表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/16

3.ダメ出し

 紙の上をデッサン用の木炭が滑る音しか聞こえない、異様な静けさに包まれた放課後の美術室。普段の部活とは一際違う緊張感に包まれたこの空間で、藍もまた一心不乱に目の前の石膏像をデッサンしていた。


 美術部員は全部で七人。そのうち同学年は凛だけ。石膏像を囲んで七台のイーゼルが置かれているが、その内1台は空席だ。


 …まあきっとあと少ししたら戻ってくるんだろうけど…いや、いっそのこと今日はこのまま終わってくれたらいいんじゃない…?


 そんな現実逃避に走りながらもデッサンを続ける藍の後ろに、いつの間にか美術準備室から帰ってきていた一人の女子生徒が立っていた。

 ポン、と肩に軽く置かれたその手は優しいものの、今の藍には心臓に悪い事この上なく……


「……っ!!」


 肩を大きく揺らして声にならない悲鳴を上げかけた藍が振り向いた先には、顔をこわばらせた凛が立っていた。


「怖いわ」

「あ、凛か…」

 

 彼女を怖がらせてしまっていたことまで頭が回らず、思わずほっと息を吐いてしまう。だが仕方がないだろう。この後の事を思えば…

 そんな藍の内心の緊張を気にも留めるそぶりを見せなかった凛は、そのまま空席だったイーゼルの前に腰を下ろす。デッサン再開の準備をしながら心臓を落ち着かせている藍の顔を見て、彼女は静かに笑った。


「驚きすぎでしょ」

「笑わないでよ」

 

クツクツと肩を揺らす凛からぷいっと視線を逸らし、藍は鞄から課題のクロッキー帳を取り出した。


「行きたくないー」

「潔く怒られてきなって」


 うなだれる藍の肩をぽんぽんと凛が軽く叩いた。そうなのだ。もう怒られることは決定事項で、逃れられない運命なのだ……


「ははは…行ってくる」

「行ってらっしゃい」

   

なけなしの勇気をかき集めた藍は、1冊のクロッキー帳を手に美術準備室の扉の前に立ち、ノックをする。


「失礼します…」


 そっと扉を開けて美術準備室に入ると、そこには5体ほどの石膏像や何冊もの美術の本、多数の油絵の具や油絵などが置いてあった。

 そんな画材道具たちの反対側に位置する机では、プリントに何かを記入する美術教師の吉野が居る。


「ん、どうした。そんなところ突っ立ってないでとりあえず座れ」

「あ、はい…」


 吉野の勧めに従って大人しく席に着いたはいいものの、どうしても顔を上げる気にはなれずに視線は落としたままだった。

   

「何だ…どうした?」


 プリントから顔を上げた吉野は、頭を下げたままの藍を訝し気に見てくる。その視線は感じていたが、やっぱり向き合う気になれなくて。


「いえ、別に…」

「そうか?まあいいや、出して」


 その言葉に、藍はおずおずと課題のクロッキー帳を差し出した。それと交換とでも言うように、先生は一冊の画集を手渡してくる。新学期ごとに行われる吉野との面談(?)の時には、いつも何らかの画集を渡される。まあ緊張で大抵はただ目が滑るだけで、頭には入って来ないのだが…

 そして、今この部屋には、画集をめくる音とクロッキー帳をめくる音しか聞こえなかった。


 …ああ…もっと真面目にやればよかった。せめて出された当日に終わらせるくらいの意気込みでやっとけば、今こんなに胃が痛い思いをしなくて済んだだろうに…


 藍の中に後悔が降り積もって行く間も、吉野がページをめくる手を休めることは無い。どんどん絵を見ていく。藍の心の内まで見透かそうとするようなその鋭い目を見たくなくて、手渡された画集で顔を隠す。


 そして、一番最後まで見終わったと思ったら、今度はもう一度始めからゆっくり見返していく。緊張と罪悪感で胃痛が限界に達するかと思った時、ようやく吉野は口を開いた。ただし、クロッキー帳からは視線をそらさないままであったが。


「…これ、どこで描いた?」

「部屋、です」

「家の?」

「はい」

「全部?」

「そうです…」


 だって何描けばいいかあまりよく分からなかったし。とりあえず目につくもの片っ端から描いていったんだけど…。やっぱりもっとちゃんとしたやつ描けば良かったかな…うーんでもちゃんとしたやつってそもそもなんだ?


 とかなんとか考えていると、クロッキー帳のある箇所をを指さしながら吉野が言った。


「これさ」

「はい」


 吉野の指すところに描かれていたものは、いつも使っているスクールバッグだった。


「質感とか意識した?」

「…あまり…しなかったです」

「だよな。…はい、ありがとな」

   

 そう言って吉野はクロッキー帳を閉じて私に返してきた。

   

「いえ…」


 受け取りながらも、内心での緊張はどんどん高まっていく。何しろ、一体これからどんなことを言われるのか。なんと言って怒られるのか。…いっそのこと自分から正直に話した方がいいんじゃ…


 色々と思考が複雑になっていくのを理解しつつあった時、吉野は再び話し始める。


「まあ、全体的には描けてると思うよ。一応形も取れてるし」

「ありがとうございます」


 え…あ…よ、よかったー!大体はOK?合格?そこまで怒られることは無い?

 そんな期待が胸にあふれた時。


「けどな。これじゃどれだけたくさん描いても上手くはならないぞ」

   

 …上げて落とされた。いや、はい。ちゃんと怒られます。


「それは、どういう…」

「だってお前、見てないだろ」


 ギクッ。


 吉野のその一言は、私の胸に容赦なく突き刺さる。


「見てない…」

「感覚で描いてるのバレバレ。…この絵は全部生きてない」


 自己保身丸出しだった藍に言った吉野のその言葉は、衝撃的なものだった。

 …私がやっつけ仕事で終わらせたことを咎めるんじゃなく。もっと時間をかけろとか、そういうことを言ってるんじゃなく。


 絵に対する向き合い方を注意された。

 ……自分の曖昧さを見抜かれた。

 


 甘えを、指摘された。



 この気持ちをどう処理すればいいか分からなくて、藍は手に持つクロッキー帳をぎゅっと握る。


「何でこんな勿体ない事すんの?木村、ちゃんとやれば描けるのに」

「すみません…」

「これじゃあ練習にもならねーよ。…はい、終わり」

「…ありがとうございます」


 鼻の奥がツンとする。気を抜けば目が潤んでくる。


 先生は悪くない。適当に終わらせたのも事実だし、”ある程度描ける自分”に対しての驕りも多分あったんだろう。現実逃避だかなんとか言って、本気にならないで逃げ続けたツケが回ってきただけなんだ。


 胸に抱えたクロッキー帳を再び抱きしめて席を立つ。ドアノブに手を掛けようとした時、吉野からもう一度声を掛けられた。


「次は…右田だな。あ、これ全部やり直しだから」

「え」


 その声の方を振り返ると、呆れた顔の吉野がいた。


「当たり前だろ?期限は二週間後の今日まで。ちゃんと見て描けよ」

「…はい。失礼します」


 扉が閉まる音がいつもより重く響いた。部屋を出ていく藍の後ろ姿を見つめ、ため息をつく吉野がいたことを彼女は知らない。





 そしてその足で、早足で次の番である後輩の右田の元へ行った。


「右田」


 その声に彼は紙から顔を上げた。


「はい?あ、次僕ですか?」

「うん」

「…どうしました?」


 まだ目の潤みが収まる気配がないので顔を上げないままでいた。しかしそんな彼女を訝しんだ右田がじっとこちらを見てきていて、藍は苦笑しながら彼を見た。

   

「何でもないよ」

「そうですか…?」


 彼の疑問の声にそれ以上答えることなく、藍は席に着いてデッサン再開の準備を始めた。右田は藍の方を若干気にしつつも、美術準備室へ向かう。

 そんな二人の様子を見ていた凛が、隣にいる藍にこっそり声をかけてきた。


「…早退する?」


 …驚いた。まだ何も言ってないのに。

 凛をちらっと見ると、彼女は不安そうな顔を隠さずこちらに向けていた。


「いや」


 ここで逃げたらそれこそ甘えだろう。でもこのまま彼女を見てしまうと、私の怠惰や甘えがすべて見透かされてしまうような気がする。だから凛と顔を合わせることなく、藍はデッサンを再開する。それと同じくして、準備室のドアをノックする音が聞こえた。


「そう」


 凛がそれ以上深く聞いてくることは無くて。


「失礼します」


 美術準備室の中へ右田が入っていく。凛も再びデッサンに戻った。

 彼が入った後、そのドアが閉まる音が大きく響いた。



 『この絵は全部生きてない』



 吉野の言葉が頭の中に蘇り、藍は歯をぎりっと噛みしめる。

 再び、美術室内は木炭を走らせる音のみが支配した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ