03 らてぃあ 著 冬支度 『春を待つ殺人』
「おひさしぶり」
色あせた防寒着に身を包み、軍手を着けて山小屋を出たところで意外な人物が俺を待ち構えていた。冬山の登山には中途半端な時期に人に会うこと自体まれなのだが、その中でも最悪の相手だ。細い脚を包むブランドもののブーツはとても山に適した履物とは言えないが、彼女の影のように佇む男の姿に納得がいく。屈強な騎士よろしく山道でもお姫様をエスコートしたのだろう。
それにしても、わからないのは彼女がどうして俺に会いに来たかという理由だ。相続放棄なら弁護士を立てて滞りなく終わったはずだ。
「どうしてここに?」
「従兄に会いに来るのに理由なんて必要かしら?」
イトコ? 親し気な単語と媚びさえ含んだ口調に絶句する。同じ口がかつて俺の母親の悪口を吐き、先祖に狂人や犯罪者がいたとまでわめき立てたのだ。今更常識的な言葉が発せられても信じられるはずが無い。もちろん根拠不明な悪口を吹き込んだのが彼女の両親だとわかっていたが、それを信じ、他人を踏みつけあざける醜悪な魂には何度も戦慄を覚えた。
亡き祖父によって本家に引き取られた時、多少の差別は覚悟の上だった。ただ、俺はお金に困らず勉強して静かな生活ができればよかった。誰かと争うこと自体不向きな人間だと自覚していた。そんな俺に取って従兄妹となり、同じ学校に通わねばならない彼女の存在は大きな悩みだった。
「会社のことは聞いているでしょう」
「生憎、ここは新聞は一週間に一度、携帯電話でネットは見ない。俺は元より無関係の人間だから、君の父親の会社がどうなろうと興味はない」
「パパは解任されたわ。降川が裏切ったのよ」
彼女は唇を噛んだ。
降川という名前で思い出す人間は一人しかいない。祖父の信頼厚い部下の一人で俺が本家を捨てる時に頼った人間だ。当時から叔父の支配体制に疑問を呈していたから「裏切」という彼女の表現は正しくない。会長の孫というだけで俺にも随分よくしてくれたし、叔父が社長に就任して5年は耐えてくれたわけだから祖父への恩義は十分返したはずだ。
俺の思考に気付くこともなく彼女は真っ赤な唇の両端を無理に引き上げる。
「でも挽回することは可能だわ」
「どうやって」
嫌な予感がした。話を聞くまで相手が帰ってくれないことはわかっていた。早くこの不快な状況を終わらせて薪割りを始めたい。山小屋での生活で貧弱だった身体にも筋力が付き、苦痛は無くなったが前任者の老人に比べれば手際が悪く、冬支度が遅れている。温かく、安全に冬を越すにはやらねばならない仕事がたくさんあるのだ。
「私とあなたが手を組むのよ」
彼女の顔を見て寒気を覚えた。そこには中高生のころから彼女が自身に有益な男に向けた表情があった。外見だけは極上に美しいから引っ掛かる男はいくらでもいた。彼女の背後から俺に敵意を向けて来る男のように。
唐突にひらめいた。彼女に取っておれは自分が受け継ぐ祖父の財産を盗む有害な人間から利用可能で有益な人間に変わったのだ。たとえば、俺が会社に就職したいと言えば降川さんはよろこんで会社に重要なポストを用意してくれるだろう。俺と彼女が結婚でもすれば、祖父の部下だった人たちは祝ってくれし、経営の実権を取り戻すことも不可能ではないかもしれない。
冗談じゃない。
気分が悪くなってくる。俺は彼女のことがこの世で一番嫌いだ。彼女のせいで人間関係に大きなトラウマを負って、やっと回復したところなのに。金にも権力にも興味はなく少し働いて、好きな時に読書できれば幸せなのだ。
「何ですって、」
目の前の彼女の顔が醜く歪み、眼に危険な光が宿る。しまった。拒絶の言葉を思わず口から漏らしていたらしい。しかし引き返すことは出来ない。俺の意思は拒否一択だ。そもそも、俺に少しいい顔をすれば手玉に取れると考えている彼女が異常じゃないか。
彼女が俺を指さして背後の男に何か命じる。
畜生、まただ。治ったと思っていたのに。俺の耳は彼女の声を拒絶する。さっきまでさわやかだった山の空気も肺に入ってこない。
ぼんやりと、高校生の頃に彼女がボクシング部のボーイフレンドに命じて気に入らない相手を襲わせたという噂を思いだす。真偽はともかく、そういうことをしても彼女の良心が悪意の沼から蘇ることは無いと知っていた。
男が肉食獣のような目で俺を睨み突進してくる。ダウンジャケット越しにもその身体が鍛え上げられていることはわかった。
恐怖に駆られ、俺は手に握ったものを男に突きだした。
◆◆
顔に降りかかった温かい液体のぬめる感触に俺は目を開けた。俺が握ったものの先に男の顔が半分見えていた。握った柄の感触から、握っているものが斧の柄だと気付く。たった今、薪割りのために立て掛けてあったものだ。突きだされたものを凶器だと認識していなかったのか男は斧に突進していた。男の身体が俺に向って傾く、後になってそれは致命傷を負って倒れそうになったのかもしれないと気が付いたが、その時の俺にそんなことを考える余裕は無かった。
悲鳴を上げ、斧を引き、さらに振り下ろした。
かつてはモヤシとからかわれた俺も山での生活で少しは力をつけていたのが男にとって災いした。斧は男の頭蓋骨を砕き、頭を潰した。
気が付くと男は絶命し、あたりは血の海だった。
正気に戻った俺が感じたのは静かに山奥で暮らすという生活設計を台無しにされたという絶望だった。正当防衛が認められたとしても山小屋の管理人の仕事は首だろう。
そこで、やっと俺は彼女が姿を消したことに気が付いた。さすがの彼女も阿鼻叫喚の事態に逃げ出したのだろう。そしてその結果がどうなるかにも。
◆◆
「ひやあ、寒かった」
「酒ないの? 熱いやつ」
「食事は何?」
登山客たちは雪の中を歩いて来たというのに活気に満ち溢れている。これが最後になるのかと思いつつカレーをかき混ぜた。
「お兄さん、カレー美味しいね。お爺さんと同じ味だ」
山小屋の常連らしき客が笑顔で褒めてくれる。
「ありがとうございます。あの、俺は一身上の都合で辞めるけどレシピは次の人間に必ず伝えます」
「ええ? まだ勤め始めて一年だろう?」
「すいません。旅に出ようと思って」
行方不明の車の持ち主はどこにいるんだろうね。誰かが事件の話を持ち出す。大勢の中でも俺の耳は過敏にその話題に反応する。山に入ったと思しき持ち主の男も連れらしき女も行方不明のまま、大掛かりな捜索も冬将軍の前に早々に打ち切られた。地元の警察も春を待つしかないという心境のようだ。
◆◆
念のため男の死体を隠し、身体に付いた血を適当にぬぐってから俺は山道を下った。
彼女はすぐに見つけることが出来た。足を滑らせたのだろう。崖の下で死体の首の骨は折れていた。険しい山道をおしゃれなブーツで走ろうとしたのだから当然の結末だ。
それから俺は二日がかりで一人で彼女の死体を引き上げると、斧で適当に傷をつけて男の死体とともに雪が深くなる場所に埋めた。
◆◆
春になれば、俺は考える。
さすがに警察か誰かが男女の死体を発見するだろう。雪の重みでつぶれた死体からでも損壊された跡は見つかるはずだ。そして、警察が山小屋を訪れ、俺に何か知らないか聞く。一見筋が通ったような証言をして少しおかしなことを言う。
逃亡しようか? さも観念したかのように自白しようか?
刑期を長くするにはどうすればいいか。春までゆっくり考えよう。辛かった薪割りがいつの間にか出来るようになったように、苦痛もいつかは和らぐ。
了




