あるお姉ちゃんの話
「桐谷さん、まだ終わってないの?」
職場のお局様の嫌味。本当に嫌になる。でもそれを表に出せば、もっと酷いことになるのは分かり切ったこと。溜息を呑み込んだ。
「今終わります!」
桐谷涼香。二九歳。バツイチ、独身。
誰か、私の話を聞いてください。
***
朝は早くに起きて、朝食を食べ、満員電車に乗る。会社に行って、上司にディスられながら仕事して、少しの残業とオーバーなサビ残をさせられ、終電の何本か前に電車に乗って帰る、それが私の生活スタイルだ。――ごめん、ちょっと盛った。朝食は食べないこともあるし、終電を逃すこともある。
こんな私だが、学業成績は良かった。一般的に言えば、それはもう、とても。大学まで行かせてもらった。就職して間もなく、付き合っていた年上の彼氏と結婚。子どももできた。
それなりに、楽しかったと思う。
子どもは可愛いし、旦那はずっと好きな人。実家の両親は優しいし、たった一人の弟は不器用で可愛い。
でも、仕事と育児を頑張ってたけど、彼が家事をしてくれない人だった。イクメンの時代なのに。それに私は、殆ど家事ができないから、もうダメだった。なんで結婚したのか分からん。
いろいろ吹っ切りたくて、親に留学を持ちかけた。もう一度、勉強させてほしいと。
そしたら、あっさり承諾してくれて。
私は一年間、海外留学させてもらって、勉強し直した。勉強し直して、人生をやり直す。普通に考えて、頭オカシイ。
でも、その方がスッキリすると思って。
留学している間、私の子どもを――息子なのだけれど、母にお願いした。
一緒に海外へ連れて行くわけにはいかないし、私が勉強に集中できない。
息子が嫌いなわけじゃないけれど、母が預かってくれると言ったから甘えた。親は頼れる時は頼っておかないとね。
そして帰国して、就職して、息子を迎えに行ったら。
――まぁ、驚いたわ
母に頼んだから、母のところに行ったら、弟が育ててるって言うじゃない? 家事はできても、勉強はできない弟が。だから、弟のところに迎えに行った。そしたら、幸せそうに笑う息子と楽しそうな弟の姿。そんな二人を見たら、なんだか私まで幸せな気分になって。
最初は、息子と二人で暮らして行こうと思ったの、一応。でも、私は家事ができないから、ちょうどいいな、と思ったの。
でも、就職した場所も慣れるので手一杯で。あのババアいつか殺すと思いながら、頑張ってたから。一生懸命生きてる! って感じで。だから、魔が差しちゃったのは、ちょっと目を瞑ってほしい。
「一緒に住むわよ、総平」
「何言ってんだ、姉ちゃん」
***
「ただいまー」
久しぶりに定時で上がって帰宅。
ひと月ぶりに、起きてる息子に会えると気分良くマンションの扉を開ける。
「お帰りー! お母さん! カバン! 僕が持つよ!」
「ありがとう、陽介」
重いから気を付けてね。そう言って渡せば、可愛い私の息子――陽介はキャッキャと楽しそうに笑いながら、奥にカバンを持っていてくれた。
靴を脱いで、ゆっくり後を追う。
おばさんは疲れたので、これが全力です。
「お帰り、姉ちゃん。お疲れ。一応、飯作ってあるけど、先風呂?」
疲れてんだろ? と首を傾げながら問われた。
一般的に目付きも悪ければ、顔付きも悪い私の弟――総平は、その実かなりスペックが高い。
近所で有名な不良だったのだけれど。
私にとっては、昔から可愛い弟だ。
可愛い弟と、可愛い息子。私の可愛い者が揃ってる、このマンションの、この一室は、私の癒しの空間だ。
「ここは天国か(真顔)」
「お家だよ! お母さん!!」
「姉ちゃん、顔……」
疲れてんのか。と弟には肩ポンされ、息子からは無邪気なお返事。
「疲れてる、かも」
皆と同じように、生活をしなくてはいけない。皆で同じように、働いてないといけない。皆と同じような服装で出社して、仕事をしないといけなくて、皆と同じように――。
早起きして、時間見ながらご飯食べて、満員電車に乗って、時間になったら仕事して、時間に追われながら再び電車で帰ってくる。
刺激も何もありゃしない毎日。
退屈なんて思ったことはないけれど、馬鹿げてる、とは思ってる。
皆と同じじゃないといけないから。
心配そうにこちらを見てくる弟を見て、泣きそうになる。なにかを耐えるように眉を下げている彼に申し訳なくなってきて。
「お母さん!」
息子の声に「なぁに?」と視線を合わせるために身を屈める。
大きくなったなぁ、なんて、いつもは考えないことを考えながら。
「今日はね、総平がデザート作ってくれたんだよ! お母さんが早く帰ってこれるって言ってたから! 皆でご飯食べよ?」
そうすれば楽しくなるよ!
息子がニパッと笑ってくれるから。
「うん。そうだね」
明日もちょっと頑張ろうって、思えるんだよ。
***
「で? なんで俺に話してんスか」
目の前でガッツリ食事をしている彼に問われた。今、午後三時なのに、遠慮なくガッツリ食べやがる。
遠慮しない子、お姉さん大好きだ。私の息子も弟も遠慮しかしないから。
その弟達は今日はお母さんのところに行っている。
休日に私がちゃんと休めるように。
「だって話聞いてくれるの、お母さん以外だと龍二くんしかいないんだよね」
龍二くんはヤンチャしてた頃の友達。
そして現在、私の弟とタッグを組んで、この辺りの頭を張ってた子。だから、今でもこうしてお茶をする。
龍二くんはガッツリご飯を食べるけど。お茶会とかって言葉じゃ足りないくらい、ガッツリ食事なんですけども!
「あ、そーっスか」
興味なさそうに返事をされた。
まぁ、いつもの事だけれど。
「それでね」
いつものことだから、私も気にしずに話を続ける。
「まだあるんスか……?」
呆れた様子を見せる龍二くんだが、私は知っている。興味なさそうにしていても、呆れた様子を見せていても、話を聞いていないように見せたとしても。この子は、話をしっかり聞いてくれていることを。
「まだまだ! 好きなだけ食べて良いから! 全部聞いてもらうまで帰さないから!」
さぁ、存分にウチの可愛い子達の話を聞くがいい!