」

「ちょっと用事思い出して…じゃあ」

「ちょっと…藍!」


 これから瀬尾に合うなんて無理だ。なんであの二人一緒にいたんだろう。もう別れたんじゃなかったの?


 頭の中で、先程よりも膨れ上がった色々な感情がぐるぐると渦巻いている。

 泣きたくなるのを必死に我慢して、藍は逃げるようにその場から立ち去った。





◇◇◇


 足が重い。

 一歩一歩踏み出すのがキツい。


 今日の試合は最悪だ。

 途中までは良かった。いや、ミスった所もあったけど、それでも何とかリードはしてた。


 …あんな展開にさせる前にもっと出来ることがあったはずだろ… …!!



 ギリッと奥歯を噛み締めて、大河は玄関を開ける。


「ただいま」


 灯りの漏れた奥のリビングからはジュウウと肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。灯りをつけて靴を脱いでいると、母がリビングからフライ返しを手にバタバタとやってきた。


「どうだった?あ、お帰りなさい」


 こちらの気も知らずに期待するような視線を向けてくる母を一瞥する。


「あー…勝ったよ」

「おめでとう!お疲れ様」


 無邪気に喜ぶ母へ、大河はにこりと笑みを向けた。


「風呂入れる?」

「あ、お父さん入ってるかも。お父さー…」

「いいよ」


 父を呼ぶ母を止め、大河は洗面所へと向かった。



 洗面所を開けると、母の言った通り、丁度風呂から上がったらしい父がいた。髪を拭こうとタオルを手に取るところだった。

 父と鏡越しに目が合った。鏡の中で並ぶ大河と父だったが、大河の方が若干背が高い。


「…ただいま」

「ああ、おかえり」


 鏡の中で視線が交差する。淡々と手を洗っていると、髪を拭いている父が大河の方へ軽く視線を向けた。


「どうだった?」

「…勝った」

「そうか」


 それ以上何も言わずに洗面所から出ようとした時、再び父から話しかけてきた。


「どうした」

「…何が」

「嬉しくなさそうだな」


 大河はドアノブに手をかけたまま黙ったまま。


「何かやらかした、とか」


 キッと鏡越しに父を睨むと、もう一度鏡の中で視線が交差する。


「図星か」

「…っ、関係ねーだろ!」


 バン!と扉を乱暴に閉め、大河は洗面所を出て行った。

 そっとため息をついた父は、口下手な自分にも呆れていた。




 部屋に入り、扉を閉める。しゃがんでドアにもたれかかった時、二アウト満塁に陥ってしまった瞬間がふっと脳裏を過ぎる。

 鞄に拳を打ち付け、苦しげに舌打ちをした。

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