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黒い短編集  作者: 衣月
27/27

遊蝶花と千羽鶴

ある文学賞に出して、二次選考まで通った作品です。

そのままタイトル検索されると本名がバレるのでちょっと変えました。

 借りパクした文庫本の扉ページを千切って鶴を折る。

 鶴を折ることは簡単だが、本から紙を離すのが難しい。軽快で乾いた音をオルゴール調のBGMに物々しく響かせ、ページは剥がれる。定規を当てるような神経のきめ細やかさを持ち合わせていないのは鶴の羽の出来で簡単に読み取れる。

 きっとこの本が本棚に並んでいたら私なら手に取りもしないだろう。筆者も書いていない、表紙の漢字すら読めないのだから。でも、彼女があんなに切羽つまって渡してくれたからには、読まないわけにもいかない。ネームプレートに書かれていた、立花美音の漢字を思い出した。次のページを読み終わると、また千切って鶴を作った。

 文語体なのか、やけに読むのに時間がかかる。飲み下すのに二巡しないといけない。ずっとこの文体が続くのかとパラパラと全体をめくってみると、ものの十数ページほどで現代かなづかいに変わっていた。どうやらこの章だけ特別らしい。学校の授業は真面目には聞いていないけれど、古文の知識はテスト用に暗記はしていたので知らない助詞・助動詞自体はそう多くないが、漢字が難しいので隣の辞書は手放せない。

 じっくり一文ずつ読むと、また次のページをめくってぴりりと破いた。

 白磁のカップから立ち上る湯気に混じってアッサムの香りが『諷詠の風』のほの暗い店内を満たす。

 『遊蝶花』。タイトルすら読めないこの本を、突然、一人の女の子が私に貸した。

 彼女、立花美音とはまだ一度しか話したことがない。話したことは。


 私は友人の珠とよくカフェ巡りをしており、そのとき案内されたのが『諷詠の風』というブックカフェだった。本が別段好きなわけでもなかったが、店内に立ち並ぶ本棚の森とほうじ茶の香りで、店内に入った瞬間から胸のときめきが止まらなかったのを覚えている。あの店内には麻酔でも漂っていたのだろう。だから初めて見た彼女の背中にもあんなに目を連れていかれたのだ。

 いま向かっているのもまさにそこだ。あの日と同じ、昼下がり、東大路通を歩く。短い影を飛び越える足はまだブーツだ。去年のあの夏とは違う。

 初めてあのカフェに行ってからは珠とカフェ巡りをしなくなった。あの店が私の行きつけになったのを察したのか、珠も他のカフェに私を連れまわさなくなった。といっても私はそれからも二回しか『諷詠の風』には行っていない。そのうちの一回さえ、自分が行きたいからというより、この本を返すためだった。もとが出不精なので、一人ではなにもしない。

 趣味らしい趣味もなく、何かに熱中する熱意もなく、かといって友人を求めてもいなかったので、私は部活にすら入らず、誰かを待って放課後に教室に残ることもなかった。その時間を勉強にあてるわけでもないが、成績で悩むほど悪いわけでもなく、高二から合格に躍起になるほどの高望みもせず、平々凡々という言葉が波のないこの人生を語るにはちょうどいい。なにも語るものを持たない人ぐらい社会には溢れている。だから語調さえ平々凡々なこの言葉が私には合っている。引退していく先輩を涙まみれの顔で見送る同級生に羨ましさを感じないでもないが、それは無縁な世界だから眩しく見えるだけ。星を見上げる花もそれなりに土の感触に満足はしている。土を見下ろしている時間の方が私は似合う。日常は妥協とほんの少しの憧れで構築されるのだと乾いた夏休みを送っていた。

 そんな私に、すこしだけ訪れた変異が彼女、立花美音だった。

 珠から隠れられる本棚に立ち、整列する色とりどりの背表紙を目でなぞっていく。ふと奥の本に気をとられ、店の壁際の本棚に紛れ込むと、彼女が間近にいたことに驚いた。店に入ってすぐにこの人がいることは気づいていたが、今彼女のそばにいる事実が、逆にこの現実感を失わせた。

 大学生だろうか。細くさらさらと肩を流れ落ちるロングの黒髪には、スズランを模した飾りの揺れる簪がハーフポニーに差さっていた。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんて言葉もあるが、一歩でも歩き出せばこの女性は鈴の音が鳴り出しそう。本棚にくまなく触れるその目は、夢の夜空を見上げるように、幼いわが子を見守るように、上へ下へと表情豊かに動く。色にあふれる本棚に裂かれた暗い通路は、どこか遠い国の、色とりどりの花で作られた洞窟に迷いこんだような、そして彼女はさらに奥へと導いていく、いたずらでどこか恐ろしい妖精のようで。そんな空想めいた世界を思い起こさせる、深い空気が彼女の周りに立ち上っていた。

 彼女の、人を敬遠させる姿に、私は魅せられた。

 最近読んだ俳句を思い出した。

 このときの私はきっと止まらなかった。なぜあんな言葉が口を吐いて出たのか私にも分からなかった。

「この樹登らば」

 彼女は振り向いた。なぜか驚きもせずに。その反応自体、私には意外だった。

 私は息を飲む。自分が言いかけた言葉に驚いた。そして彼女の顔のあどけなさにも。二の句を次がないと。

「この樹登らば鬼女となるべし」

「夕紅葉」

 また私が驚いた。ああ。彼女には驚かされてばかりだ。この俳句を知っていること、声までも美少女であること、その瞳の芯の強さと深さ。

 彼女は何事もなかったように本棚のほうに向きなおり、言葉をつづけた。

「三橋鷹女の有名な作品ね。能の『紅葉狩』に寄せた思いを詠ったと言われているの」

 彼女は二三歩足を進めると、一冊の本を抜き取った。その動きもなぜか花を思い出させる。私は言葉も出ずに、動くこともできず、ただ彼女の一挙一動に目を凝らすことしかできなかった。本の目次を見ているようだ。

 その見た目からすると、正直私は無視されても不思議じゃないと予想していた。人よりも本が好き、と言わんばかりの見た目だったから。彼女を形容するなら、聡明な明治の文学少女、あるいは、もうすこし冷たい、人里から隠れる雪女、といってもいいかもしれない。人に話しかけられると物陰に逃げるか、冷静なら私が逃げるまで無視しつづける、という反応が似合う。けれど、彼女は私との会話を続ける。

「鬼と女の狭間を行き来する階梯のような紅葉に、自分の心の妖しい喜びを垣間見る、恐ろしささえ感じさせる俳句よね」

 一瞬の沈黙を言葉に置いて、目的のページまでふわりとめくる。なぜページをめくる姿さえ色気があるのだろう。もしこの色気に名前を付けるなら、知性のフェロモンだ、と見とれていると、ふいに彼女がこちらを向いた。白い肌は亡霊のようにまるで血と無縁な、人間とは違う儚く尊い生き物に見えた。

「そして、なにより、私、立花美音のお気に入りの俳句なの」

 肌の白さに気を取られていて分からなかったが、かすかにいま彼女の頬は赤く輝いていた。雪女は、白雪姫に変わる。彼女に微笑みが滲み出す。開いた本を手渡しながら。

 それが最初で最後に彼女と言葉を交わした日だった。


 木の板に焼印で『諷詠の風』と書かれた看板がかかるフェンスを越え、半地下になったカフェの入り口へと降りていく。

 彼女と初めて会った日の夜、『諷詠の風』の名前の意味を調べた。諷詠とは、詩歌を作ったり、吟じたりすること。詩歌を作り吟じる風。まさに彼女はそんな人だった。音さえも風のような言葉だ。

 今日彼女がいないのは分かっている。

 何か月ぶりかな。七月に初めてここに来て彼女と出会い、十月の半ばに外で彼女と会って、二回目にここに入ったのはその一週間後、それ以来だからまだ四か月しか経っていない。でもこれからしばらくは毎日通うことになる。ここが彼女の領域だったのだから。

 三回目のおばあちゃんにアッサムを注文する。初めてこの店に来た時は日本茶のほうが高いことを嬉しがって頼んだが、やはりこれから通うことを考えると安い紅茶になる。注文ついでにおばあちゃんに声をかけた。

「すいません、ここに立花さんっていますか」

「ああ、あの子やろ。二十歳のべっぴんさんの」

「髪が長い子でしたね。いまどこにいるか分かりますか」

「あの子ねぇ、声が出ないからって病院行ってはるらしくって、ここのお手伝い辞めちゃってね。あんた、あの子の友達なん」

「そうですね。本の貸し借りをするぐらいには」

 彼女の声が出なくなったことは二回目に会ったときに気付いていた。彼女もおそらくその時に気付いたのだろう。この本、『遊蝶花』を貸してくれた日のことだ。

 今日おばあちゃんから得られた収穫としては、彼女が通っているだろう病院だった。彼女はここで働いていたというより手伝いに来ていた。ここをいつでも使っていいという条件のもと、おばあちゃんの届かない本の整理や新しく本を仕入れるときのアドバイスをしていたらしい。前に彼女がいた本棚は、彼女にアドバイスされて集めた本で作ったコーナーらしい。大学に入ってすぐの頃からここでお手伝いを始め、今年の十月半ば、おそらく私と最後に会った日に、ここに来なくなった。

 おばあちゃんだから話したがりかと思っていたが、思っていたより寡黙なようで、あまり深く語られなかった。そのほうがこちらとしてもありがたい。私はここに話しに来たのではない。おばあちゃんに断って、私は持参した『遊蝶花』を読んでは千切り鶴を折った。知らない言葉が多いので、辞書を片手に置いて。

 この本は文語体のページが終わっても、文中に出てくる比喩や表現がよくわからないものが多かった。なにかの引用だろうか。理解できないものに赤鉛筆で線を引いた。そしてその部分をページ数とともに青いノートに書き写しておき、ページは鶴にして背に穴をあけ順番通りに糸で繋いでいく。毎日一本の鶴の列を作っていこう。そう決めて、小さな針と糸を鞄に入れていた。


 彼女と初めて話した直後、渡されたページに目を落とすと、まさにいま読んだ俳句が載っていた。

「この本に載ってたんだ」

「あなたはどこで読んだの」

 この人はあまり表情の変化が豊かではないだろう。はじめに声をかけたときも驚いていないように見えたが、あれはこの人なりに驚いていたのかもしれない。いまも真顔に近い。

「センターの赤本でやっただけ」

「この俳句を扱うなんて、なかなか良いセンスね」

 そう言って流し目で笑った、ように見える。私ならわかる。

 明らかに年上の彼女に、けれど私は自然と敬語を忘れていた。彼女は意にも介さない態度で返事をくれる。彼女の話し方は今時いないような女性らしい言葉遣いだった。の、ね、よ、が語尾に自然に付いていること。丁寧な言葉運び。彼女の育ちと品の良さが溢れていた。あるいは、変わった子なだけかもしれない。でも、どうしようもなく、彼女のかすかな表情の変化を追いかけるしか、私にはできなかった。

「三橋鷹女ならこれもおすすめよ」

 この本には載っていないらしく、その場で目を閉じて諳んじた。

「老いながら椿となつて踊りけり」

 いまこの胸に浮かぶ、うつくしい、という言葉は、三橋鷹女へ贈られたのか彼女へか、私には分からない。

「文学はすき?」

「わからない」

 せつない、その目は。伏せた目蓋をひらいて。こちらを見て。もっと。焦るような自分の声が聞こえる。

「たとえば、有名なものとしては『ロミオとジュリエット』ね。激しく一夜で燃え尽きるような愛はいつも憧れよ。『嵐が丘』みたいな復讐心も捨てがたい。少し手を広げれば『ロリータ』みたいな歪んだ性癖の激しさも魅力的ね」

 彼女は恍惚と語る。見かけによらず口はよく動く。表情の変化は読み取りづらくとも、声色の変化は感情に比例している。宙に舞う細かな埃が仄明るく彼女を彩る。

「私、激しい思いに惹かれるの」

「それ、私も」

 はっとしたように目を開ける。言い過ぎたと思い、焦っているのだろうか。もしくは同士をみつけて嬉しいのだろうか。やっと私のほうを見た。その瞳の強さに、私の奥が見透かされる。いや、見透かされているようで、見透かしている。この人は私を知りたいと思っている。

「あなた、名前は」

 なんとなく、喉が渇いた。

「楠 丹奈。高校二年生」

 必要ないのに学年まで言ってしまった。彼女には、私のことを少しでも多く知ってもらいたい気がした。しまった、と思ったが、彼女は気にしていなかった。どころか、「じゃあ、にな」と呼び捨てにされる。

 私は、この胸の小刻みな震えを黙らせられるのかな。

「いつか泉鏡花の『外科室』を読んでみて。これは私の一番すきな本かもしれない」

 いま、自分の顔をぜったいに見たくないと思った。きっと私は無様なほど泣きそうな顔をしていただろう。彼女の目にこんな私が映ることが恥ずかしいのに、それを自分で制御することもできないまま、彼女に頷くことだけが、精いっぱい堪えた涙の代償だった。

 珠が呼ぶ声がして、我に返った。ありがとう、とだけ返して、足早に本棚から離れた。楽しかった。私の知らない世界へ、彼女が連れていってくれる感覚。彼女の世界。自分の席に戻り、小さな声で、美音、とつぶやいた。もう彼女のほうを振り向けなかった。


 もう一度そのカフェに行くには、あまりに多くの思いが交錯する時間が長かった。彼女に会いたいようで会いたくなかった。彼女が勧めてくれた本も、あえて読まなかった。

 初めて行ったあの日、珠と二人で店を出るころにはもう外は影に満ちていた。半地下のこのカフェは、特に窓の向こうが暗く感じる。薄暗い店内も、扉にはまったガラスに反射する。振り返れない私の目にも、残念ながら後ろにひろがる光景が見えてしまった。

 美音、彼女の手を大学生らしき男性が引いている。

 この気持ちに名前をつけられたら、もう一度、会いに行ける気がして、ずっとあの場所に行くのを渋っていたのに、町で偶然出会ってしまった彼女の涙を支えるまで、結局私はそれができなかった。彼女が私に生み落した卵は、この胸でときに転卵されながら疼き、けれどあなたにもう一度会うまで孵ることはなかった。

 彼女のキスに立ち会ったのは、ほんとうに偶然だった。駅でも公園でもなく、まして、『諷詠の風』でもなく、東大路通の路上だ。あのときの男性は第一印象からして、けっしてチャラさは感じなかった。はたから見ればお似合いにも見えるはずだが、私には彼女の助けを求める声が聞こえたような気がした。いや、これは私の声だったかもしれない。

 突然のキスに目蓋を降ろし忘れた彼女と目が合った。と思うと男性を突き飛ばし、私の胸に飛び込んだ。彼女は何か私に言おうとして必死に口を動かしていたが、聞こえるのは声にならない音だけ。気が動転しているのか、彼女の熱い涙で肩は濡れていた。私はどうすればいいのか分からず、私より小さい彼女を閉じ込めるように抱きしめた。その後あの男性がどうなったのか分からない。けれど、そんなことを忘れさせるほど、ただ心臓の速さに圧倒されていた。この気持ちの名前が、分かった。でも、同時に、けっしてこの気持ちを言ってはいけないことに思い至った。

 『遊蝶花』を渡されたのはこのときだった。赤い眼で一緒にバスに乗ると言葉も発せられないまま私の目も見ないまま彼女はその本を膝に置いた。彼女を仰ぎ見ると、もう窓の外を流れていく夜の灯りを眺めている。


 『諷詠の風』を出て向かった病院で、ネームプレートに「立花美音」と書かれた部屋を開ける。彼女の病室は、彼女と同じくらい静かだった。彼女は声をなくした。心因性だと診断されても、彼女は頑として誰にもその心を話さなかったらしいが、彼女は私をこの彼女の空間に入れてくれた。いや、この空間自体は来る者拒まず去る者追わずでも、ここに彼女の心は開かれない。その気高さは、白亜の病棟にも染まらない。

 あの見とれた長い髪はいまベリーショートだが、彼女の美しさを引き立てるに十分だ。白いシーツからはみ出す腕には無数の切り傷がある。美音、あなたが自分でつけたことは容易に想像できるが、その瞳の相変わらずの強さはそれを忘れさせた。彼女の起こされた身体はきっと水晶の背骨で支えられている。

「私のこと、覚えてる?」

 そういえば、私たちはまだ会うのは三度目だ。青いノートと赤鉛筆を彼女に渡した。血管が目立つほど白い手で彼女は返答を書く。彼女との記録はこのノートにすべて残していこう。

「覚えてる くすのき にな 高校二年生」

「正解」

 他愛のない会話にも、細心の注意を払う。宙にぶら下がる一本の綱を渡りきるような緊張がやまない。

「ねぇ、あの本のタイトル、なんて読むの?」

「ゆうちょうか パンジーの漢字」

「知らなかった。この本、分からない表現がいっぱいあったから、教えてほしいな」

「『ロミオとジュリエット』『嵐が丘』『ロリータ』それと『外科室』、もしそれ以外なら私の棚にある本、それからしか持ってきていないはず」

 持ってきていない、という言葉で確信した。そんな気がしていた。

「もしかして、この本、美音が書いたの」

 眉ひとつ動かさず、首だけで頷いた。ノートに何か書こうとして、彼女はやめた。美音は丹奈を揺るぎなく見つめる。あどけない、とあのとき思った顔は、こんなに深さを知っていただろうか。瞳の湖面へと、服さえ着たまま水妖に引きずり込まれるようだ。このままこの深さに堕ちていけば、どこに辿り着けるのだろう。その答えは、この本のなかに書かれているのだろうか。でも、私に読む資格がほんとうにあるとは、思えなかった。あなたに湧いて湧いて止まってくれない思いが、あなたの瞳のように澄んでいないことは知っている。

「この本ね、美音に返したい。借りただけだし」

「だめ、になが持ってて あげる」

 ノートの言葉は幼かった。短く返事をしようとしている。いままでの印象と違う。だから、やっと張りつめていた緊張が解けていく。嘘と秘密の鍵はかけたまま。

「私、美音のもの受け取れないよ」

「べつに本棚に置いておくだけでいいの お願い」

「じゃあ、これ読んだら千羽鶴を折って、美音に贈りたい。早く治りますようにって」

 美音は吹き出した。こんなに分かりやすく笑ったところは初めてだ。笑い声の代わりにヒューヒューと風の通るような音を喉から発する。彼女も、こんなにあたたかい春風になれるのか。無邪気、というには小馬鹿にしている感がぬぐえていないが、彼女の笑顔そのものは、ただ純粋に愛らしかった。彼女は鉛筆を握り直すも、笑い続ける。

「になの発想、斜め上すぎ 笑っちゃった いいよ」

仕切り直すように、ため息を吐く。その目は涙ぐんで見えた。もう一言付け足される。

「でもちゃんと読んでよ?」

 なんか、だめだよ、美音。今度は私が吹き出す。血が上ってくる頬を誤魔化すように、手で口を覆う。

「そりゃ読むよ、もちろん、美音の本なら」

 私の春休みの日課は、『諷詠の風』で『遊蝶花』と彼女の棚の本を読み、その後彼女の病室でノートを介して会話することになった。

 この表現はどこから来たの。今日はこんな本を読み進めたよ。ここはどういう気持ちを表しているの。この本はおもしろかった。鶴もこれくらい折れた。

 分からなかった表現を書き溜めたところを彼女に説明を書いてもらうためにしばらく沈黙の時間が流れても、不快ではない。蜂が暗闇で蜜を練るように、この時間も『遊蝶花』を通して金色に変わっていく。

 お互い、ほんとうはもっと話すべきことがあった。私たちはお互いのことを何も知らなかった。声が出ないだけで入院をしているわけじゃないことくらい、察していた。彼女の腕の傷が増えていくことも気付いていた。でも、内側に踏み出すことが、怖かった。その先に入れば、私の心まで暴かれそうで。胸に秘めた思いの伝え方さえ分からず、本だけが私たちの狭間を埋めてくれた。


 あと二十ページほどで、この本も読み終わる。自室には朱の千羽鶴が太くぶら下がっている。『遊蝶花』は、影に満ちた話だった。あるいは、予言だったのかもしれない。冒頭の文語体は、彼女の愛した『外科室』が全文引用されたものだった。本文は一人の女性の人生が書かれている。明るい性格だったのに、ひとつの悩みをきっかけに、だんだん人から孤立していく。その悩みを直接書いている描写は出てこない。代わりに、彼女はその悩みに「遊蝶花」と名前をつけ、本文でも何度も内省的な場面でそう呼んでいた。遊蝶花、パンジーは思索に耽るように俯いて咲く花で、花言葉は「もの思い」という。「パンセ」という倫理で習った本が語源だと彼女は教えてくれた。

「美音はパンジー好きなの?」

「遊蝶花って字面がきれい」

「そうだね、どうして蝶が遊ぶって書くんだろう」

「有力な説はない 私の予想だと、虫媒花だから 風媒花じゃないの」

「えー見た目が蝶みたいだからじゃないのかな」

「見た目も好き 毒が通っているところも、素敵 それから、私に似てる」

 美音は変わっている。だからかもしれない。普通、という言葉に甘んじてきた自分を誘い込む妖しい香りは、最初から私も持っていたのだと教えてくれる。どこにでもいる私を、ここにしかいない私にしてくれる。

 ふいに窓のほうへ歩き出した。もうすぐ四月に入る。薄い光線が白いパジャマを滑り落ちていく。その細い肩には、今日はクリーム色のカーディガンが乗っていない。彼女の背中は、初めて会ったときのようには鈴が鳴りださない。むしろ、足音さえも無音になってしまったようだ。今日の彼女は、やけに透明に見えた。このまま、姿まで消えてしまう。

「美音、なにかほしいものってある?」

 彼女は乏しい表情を不思議そうに傾げた。

「本のお礼でもお見舞いでもいいから、なにか美音にあげたい」

 いまの声は隠そうとしても必死さがこもってしまった。彼女は笑った。私と彼女の距離にあった、透明な氷を融かす。あなたに近づいてノートと鉛筆を渡そうとすると、右手をつかまれた。いたずらげな上目づかいをして、冷たい指が手のひらをなぞる。

「私にメイクして」

 予想の斜め上、なんて前に彼女は私に言ったけど、私に言わせれば、彼女も十分それに該当するだろう。今度は私が笑ってしまう。たしかに彼女は化粧をしていなかった。いままで会った中で、彼女が化粧していたことはなかった。する必要もない顔だった。

「そんなこと言われても化粧道具なんて持ってないよ」

 事もなげにサイドテーブルの引き出しからポーチを出してくる美音に、私は違和感を感じざるえなかった。表情を読めない。なにを考えているんだろう。そうだとしても、私は彼女のお願いを叶えなければ。

「私初めてだから下手だけどいい?」

 なにひとつ化粧に関する知識のない私に、美音は塗る順番だけ指で指示する。これくらいなら使う種類は少ない。アイメイク系の道具は一切入っていなかった。下地、ファンデーション、チーク、アイブロー、口紅。知識も技術もなくても化粧ができそうな準備が最初からされていた。

 私は時間をかけられるだけかけた。チークもなんども指で払って付け直した。そんな私を美音は楽しんでいた。眉はどんなにがんばっても左右対称にできない。紅を唇に引くとき、形のよさに見とれてしまった。このままキスしてしまえたら、美音も声を取り戻せるのでは。そんな衝動さえ、潤んだ瞳に映っていた。私は渇いた喉に唾を飲み込むと、彼女の唇に、私の唇の代わりに口紅を重ねた。

「やっぱり私がやったって、そんなにうまくないね」

 鏡を覗く顔を見つめられなかった。きっとメイクしない方が、美音は綺麗だっただろう。ベッドの脇に窓を向いて座る私の手を彼女はつねり、ありがとう、と書いた。そっと盗み見た彼女が、いままで見た中で一番、穏やかで満足げな顔をしていた。こんな顔ができるのを初めて知った。だから、余計不安になる。怖くて、怖くて。いまここで言わないと。

「美音、私ね」


 この日、私は青いノートを病院に忘れてしまった。面会時間は終了しているから、と看護師に追い払われる。まだこのとき看護師を押しのけて走れば、美音の死に間に合ったのかな。次の日に面会時間開始きっかりに行った病院で、彼女の死因すら知らされず、ノートだけが病院から渡された。

 最後にノートに書かれていたのは「これが、私の精いっぱいの告白でした」という走り書きだった。

 いま振り返ると、美音の秘密は重すぎて、声をなくさない限り、守り切れるものではなかったのだろう。『外科室』の夫人は秘密を守るために麻酔を拒んだ。美音も、自分の秘密を守るために、声を捨てたのだ。

 きっと私も、この千羽鶴が残っていなかったら、いつか声をなくしていただろう。あのとき言い損ねた言葉を知っているのはこの鶴だけ。私の意気地なしを責めてくれる人はいない。思いを伝えていれば、彼女の思いを聞いていれば、看護師を押しのけていれば。仮定ばかりが私をひとりで責める。激しい思いが好き、なんて美音は言っていたけれど、そんな思いを知らずに生きられたらと思っていたのだろう。だから、私に思いを言うことはなく、この本を書いた。でも、それこそが、彼女の死因であり、彼女の形見になった。美音の死に間に合わなかった千羽鶴は、私たち二人の恋が結んだ実になった。

 風のように、彼女は消えてしまった。私に残ったのは、風に飛べない朱の鶴の群れ。

 『遊蝶花』を最後まで読み進め、最後の鶴を糸に通しても、私は泣いた。私たちは遊蝶花だった。本という虫を介して、私たちは受粉した。


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