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5.やるしかない

 藍がリビングに通じる扉を開けると、中では食事を終えた父の圭祐と、祖母の陽子が談笑していた。因みに藍の家族構成は、父、母の恵理、藍の三人。たまに近所に住んでいる母方の祖母が、今日のように家に訪れることがある。

 母は藍が帰ってきたことに気付き、みそ汁を温め直しにキッチンへ向かう。家族に挨拶をした藍は、自分の席に空の食器が置いてあることに気付き、ムッ眉をひそめた。母のいつも通りの余計なお節介から視線を逸らすように、藍は陽子へ声をかける。


「おばあちゃん来てたんだ」


 その声に陽子はふっと目元を柔らかくした。恵理は陽子の方をちらりと見て、再び味噌汁に視線を戻し呆れを滲ませながら口を開く。


「渡したいものがあるんだって」

「そうなのよ~」


 ご機嫌でにこにこと笑う陽子は席を立ち、壁際に置いてある白い紙袋を藍の元へと持ってくる。


「最近ね、お友達が絵画教室に通い始めたのよ。そうしたらいーぜる?を新調したらしくてね。使わなくなったものを藍ちゃんにって貰ったのよ~。お古になっちゃうんだけどいい?」


 陽子はかなり多趣味だ。手芸、ヨガ、料理、……ああ社交ダンスもやっていたことがあったとか。そして最近はバイオリンでも始めようかと言っていた気がするが、きっとお友達の勧めで絵画教室になるんじゃ…


 そんなことを思いながら紙袋を覗いてみると、中には陽子の言った通り、組み立て式のイーゼルが入っていた。まさかイーゼルをもらうとは思わないじゃないか。さらっと説明した陽子の言ったことが未だに信じられず、そして予想外すぎるものだったので、思わず中身をじっと見続けてしまう。


 いや…え?ほんとに?ていうか絵の具とか筆とかそういうんじゃなくて、まさかのイーゼル!!た、高くない?軽々しく貰えるものじゃ…


「藍ちゃん美術部でしょ?これあった方がいいんじゃない?ほんとは絵の具とかも必要だと思うんだけどおばあちゃんよく分からなくて…」


 あ、やばい。このままじゃどんどん持ってこられる!貢がれるのは慣れません!!


 ……藍は一人孫だということで、昔から何かと物を買い与えようとする陽子だった。素直に喜んで、むしろちゃっかりねだるのが苦も無くできる性格なら良かったんだけど、どうしても申し訳なさが先行して気が引けるというか…。今はなるべくお礼を言う事で、自分の中で折り合いをつけていた。そして何でもかんでも貰う事の無いように、とも気をつけていて…

 

 袋から勢いよく顔を上げ、藍は陽子を見る。


「あ、うん!大丈夫!大丈夫だから!」


 そう言って急いで袋を抱える。これ以上ここに居たらおばあちゃんの()()()が止まらなさそうだ……!

 完全に善意だという事が分かっているので、断ってばかりになるのは心苦しいのだ……


「ありがとう!」

「いいのよ~。また何かあったら言ってね」

「うん、うん。ありがとう」


 藍は精一杯笑顔を保ったまま、なるべく自然に自然にリビングの扉に向かう。このまま穏便に済ませるのだ。そう思っていた時、タイミングを見計らっていたように恵理の声が飛んでくる。


「貰ったんだから勉強もちゃんとやりなさいよ」

「分かってるよ!」


 いちいちうるさい指摘に眉をひそめながらリビングを出て行こうとすると、また恵理の声が、今度は少し焦ったような声音で飛んできた。


「ねえご飯は?」

「だから食べてきたから要らないって言ったじゃん。おやすみなさい」


 連絡を入れていたのに交わされるやりとりに、藍は恵理をキッと睨みつける。思いそのまま、少し乱暴にドアを閉めてリビングを出ていった。


 恵理は二階に上がる足音を聞くと、味噌汁を温めるのを止めて眉根を寄せてため息をつく。そして陽子は藍の様子に、廊下へ通じるドアを不安げに見ていた。


「藍ちゃん今日はどうしたのかしらねえ」

「すいませんお義母さん」


 娘の態度に、圭祐は陽子に頭を下げた。


「いいのよー。でも無駄にならなくてよかったわあ」


 この場の空気を完全に無視した陽子のほくほくと幸せそうな顔は、天然か敢えての行動か。恵理は己の母の行動の意味が理解できなかった。恵理は藍の食器を片付けながら陽子をチラッと見るとまた眉根を寄せる。


「お母さん、何でもあげようとしないで。藍ももう受験生なんだから」

「あらそうなの?美大とかに行くのかしら?」

「美大なんて将来食べていけないじゃない」

「恵理の気持ちも分かるけどねえ、一番は藍ちゃんの気持ちじゃない」

「そんなの理想論でしょ?失敗したとき困るのはあの子自身じゃない。無責任な事言わないで」


 どうしてそんなことも分からないの?例え美大に行ったとしても、その後絵の道で食べていける人なんてほんの一握りに決まっているじゃない。なら最初からもっと潰しの効く学部にするだとか、珍しいところに行くとしても、せめて名前の知られている所を狙ってみるとか。今、藍は高二。幸い学校での成績はそこまで悪くないし、これから塾に通わせれば大丈夫だろう。何より絵なんて趣味でいいじゃない………


 今日はこれ以上誰とも話したくなくて、陽子の事を無視するかのように恵理は食器を片しに行く。


「…ごめんなさいねえ」

「いえ…。藍ともちゃんと話さないといけないですね…」


 恵理の様子を見ながら、陽子と圭祐は少々困ったような、だが、恵理の思いの汲み方をどうしようかと悩むような顔で呟いた。


 ……そして、これからお風呂に行こうとしていた藍も、眉をひそめながら恵理と陽子の会話を廊下で静かに聞いていた。






 お風呂から上がり部屋に戻ってきた藍は、髪も拭かずにベッドに座った。そのままぽふんと音を立てて横に倒れると、視界に入ってきたのは陽子がくれたイーゼルの入った白い紙袋。ふと、今日一日で起こった出来事が頭の中を駆け巡る。

 

 吉野に、自分の甘えについて指摘された事。


 後輩のお手本になっている大河の嬉しそうな表情(かお)


 お母さんが、私が美術関係に進むことを反対していること。


 

 何からすればいいのか、どう行動するのが正解なのか。




 ………とりあえず、再提出の課題を終わらせようか。


   





 翌日の昼休み。藍は早速、クロッキー帳を開いて自らの手の練習をし始めた。”よく見て描け”という吉野の言葉通り正直に、まずは身近なものから改めてやろうと思ったのだ。


 ……結局書かなきゃいけないんだから、どれから始めたっていいよね。それにしてもこんなにじっくり見て描くのは久しぶりな気がする。


 そんな藍がひとり黙々と練習に励んでいるところへ、暇を持て余していた凛がやってきた。


「何してるの?」


 ひょいと藍のクロッキー帳をのぞき込みながら凛が尋ねると、藍は一瞬手を止める。自分の描いた絵を見ながら藍は口を開いた。


「手描いてる」

「それは分かるけど」

「昨日のやつ、あれ全部やり直しって言われた」

「え!マジで!?」


 藍は淡々と言うが、凛は少々お説教を貰って終わりだろうと考えていた。まさかそんなめんど…いや大変な事になっていたのかと、凛はじっと藍を見る。


「ははは…。でもやんなきゃ終わんないからなあ」


 そう。やらなきゃ終わらない。そしてこの事態を招いたのは自己責任なので、やり切らなければならない。少々苦笑しながらも、再びデッサンを始めようと鉛筆を手に取った時。


「何やってんの?」


 今度は誰だとその声に藍が手を止めて顔を上げると、本を持った大河と弘樹がこちらを見下ろしていた。彼らの訪れを先に気付いていた凛は、休み時間に自分達の教室に居る弘樹を不思議そうに見る。


「弘樹じゃん、何しに来たの?」

「部活のノート貰いに」

「はい」


 自分の席からノートを取り出した大河は、弘樹に渡した。


「どうも。つーかお前本当字綺麗だよな」


 弘樹がそう言いながらめくるノートの最新ページには、その日部活でやった練習メニューや反省点・改善点、特に頑張っていた今日のMVPなどが図などを使って丁寧に描かれていた。


「それね!習字とかやってたの?」

「あー…一応」

「へー!」

「そうなんだ」


 藍もちょっと驚いたように大河を見る。凛が聞いたことで初めて知った。

 習字…へぇ……


 彼について一つ何かを知るたび少し嬉しくなる。そんな思いをそっと噛みしめていると、凛が何かに気付いたように指をさす。


「あれ?それは?」


 それは、先程大河が会話に入ってきた時から持っていた本だった。


「弘樹おすすめの筋トレの本」

「見せて見せて」


 ワクワクした顔の凛が大河から本を受け取った。タイトルは『俺達の筋トレ道』。俺達、とあるが男女兼用である。各スポーツごとに刊行されていて、一冊で基礎から応用まで網羅している優れものらしい。その中でも難易度が初級編、中級編、上級編の三段階。今大河が持っているのは中級編なのだが……


「…やばくね?これ絶対死ぬわ」

「私も無理…」

「男子でも割とキツいよそれ」


 女子二人がドン引きしている中、さらっと筋トレオタクの弘樹も便乗してくる。そんな三人を見ながら大河が遠い目をしていると、授業の予鈴が鳴る。


「あ、またな!」


 弘樹が自分のクラスへと帰って行く。先生がやって来て、また授業が始まった。



 




 放課後。今日は部活が休みなので、藍は一人で図書室に来ていた。デッサンの基本書を探すためだ。

 図書室を見渡すと、受験が近づく三年生達が黙々と勉強している姿が視界に入る。先日の恵理と陽子のやり取りが一瞬頭の中を占めかけたがすぐに振り払う。足早に美術関係の本を探しに行った。


 無事にデッサンの本を探し出し、あとは帰るだけとなったまさにその時。ふっと顔を向けた先の奥の角で、なんと人目を隠すようにカップルがキスをしていたのだ。


「!!!?」


 ドクンドクンと心臓が不用意に鳴り散らすのを抑えようと、大きく深呼吸をする。足早に貸し出しカウンターまで行って、貸し出しの手続きをしてもらう。


「返却期限は10月4日までとなります」

「はい」


 事務処理をしてくれた図書委員の生徒から本を受け取り、藍はさっさと図書室を出てい行こうとするが、ふと先程の女子生徒に見覚えがあるのを思い出す。


「……あれ、河西先輩だ」


 部活に行く途中にすれ違った美人の先輩。……瀬尾の中学時代の元カノ。


 先程よりもズキズキと心臓がまた嫌な音を立て始める。それを静めるように大きく深呼吸をしながら、借りた本をしまって下駄箱に向かった。







 帰宅して夕食もお風呂も済ませた後。藍は図書室から借りてきたデッサン本とクロッキー帳を開いていた。意気揚々と見た先に描いてあったのは……


 比率を理解する事。一度描き終えたら離れて見ること。物体の素材を意識する事。等など注釈もあったり他にも色々描いてあったが………


「…これ、全部先生が言ってたのと同じじゃん…」


 そう。自分が言われていたり他の人が言われていたりと様々だが、大体の事は吉野の口を通して聞いていた。そしてこれら全てに共通する事が、


 ”ちゃんと見て描けよ”


 ……ああ、私、”ちゃんと”は見てなかった。


 今更ながら自分の適当さに気付いた時、ふと大河がラーメン屋で後輩に話したという話を思い出した。


 ”上手い奴の視点で自分のプレーを見るって事。その為には徹底的に真似するのが一番早い”


 藍は目を閉じて深く深く深呼吸をする。


「………やるしかない、か」

  

 自分で決めた事だ。ここできちんとやり直さなければ、また同じことの繰り返しだ。削られた鉛筆を持ち、藍は手を動かし始めた。


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