フランツの家
本作は少年同士の友情・憧れを描いていますが、「ボーイズラブ」タグは不要な程度の描写と認識しています。
家にはその家の臭いというものがある。住人の体臭、使っている石鹸の香り、好まれる料理の香り。家具に使われた木材、壁紙の臭い。犬や猫や小鳥がいたり。自宅に帰って扉を開ければ、馴染んだ臭いに迎えられる。外で纏っていた緊張を解くことができる。それは、安心できる瞬間であるはずだった。
「おかえり、フランツ」
「ただいま」
けれど、フランツにとっては違う。家の扉に手を掛ける時は──少なくともこの数か月は──肩に力を入れてしまう。部屋の中に異常がないかを確かめようとしてしまう。食卓の上には白い薔薇を活けた瓶。くすんだみすぼらしい室内には似合わない清らかな色と芳しさ。薔薇の香りが覆い隠そうとして隠しきれないのは知らない煙草の臭い。花びらの輝かしさが、母の表情の微妙な引き攣りも照らしてしまう。
「今日も、いるの? お客さん……」
「ええ……いえ、もう帰ったけれど。よく分かったわね……?」
フランツが溜息混じりに尋ねると、母はほんの少しだけ、けれどあからさまに眉を寄せた。露骨に表情を変えたりして、息子に対して綻びを見せないで欲しいのに。わざわざ薔薇を買ってきたりして、他人の気配が誤魔化せるとでも思っていたのだろうか。
「別に」
頻繁に家を訪れているらしい客が誰なのか、両親はフランツには決して教えてくれない。彼が何も言わなければ、来客の存在自体を話題に出さないくらいなのだ。臭いがなくとも、ソファに残った凹み、位置のずれた椅子、使われた形跡のある皿やコップ、ジャガイモやザウアークラウトの減り具合、そんなもので家族以外の人間の存在は知れてしまうというのに。
「ちょっとフランツ……ご飯は?」
「要らない」
「学校か少年団で何かあったの?」
「何も。とても楽しいよ。充実してる」
嘘を吐きながら笑顔を保つのに、ただでさえ擦り減った気力を総動員しなければならなかった。別に、母を安心させるためじゃない。
総統は素晴らしい指導者で、党の方針は絶対。青少年は誰もが勇敢な兵士にならなければならない。それ以外のことなんて言えないからだ。たとえ家でも、親に対しても。
「疲れてるから。寝るね」
そもそも、誰とも知れない者たちが出入りするこの家を、彼はもはや我が家とは思っていない。誰とも知れない者たちを客としてもてなす両親も同様。他人の家に帰って来た居心地の悪さを抱えて、フランツは自室ということになっている部屋に篭った。
ベッドに倒れ込むと、疲労が痺れるように全身に広がっていく。ユーゲントに入ったばかりの十四歳だからというだけでなく、フランツは連日の訓練に耐えるにはひ弱だった。同じ年少組の中でさえも。
(お腹空いたな……)
すぐに眠りに堕ちても良いはずなのに、身体を内から苛む空腹感が夢の安らぎから彼を遠ざける。目を閉じれば、彼を女の子と嘲る級友たちの顔が浮かぶ。目を開ければ、抱え込んだ膝の間から情けないほど薄い腹が視界に入る。いずれにしても、フランツに自分は惨めで必要とされない存在だと思い知らせるのに十分だった。それに──
(まだ、いる……)
横向きに転がったことでベッドに押し付ける格好になった右半身から、家内の微かな軋みが伝わって来る。父や母なら、こんな風にこそこそと動き回る必要はない。母はもう帰った、なんて言っていたけれど、煙草の臭いを漂わせる客はまだこの家の中にいるらしい。
重い足の運びは、多分大柄な男。背丈や髪や目の色は、フランツが知ることはないだろう。彼が学校に行っている間やユーゲントの活動をしている間、疲れ果てて寝ていたり部屋に籠って勉強したりする間に家を通り過ぎていった、ほかの客たちと同じように。
香水の残り香や落ちていた長い髪から、女だった時もあるはずだ。軽いぱたぱたという足音や、堪えきれなかった風情の忍び笑いから、子供の気配を感じることもあった。帰宅した瞬間には何ごともないと思っても、深夜に裏口の扉が開くのを聞いたこともある。姿の見えない彼ら彼女らは、フランツの意識を掻い潜るようにして家の中を通り抜けて、そして二度と帰って来ない。誰ひとりとして姿が見えないから、恐らくはそうだろう、ということだけど。
職人の父と、戦争が始まってから工場で働くようになった母と。ごく普通の一般市民のはずだ。かつては、これほど頻繁に来客があることはなかったし、その際はフランツもちゃんと紹介されて挨拶したはずだった。なのに、今は。両親は得体の知れない客に傅いて、実の息子はベッドで息を潜めていなければならないなんて。
「みんな、きらいだ」
何よりも、彼自身が。客たちがいったい何者なのか、両親に問い質す度胸もない。客たちが不快で怖いのに、そうと表明することができない。今日あったことを語り合いたいのに、団欒の時間を強請ることもできない。どうせ泣き言ばかりになって、誇れるような話題などないのを彼自身がよく知っている。慰めて欲しい甘やかして欲しい、だなんて口にしない。できはしない。そのていどのささやかな矜持がフランツを黙らせるのだ。
だから彼は黙って膝を抱える。目を閉じる。そうしていれば、いつかは眠ることができるから。そしてまた憂鬱な一日が始まるとしても。
* * *
額から流れ落ちる汗がフランツの視界を滲ませ、目に刺すような痛みを感じさせた。
「フランツ! 遅れてるぞ! 腕を上げろ!」
「っ、は、はい……っ」
横から浴びせられた罵声にひと言答えるだけでも、肺が破れるのではないかというほど痛んだ。ユーゲントの行進の訓練中のこと、列を乱すか弱い女の子は、指導者や年長の班長にもう目をつけられている。
国民と国家のために、青少年の肉体、精神および道徳を鍛えあげるのがユーゲントの目的だ。家庭だけでも学校だけでも、放逸な若者を躾けるには足りないのだ。ことに、フランツのように惰弱な存在は。
遅れがちになりながら、隣の少年に舌打ちや嘲笑を浴びせられながら。懸命に手足を動かす。声を合わせて歌ったり、一糸乱れぬ行進の訓練をしたり。奉仕活動もハイキングも、何ひとつ楽しいことはない。ここも彼の居場所ではない。けれど家にいるよりはよほどマシだった。少なくとも、ユーゲントに放り込まれた当初よりは。身体を動かすことに集中していれば、他人に乗っ取られたような自宅のことを考えないで済むのだから。
休憩時間になると、フランツは地面にへたり込んだ。二度と立ち上がれなくなりそうな予感はあっても、彼の脚はもう自らの体重を支えられない。膝の間に頭を休ませて荒い呼吸を整えていると、頭上から軽やかな笑い声が降って来る。
「いつもにもましてへばってるな、お姫様。ちゃんと食べてるか?」
フランツは、首がぎしぎしと軋む音を聞きながら辛うじて顔を上げた。すると、声の主が悪戯っぽい笑顔で彼を見下ろしている。三つ年上とはいえ、同じ訓練を潜り抜けたばかりとは思えない涼しげな様子をしているのはディートリヒ──彼の班の班長だった。
「……はい。すみません」
昨日の夕食を抜いたのが祟っているのだろうな、とは思いつつ、その理由──不審な来客のことなど言えるはずもない。だからフランツは従順に目を伏せて謝った。ディートリヒは、彼が見るには眩しすぎる。
金色の髪、緑の目が完璧な配置で並ぶ彫刻めいた顔貌。日焼けした健康的な肌に、鍛えられたしなやかな手足。ユーゲントを卒業したら、そのまま親衛隊に入るのだとも囁かれる、理想的なアーリア人の若者だった。そのディートリヒの目に、彼自身が映っているのを見てしまうのは耐え難い。髪と目の色だけは辛うじて同じでも、お姫様だなんて揶揄される少女めいた姿をディートリヒに見せているなんて、自覚したいものではなかった。
だから、放っておいて欲しかったのに──ディートリヒは、フランツの傍らに膝をつくと彼の顔を覗き込む。顎を捕らえられて強引に目を合わせさせられると、ただでさえ酷使された心臓が危うく破裂しそうになる。
「顔色が悪いな」
眩すぎる宝石の目から逃れたくても、疲れ切ったフランツよりもディートリヒのほんの指先だけの力のほうが強かった。彼の強がりも見透かされているのだろう、声変わりを済ませた声が耳元で笑うと、その低い響きがフランツの肌を撫でた。
「大丈夫です。本当に。大丈夫だから──」
彼は、ディートリヒと並んでいて良い存在ではないのだ。太陽と──星を名乗るのさえおこがましい、地上をあまねく照らす光に炙られて燃え尽きる塵がフランツだから。彼の目は、きっと何もかもを照らし出して見通してしまう。非力で無能な彼のすべてを。それを知られてしまったら、ディートリヒだってほかの少年たちと同じように彼を嘲るだろう。
一秒でも早く解放して欲しくて、惨めな思いが耐え難く苦くて。顔を背けようとしたフランツの口に、何かが触れた。
「これでも口に入れとけ。こっそりとな。糖分は活力になる」
最初に感じたのは、目眩がするような強い甘さだった。それと、少しの埃っぽさと塩っぽさ。
「頑張れよ。見ててやるから」
ディートリヒが、チョコレートの欠片をフランツの口に押し込んでくれたのだ。軽く肩を叩いてから立ち上がったディートリヒの、軽く細めた目は共犯者の笑みを湛えていた。優しいけれど鋭いその眼差しに命じられるまま、フランツは粘りつく甘い欠片を咀嚼した。
フランツの唇に、ディートリヒの硬い指が触れたのだ。そして、舌に感じた塩気は、彼の汗だ。その気付きが、貴重な砂糖の甘味よりもはるかに強く、フランツの脳を痺れさせた。
* * *
「細い腕だな。小枝みたいだ」
フランツのひ弱さは、ディートリヒにとっては看過しがたい水準に達しているようだった。今日も、年長の少年──もう青年と呼んだほうが良いか──は、彼の腕を掴んで首を捻っている。同じ訓練をしていてこうも体格が違うのが、すべてに優れたディートリヒには信じられないらしい。
「よっぽど好き嫌いが激しいのか?」
「大丈夫。多分、体質なんだ。放っておいてよ」
必死に反駁するフランツの喉に、濃い甘味が絡んでいる。例によってチョコレートの欠片を与えられて。唇に触れるディートリヒの指の硬さをまた味わいたくて口を開いたら捕らえられてこの様だった。
「菓子ばかり食べてるんじゃないよな? 家では何を食べてるんだ?」
あの日から、ディートリヒは何度もフランツに餌付けをしている。砂糖の補給がなければ倒れてしまいそうだと思われているのか、よほど甘味が好きだと思われているのか。──何よりも焦がれているのは彼の指や笑顔や眼差しだなんて、口が裂けても言えるものか。家の話もしたくない。怪しい客も、どこか遠くなってしまった両親のことも。それは誰にも知られてはならないことだ。上手く惚けなくては。
「別に、普通だよ」
ディートリヒの指は長く逞しい。フランツの華奢な手首を優に一周して枷のように捉えて離さない。そればかりか、彼の指はフランツの腕や胸に触れてその頼りなさを確かめようとする。赤く染まってしまう肌、熱を持ってしまう身体を気付かれまいと、抗うだけ非力を突き付けられるのを承知で、フランツは必死に追及を逃れようとした。
「班員が倒れたら俺が困るんだよ」
狼狽えるフランツとは裏腹に、ディートリヒの声は平静だった。表情もきっとそうだろう。そうだ、ディートリヒは班の落ちこぼれを気に懸けているだけだ。きっと、彼自身の評価にも繋がることだから。ディートリヒは、訓練で疲弊したフランツの心臓をさらに痛ませて苛め抜く。
彼の目に浮かぶ真摯の色は、フランツの信じられないくらいの細さ弱さを本当に案じているのだろうか。それとも、何か探ろうとしている? いずれにしても、彼は、怖い。ディートリヒの真剣な目はフランツを怯えさせ萎縮させた。
「ちゃんとやるから。本当に」
訓練終わりに帰る準備をしながら、ユーゲントの仲間たちがちらちらと彼らを窺っているのが目の端に見えてしまう。嘲りに歪んだ唇が囁き合う言葉が聞こえてしまう。女の子や、お姫様。
でも、フランツは男だ。お姫様のように守られる必要はない。フランツなりに、隊列の隅で不格好に足掻くから、それで見逃して欲しい。彼は、ディートリヒが心を砕くような存在ではない。まして、触れるだなんて。
「ご両親は働いてるよな。ちゃんと食事は出してもらってるんだよな? 栄養学の知識がないとか?」
「えっと、親、は──」
ディートリヒが手を離したのは、逃げる好機のはずだった。低い声で問われたのにも、笑って首を振れば良いはずだった。フランツが細いのは体質であるはずで、別に食うに困っている訳ではない。
ただ──もう少しで口から零れ落ちそうだったのだ。家が変なんです。知らない連中がうろついていて、親もそれを見逃している。なのに僕には何も教えてくれない。ディートリヒになら打ち明けても良いかもしれないと、訳もなく縋りつきそうになってしまったのだ。彼は他人で、フランツの寄る辺になどなってくれないのだろうに。そもそも、信じ切って頼り切ってはいけないのに。
不自然に作ってしまった数秒の間は、ディートリヒに悪い想像をさせたに違いなかった。意志の強さを窺わせる、男らしい眉がぎゅっと寄せられ、逞しい手がフランツの肩を痛いほど掴む。
「……家に行っても良いか? ご両親と話がしたい。お前ひとりの話じゃないぞ。国家の未来を担う有望な若者が──」
「い、嫌だ!」
渾身の力で暴れたとはいえ、フランツの手を振りほどくことができたのは、奇跡といって良かっただろう。恐怖が、彼自身にも信じがたいほどの力を発揮させてくれた。あるいは、ディートリヒはそれほどフランツに触れるのに慎重になっていたのかもしれない。迂闊に力を籠めれば壊れてしまう、ガラス細工ででもあるかのように。そうでなければ──
「僕は女の子じゃない! いちいち構うな!」
叫ぶなり、フランツは走り出した。家ではなく、ディートリヒのいないどこかへ。彼の緑の目が追っているのを感じながらでは、家に帰る気にはなれなかった。
彼は犯してはならない失敗を犯した。これだけは避けなければならなかったのに。ディートリヒは、彼の両親に対して疑念と悪意を持っただろう。息子にまともなものを食わせない親だと。彼が上手く説明できなかったからそう思わせてしまったのだ。いや、ただの誤解ならすぐに解けるからまだ良かった。
ディートリヒが、フランツの家を訪ねなければ、などと考えたらどうしよう。そして、その時に客が来ていたりしたら? 両親が何も言わなくても、フランツにはさすがに分かる。あの客たちは、いてはいけない者たちなのだ。
* * *
あちこち走り回った挙句、乱暴に家の扉を開いて駆け込むと、早く帰っていたらしい父が目を丸くして出迎えた。
「なんだ、フランツ……何かあったのか?」
「えっ、と……」
ディートリヒから逃げるのに必死で、フランツはまたもすぐに答えることができなかった。息子が息も髪も乱して、しかも顔を恐怖に引き攣らせて帰ってくれば、親としては心配するのは当然だっただろうに。
「やはりお前はユーゲントには馴染まないか? 優しい子だからな……何かあれば相談するんだぞ」
いや──肩に置かれた父の手も震えていた。それに、酸欠に眩んだフランツの目は、父の肩越しに母ではない人影が廊下の影に消えていくのを確かに捉えていた。台所のほう、裏口があるほうへ。また客が来ていたのだ。父が玄関口までやって来たのは、彼の目に客の姿を見せないための時間稼ぎに過ぎないのだ。
「何でもない……途中まで、競争したんだ。友達もいっぱいできたよ」
荒い呼吸の下で、フランツは懸命に笑顔を繕った。同時に父の手を肩からそっと退ける。ディートリヒの力強い手と比べると、それはどれほど簡単なことだっただろう。嘘を吐くのも、以前よりも、そしてディートリヒに対してよりもずっと容易いことだった。
だってディートリヒは彼を──彼なんかを心底案じてくれたけれど、父たちは違う。彼を産んだ人たちは、血を分けた息子よりも大事なことがあるようだから。それなら、フランツのほうだってすべてを打ち明ける義理なんかない。
ディートリヒの家は資産家とのことで、案内されたソファは、軽いフランツの身体でもどこまでも沈んでしまいそうなほど柔らかかった。
「何かの間違いだと思うけれど……」
美しく上品なディートリヒの母が出してくれたコーヒーは香り高く、代用品などではないことは明らかだった。磁器の皿に並んだクッキーも、きっと甘いのだろう。だが、フランツは味わう気にはなれなかった。彼なりに考え抜いた末の行動、その結果を待つだけで、心臓が破裂しそうな思いを味わっていたからだ。
何もかも調和した、美しい──けれど静かな他人の家で待つ時間は永遠にも思えた。だが、やがて応接間の扉が音高く開かれた。入って来たのは、ディートリヒとその父だ。真っ直ぐに近づいてくるふたりに応えて、フランツも立ち上がる。何があったかは──聞くまでもなく、興奮に紅潮したディートリヒの顔が教えてくれた。
「フランツ! お前の言う通りだった! ユダヤ人が隠れてた。お前の家に!」
予想はしていても──とうに知っていたことでも、ディートリヒの口からそうと聞かされるのは、頭を殴られるような衝撃だったが。ふらついたフランツを、ディートリヒは素早く支えてくれる。彼の胸に凭れるようにして、フランツは彼の父──陸軍の士官だと聞いた──を見上げた。
「両親は……どうなりますか……?」
両親にあれほど多くの友人がいるはずがない。ならば少し考えればわかること──気配だけを残して慌ただしく訪れる客たちは両親の知己ではないし、そもそもれっきとした客ではないのだ。
フランツが物心ついてから今日までに、周辺からひっそりと姿を消した人たちがいる。近所に住んでいたゴールドベルクさん夫婦。ハイネが好きだったミュラー先生。教会のシュトラウス神父。ほかにも、級友やその家族が、たくさん。彼らはこの国の輝かしい未来には相応しくないと見做されたのだ。自ら去った人たちもいれば、連れ去られた人たちもいる。誰によって、どこへかは分からない。
けれど軍や警察の目を逃れて、国内にとどまっている人たちも多い──のだろう。いるべきでないのに逃げ続けるのはきっととても難しく、組織的な協力が欠かせない。ひとところに長くとどまるのは危険だから、証拠はなるべく残さないように。だから──ごく普通の一般市民の家に、ひと晩だけ。食事一回だけ。あるいは、休憩だけでも。そういう人たちは、そんな綱渡りを繰り返して命を繋ごうとするのだろう。
フランツの両親がしてきたのは、きっとそういうことだったのだ。
「ご両親はれっきとしたアーリア人だ。罪を償えば、きっとまた会える」
即座に嘘を吐いてくれたディートリヒの父は、多分優しい人なのだろう。いなくなった人たちがどこに行ったのかは誰も知らない。誰も帰って来ないから。フランツは、二度と両親に会えないのを知っていて客のことをディートリヒに、彼の父に密告したのだ。衝動的にぶちまけるのとは違う、もっと賢く冷静に──冷酷に。けれどそんな様子は見せないようにして。国を憂いた若者が、勇気を振り絞って断腸の思いで両親の過ちを告発する、そんな風に見えるように。
「僕は……それまで、ひとりで……?」
気付いていても、これまでならば黙っていた。いずれほかの誰かが気付くのをほぼ確実な未来として見ていても、フランツに行動する勇気がなかったから。でもディートリヒに触れてしまった後なら違う。それに、両親に心底失望した後なら。息子よりもユダヤ人や危険分子のほうが大事だという人たちだ。そんなの親とはいえないだろう。彼らだって不安から解放されたはずだ。彼に何も言わなかったのは、こうなることを恐れていたからに違いない。恐れていた通りに息子に売られて、いっそ安堵したくらいだろう。
せいせいした。両親を名乗る他人はもういない。そして──独りきりで放っておくには、フランツはあまりに幼く頼りなく、可哀想に見えるはずだ。
「家で引き取る。それくらいできるだろう!?」
願った通りの言葉を聞いて、俯いた影でフランツは微笑んだ。ディートリヒの胸にそっと頬を寄せる。
フランツはディートリヒに相応しい存在にならなければならなかった。体力でも体格でも劣る女の子がいくら頑張っても足りないから──だから、功績が必要だった。黙って怯えて破滅を待ったりなどするものか。実の親さえ告発できた愛国心は大したものだろう。ここまですれば、誰も彼を嗤ったりしない。
「こいつは根性があるんだ。鍛えれば、きっと……!」
ディートリヒの父の答えは、聞くまでもない。自慢の息子のたっての願いを断るはずがないのだから。愛国者の少年を引き取る美談に抗うのだって難しいだろう。だからもう心配する必要はない。我が家がないなら手に入れれば良かったのだ。非の打ちどころのない評判、立場と財産ある養父母──ディートリヒも。無駄に思い悩んだ日々の、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
「ディートリヒ──本当に?」
「ああ。今日からはここがお前の家だ」
不安と期待に震える振りで、フランツはディートリヒの背にそっと腕を回した。そして返された力強い抱擁に、ディートリヒの厚い胸に包まれて、フランツは本当に久しぶりに我が家にいる安心を味わった。