2-3.伯楽
京都記念を目前に控え、追切を終えて厩舎に戻ろうとした時、隣の馬場に多くの記者やカメラマンたちが集まっていやがった。
何事だと思って様子を見ると、ホークアイのトレーニングのようだ。いや、ホークアイがイギリスのG1馬で注目を集めてるのは知ってるけど、トレーニングの取材には人が集まりすぎだろ。
その中心にいたのは、1人の品の良さそうな老人。うーん、見かけない顔だ。
調教師にしては年を取りすぎてる気がする。
たしか、調教師は70歳で定年のはずだし……
「吉住さんだね」
ジュンが教えてくれた。吉住……生前にそれなりに競馬界のことを知ってたオレには聞き覚えのある名前だ。
天下に名だたる吉住ファーム、日本の圧倒的トップブリーダーである。
確か、現在のオーナーの吉住春雄氏は50歳前後だと思うから、あそこにいるのは先代の吉住正勝氏なんだろうな。
まさに、日本の競馬生産界を築きあげた立志伝中の人だな。
ホークアイを買い付けたのが吉住ファームであるらしい。聞くところによるとホークアイは近年のヨーロッパ競馬界でも最高傑作と呼ばれるほどの名馬らしいし、吉住正勝氏が直々に長年のコネと巨額のマネーでなんとか交渉に成功したとかなんだろうか?
日本で引退を飾らせての堂々の種牡馬入りってことで本人自らトレーニング風景を見に来たのだろう。
どんな話をしているのだろう。オレは聞き耳を立てることにした。
「アンビシャスイヤー!」
アンビシャスイヤーは周囲50メートルの人の話し声を聞き分けることができるチートスキルである。
もちろんウソだ。そんなチートスキルとかあったらいいなとは思うが……
だが、耳がいいのは本当だ。たぶん、人間よりはるかに聴力はいいと思う。
オレは耳を吉住正勝氏の方に向けて話を聞くことにした。
オレがピタリと足を止めてる時は、押しても引いてもどうやっても動かないってことはつきあいの長いジュンはよく知っているから、あきらめてつきあってくれている。
「吉住さんの目から見て、ホークアイの調子はどうでしたか?」
記者の声だろう。たぶん……知らんけど。
「んー、あんなもんじゃないのか?
本調子からはほど遠いけどそこそこ戦えるってくらいか……
まぁ、本番は次の大阪杯だから、そこまでにはなんとかなるだろ」
これが、吉住正勝氏の声だな。
「今日はどうして、わざわざここまで?」
「そりゃ、練習場所もスタッフもいろいろ貸してもらうわけだから、いろいろ挨拶もせにゃならんし……ってのは、建前でホークアイの姿をこの目で見たかったってのが本当のとこかな」
「ずいぶん、ご執心ですね」
「そりゃ、ここまで苦労したからな。ホークアイを日本に連れてくるには」
「そのあたりの話を詳しくお伺いしてもいいですか?」
おー、オレもその話を聞いてみたいな。
「んー、どこから話そうかね。
もともと目をつけていて日本に連れてきたかったのは、ホークアイの父ココナッツミルクだったんだ。そこそこの仔しか出していなかったんだがな。
その頃、アメリカから連れてきたモーニングブルーの仔たちが活躍してたから、モーニングブルーの血をひく牝馬にココナッツミルクはきっと合うと思ってたからな。
だが、ココナッツミルクの牧場のオーナーが頑固でいくら出されてもココナッツミルクは売らないって言うんだよ。まぁわからんでもないがな。
だが、ココナッツミルクは今のイギリスではそれなりの仔しか出せないと思ってたから、ぜひ日本に連れてきたかった。でもダメだったんだよな」
「確かにココナッツミルクの産駒は他にあまり聞きませんね」
「そうだろ?
それが産まれちまったんだよ、こいつが。
もう、仔馬の頃から牧場のオーナーも惚れ込んじまって、噂を聞いて私も譲ってくれるように日参したんだが、条件をつけられてしまった」
「条件ですか?」
「どうしても、この仔がダービーを走るのをみたいと。当然、イギリスのダービーのことだぞ。
残念ながらわたしはイギリスの馬主の資格を持ってなかったからな。信用できる友人に譲ったわけだよ。引退後はわたしに譲ってくれる条件で」
「それで、こうして無事に?」
「あぁ、約束通りね。でも、価格をその時に決めておくべきだったよ。ダービーこそ逃したもののずいぶんと名馬になってしまって、高くついてしまったよ」
「おいくらだったんですか?」
「それは企業秘密ってやつだ。まぁ失敗したら吉住ファームが傾く可能性があると、息子からは怒られたね」
「それだけの危険を冒すだけの価値があったと?
今でも吉住ファームの主牡馬勢はモーニングブルーや後継のファイアグルームをはじめ盤石の布陣に思えるのですが……」
そうだよな。錚々たるメンバだよな。
「血の氾濫というのは知っているか?
吉住ファームの初期の頃、その地盤を築いたのは大種牡馬サザンビクトリーのおかげだ。あいつはたくさんの後継種牡馬を残したが、現在では直系の種牡馬はほんのわずかだ。モーニングブルーがそうならないと誰が言える?
常に新しい血を迎え入れなければ、生産界なんてすぐに衰退していってしまう」
「モーニングブルーやファイアグルームの子孫たちも衰退すると?」
「それが来るのがすぐ先か5年10年先かはわからんが、必ず衰退はする。だが、サザンビクトリーの血が牝系に残って今の生産界を支えているように、モーニングブルーやファイアグルームの血は必ずや次の世代の礎となる」
「その時のためにホークアイを?」
「そういうわけだ。
日本で栄えたモーニングブルーの血とか、ホークアイには一滴も混ざっていない。
そういう馬が必要なんだよ。ホークアイやあそこの馬のような」
そう言って、吉住正勝氏はオレの方を指差した。
いきなり視線がオレに集まり、オレはどぎまぎした。
「あのビーアンビシャスも面白い血統だな。父親のヤシログリーンもなかなか気になっていたんだが、ヤシログリーンをオーシャンマリアにつけるって発想はわたしにはなかったよ。
うちの平均点の高い馬を作ろうという考えからは出てこない発想だ」
オレのこと褒めてる?
それともバカにしてる?
「安定性は低いかもしれんが、気にせずにはいられないね。注目株だよ」
「吉住さんがよその生産馬を褒めるのは珍しいですね」
「そうかい?
まぁわたしは口が悪いから誤解されるかもしれんが、はっきりものを言ってるだけだよ。いいものはいい。悪いものは悪いと。
それはうちで生産した馬でも、外の馬でも同じさ。
まぁ外とは言っても、ヤシログリーンの母父はうちの種牡馬だったし、オーシャンマリアだって父系にも母系にもうちの生産馬がいる。
まぁあいつも、外孫みたいなもんだよ」
「もしかしてビーアンビシャスの血統、全部頭に入ってるんですか?」
「当たり前だろ。仮にもG1馬だよ。
わたしは重賞で掲示板に乗った馬はすべて完全に調べているよ。どういう馬が走るのか常に考え続けているからね」
うひゃ、なんだこの人は……
さすが生産界のドン。
すごい人だとは聞いていたが、ここまでの人なのか……
でも、そんな人がオレに注目してるって。
これは引退後のオレの未来もそこそこ明るいのか?