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黒い短編集  作者: 衣月
18/27

鬼花変化


まだ私が幼い頃

それはどんなに手を伸ばしても

(かぐわ)しい梅の枝一つ掴めないくらいに

おとうが言っていた話


「女はな、人付き合いで鬼にも花にもなれるで」

「お前は花になれや」


何も知らない私に言った

真っ赤な顔に欠片の歯を黒々と並べたおとうは

大きな熱い手に酒瓶一つ持って笑っていた


記憶に残る言葉からは

子想いな人だったように見えるが

私はおとうを知る時間を持たなかった


それが酒に浸りすぎて溺れ死んだおとうの

最後に私に言った言葉だった






清流に包まれた若い体に張り付く

濡れた長襦袢の裾を引いて

私はそんな昔話に一瞬だけ耽る

もう逃れようのない宿命への憐れみを以って



私は今

鬼でしょうか花でしょうか



信夫擦りの小袖に手を通す私を般若の面が睨む

私に答えを隠しながら

私の迷う姿を蓬色の土壁の前で嘲嗤う


それはまるで滑稽さへの慰めのようにも

優しさにさえ感じられた


どちらであれ

私はもう戻れないのだから



帯を閉めた上に紅の羽織り

そして面を掲げて惑う顔を覆う


おとうも鬼も花も心で砕けて消えた

一つの声が私の内に響く


――私は般若






苔の蒸した鹿威しから緩やかに水が注ぐ

鈴笛の音と流れる言葉だけが空間と静寂を作った


締め太鼓の響きが轟々と臓腑を揺らし

私は立ち上がった


冷たい板敷きの舞台に

音もなく歩み出る


髪一本筋一筋と空を惑わすことなく

そこに座す武士へ治療を名乗り出て皮相の労りを投げてやる




武士は是と私に具して家に向かった

衣擦れと共に上手へ傾く

私の目が客に一瞬触れたとき

この般若の面に視線を刺し続ける男がいた


――今日も今日とて来るのか


また屏風の山河に顔を逸らして

土を被った炎のように一瞬で現れた黒い光を

静かに扇子の向こうに隠した






水鏡のように静まる舞台

私は彼を一人で部屋に待たせる

薬草を取って参りますと座敷の襖を閉じた


彼は独り言さえ漏らして、戦場を逃げた自分を悔いている

しかし私が味方をしてくれることに感謝しているらしい


私は舞台の上隣の部屋に納められた刀を戴く

神に救いを求めるように、やっと手に入った自由を噛み締めるように





「お前さま

どうしてそちらを向くのですか

嗚呼

後退らなくともようございませんか

この刀が何だというのでしょうか

お前さま」





また客の方に顔が向いたとき

私の般若を裂かんばかりの視線の杭を突き刺す目があった


――今日も今日とて見つめるのですね


風が強めに東から吹いて黒髪に夕を点していく

細い撥が鼓を震わせて雨音を作る

笛が重たげに低い声で歌う





「お前さま

私はお前さまが好きでした

女好きだけれどどこか寂しそうな香を纏うお前さまのことを、想わずにはいられませんでした

お前さまのことを見ているだけで幸せでした」





夕の空に染まらぬ頑なな紅葉の枝が

少しずつ葉の色を手放し

溶けて一つになっていく姿に

妖しく昂ぶる深い想いは

鬼の心か花の心か


私は鬼でしょうか花でしょうか

厚い時間のなかで確かに積み上げたものは

美しいものか恐ろしいものか

私にはもうわからない


刺さる視線を真っすぐに受け

私は強く静かに足を前に差し替える

役者の男を置いて一人で客席へと歩きだす

声にならない声で話しかけた

けして掴ませることのない蜃気楼のように





「私はある日気付くと

父の形見の刀を握っていました


足元には美しい顔を狂人のように歪めた女が

固まって転がっていました


刃にはぬめりにぬめった、女の執念のような血がついていました



お前さま

覚えていざんしょ?

一夜限りなんて嫌だと叫ぶ女を

あれは雷が遠くで鳴く夜でしたね

私はあのときいつものように密かに戸の後ろでお前さまだけを見ておりました



お前さまはそんな縋り付く女を煩わしげに蹴飛ばして

傘も差さずに宿を後にしました


お前さまのそんな背中を見たとき、私の内に何か熱いものが過ぎったのを覚えています


お前さまを追おうと飛び出してきた女の最期の叫びは

雷に掻き消されてお前さまは気付かなかったようでしたね」





貴方は誠実で、私のよい相談相手でしたね

女好きなんて、嘘で言うにもあまりに酷いほどに


だから貴方が冷たい雨音のなかで頬を染めて

蛇の目から外れた右肩を雨に任せたまま

隣で笑う私の友人の顔を横目に盗み見ている姿は

美しい煌めきを秘めた私の長い長い未来を

自分で動くことさえままならずに崩れ落ちるだけの

歯車の切れた絡繰り人形にしてしまいました


あまりの嫉妬の炎で顔を深く焦がしてしまい

私はもう素顔を見られないように

般若の面で隠すしかありませんでした

幼いながらにも、選ぶことさえ許されていなかった

堰を切った清らかな山水はけれど堕ちるところまで堕ちるだけ


貴方の口から真実を聞く

それだけで少しは楽になれると思っていたのに

貴方は私を裏切りました



それでもまだ信じたくて

それでもまだ会いたくて


私の舞台に立つ日を小さく紙に書き付けて

貴方の家の戸の前に甘い鈴蘭の花を乗せて置きました





私は歩を進めた

足を水蜘蛛のように柔らかく滑らせて

流れ通りの言葉をついで

けれど流れとは逆の客席に向かって


客席が漣のように話し声を揺らしたが

最前列の中の一人は少しも揺るがない


笛が琴とともに当惑した波を押し返す

場はまだ焦ってはいなかった





「お前さま

どうか聞いてくださいまし


私はそれから

あの悍ましい顔が全身から離れないのです

あの女は自分を殺した私に憑いたのです

それから私の家は没落し、お前さまは戦で惨たらしく負けました


私は気付けば数多の女を

その女の妬みで殺していました


あの女はお前さまを殺そうとしています

あの女が今も私の耳に囁くのです


お前さまに近づく女全て殺したい

恨めしや恨めしや

そして願わくはお前さまを殺して心中させろと」





やっと貴方は私の舞台を見に来てくれましたね

客席に貴方の影を見つけたときは嬉しくて

その日はいつも以上に気迫を込めて演じました


なのに貴方は

私ではなく私の般若を愛した


私に話をすることなく

ただ私の般若だけをどこまでも追って

それ以来貴方は私の舞台に毎日通うようになった

あの人と二人で親しげな姿をちらつかせて

私の想いを知りながら、或いは知っているからこそ

嫉妬を煽り恨みさえ買うように仕向けた

私の般若をさらに磨くために


貴方は気付けばあの人も捨てて

職も家族も投げ出して

それでも私を見ることなく

私の般若だけを見ていた



恨めしい

貴方を呪い殺す夢から

逃れることもできないほど


夢で何度も何度も私の嫉妬の炎で燃え死んだ貴方は

けれど次の日には最前列で私の般若を見ているのですよ





「お前さま

聞いてくださいまし

私はお前さまが好きでした

私は一度だけ人を殺めましたが

それは何の為だったのでしょうか


結局今私に残されているのは

お前さまを殺めてその悲しみで自決するか

お前さまを守って私の般若が殺めてきた女たちの恨みを背負って自決するか

二つに一つです


私は恨めしかったのです

お前さま自身ではなく、何もせずに見ているだけの自分が


だからあの日私はあの悍ましい顔を見なければいけなくなったのです

あの女の顔はもしかしたら私のもうひとつの顔だったのでしょう」





客席に向けて鞘を抜く

爪先はもう舞台の端を噛んでいる


私の胸の奥底に露の汗を零す鬼がいる

いつ喉を咲くべきかを見定める鋭い双眸は

目の前の憎き獲物を搦め捕る


嗚呼

もうここまでですね


客は落ち着きを失い

最前列の人は皆身じろぎして

私の天を衝く刃の黒い影を見上げる

ただ一人の男を残して


貴方はまだ私の般若だけを見つめる


気付けば太鼓も笛も止み息を飲む音だけが響いていた

もう東の空の月は夕闇に紛れて黄昏れている





「いつも私はあの女のように、お前さまを引き止めたかっただけでした

あの夜刀で貫いたのは自分の影でした


私は自分の醜さを知って、過去の自分の亡霊に取り憑かれて

もう後戻りはできなくなってしまいました


どうか見ていてください

そして忘れないでください

お前さまがもう同じ過ちを繰り返さないように


妬む女より恐ろしいものはありません」




振り上げた刃は虚空を斬って下ろされ

けれど何者も斬らなかった


この刀は役としての木刀

けして誰かを怪我させるものではない


振りきった木刀を舞台の方に投げ

懐から短刀を出す


客は私の一挙手一投足を息を殺して睨んだ


ここからは今までの舞台とは違う私の考えた続きを演じよう

花の舞を踏む鬼をどうぞ

貴方の目に焼き付けてください





「お前さま

私は貴方を殺すことを選びません

この般若の望む心中なんてさせません


私は貴方に生きてほしい

生きてどうか見ていてください

恐れてください


女は鬼にも花にもなれるのです」




貴方はもう般若しか見てはくれない

貴方はもう私を見てはくれない


ねぇ私に何が流れてる?

涙と恨みだけじゃない

嗚呼恋しい

蒼覚めた般若の膚の下

涙の川が脈打ち踊り伝う



鞘を抜いて膝を着いて

汗に濡れた柄を握り直す

刃が夕映えに染まらずに輝き、私に切先を突き付ける



般若は女の妬む姿

貴方が愛したのは女の妬む姿

女は鬼にも花にもなれる

花を焦がす鬼はどんな心を持つのでしょうか

貴方は灰の花を見てはくれないけれど

激しく燃え立つ鬼の目には

煮えたぎる想いと同時に

透明なまでの憐れみが映る



般若の面が涙に流されて顔から剥がれた

深すぎる想いに焼け爛れた顔が

冷たい空気に触れて癒されていく般若は鬼のような心に湧いた

私への一縷の憐れみを以て

舞台を演じ続けた私に憑くのを止めた



醜い醜い般若よ

優しい優しい鬼よ

せめてどうか私は花でありますように



もうこれで貴方は私を見てくれますか

失ったものに気付いてくれますか


ごめんなさい

貴方を愛してしまって

けれどもう今更

貴方に伝える想いなどないのですね




小さな花びらが散るように

般若の顔から白珠の露が零れる

大輪の赤い花が散るように

柔らかい胸から鮮血が舞い踊る


崩れ落ちていく視界の中に朱に染まった貴方を映した




嗚呼

どうして泣いているのですか

嗚呼

どうして微笑んでいるのですか


こんなに惨い一瞬を

貴方はどうして

そんなに優しい目をして見ているの?


薄れゆく意識の中で小さく貴方に問い掛けた

答えを聞く力もないまま

貴方のこれから先の未来も見れないまま






「・・・私は・・・花でしょうか鬼でしょうか・・・」



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