in the sea
風のないカフェテラスに
ほんの微かに差し込む昼下がり
今日は久しぶりに暑い
光に溶ける肌が少しだけ雫を形作る
滲みだけが淡く袖に広がる
紅茶のシュガーとミルクは一滴ずつ
テーブルクロスは透明な白砂
黙す波はいつもより遠い
ここは純白
白の檻に私は一人
引きずるだけの木の足が私の枷
美しいけれど味気ない
優しいけれど息苦しい
暖かいけれど掴めない
たわいもない時間だけ
少し冷たい褐色に飲まれて
体の中を掻き回す
もう私の耳に触れるのは
桜の枝葉を通り抜ける風の
物問いたげな囁きだけなのに
向こう側に聞こえる音は
近付けないほど昔の自分の笑い声
それはただ一つの記憶の画
夏の降るテラスには私ともう一人
風に体を預けている逞しい長身が
座り込む私の隣に寄り添う
ふと日傘をかしげて見上げると
空に伸びる黒い影の端に
亜麻色の髪が少し垂れて流れていた
また潮を飾った風が頬を撫でて
金の髪を梳いては香りを残していく
ねぇ顔は分からないのにどうして
こんな懐古のような思いが
糸を紡いでは優しい時間で私を包むの?
呟きが私の唇から転がり
嗄れた低い声が小さく喜んだ
いや、或は喜びというより
甘い嘘を零したような気がした
私は小さく笑った
今はもう触れられない
眩しい眩しい、光の笑い声だった
これ以上前の記憶がない
貴方は誰?
私は誰?
私はどうして
貴方のことを思い出すだけで
こんなに優しい笑みを浮かべているの?
こんなに温かい涙を流しているの?
胸の傷痕がまた
撫でるように心地好い痛みを広げる
桜の木が夏を告げて青々と歌う先
光を散りばめた涼しい海は
私の顔を躊躇いがちに覗き込んでいた
今日は少し夢を見た
最後に見たのはまだ桜が散っていた頃
けれどこれは何度も見た夢
晴れ渡る美しい夏の空の下
碧い海に一人だけ
飛沫をあげて波を叩く
溺れているあなたは誰?
ただ必死に腕を広げ
服を纏わない体を投げて
それでも光の出口を探す少女
私は彼女を知らない
けれど
何故かその少女の出る夢を何度も見る
彼女が海で泳いでいることもあった
魚や貝と戯れていることもあった
岩影に隠れてハープを弾いている姿は人間ではなかった
もっと前に見た夢では
誰かと暗い夜の星を眺めて
悲しげに話していた
雲に紛れそうな高い城が聳える崖を
二人で波に揺れる船から遠く眺めていた
繋いだ手の驚くほどの冷たさは
夢を超えて私にも
痺れるように指を流れた
カーテンから漏れる光を広げて
窓を開けて空を見上げた
私の白さを溶かして交わろうとする青に
ここにいてと懇願するように
腕を伸ばして私を抱きとる葉桜の枝
私は歌った
耳に残る異国の歌を
賛美歌でも恋の歌でもあるような
けれど何を意味する言葉か分からない
そんな歌を口遊む
波は私のリズムを飲んで
ゆっくりと朝の挨拶をした
今日は少し頑張って
引きずる足を鞭打って
歩く練習をしてみようと思った
寄り添う海の冷たさに触れたり
桜に生った甘い香りの実を摘みたくて
白い壁に手をついて
椅子や机の端を掴んで
重たい足を床に擦り付けながら
海への扉へと
ベッドから見ていたときは
怖いほど白く見えていた壁は
日焼けで淡く色づいていた
あんなに遠くに感じていた浜辺は
こんな薄い扉の向こうにあったのね
広がり照らす陽光に包まれて
懐かしいと思った私がいた
眩しい季節が目に刺さり
よろめいた先で支えてくれた桜
ふわりと紅桃色の香りに抱き留められた
「ありがとう」
ふっと頭に映像が浮かんだ
桜の木の根から何かを掘り出す小さな背中
そして立ち上がって額を拭う少女
その白い手が遠くの島を指差した
桜の実の香りよりも心地よい笑みを纏い
隣の黒い人影に何かを言い切った
我に返っても
まだ心地好い余韻に浸ったまま
胸に手を当てた
話す声は届かないけれど
いつも二人は幸せそうに話しあっている
二人の記憶をなぞる度
温かい雫が胸に溜まっていく
桜の木の根本を見てみたけれど
シロツメクサが群れて
柔らかそうに開いているだけだった
私は歌った
桜の実を摘みながら
甘い白い歌を
もうすぐ秋も終わる
紅葉が降る桜に寄り掛かり
潮風に吹かれながら木肌を指で摩る
大分歩くのも慣れてきた
初めて桜の実を採りに行った日から
毎日ここに座るようになった
少しずつだけど
二人の世界を見る機会が増えた
視力が落ちているようで
景色を見るよりも
二人の姿を追える時間が多くなった
少女についてはたくさんのことがわかったの
少女は人魚だった
七つの海を渡る自由な美しい人魚だった
一つの海に一つずつ
大切な思い出と宝を隠して
あるとき人間になった
人間になった経緯は分からないけれど
人魚のときは少女一人だけだった
幸せそうに二人でいるときは
必ず人間の姿をしていた
私は一つの結論を思い描いていた
この少女は私の過去なのではないか
でもどうしても分からないことが一つ
ではどうして私は今一人なの?
隣にいる人はどこ?
目を開いた
秋の淋しそうな海が私を見つめていた
けれど誰もいない
冷たく凍えた耳には波の寄せては返す音
話し声は聞こえない
喉が痛くなるほどの冷たい歌を歌った
孤独な人魚の歌を想像して
頭が痛くて
でも何か声が聞こえる気がして
足が独りでに動いて
桜の木の向こうの海へと歩いていた
暗い雲が私を排斥するように
雪を降らせて氷の重しを
引きずった木の足に絡まりつかせた
冬の強い風に押された波が
荒々しく浜を飲む
なんだか今日は気分がおかしい
こんな日はいつもは外に出ないのに
気付けばもういつもの場所さえ越えて
冷たい波と風と雪に曝されている
誘われるように
何も頭にないまま
突き刺さる寒さの海に手を入れた
あまりの痛みに顔をしかめた瞬間
記憶の中に声が聞こえた
それは男の人の呻き声
痺れる指に伝った痛みが
頭の中の蕾を開いた
聞こえないほど遠くにあった声が
大きく鮮明に聞こえた
―私はまた人魚になれるかしら―
全てが繋がった
濡れて冷えた手を握りしめ
あまりに多すぎる過去の
溢れ出す記憶の重さに身構えた
船長である貴方が
怪我をして溺れている私を助けてくれた
けれどもう泳げない体になった私は
薬を飲んで人間になった
そして歌を歌って
二人で七つの海の宝を集めて
貴方に感謝を捧げた
そんな話を聞かされた
遠い記憶の糸の先
それは暖かい白い部屋の中
黒い影だった顔が今はもうはっきり見える
懐かしい顔
柔らかい微笑み
貴方がそこにいる
貴方がそこにいた
無数の管に繋がれ
病室で横たわる幼い私と
寄り添い話を聞かせる貴方
風が凪いだ
無音だけが私を包み
私の中にはたくさんの声が生まれた
ああ
全てが晴れていく
そう、
全部嘘だった
私の思い出した記憶は貴方の作った夢だった
本当は私は人魚なんかじゃなかった
ずっとベッドの横で語ってくれた物語
生まれてからずっと病院に篭りきりの
私にくれた優しい嘘
手術が成功し
生まれて初めて病院の外に出た日に
私は事故に遭って足をもがれ胸を怪我し脳を損傷した
そして
貴方は隣からも記憶からもいなくなった
呻き声をあげて私を庇った貴方を失い
一人生き延びて病院に逆戻りした私に
もう未来はなかった
それでも
いつか体の自由をなくし
視界を閉ざし
思考までも蝕まれて
何もかも奪われてしまう私の
輝いていた偽りの過去は
貴方が私にくれた宝物
ただどこまでも現実味のない
けれどそれ故に美しい
そんな夢を貴方はくれた
貴方の紡いだ言葉に包まれて
温かい繭の中貴方と二人きり
隻足の私はガラスの靴を掃けないから
貴方は私に尾鰭をくれた
優しい嘘の海で泳ぐ私を
永遠の人魚姫にしてくれた
貴方はずっとずっと騙してくれた
王子様を待つだけでいいと言ってくれた
雪もいつのまにか止んでいた
相変わらず重たい雲は
どこか少し遠くになった気がした
桜の木が風もないのに震える音を立てた
いつまでも私を気遣うように
この体で見渡せる限り周りを見渡した
私のサナトリウム、
枯れ葉一枚ない裸の桜、
砂浜にかかれた文字、
向こうに転がるゴミ、
遠くに見える小さな島、
溶けるように雲に混じる山、
こじんまりとした家、
息を吸うと冬の匂いが雪に消されずに漂っていた
これが私の住む世界
記憶じゃない
嘘じゃない
本当に存在するものたち
私は真実を知った
夢から醒めた
眠り姫もいつかは必ず目覚める日がくる
私はもう人魚姫を止める
でも貴方の優しさを捨てるわけじゃない
狭い檻から飛び立った心
伝えたい想いが翼
私にはするべきことがある
足を引きながら
海岸をなぞる
疲れるまで歩いてみよう
静かな砂浜に
不自然な私の足跡が刻まれていく
そして私は歌った
数え切れない思いを抱えたまま
儚い泡と消えた人魚姫が
一人きりの海の中で
それでも本当に伝えたかった歌を想像して
やっと声が聞けたの
ずっと頭に流れていた画
事故で唯一失われなかった記憶
夏の降るカフェテラスで
笑みを交わし合う二人の声
私が人魚だったなんて嘘だと
私には過去も未来も何もないと
寂しく問い掛けた私に
貴方が言った
唯一私の醒めたくない夢
―私はまた人魚になれるかしら―
―君の歌声は永遠に人魚だ―
私にできることはまだある
何もかも失う運命でも
私はこの気持ちを消して生きるなんてできない
「ありがとう」
「ありがとう」
できることの少ない私でも
歌の海なら自由に泳げる
私はこの命尽きる日まで
貴方への感謝を歌おう